三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
ぼくの『三国志』は、神経症のカルテ。(5)
■予言書の導入
あちらでキリストが生まれている頃、異変が起きた。外戚の王莽が、西暦1年に平帝を立てた。まだ9歳。

王莽は、讖緯という予言書を利用した。井戸から「安漢公莽、皇帝と為れ」と書かれた白石が発見された。ここから、「仮皇帝」を名乗り、臣下には「オレは摂皇帝だ」と言った。
斉郡の人が見た夢の中に、天公の使いである翁が現れ、「漢の天命は尽きた。王莽が代われ」と言った。哀章は銅箱を2つ作り、中にありがたい文章を入れて、神霊の恰好をして王莽に手渡した。

王莽は泣きながら、「皇天の威命にヤレと言われるんだから、やらなしゃあない」と言って、平帝を引き摺り下ろして、席替えした。
これが、初めての禅譲だ。すなわち、武力行使をしない王朝交代。王莽は、位をズルズルと上げて行き、ついに「仮皇帝」から「真皇帝」になった。その手法は、曹操も司馬懿も真似る。ただし、鶴間氏が言うように、皇帝の前に修飾語が付くのはおかしい。

預言書というのは、「頭」のシワザだ。
「心」や「身体」は、「今・ここ」に直感的な冴えを見せる。そして、本能的に正しいことを見極める。しかし、「頭」は、べき論を先に組み立てて、そこから演繹的に未来をお膳立てをしたがる。
予言が当たるかどうかが問題ではなく、予言というものを持ち出したという自体が、王莽の所業が「頭」が構築したファンタジー色の強いものだということを証明している。
この後の後漢、三国の間ずっと、瑞兆や凶兆というスタイルで、為政者へのメッセージ送信が繰り返される。また、皇帝に属性が増えてしまったのだ。「讖緯は、皇帝の未来を示すものだぞ」と。
特徴を増やすのは自由だけど、後から背負う人の身になってほしい笑

■孫堅と袁術の伏線
王莽は、漢ノ太后・姑母の王政君に、「皇帝は代わったんだから、玉璽を渡して」と頼んだ。
王政君は、伝国ノ璽を握り締めて、王莽を叱り付けた。だが王莽が、豺狼のような声で胸をそらして、正面を見据えた。身長177センチながらも、こうやれば人を「見下す」というポーズが取れる。ついに王太后は、伝国ノ璽を地面に投げつけた。

『演義』で孫堅が玉璽を発見し、韓当が解説した。
龍の角が欠けているでしょ。これは王太后が、ヒステリーで投げつけた証拠です。だから、本物でっせ」と。その伏線(というか史実だね笑)が、ここで張られることになる。
■過去の書物、礼賛!
「頭」の働きは、「今・ここ」を無視してでも、過去に憧れたり悔やんだりするもの。王莽は、即位のとき、『周礼』の故事を引いて正当化した。
過去(周礼)と未来(讖緯)を使って理論武装し、目の前でビクビクしてる前漢ノ平帝を恫喝する。なんと「頭」の良い男か笑

王莽の政治は、理想主義と言われる。秦や漢の工夫はゼロリセットして、1000年以上も前に滅びた西周の制度を目指した。
『周官』や『礼記』をカンニングしながら、官名も地名も、古代に戻した。人々は覚えられなくて、パニクった。いい迷惑ですね。
『詩経』にある王土思想に傾倒し、「人民も土地も、皇帝のもの。個々人で売買すんな」と言った。『孟子』の井田制度を使って、大土地所有を牽制した。
本から顔を上げて、目の前を見ろ!と言いたいのだが、皇帝は極めて「頭」でっかちな存在なので、仕方ない。過去のデータを使って、あれこれ仮説を検証するのって、楽しいよね。
1代で滅びたから評価が低いが、むしろ王莽こそ、いかにも皇帝らしい。

