登場するのが、三男の孫皎。字は叔朗。孫瑜よりも10近くも年下だったようです。
■黄蓋の私兵M&A
濡須で曹操をたびたび防ぎ、精鋭という評判が上がった。濡須と言えば、孫権が下手こいて、孫瑜が「ほら、見たことか」と言った場所でしたね。
年老いた程普の代わりに、夏口を守った。
黄蓋が死ぬと、部曲を吸収した。
孫呉政権の特徴として、私兵を持った連中の集合体だ。部将達が、それぞれオーナーだ。黄蓋の後が絶えて、それを孫皎を吸収したということは、赤壁の輝かしい黄蓋の功も、孫皎が継いだに等しい。
兄の孫瑜が死ぬと、配下を吸収した。すなわち、孫瑜が死に掛けたとき、すでに孫皎は黄蓋の兵を吸収し、確かな経営能力を証明されていたことになる。安心して、孫静系を任せられる人物だ。
孫皎は、兄と同じように、名士を大切にした。
諸葛瑾と、特に厚く親交を結んだ。廬江の劉靖には情勢判断を、江夏の李允には事務を、広陵の呉碩と河南の張梁には軍事を任せた。
心も金も、惜しげなく使った。第二の政権が、孫権とは別に、着々と形成されつつあることが分かります。高位に上り、権限を与えられて「府を開いた」なんて話はぼちぼち聞きますが、ここまで名前の分かる名士を囲っていた例は、他にあまりなかろう。
■越権ではないのか?
辺境の守備隊が、魏側から美女をさらって来て差し出すと、「悪いのは曹操で、民ではない。彼女らには、罪はないのだ」と言い、新しい服を与えて送り返した。
孫権だって、曹操と付かず離れずのセコい外交をやってますが、この孫皎の判断も見逃してはいけない。なぜなら、孫権の判断を仰ぐことなく、国境の判断をやってしまっているから。
間違っても「孫皎は、孫権に信認されていた。日ごろから言葉を交わし、価値基準の擦り合わせが出来ていたから、その場その場での決裁権が委譲されていた」という話じゃなかろう。
孫権は孫皎を、他の有力部将と同様に、バランスを取るべき調整対象として、厄介に思いつつあったに違いない。
■甘寧とのケンカ
孫皎と甘寧が喧嘩をした。
結末から言えば、孫権が甘寧の肩を持ち、孫皎を牽制した。
この逸話は『蒼天航路』でも紹介されていて、血の気の多い連中の「工業高校の放課後」みたいに扱われているが、そんな片付け方ではぼくは納得しない笑
これは、孫権と孫皎の主導権争いだ。
このとき甘寧は、孫皎の下にいた。でも甘寧が、不服を申し立てた。
「臣下(この甘寧様)も公子(孫皎のヤロー)も同列のはずだ。オレは孫権様のために頑張ってるのに、孫皎が、公子だからか何だか知らんが、オレを侮辱する。許せねえ。孫皎じゃなく、呂蒙の下で働かせろ」と。
これを受けて、孫権は孫皎に手紙を書いた。
「孫皎よ。キミも、もう30歳だ。私はキミに大任を委ね、対曹操の戦線で、独立行動権を与えている。これは、私の信任に応えてほしいからだ。キミが、勝手に振る舞っていいという意味ではない」
さらに言う。
「私が甘寧を庇うのは、個人的な感情ではない。キミは、私が親しくするものを、疎んじて憎むようだ。しかし、私に逆らってばかりで、長くそのままでいられると思うな。慎み深く、部将や民を愛せば、曹操の脅威にも負けないだろう。大切なのは、過ちを犯さぬことではなく、過ちを改めることだぞ。分かるか?」
ダメ押しに、孫皎が仲良くしている諸葛瑾からも、同じ内容の手紙を届けさせた。ご丁寧すぎることよ!単純に上位者から下位者への指導ならば、そこまで丁寧に対応することもなかろうに笑
■苦しい虚勢
ボケッとして読むと、孫権が若い孫皎に、道徳的な指導をしたようにしか見えない。だが、フェイクだ。
手紙で孫権は、一族の主催者として、孫皎を育てた恩を強調し、命令を聞くようにと言っている。
確かに孫皎は、孫静の三男坊で、孫権にとっては「権力勘定、抜きで付き合える従弟」だっただろう。可愛がったに違いない。
でも、今は黄蓋と孫瑜の私兵を吸収し、最大の軍閥の長になってしまった。
手紙で過去の関係性を強調してみるものの、虚しいだけだ。
■孫権の真意
孫権は、自分に権力を集中したい。
