三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
ぼくの『三国志』は、神経症のカルテ。(3)
『三国志』の話に戻ります。「皇帝」という大発明についてです。

■政くんのネーミング
鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産』講談社2004
で、 鶴間氏が引くんだが、中国史は始皇帝から溥儀までに、500人近い皇帝を登場させた。最後の皇帝(清)と戦った孫文は『三民主義』のなかで、言っているらしい。
「劉邦と項羽は、皇帝を争った。以降、乱のとき皇帝を争わなかったときはない。外国では、宗教や自由のために戦ったが、うちはいつも皇帝が争奪の対象になる」と。

秦王政は、前221年に斉を滅ぼし、全国統一した。そのとき、新しい君主の名前をネットで公募した。

博士たちは古典から、「天皇(てんこう)」「地皇(ちこう)」「泰皇(たいこう)」を見つけ出した。天皇より地皇より偉いの「泰皇」を推した。でも秦王政は、「地上の統治者である五帝に、あやかりたいんだけどなあ」と言い、アイダを取って「皇帝」とした。
天じゃなくて地のトップとして、「帝」を修飾する言葉を捜していたと、鶴間氏は解説してる。「白(光り輝く)王」という合わせ字で、「煌々たる」に通じる「皇」を選んだ、と。
始皇帝よ、最初から決めているなら、ゼロから他人に聞くなよ笑

■「天」のメモ
せっかく鶴間氏が解説しているので、後学のためにメモります。
古代中国では、天は地上にかぶさる球体と考えられたらしい。天球の上を、太陽も月も周り、日周運動の軸(いまなら北極星)に天帝がいると考えた。
こぐま座のβ星を「帝星」といい、北斗七星はその乗り物だと考えた。おおぐま座のα星(ひしゃくの掬う方の先端)は「天枢」といい、天帝はこれに座って天極をくるくる巡った。
天の中心(天帝)は、人格化されていない。GODと違う。
ちなみに鶴間氏は言ってないけど、地軸は動くから、北極星は変わる。

■皇帝の属性
皇帝には、いかにも「頭=理性」が好みそうな属性が与えられていく。
 ○この世の全てを数値化して測定(度量衡の統一)
 ○この世の全てを言語化して分類・理解(小篆・隷書に書体統一)
 ○この世界を全踏破して知悉し、支配(馳道、郡県制、巡幸)
 ○正邪を明確化し、価値観をスッキリ整理(焚書坑儒)
 ○他人を好きに操る(統治・刑法整備や華夷秩序の制度化)
 ○時間を支配(暦の専決権。年号の制定は前漢武帝から)
 ○過去の書き換え=自己都合での記録改竄(六国の史書を処分)
 ○権威・権力という抽象的なものを、可視化(各種、巨大建造物)
 ○自らに課したストイックで不健康な習慣(5度目の巡幸中に病死)
 ○帝国の永続と、老病死からの超越(青州方面の妙薬探し)
 ○大賞賛を浴び、永遠に満たされる名誉欲(刻石と阿房宮・陵墓)
 ○死後にも約束させた、リッチでパワフルな生活(兵馬俑)

■神経症の萌芽
前ページで泉谷氏の著作を引用したけれど、そこで「頭」の働きだと言われていた性質が、これでもか!というくらいに詰まっている。
何事も白黒つけないとスッキリしない二元論、何でも記号に置き換えてデジタルに脳にインプット、分かりやすいように「見える化」
「私はこれをすべきだ」という強迫観念、「お前らは、かくあるべきだ」という押し付け。自然とか身体とか、不可知なものに対する畏敬の欠如(というか、不可知なものへの敵視)。
恣意的な過去の制御と、妄信的に「永遠」を願う、未来志向。

■皇帝のプロモ活動
さて、始皇帝が発明した「皇帝」です。
命名の意味は「地上にいた伝説の帝王よりも、すげー」でした。
始皇帝の根拠地・秦(華山の西=山西)は、文化的バックグラウンドが重厚とは言えない。彼が編み出した「強えーんだぜ」というコンセプトだけでは、皇帝のありがたみが薄い。シングル2枚くらいで引退し、アルバムは出せない。ファンが定着しない笑