■7年に4回の貨幣改革
王莽は『周礼』を読んで、実価値とマッチしない貨幣を、鋳造しまくった。鶴間氏は「権力の誇示」だと言っているが、ぼくは違うと思う。
貨幣論というジャンルがあるように、曖昧模糊とした「価値」というものを、見える&触れるものに置き換えることは、「頭」がすごく喜ぶんだ。ものすごく豊かなんだ!と思おうとしても、心を隙間風が吹き抜ける。しかし、札束を積めば、たとえそれは単なる紙キレでも、落ち着くでしょう。
王莽が、貨幣改革に熱心なのは、よく分かるよ。
ちなみに、董卓もメチャクチャな悪銭を作ってましたねえ。

■儒教主義
浅野裕一『図解雑学/諸子百家』ナツメ社2007によれば、孔子は「オレは西周の儀礼に詳しいねんぞ」というのが売り文句で、リクルート活動に勤しんだらしい。
だが、庶民出身で、都の洛陽から離れた魯の孔子が、詳しいはずがない。最も詳しいはずなのは、西周の史官だろうが、西周が滅びてた孔子の時代、どこにいるかも分からない。だから、孔子がサギってるのかも確かめようがなかった。

前漢ノ武帝の頃から、儒教が政治に入り始めた。「秩序を守らせるのに、便利だなあ」という発想のようですが。
王莽は、儒教の中華思想が大好きだった。「天に二日なく、地に二王なし」にこだわった。「高句麗王」を「下句麗侯」に下げ、「匈奴単于」を「降奴服于」と呼んだ。漢が与えた「王」の印綬をわざわざ回収し、新の「侯」の印綬を再配布した。辺境は造反して不穏になり、戦死・餓死者が出まくった。
黄河が氾濫したが、王莽は祖先の墓を守るために、治水工事に消極的で、232万人の生活は危ういままだった。
大自然の猛威の前にも、祖先への孝が優先される。いかにも「頭」らしい判断で、寸分の狂いもない。

■王莽の評価
「頭」が皇帝で、「心」が人民で、「身体」が異民族や大陸です。皇帝が「あるべき」を振り回し、人民は荒み、異民族は離反をしまくった。
秦王政が「知恵の実」を食べたときから、大陸は曲折を経て発展して来ましたが、ついに王莽の登場をもって「神経症」が発症した。ここから、いい精神科医に出会うことができれば治癒するんだが、そうは問屋が卸さない。
救いがまるでないのだが、『三国志』の前史なのだから、悲惨なら悲惨なほど、あの殺し合いの歴史が納得できるわけで。
ぼくの『三国志』は、神経症のカルテ。(6)
■群雄割拠、再び
隴では隗囂が立ち、蜀では公孫述が立った。交通を遮断すれば独立できる地理だ。公孫述の言い分は「きちんとした劉氏が皇帝に立つまでは、オレが蜀を守る」と言ったが、25年に成(国名)を立てた。
おそらく劉備の頭の片隅には、直近(とっていも200年前だが)に蜀で自立した、公孫述のことがあっただろう。公孫述は、36年に呉漢に襲撃されて戦死した。あやかりたくない先例になってしまった笑

赤眉ノ乱が起きた。
呂太后に対抗した、城陽景王・劉章を慕う人々が、旧斉国で挙兵した。劉章の子孫で15歳の劉盆子を、天命の符(クジ)で皇帝に選んだ。劉盆子は、ザンバラ髪に裸足、ぼろぼろの服で怖がって泣きそうだった。まるで、リーダーのタマじゃない。

本命が登場します。南陽の劉氏です。
劉秀の族兄・劉玄(更始帝)は、王莽の首を宛城にさらした。
「更」という漢字には、動詞として読めば、あらためる、かえる、つぐ、という意味がある。おそらく「始皇帝を継ぐ」というニュアンスだろう。
王莽が周まで遡ってしまったが、それを撤回し、秦の発明を受け取った宣言だ。もちろん、劉氏なんだから、漢の伝統だって受け取っている。
日本語で読めば、馴染みの「さらに」となるが、「更に新しい帝」では、よく分からん笑

