『晋書』列伝23、司馬遹「愍懐太子伝」翻訳!(5)
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太子既廢非其罪,衆情憤怨。右衛督司馬雅,宗室之疏屬也,與常從督許超並有寵于太子,二人深傷之,說趙王倫謀臣孫秀曰:「國無適嗣,社稷將危,大臣之禍必起。而公奉事中宮,與賈後親密、太子之廢,皆雲豫知,一旦事起,禍必及矣。何不先謀之!」秀言于趙王倫,倫深納焉。
司馬遹はすでに皇太子を廃されたが、冤罪であると、輿論は憤怨した。右衛督の司馬雅は、皇族に連なる人で、常從督の許超と並んで、司馬遹からの寵遇を受けていたが、二人とも(廃太子に)深く心を傷めていた。
趙王(司馬)倫の謀臣である孫秀に、司馬雅と許超は説いた。
「いま国には適任の後継者がおらず、社稷はまさに危ぶまれ、大臣(権力を持った臣下=賈氏)にとっての禍いは必ず起きるでしょう。公(司馬倫)は中宮に仕え、賈皇后と親密です(その立場を利用して、賈皇后に吹き込むのです)。 太子が廃されたことは、みな予め知っていたと言います(司馬遹派が反撃の準備をするには、充分な期間がありました)。一旦、事変が起きれば、(賈氏に)禍いは必ず及びます。なぜ先に謀略を巡らさないのでしょうか!と。(これを聞いた賈皇后が焦って失敗をすれば、司馬遹は太子に復位できます)」
孫秀は司馬倫にこの提案を伝えた。司馬倫は、深く納得した。
計既定,而秀說倫曰:「太子為人剛猛,若得志之日,必肆其情性矣。明公素事賈後,街談巷議,皆以公為賈氏之黨。今雖欲建大功于太子,太子雖將含忍宿忿,必不能加賞於公,當謂公逼百姓之望,翻覆以免罪耳。若有瑕釁,猶不免誅。不若,遷延却期,賈後必害太子,然後廢賈後,為太子報仇,猶足以為功,乃可以得志。」倫然之。
計略は既に決まったが、孫秀は司馬倫に言った。 「太子(司馬遹)は、人となりが剛猛で、もし志を得た日には、必ず彼の情性(持ち味)を思いのままに発揮するでしょう。明公(司馬倫)は、もとより賈皇后に仕え、街や巷の評判では、みな公(司馬倫)を賈氏の党派だと位置づけています。 いま司馬遹に対して(賈氏を討ったという)大功を建てたいところですが、(ご再考下さい)。司馬遹が、忍を含んで忿を宿した(本心を堪えた)としても、(司馬遹の性格からすると)公(司馬倫)が恩賞を加えられることは、きっとありません。司馬遹は、公(司馬倫)は百姓(万民)の(賈氏を討ちたいという)望みに後押しされたのだと言い(司馬倫の自主性や功績は無視され)、(賈皇后の党派だったという)罪を免じるという判断は、翻覆されるでしょう。もし、僅かな過失でもあれば、誅されます。その方法を選ばず、遷延して期を却れば、賈皇后は必ず太子を殺し、その後に賈皇后を廃して、太子の報仇ということすれば、功を充分に立てられ、(司馬倫が)志を得ることが出来ますよ」
司馬倫は(賈皇后と司馬遹を共倒れにする孫秀の計画に)同調した。
秀因使反間,言殿中人欲廢賈後,迎太子。賈後聞之憂怖,乃使太醫令程據合巴豆杏子丸。三月,矯詔使黃門孫慮齋至許昌以害太子。初,太子恐見鴆,恆自煮食於前。慮以告劉振,振乃徙太子于小坊中,絕不與食,宮中猶於牆壁上過食與太子。慮乃逼太子以藥,太子不肯服,因如廁,慮以藥杵椎殺之,太子大呼,聲聞於外。時年二十三。
孫秀は、関係を裂かせにかかった。(孫秀は賈皇后に)殿中の人が賈皇后を廃して、司馬遹を迎えたがっています、と言った。賈皇后はこれを効くと、憂いて怖がり、太医令の程據に巴豆杏子丸を調合させた。 3月、黃門の孫慮に詔を偽作させ、偽勅を許昌にもたらさせ、司馬遹を害した。
はじめ司馬遹は、鴆(による毒殺)を恐れ、いつも自分で食べる前に(出された食事を)煮ていた。孫慮は(監視役で治書禦史の)劉振に告げ、
司馬遹を小坊に移させ、食事を絶えて与えさせなかった。だが、壁の上から太子に食糧を差し入れをする人が、宮中にいた。孫慮は司馬遹に、薬(程據が作った巴豆杏子丸)を無理に飲ませようとしたが、司馬遹は拒んだ。(埒が明かないので)廁で、孫慮は藥杵(薬を練る道具)で司馬遹を叩き殺した。司馬遹の助けを求める大声は、外からも聞こえた。殺されたとき司馬遹は、23歳だった。