そこで、併呑した斉王がやってた泰山での「封禅封儀」をパクりました。山東の斉は、最後まで滅ぼせなかった、一番の強敵。そして、諸子百家が集った文化の中心地でもある。
八神(天神、地神、日神、月神、陰神、陽神、四季、軍神)を祭って、始皇帝はブレイクした。全国ツアー開催にまで漕ぎ着けた。
すなわち、旧六国の各地に、台(宮殿)を築き、そこの神を祭った。

後日談ですが、この「封禅封儀」は、天下統一の報告行事として、後世の皇帝たちが真似た。凱旋ですね。
前漢ノ武帝、後漢ノ光武帝がやった。
しかし、三国を統一した西晋ノ武帝(司馬炎)は、臣下に進められても拒否った。ここに、「皇帝」という仕組みの1つの終焉を見る気がしますが、その考察は、また今度。ただ気が乗らなかっただけかも知れないし笑

■「自然」の仕返し
健康にいいと聞き、「マズい、、、もう一杯!という冗談も出ないくらい、マズいんだってば」という「身体」の声を無視して、「頭」が命じるままに水銀健康法を続けた始皇帝さん。彼の結末に用意されていたのは、「心」と「身体」の疲弊、旅先での客死。
そして、暑さゆえに死体が電光石火に腐乱。趙高も李斯も大焦り!
30キロの塩漬けの魚を、車の周りに吊るして、「臭いけど、始皇帝は死んでいませんよ。献上品のお魚の臭さですよ」とごまかした笑

身体は、期限付きの「自然」からの借り物だったんだ。あまりに酷使したから、いち早くハエとウジに回収されてしまった。
皇帝の発明者は、「頭」の限界を、身をもって証明してしまった。
ぼくの『三国志』は、神経症のカルテ。(4)
■追加された、もう1つの属性
始皇帝が死んだ後、秦はガタガタになった。
かつて巡幸のとき、始皇帝を見た項羽は「オレが代わってやる」と言った。劉邦は、「男なら、ああなりたいね」と言った。
始皇帝は、「皇帝」にそんなスペックを積む予定はなかったんだが、その後の歴史がアップデートをしてしまう。それは、「皇帝を倒したら、自分が皇帝になれる」というもの。
もともと皇帝は、永遠に自分(もしくは自分の子孫)が繁栄するという発明品だったんだが、こりゃ、仕方ないよね。

泉谷氏も軽く触れているんだが、「頭」は理由づけが好き。
「努力したら、いいことがある」というのは、「頭」にとっては、これ以上ない麻薬なのです。フィクションだけど、とっても美味しいのです。明快に保障された因果関係というのは、蠱惑的なんだ。
こういう幻想があるから、多くの現代日本の人たちも頑張っているんじゃないかと、ぼくは思うほどです。そして、「努力したのに、いいことがなかった」という体験は、生きる気力を奪っていく。功罪はいかに笑

■劉邦・依存症
「中原に鹿を逐う」というのは、書物では頻出するくせに、実はあんまり普及していないんじゃないかという慣用句です。
孫文が言ったように、大陸の人たちは「大志を持て!鹿を捕まえたら、どんな奴でも皇帝だぞ!」というファンタジーに魅せられ続けます。

劉邦は、ただの亭長から皇帝になったという、チャイニーズドリームを打ち立てて、後世の人々の「頭」をくすぐって、欲望のトリコとした。
「量」的な刺激は、その度合いが強ければ強いほど魅力的だと、泉谷氏は言ってた。劉邦の先例は、刺激的過ぎる。
大陸には皇帝が、500人どころか、(私称も含めたら)軽く50000人以上は、誕生したんだと思う。たった100年足らずの『三国志』の時代にだって、何だかよく分からん一発屋が、数多く皇帝を名乗っては鎮圧されていくから、推測に難くない。
■皇帝の地盤
さて、秦から出発し、戦国六国を併合した始皇帝。
この皇帝が支配すべき領域は、どこからどこまでなんでしょう。ゴールが見えていないことには、完成には程遠いし、何より「頭」が不安定を訴えて、牙を剥きかねない。
「頭」は、モコモコと広がる大地に、線を引かずには居られない。
それをやるのは、秦を引き継いだ劉氏の仕事だった。「郡国制」だ。

