三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
ぼくの『三国志』は、神経症のカルテ。(1)
■はじめに
何かを言うことは、何かを言わないことです。
三国志の本やサイトを見ていると、よく「史実」という語が、さも「事実」と同じようなニュアンスで使われているのを見るけれど、それは違います。絶対に違います。
字を見れば分かるけれど、史(歴史書に)実(本当に書いてあること)というに過ぎない。取捨選択・解釈や判断の1つの結果物です。特に『三国志』の陳寿は、よく削ったことで有名だし笑

何かを言うことは、何かを言わないことです。
全ての作品には、「テーマ」があります。作者が意識して設定するときもあるし、読者が自由に推測することもあります。
例えば、吉川英治『三国志』は、中国の『三国演義』を、日本人好みに再構築して紹介した。横山光輝は、吉川『三国志』を、子供で分かるように漫画にした。北方謙三『三国志』は、オトコの生き様を描いた。
こうした「テーマ」を設定すれば、作品に特徴が生まれるけれども、必ず「描かない」という側面が出てきます。

ぼくが『三国志』を書きたいと思ったとき、どんな素材を重視し、どんな切り口で描くのかというのは、ずっと求めていることでした。全てなど書けないのだから、何らかの思い切りが必要なのです。その思い切りは、ぼくが『三国志』が好きな理由と、強くリンクしていてほしい。
1年くらい前に、このサイトに掲載中の三国志の魅力は「手の届かぬ天意」 という文章を書きましたが、今回はあれの発展版です。

■結論
ぼくが描きたい『三国志』というのは、神経症に罹った人たちの、闘病記だ。皇帝シンドロームとでも名づけたものか笑
この病気をこの世界にもたらしたのは、嬴政という1人のおじさんだ。通りがいい呼び方をするならば、始皇帝ですね。彼が発明した劇薬を巡って、中国人はずっと闘争(=生きること)を続ける。20世紀の辛亥革命に到るまで、あの大陸の人たちは「皇帝」というものを手放さない。

この「皇帝」という劇薬が、初めて本格的に無惨に崩れ落ち、巻き添えの人柱が大量供給されたのが、『三国志』の時代だ。
転機を迎えたとき、人々は、「皇帝」という大発明の作用&効能を(字義どおり)懸命に引き出そうとし、副作用を(字義どおり)必死に押さえ込もうと工夫した。これが、『三国志』の時代なんだ。それにしても、本当にみんな、よく死んだ笑
そこに現れる無数の人たちの生き方に、魅力を感じるし、もっと知りたいと思っているし、自分なりに体系づけてみたいとも思ってる。

では、「皇帝」とはどんなモノで、なぜ多くの人が巻き込まれて死なねばならなかったのか。その理由は、21世紀の現代日本で精神科に通っている患者たち(軽く、ぼくも含みます笑)を苦しめているものと、根本は通じているんじゃないかと思うのです。
自分にしか書けない『三国志』が、ちょっと見えてきた気がします。

■ご案内
ここで一度、ある本の要約を挟みます。ぼくが今回の結論に到る、ヒントを与えてくれた本です。
『三国志』および皇帝についての話は、(3)から再開しますので、そちらに飛んで頂いても結構です。
泉谷閑示『「普通がいい」という病』講談社現代新書2006から、気になったところを、原義を損なわない範囲で、まとめていこうと思います。省略しまくってるので、原書に当たられることをお勧めします笑
■「普通がいい」という病
精神科に訪れる患者には、「あるがまま」の人間は邪悪で、「あるべき」姿になれるようにコントロールすべきだと考えている人がいる。米国の戯曲では、ある女性が、角の折れたガラス製のユニコーンに「良かったわね。これで他の馬と気楽に付き合える」と祝福した。角の切除が、「大人になること」だという価値観が、押し付けられている。

近代以降、「正常と異常」「健康と病気」と、区別するレッテル貼りが横行した。だが安易に、「自分は異常だ、病気だ」とレッテルを貼ってはいけない。「ネガティブをポジティブに転じよう」ではなく、ネガティブとポジティブの対比で捉える、二元論がいけない。
他人に理解されなくても、「自分自身に対する義務」を果たせばよい。
スッキリしないときは、葛藤して悩めばよい。良くないのは、感情が理性に抑圧されて、悩むべきことが悩めない状態だ。見せかけの「病的な安定」は、倦怠感や食欲不振を招く。
「癒し」とは、昨日も今日も変わらない安定感に甘えさせてくれるが、非生物的で毒である。生物は変化するものだ。

周囲の視線におびえ、「普通」であることに、幸せを求める人が多い。「現実」に絶望する人が多い。だが、それぞれの語の定義は、あいまいだ。コミュニケーションを取るために、最低限の共通理解は必要だろうが、言葉の理解の全てを、他人に合わせる必要はない。
自分を主体として、自分なりに意味を問い直して、思い込みから解放されるのは、いいことだ。
ぼくの『三国志』は、神経症のカルテ。(2)
ひき続き、泉谷閑示『「普通がいい」という病』をまとめています。

