ぼくの『三国志』は、神経症のカルテ。(7)
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■未来も司る
56年正月、光武帝は蜀の公孫述を片付けた。
光武帝は、王莽が作ったルールを引き継ぎ、図讖の書を全国に宣布した。「予言書が、オレが漢を復興することを示していた」というわけだ。 皇帝の「頭」としての縛りが、ここに来てまた増えて、確立された。やめときゃいいのに笑
■養老版「都市」の誕生
養老孟司氏がどっかに書いてた。どこだったか思い出せん。
ぼくの脳内で勝手に加工された大意ですが、「都市とは、人間の脳が作ったものだ。ああすれば、こうなる、という論理的整合性の集積だ。だから、自然・身体(死体)・排泄物等の分かりにくいものは、排除される。単純すぎる論理に囲まれ、短絡的に追い詰められて、自殺者が増える。高層ビルから飛び降りるビジネスマンは、こう叫んでいるように聞こえる。こんな不自然なものを作りやがって!せめてここから飛び降りて、一矢報いてやる!と」
ダメだなあ、覚えてない。かなり捻じ曲がっている引用だと思います。
さて、光武帝が都の場所を考えています。
大半の意見は、「前漢と同じように、長安にしましょう。あそこは防禦に最適の地勢です。函谷関を閉じ、秦嶺山・九疑山に頼り、涇水・渭水で防げば、完璧じゃないっすか」というものだった。
だが「頭」のトリコとなっている光武帝は、ゴリ押しする。
「洛陽は、周りに何も隔壁がない。天下の中心として、周囲に王者のすばらしさを示すには、最適なんだ。王者は、内外の区別などに捕らわれず、デーンと都をセンターに構えるべきだ」と言った。
地勢の実利より、イメージ先行で都を選んでしまった。 論点も科学技術も違うので、養老氏の批判した現代都市と、光武帝の洛陽を並べるのかおかしいですが、都市に託された役割が似ています。自然より人為を優先した、「頭」的な選択です。
■みつどもえ
この洛陽で、農村をまるで無視して、幼帝・外戚・宦官・党人が、陰湿な殺し合いを皇帝10代に渡って繰り広げるのです。
『後漢書』を読むと、欲望・権力・虚栄心・憎悪(どれもが「頭」由来で、実態がないもの)の応酬を、飽きもせずに、洛陽という閉鎖空間で繰り返しているだけに見える。 極めて、養老氏のいう「都市」的じゃないか。歴史書は、文官に作られるから、そういう面がクローズアップされただけかも知れないが。
これが、ついに迫った三国志の前夜にあたります。
■洛陽のその後
どす黒い血を、ズビズビと吸い続けた洛陽ですが、余りに呆気ない最期を迎えました。
董卓が乱入して、「こんな使い勝手の悪いところ、要らねえ!」と一括して、長安に遷都してしまう。
放火して、住民を強制移住させたから、ぼくの中では「なるほど、董卓は悪い奴だ」という印象だった。だが、羌と交わって、大地を見据えてきた董卓にしてみれば、洛陽のようなコンクリート砂漠に何の価値もなかったのだろうね。
「ああ、これは嘆かわしいことだ」と、白々しく咽(むせ)び泣いたのは、突っ込んできた孫堅。前述の玉璽を拾う笑
次に洛陽を愛したのは、献帝を奉じた曹操。「洛陽の復興こそが、帝国再建の近道です」なんて言って、土木工事を頑張った。だが、関羽が攻めてきて、「やっぱ洛陽を捨てちゃおっか」と言った。えー。
魏晋の都として洛陽は使われたが、懐帝のときに匈奴に攻め落とされ、長安に逃げ籠もった。「皇帝」とともに、洛陽も壊れた。
■洛陽の意義
金文京氏が言ったように、『三国志』という物語だけに目を向ければ、「董卓が潰した洛陽を、曹氏が復興する物語」となる。