今の個人事業主の集合体から、強力なトップダウンの君主制に移したい。
そのためには、私兵や領地の基盤を持たない、孫権との個人的な主従関係のみで成り立っている人物を、どんどん取り立てねばならない。
甘寧は、蜀から流れてきた投降者で、基盤がない。いい年齢なのに切り込み隊長ばかりさせられている、悲哀の人。しかし、強い。
※このサイト内「甘寧伝」参照です。
孫権にとって、こんなに使い勝手のいい人はいない。全幅の忠義を、少ないリターンで引き出すことができる。
本来なら、甘寧のような「孫権様、万歳!」な人材を手元でじっくりと使いたいんだが、そこまで孫呉政権は磐石ではないし、人材がいない。
やむなく、扱いにくい孫皎に濡須方面を任せ、甘寧を預けざるを得ない。不本意だ。これは、過渡期的な妥協策だ。
一番の味方であるはずの親族が、一番の厄介な軍閥に育っているのだから、皮肉なものですよ。悔しいんだろうね。「このままで、長くいられると思うな」なんて、脅迫めいた言葉も、さりげなく混ざっている笑
甘寧が「呂蒙の下に行きたい」と言っているのが、ぼくの話に整合性を与えてくれる。
呂蒙は、孫策のときに兵卒から取り立てられた人物だ。彼の下なら、同じ「孫権に頼るしかない派」として、居心地がいいに違いない。
部外者の甘寧に、対立構造を見抜かれている時点で、孫権の株は落ちるわけです。いまは孫権の下に甘んじている孫皎としては、ナイスな「足の引っ張り」が成功したわけで。醜いけど。
■孫皎の策謀
孫皎が甘寧をイビることは、一筋縄ではいかないダメージを、孫権に与える。
甘寧が「公子」という言葉を使っているとおり、甘寧から見たら孫皎は、孫権側の人物なんだ。自分が仕えている孫氏の一員として、セットだ。孫皎に貶されることは、孫権に貶されたに近い。
※孫権は甘寧を、便利だから大切にしたいんだけど。
孫氏の内部事情からすれば、孫権と孫皎は、双璧を為すライバルだ。孫皎は、孫権に忠誠を誓う甘寧を扱き下ろすことで、孫権の人心収攬に揺さぶりをかけることが出来る。
こんな、トップの牽制合戦なんて、甘寧は知ったことではない。
下世話な例えですが、
サラリーマンが「このたびキミの仕事が無駄になったのは、専務と常務の仲が悪いからなんだ。耐えてくれ」なんて言われても、納得がいくものじゃない。「専務も常務も、ボクから見たら遠い存在だ。彼ら同士の不仲なんて知らないから、ボクの働きを正当に評価してくれ」となる。
そして、会社への忠誠心が落ちる笑
■呂蒙のクレーム
呂蒙が関羽を攻めるとき、孫権は、孫皎と呂蒙に左右の軍の総指揮を取らせようとした。これに、呂蒙がストップをかけた。
「孫権さま。もし、私より孫皎さまが優れていると思われるなら、あちらに全指揮権をお与え下さい。もし私が優れていると思われるなら、全指揮権を私に下さい。2人のトップを立てると、国家の大事を誤ることになってしまいます。周瑜殿と程普殿の例を引くまでもなく!」
さすが呂蒙。勉強の成果が出ていますよ。
関羽攻めにまで、孫権派(呂蒙)と孫皎派の、足の引っ張り合いを持ち込ませんで下さい、という諫言だ。
孫権は「じゃあ、呂蒙くん(孫権派)が総指揮官だ。孫皎は後詰としよう」と命じた。孫権ならずとも、自分の方に有利な判断を下すだろうよ笑
それでも孫皎は活躍した。
■暗殺か?
不自然なことに、孫皎はこの年に死んだ。
「せっかく関羽の敵である孫呉の一族が、同年に死んだんだ。なぜ『演義』の作者は、孫皎も関羽の呪いで死んだことにしなかったのか。せっかくの美味しい史実が、勿体ない」という話を読んだことがある。
ぼくはそれよりも、関羽の神威のせいにして、孫権が暗殺したような気がして仕方がない。あくまで推測の域を出ないんだけどね。
甘寧すら頼りたがった、生え抜きの呂蒙が死に、孫権派は弱まった。相対的に、孫皎派が強まった。荊州を得て、権力構造が再編されかねないとき、孫権が先手を打った!とか。ちょっと妄想し過ぎかな。
周瑜が消え、自信を強めた孫権。ついにその孫権との衝突が目に付き始めた、孫静系。これで、解体されてしまうのか。続きます。