■人間の仕組み
人間は、頭、心、身体の3つから構成されると考えられる。
頭は理性を司る。二元論(二進法)で動き、計算・情報処理(推測・分析・計画・反省)を行う。「すべきだ」「すべきでない」と言い、過去への後悔と未来への不安を作り出す。何事もコントロールしたがるので、欲望を生ず。
心と身体は連動し、「したい」「したくない」「好きだ」「キライだ」という。理由・意義を伴わない。今・ここに焦点を当て、シャープに判断する。
例えば挫折したとき、心は「哀しい」とだけ言うが、頭は「あんなに努力し、成功をシミュレートしたのに、悔やまれるぜ」と言う。

人間が不幸なのは、頭が「善悪」を判断するからだ。責任転嫁し、偽善を働く。この小賢しさや邪悪さが、キリスト教のいう「原罪」だ。
形なく、質的で、一回性で、変化し続け、偶然に支配されるものが、「生物」であり「大自然」の特性だ。人は動物と同じように、それらを心と身体で捉えてきた。身体と心は、期限付きで「自然」からレンタルされているだけとも言える。
だが、頭が後から移民してきて、心と身体を独裁をした。「朝食を食べるべきだ」「夜9時に寝るべきだ」「数字の13は避けねばならない」と、強要する。習慣、時間、知識、マニュアルなど、手を尽してコントロールをしたがる。
心がストライキを起こせば、ウツになる。暴動すれば、ソウになる。化けて出れば、幻覚や妄想を生ず。身体の不調で抵抗することもある。

コントロールに従いきれないと、「謙虚さ」「自己卑下」の名目で、頭が厳しい自己批判を始める。自分を認め、愛し、休むことは「甘やかし」「逃げ」「怠け」として禁じられる。自分でも説明のつかない「死にたい願望」が出現する。しかし頭は「死んだら迷惑がかかる。暗そうな表情も不可」と、さらにコントロールする。心が爆発して、死ぬ。
まだ知らない「本当の自分」を畏敬し、彫り出すイメージを持つとよい。

頭は、心の声に偽装してコントロールをしようとする。「会社に行きたいのに行けない」という訴えは、心に由来するようだが、「会社に行くべきだが、行けない」が皮を被ったニセモノだ。

■愛と欲望
「孤独でつらい」と人が訴えるときには、「孤独であってはダメだ」という思い込みがある。
「1人じゃないもんな」と仲間と群れて紛らわしたり、「生まれてきてごめんなさい」とペシミズムに陶酔したりする。「世の中、そんなに悪くないよ」と諭しても、彼らの屈折した優越感を増大させてしまう。
だが、安住できる固定的な人間関係など存在しない。「私はあなたが必要なので、あなたを愛する」ではなく、「私はあなたを愛しているので、あなたを必要とするのだ」であるべきだ。
「良かれと思って」という言葉の背後には、相手をコントロールしようとする、頭由来の欲望がある。
まずは自分を満たしてから、喜捨するのがよい。自分が満たされても居らず、他者に施そうとしても、「感謝してほしい」「善行を自己満足したい」という欲望の発露にしかならない。生きがいを求めてやるボランティアは、ありがた迷惑なのだ。

■自給自足
太陽は勝手に燃えている。自分も熱く、他人も熱く、分け隔てがない。これは、本物の愛のメタファーだ。
「家族愛」「自己愛」「隣人愛」など、愛に限定詞がつういているときは、怪しい。排他的な「愛」は、きっとニセモノだ。

自分を満たすには、「質」的な満足が必要である。代償行為で満たそうとすると、依存症になり「量」的な刺激を増やしていかねば、満足できなくなる。そして、際限がない。薬物、アルコール、買い物などが例。
自己愛が障害すると、自傷行為、抑ウツ感情、人間不信、特定の人への依存的しがみ付き、衝動的・刹那的な言動などが現れる。
他人に、自己愛の不足を補ってもらうのは、誤りだ。それは「寸分たがわず私を理解し、私の希望どおりに応じてほしい」という、誰かに対する肥大化した欲望でしかないからだ。他者にパーフェクトなサポートを望むという執着を断ち、太陽のように自給自足せよ。

「窮すれば通ず」「~し切った」という段階に進み、頭の支配に対抗して心と身体のために怒り、「敏感で太い」自分を獲得するとよい。
他人からの目線ではなく、マイノリティであることを恐れるな。大いなる存在にゆだね、自然や偶然に身を開いていけ。
「なぜ生きるのか」という質問が出る自体が、頭の理性中心の発想。目に見えたり、言葉にできたり、数値化できる「客観的」なゴールを置いた生き方は、貧しくて窮屈である。道徳というマニュアルを参照してごまかさず、頭の理解を超えた、「本当の自分」を探してみてはどうか。
(本のまとめは、ここで終わりです)
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