だが、もう少し前後に視野を広げると、「頭」が暴走して作ってしまった「やり過ぎの人工物」が洛陽で、それが要るのか、使いこなせるのかを試したのが魏晋の時代だ。で、やっぱり無理でした、というのが五胡十六国時代への以降というストーリーだ。
■洛陽の比喩
5000円もする「夢や目標を実現できる手帳」を買った(洛陽)。
小さなカレンダー(長安)に書き込んでいれば、予定管理は便利&充分だったが、「スケジュールは能動的に管理せよ」と、ビジネス書に書いてあったから、一念発起したのだ(光武帝)。
手帳を開き、緻密に自らに課したミッションを記入していく。手帳を人生の司令塔として、手帳の通りに行動した。目標の遂行のためなら、多少の無理は我慢した(外戚・宦官の活躍)。
しかし、ストレスがたまり、手帳をゴミ箱に入れた(董卓の焼討)。 「だが、待てよ。ここで止めたら、オレの人生は負け組のままだ」と思い直した(曹操の復興)。
睡眠時間も、規則的に取っているはずなのに、慢性疲労が抜けない(三国鼎立)。だが、夢の実現のためには、怠惰は敵である。頑張っていたが、ぽっくり自殺してしまった(西晋滅亡)と。
ちょっと卑近にし過ぎたけど、ニュアンスが何となく伝われば。。
■西域外交の放棄
「建武(25-56)より延光(122-125)に至るまで、西域3たび絶ち3たび通ず」というらしい。
光武帝(初代)は消極、明帝(2代)は積極、章帝(3代)は消極、和帝(4代)は積極、安帝(6代)は消極、順帝(8代)は積極に転じた。
代が飛んでるのは、幼帝だったからです。
匈奴が強くなれば絶えて、匈奴が弱くなれば通じたということらしい。和帝のとき、班超が50余国を服属させ、74年に西域都護・戊己校尉を置いて経営したが、安帝の107年に攻められて廃された。
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ぼくの『三国志』は、神経症のカルテ。(8)
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■儒教と皇帝
ついに、このテーマに来てしまいました笑
「五経博士」を置いた前漢武帝のとき、董仲舒が、秦以来ずっと使ってきた「皇帝」を定義し直した。
皇帝は上帝(天帝)の徳に等しく、上帝の子として「天子」であるとされた。なぜ、上帝と等しくて上帝の子なのかと言えば(矛盾)、上帝の意志である天命が、図讖として下り、皇帝は(子として)それを遂行するからだ。これが、皇帝を正当化する理屈らしい。
この部分の説明は、鶴間氏の本を引いているだけなので、深くは理解していませんが。。
『孝経緯』という緯書には、「上帝に対しては天子と称して仕え、人民に対しては帝王と称して号令する」と書いてあるんだと。つまり向き合う相手によって、呼称も役割も違うのだ、と。
人の「頭」が生み出した皇帝は、自然現象にすら責任を持つという役割が期待されたわけですね。
■軌道修正のチャンス
自然をコントロールできる(コントロールすべきだ)というのは、よく人類の思いあがりとして、現代では環境問題とかで論じられます。 環境の変化を知るときは、気象観測であったり、大気分析であったり、水質検査であったりするのですが、それは後漢では「讖緯(予言書)」だったのですね。「非科学的だ」と一笑に付すことは出来ますが、とにかく、自然に対する統制義務を負ったということは、確認できました。
この「儒教の神秘的傾向」に反論したのが王充さん。
『論衡』を著し、天はあくまで自然体だ。天人感応説や讖緯思想は、ウソっぱちだ。「自然現象=上帝の意志=皇帝の管理対象」なんて、ちゃんちゃらおかしい思いあがりだぜ!と言った。
「自然篇」では、以下のように論じる。
