■三国志雑感>孫堅系の転覆を狙う、最強の傍流(2)
孫静が死ぬと、次男の孫瑜、字は仲異が継いだ。   ■君主の振る舞い 江西(合肥・寿春一帯)の名士が、幕客や部将に多かったが、孫瑜は彼らを鄭重にもてなして、歓心を得たらしい。この態度は、独自の勢力を築かんとしているように、ぼくには見える。 夏侯惇が先生を招いて勉強したという話があるが、あくまで個人レベルの学習だ。しかし、孫瑜がやってることは、君主レベルの人材収集じゃないか。孫権のブレインたちとは別系統で、彼らが頼りとしていた名士の名前で、正史に出てくるからね。   204年に丹陽太守となり、1万余人の私兵を得た。兄の孫暠がコケて、父の孫静もひっそりとしていた。しかしお膝元の不服従勢力を平らげて、獅子身中の虎として、確実にオリジナルな勢力を築き始めた。 まだこのときは、孫呉勢力は小さく、呉郡や丹陽郡ですら、切り取り放題だった印象。 別働権を委ねてでも、与党を増やさねば立ち行かない黎明期だ。
  ■周瑜との交流 206年に、周瑜と麻保の砦を討った。 黄祖を討つのが208年だが、それまでにも、たびたび荊州を侵している。その一連の作戦だったのでしょう。   のちに周瑜が「天下二分ノ計」をブチ上げるとき、蜀方面の王として名前を挙げたのが、孫瑜だ。このときの共同作戦で、「この人は!」と思わせる心の交わりがあったに違いない。 周と孫、たまたま同じ名前である2人の交流が、とても気になる。周瑜は孫策の思い出話をしたんだろうね。   ここからは想像ですが。 周瑜は、「あくまで自分の身の置き所は、孫策の側だったんだ」と打ち明けた。孫権は、君主としては有能かも知れないけれど、やはり周瑜の拡大志向の強い性格からしたら、ちょっと折り合わない部分があって。 もし周瑜が、守りに心底に同調する人間ならば、とっくに曹操の下に合流してますよ。朝廷は、あっちなんだから。   酒に酔った孫瑜から、孫静・孫暠と受け継がれてきた、ひそかな主権乗っ取りの野望を聞いて、「この人の気風となら、合うに違いない」と周瑜は確信したんじゃないか。 孫権追放。まだこの段階じゃ、「謀反」というよりは、「後継者の選び直し」という次元の話だ。孫堅のカリスマ、孫策の機動力が、孫呉軍団の求心力。孫権に、父や兄に準じる何かがなければ、単なる不適任という話だ。 忠に反したと、後ろ指は差されなかろう。   ■孫翊の無念 『典略』にいう。孫策が死ぬとき、張昭たちは、孫策に似ている孫翊を推薦した。孫翊は、孫権の弟です。 この、「張昭たち」というのが微妙ですが、「内は張昭、外は周瑜」という孫策の遺言から察して、彼らは後事に対しての発言権があったはずだ。周瑜も同じように、孫翊を推したとぼくは思う。 それでも孫策は、孫権に印綬を帯びさせて、事切れた。想像すると、かなりお涙頂戴な場面ですが、今回のメインテーマではないので、妄想は中止。   一般的には「孫策は充分に領土拡大をした。次の君主は守れる人間がふさわしい」というイメージがある。 でもそれは、後の時代から辿った結果論だ。孫策が点と線で快進撃を続けたが、まだまだ孫呉はショボいんだ。孫策が奔ったところを治めても、国家の体裁は為さない。次の君主も、外征タイプが好ましい。   203年、君主になり損ねた孫翊は、まだ20歳で丹陽太守になった。まあ、孫策が若く、孫権が幼いんだから、その弟がガキだとしても、それほど驚くところではないんだ笑 丹陽郡は、呉郡の隣だけど、彼らに従わない勢力が強かった。だから、孫策そっくりの弟が配されたのだろう。しかし、側近の辺鴻に殺されてしまった。外征タイプの、宿命ですよね。   この丹陽太守を継いだのが、先にも書きましたが、孫瑜だ。孫策似の孫翊の後任として、抜擢された。ということは、攻めに強い有能な男だったことが推測できる。小小覇王だ。結果、丹陽郡で1万を吸収できたのだから、孫翊の無念を晴らしたと言える。 この人物に、周瑜が傾倒しない理由があろうか!と叫びたくなるね。   ■周瑜の蜀攻め 赤壁の後、周瑜は長江を遡上する。 計画では、劉璋を降した後は、蜀には孫瑜を置いて、周瑜は荊州に戻る。馬超との連携は、孫瑜が行う。そして、曹操を3方面から締め上げる。 ザクッと書いてしまうと、漢中(孫瑜)、襄陽(周瑜)、合肥(孫権)というフォーメーションだろう。 ただし結末は、書くまでもないですね。。
  ■家長の意地 212年、濡須で参戦。孫権に自重を促し、孫瑜の進言を聞かなかった孫権は、手痛いダメージをくらった。 丹陽太守のまま、リツ陽から牛渚に移った。襄安県に饒助を、居巣県に顔連を置き、九江郡と廬江郡で人集めをした。   済陰の人、馬普を招いて礼遇した。 馬普は古い時代に通じており、孫瑜は2つの府で「学校」を作った。部将や官吏の子弟を集めて、孫瑜も生徒として話を聞いた。古典に親しみ、遠征先でも、書物を読む声は耐えなかった。 郡の「経営」をやったり、独自に文化を振興したりする行動は、軽く君主の行動パタンです。   215年に39歳で死んだ。息子が5人いたが、いずれも若かったようで、かき集めた私兵たちは、弟の孫皎が継いだ。 もしここで孫皎が継いでいなければ、孫権はここぞとばかりに孫静系の勢力を解体しただろうね。 息も絶え絶えの孫瑜は、周瑜との交流を思い出しながら、孫皎に印綬を差し出したに違いない。「寄り合い所帯の孫権体制の中で、オレたちの家はより強く結束せねばならんのだ。君主権力すら伺える位置にある、1つの独立した軍閥として」と念を押したんだろう。   利害の一致で協力しているけれど、孫堅の代にすでに「他人」だった彼らが、心底、融け合うことはないのでしょう。兄弟は他人の始まり。
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