執政者の孫峻が登場したとき、「孫堅の弟の孫静の曾孫だ」なんて言われる。えらく遠くから引っ張ってきたなあ、という印象なのだが、実はそんなに唐突ではない。
日本の江戸時代に長州では、新年の挨拶が「あけおめ」ではなかった。
家臣「今年ですか」
主君「まだだ」
なんだそうで。つまり、今年こそ徳川を討ってやりましょうか?と尋ね、それに殿様が答えていたんだって。関ヶ原の怨念をずっと忘れなかったんだね。
孫静の子孫は、一族の領袖(のちに皇帝権力)が孫堅・孫策・孫権と受け継がれ、孫権の息子が帝位を争い、たらい回しにしているときも、ずっと長州毛利氏のように「今ですか」「いや、まだだ」と言っていた気がして仕方がない。
そもそも、それほど由緒ある家柄ではない孫氏で、たまたま孫策が強かったというだけで、領袖の地位があっちに移ってしまった。いつでも取り戻せる、浮動性の大きなものだ。
■孫堅の弟、孫静
字は幼台。孫堅が黄巾に先立って武功を稼ぎ始めたとき、故郷(富春?)の守備を固めた。同郷や一族の5、600が孫静によく従った。お留守番ですね。
呉書見聞 http://f27.aaa.livedoor.jp/~sonpoko/
によれば、孫静は孫堅の子たちを保護していたのではないらしい。孫策はウロウロして、周瑜の家を頼ってるし。
外に出た孫堅とは別に、孫氏の地盤を固めていたっぽい。孫堅の死後は、孫賁(孫堅の兄、孫羌の子)が兵を引き継いで袁術に仕える。このとき、孫賁と孫策と孫静は、別の家系の家長として、独立した判断をしていたようです。孫堅の代の3兄弟(羌・堅・静)は「他人」だった。
考察結果は「呉書見聞」さんに借りてきましたが、正史を読み直してみると、なるほどそうだ、という感想に到っています。
日の出の勢いの孫策に「合流しますか、それとも攻め滅ぼされたいですか」という選択肢を突きつけられ、仕方なく孫策に協力して、固陵で、王朗・周昕を討った。
孫策は、孫静を奮武校尉にしようとしたが、拒んで帰郷を望んだ。
「呉書見聞」さんでは、転戦を嫌ったからだと解釈しているが、ぼくは孫策の下に「傍流の親族」として付くのが、気に食わなかったからだと思う。
■架空の君主、孫暠
孫策が死に、孫権が立つと、孫静は官位を受け、昭義中郎将になった。
ぼくが思うに、孫策が倒れたので、嫡流を自分に引き寄せるチャンスだと思って、孫静は表に出てきたんじゃないか。
兄の羌と堅は死に、羌の子の賁を、堅の子の策が吸収した。でも、策が死んで、まだ十代の権が継いで、空中分解状態だ。このとき、じっくりと機を狙ってきた孫静にとって、一代上の重鎮として、イニシアティブを充分に握れるチャンスだ。故郷の支援もある。
正史を読めば分かるんだが、「呉書見聞」さんに教えて頂かなければ気づかなかったことがある。「虞翻伝」に、孫策が死んだとき、孫静の子の孫暠が、叛乱を企てたとある。
虞翻は富春県長で、それを収めるために、孫策の葬儀には駆けつけず、赴任地で喪に服した。
「呉書見聞」さんでは、孫静が息子の暴挙を止めるために、虞翻にリークしたと解釈されているが、ぼくは違うと思う。
孫静が首謀者で、いちおう息子に音頭とりをさせていただけだ。しかし虞翻に嗅ぎつけられたために、「息子1人がやりました」という体裁を取って、尻尾を切った。自分は官職を退くという責任の取り方をした。
このとき孫静は、孫暠の弟たちに「兄は已む無く、我らのための犠牲になった。兄の子や孫も、身内として大切にするんだぞ」と言い含めたに違いない。
これが、孫峻と孫綝登場の伏線となるわけです!
以降長い間、孫氏の「傍流」として、虎視眈々と権力を狙うこととなります。孫峻と孫綝は従兄弟なんだが、2人の共通の祖父が、策から権へのバトンリレーを阻止しようとして、無念に倒れた孫暠です。
孫権が地位を確立する過程を傍目に見ながら、「孫堅系に取って代わるのは、今ですか」「まだだ」という新年の挨拶をするようにと遺言して笑、孫静は息を引き取った。
孫暠の弟、孫瑜。孫瑜の弟、孫皎。孫皎の弟、孫奐。
まるで孫策を孫権が継いだように、最強の傍流は、着々と力をつけて行くのです。(続きを書きました)