こんなに丁寧に、諡号を検討してあげたのに、更始帝は赤眉(山東の劉盆子たち)に殺された。
劉秀は、はじめ牛に乗っていた。牛は、農耕に使う。敵は王莽政権だった。「心」すなわち民意の代表として、「頭」でっかちな王莽を打ちますよ、という意思表示だろう。
更始帝が赤眉に殺されると、馬に乗り換えた。馬は戦闘に使う。
これは、山東劉氏VS南陽劉氏という、「頭」同士の闘争を表すのだろう。例えるならば、「心」や「身体」とは無関係で、「頭」の優劣を競う、論理ゲームとしてのディベートみたいなものだ。
鶴間氏は「(乗り換えは)かれの反乱の性格を象徴する」と書いているが、卓見です。よくぞ、教えてくれました!という感じです。

■三国志の成功モデル
劉秀(光武帝)は勝ち、後漢を開いた。
彼のディベートの議事録(=進軍経路)は、『三国志』の皇帝候補たちに、成功モデルを提供した。
南陽を根拠地に立ち(袁術)、遠回りのようでも河北から南下する(袁紹)。中原を平定した後の仕上げは、まず隴西(隗囂/韓遂・馬超)で、次に巴蜀(公孫述/劉備)を清めよ(曹操)というスジ書き。

光武帝のとき、呉にも強敵がいたら、曹操はマネができたから、迷わずに済んだのにね。「一瞬で荊州を征圧しちゃったけど、手持ち無沙汰だ。どないしよ?烏林でも行っとく?船でも繋いどく?」なんて失敗を、やらなかったはずだ笑 以上、赤壁ヲ想フでした笑
■皇帝の神話
健康番組やら、ビジネス書で覚えたルールに従い、雁字搦めの生活は、とても窮屈でストレスフルだ。決め事、すなわち「頭」の要請は、少ない方が生きやすい。
だが、光武帝という精神科医は、「頭」のコントロールに苦しんでいる神経症の患者(大陸の民)に対し、追加して「守らなければならないこと」を課してしまった。とんだヤブ医者だったわけだ。
しかも最悪なことに、この医師のアドバイスは、指示・命令の域を超えて、神話レベルの強制力を持ってしまった。
曰く、「劉氏の王朝は、滅びない」というものです。

劉邦が項羽に勝ったのは運だし、劉徹が(実質的な)全土直轄支配を布けたのも偶然だよ。春秋戦国以来、そもそも、均一支配はムリ!が標準だったんだから。
秦帝国が2代で倒れたのに、漢帝国が200年も続いたのも、奇跡。ついに王莽がピリオドを打ったかと思えば、みるみる再興ですよ。間違いなく、神話です。

■硬直した論理の究極の姿
劉氏の皇帝を廃してはいけない、劉氏を廃したらとんでもないことが起きてしまう、という強迫観念が、「頭」すなわち皇帝というシステムから発せられるのは、とても論理的で、すとっと納得できます。

強迫神経症: 4は不吉だという基本ジンクスから始まる。道路を歩くときは道路のタイルの升目を数え、「4つ目は不吉だから飛ばさなければならない」とこだわる。そのうち、4の倍数も避けなければならない、と思う。少しでも反すると、強烈な不安感に襲われ、安心できるまで何度でもやり直す。全ての行動を、こだわりが支配し、生活が立ち行かなくなる。
不潔恐怖症: 風呂に入ると、蛇口が汚れているといって蛇口を洗い始める。洗っているうちに、飛沫がかかったところも不潔になったと思い、洗い始める。するとさらに飛沫がかかるので、そこも洗わねば、と際限なく行う。一度入浴したら、5、6時間出られない。だから、入浴が大変な作業となり、入浴できなくなる。結果として、不潔になる。
彼らは、硬直した論理の究極の姿である。(前出泉谷2006)


ネタバレすれば、光武帝からまた、漢帝国は200年も続く。計400年です。曹操がついに簒奪できず、酷薄でドSの曹丕すら、コロッと40歳で死んでしまったのも、無理はないと思うのです。
曹丕が「演技かよ」と苦笑してしまうくらい、度重なる「受禅を辞退します」という書簡を取り交わすんだが、それくらいしないと、強迫神経症には太刀打ちできない。
前頁 表紙 次頁
(C)2007-2008 ひろお All rights reserved. since 070331xingqi6