■「郡県制」 ぐんけんせい
世界史の授業くさくなりますが、、
春秋戦国時代には、いくつもの「国」があった。秦もその1つ。

戦国の秦は、敵国を滅ぼすたびに、占領の拠点として「郡」を置いた。つまり「郡」は、秦の直轄地だ。その下の行政区分として、「県」を置いた。日本は明治に輸入するときに、さかさまにしましたが笑
秦が統一すると、「郡県制」を布いた。旧六国の土地の全てが「郡」になった。すなわち、全土を、秦帝国が直轄したということ。

始皇帝の死後、秦はただの「国」に戻った。
項羽は秦を滅ぼすと、18の「国」を並立させた。つまり、皇帝の直轄である「郡県制」をリセットして、戦国時代に近い形戻した。秦に滅ぼされた、旧王族の子弟も引っ張り出された。

■「郡国制」 ぐんこくせい
劉邦が項羽を殺すと、秦からは直轄である「郡」のシステムを、項羽からは「国」を残しておくシステムを、継いだ。これが「郡国制」だ。
はじめ「国」には、劉邦に味方した功臣(韓信や彭越)が封じられたが、やっぱりウザいということで、言いがかりを付けて滅ぼされた。
劉邦のときから、「王は、劉氏だけ」というルールになり、400年後に曹操がナジられたり、劉備が得意顔になったりする笑

しかし、旧六国に封じられた劉氏は自立に傾き、皇帝は旧秦国のエリア以外には、手が出せなかった。
呉楚七国ノ乱(前154年)を経て、やっと旧戦国七雄の領土を、皇帝がコンプリートしました。秦が倒れてから67年。けっこうかかったね。

■皇帝と私の10の約束
以降、「郡」と「国」があるところが、皇帝の支配地となります。
もし武帝(劉徹)が凡庸で、呉楚七国ノ乱を治められなかったら、東半分の平野部は、諸国が並立したままだったはず。肥沃なんだから、人が多く、ゆえに分かれる。自然な流れじゃないか。

「天を祭る」なんて言い、「中華思想」なんて言うから、「皇帝は、宇宙唯一の君臨者で、誰よりも偉くあって欲しい」という期待を受けていたのかと、東夷のぼくは錯覚していましたが笑、違います。
戦国七雄を一括して継承する者でいいんです。中国(黄河中華流域)はメインで守るべきだけれど、異民族との境界線はキチッと引いていい。というか、軍事的バランスからしたら、しゃあない。

換言すると、皇帝には「郡国設置エリアが攻められたら、攻め返すべきだ」とか「設置エリアが分裂したら、一つに戻すべきだ」というルールが課せられました。
これを諦めたら、皇帝(候補)失格です。
三国志の英雄たちが、「大地が広大だもん、統一状態の方が不自然だったんじゃない?」、「地形が起伏に富んでいて、ムリっ!」、「風土病が蔓延してさあ」、「あいにく、水軍の持ち合わせがなくて」、「飲み水もなくて寒かったけど、烏桓討伐は辞められん」、「暑苦しい瘴癘の地かも知れませんが、攻めますよ」、「兄と違って、防禦系キャラなので、外征はちょっと…」という泣き言で投げ出さず、狂ったみたいに統一戦で殺しあうのは、これが理由なんだろうね。

しかし、狭い島国の東夷としてコメントさせてもらえば、あの版図を1つにまとめることは、自然環境に照らすと狂気の沙汰なのです。「頭」が暴走し、「身体」を監禁していなきゃできないことでしょう。
始皇帝と前漢武帝という2人の超人が、「旧七雄エリアを統一」という奇跡を2回も起こしてしまったが故に、奇跡は奇跡ではなくなった。『三国志』が1まとめの書物となる理由は、ここに生まれた。
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