天は気を万物に行き渡らせ、穀物が飢えを満たし、絹や麻が寒さを防いでくれる。災害は起こるが、人への戒めなどではない。天には、口や目などないので、意志はない。無為(あるがまま)である。と。
突っ走りすぎた「頭」の権化である皇帝への、適切な警鐘なのだが、異端だと切り捨てられた。「後漢時代の科学技術の発達や、道家、道教の自然哲学の影響を見ることができよう」というのが鶴間氏の評価だが、そのとおり。
王充が反論した讖緯思想は、隋の煬帝がバカヤローと言うまで、流行した。地震・日蝕・飛蝗・水害・旱魃・疫病・流星にいたるまで、皇帝は責任を取り続ける。人々は、皇帝に責任を求め続ける。あやうい。。
不幸なことに2世紀は、鶴間氏曰く「自然災害と内乱の世紀」なんだ。皇帝の甲斐なく、帝国はボロボロになる。
■準備完了
いよいよ、『三国志』の準備が整いました。
すなわち、皇帝のお仕事が、誰にも出来るわけがないくらい、多岐にわたっている。真面目で論理的な「頭」が、「これもやるべきなんだ」と、極めて明晰かつ正当にミッションを追加してきた結果だ。
『献帝起居注』というのが、『三国志』裴注にある。近侍ノ臣が、皇帝の言動について記したものらしい。
起居というのは、立ったり座ったりだ。慣用句的な使い方だとは、重々承知しているが、皇帝の仕事は、僅かな言動に到るまで、監視の対象になったということでしょうか。
王朝というものが、ガッチガチの「頭」社会になっていたということになる。皇帝1人に確かにプレッシャーがかかるが、それを取り巻く連中だって、同じようなプレッシャーに曝され続けることになる。
そういうとき、一番怖いのが、「努力したのに、結果が出ていない」という状態に陥ったときだ。こういうとき「頭」は、頑張りが足らないぞ、もっともっと努力せよ、甘えるな、泣き言を言うな、心に隙を作るな、と間断なく攻め立てる。そして、自分を滅びへ、いざなう。
新規開拓の営業をしていたとしましょう。
ビジネス書で自己啓発、経済新聞の購読、朝礼前の商談準備、売上目標の連呼、営業社員としてあるべき自分像の設定、目標訪問件数の遵守、説明資料を詰め込んだ重い鞄、昼食抜きでの飛び込み、常に笑顔で明朗な印象に、懸命なニーズのヒアリング、緻密な商品説明、研修で習ったとおりの商談進行、顧客満足度を上げるメルマガ発行、上司からの励まし・叱責・膨大な量の助言、長時間ミーティング、恩を受けた方々の面子、終電近くまでのサービス残業、栄養ある食事と適度な運動、愛社精神と社会的使命感、誤っているに違いない自分の価値観の再・再・再・再・再・検討をし、24時間全力疾走!
結果、3週連続で、売上がゼロで事業所最下位。
こんなにも忠実に、「頭」が決めたルールに従っているのに、なぜ結果が出ないんだ。結果が出ないことで、意図せず、負のオーラをまとってしまった。これがいけなかったのか。笑え、笑え、笑え!くそ、笑い足りないから、結果が出ないんだ。もっとポジティブに笑え!
こんな生活では、「死んだほうが楽だ。死にたい」と思うのが、せいぜいの到達点だ。
以上はぼくの体験なのだが笑、後漢の末期はこれに似ている。
安帝の死(125年)のハイパーストレス状態から、ぼくの『三国志』は始めたいと思います。
たくさんの英雄たちが、武力と智力を尽くし、累代に渡り自縄自縛してしまった「皇帝」というシステム(患者)を治療するために、光芒を交わします。そのドラマチックな「闘病記」が、『三国志』です。
苦労の甲斐なく、「皇帝」という「頭」でっかちは、異民族すなわち「身体」にトドメを刺された。
しかし、命あるものは必ず死ぬ。「結末が死だから、無意味で虚しい」なんてことには、決してならないよね。080505
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