將以庶人禮葬之,賈後表曰:「遹不幸喪亡,傷其迷悖,又早短折,悲痛之懷,不能自己。妾私心冀其刻肌刻骨,更思孝道,規為稽顙,正其名號。此志不遂,重以酸恨。遹雖罪在莫大,猶王者子孫,便以匹庶送終,情實憐湣,特乞天恩,賜以王禮。妾誠暗淺不識禮義,不勝至情,冒昧陳聞。」詔以廣陵王禮葬之。
司馬遹が、庶人の礼で葬られたとき、賈皇后は上表した。
「司馬遹は不孝にも亡くなり、彼の迷悖ぶりは傷ましかった。若死にしてしまわれ、悲痛で胸がいっぱいで、どうしようもない。私めは(義母として)心から、自らの肌を刻み、骨を刻んでしまいたいと願う。さらに孝道を思い、稽顙(座って地面に頭を押し付ける礼)をして規範に従い、(皇后として)名號を正しましょう。私は(母としての)志を遂げられず、酸恨を重ねる。(我が義子)司馬遹の罪は莫大であるけれども、尊い司馬氏の子孫であるから、庶人の礼で葬送するのをやめ、情には憐憫を実らせ、特別に天恩を乞い、王礼(の葬儀)を賜りましょう。私はまことに知識がなく、浅慮で、礼儀の規定を知りませんが、至情には勝てず、己の愚かさを省みず申し上げました」
詔があって、司馬遹は(立太子前の)廣陵王として禮葬された。
及賈庶人死,乃誅劉振、孫慮、程據等,冊複太子曰:「皇帝使使持節、兼司空、衛尉伊策故皇太子之靈曰:嗚呼!維爾少資岐嶷之質,荷先帝殊異之寵,大啟土宇,奄有淮陵。朕奉遵遺旨,越建爾儲副,以光顯我祖宗。祗爾德行,以從保傅,事親孝敬,禮無違者。
賈庶人(司馬倫に討たれ、皇后から身分を墜とされた)の死に及び、(監視役)劉振、(実行犯)孫慮、(毒を調合した)程據らは誅殺された。司馬遹を再び冊して(恵帝は伊策に以下を言わせた)。
「皇帝(恵帝)は、使持節と司空を兼任する衛尉の伊策に命じ、(皇帝の代理として)故皇太子(司馬遹)の靈に告げております。『ああ!お前は幼少より立派な才能を具え、先帝(武帝・司馬炎)から殊異の寵を受けていた。大いに国土を啓き、淮陵に入った(広陵王になった)。朕はお前の遺志を守って、ますます爾儲副を建て、我らの祖宗を光顯しよう。お前は徳行をつつしみ、保傅(教育係)に従い、親に孝敬でつかえ、礼が無いものではなかった(礼に満ち溢れていた)。
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『晋書』列伝23、司馬遹「愍懐太子伝」翻訳!(6)
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而朕昧於凶構,致爾於非命之禍,俾申生、孝己複見於今。賴宰相賢明,人神憤怨,用啟朕心,討厥有罪,咸伏其辜。何補於荼毒冤魂酷痛哉?是用忉怛悼恨,震動於五內。今追複皇太子喪禮,反葬京畿,祠乙太牢。魂而有靈,尚獲爾心。」
だが、朕が凶構(賈皇后による暗殺)に気づいてやれず、お前は命を落とす禍いに遭ってしまった。申生(春秋戦国の斉の太子)にかしづき、孝己を今また見た。宰相の賢明さに頼り、人神が(司馬遹の死に)憤怨し、朕の(司馬遹を悼む)心を明らかにすることで、罪のある人(賈氏)を討ち、彼らの犯した罪に服させた。 荼毒(賈氏らへの処罰)に補うことはあるか。冤魂(司馬遹の無実の魂)を、まだ苦しめるものはあるか。忉怛(どちらも「いたむ」の意)の心で悼恨し、(悲しみのあまり)五内(天下)を震動させる。いま追って、再び皇太子(司馬遹)の喪礼を行い、京畿(洛陽)に改葬し、祠には太牢を建ててやろう。魂に霊があるなら、なおお前の心を満足させたいと思う』」
(とても雄弁なので、これは恵帝の言葉ではなく、伊策の代筆か)
帝為太子服長子斬衰,群臣齊衰,使尚書和郁率東宮官屬具吉凶之制,迎太子喪于許昌。
喪之發也,大風雷電,幃蓋飛裂。又為哀策曰:「皇帝臨軒,使洗馬劉務告于皇太子之殯曰:咨爾遹!幼稟英挺、芬馨誕茂。既表髫齔、高明逸秀。昔爾聖祖、嘉爾淑美。顯詔仍崇、名振同軌。(後略)」
恵帝は、司馬遹のために長子の斬衰(最高ランクの喪服。最もボロい)をまとい、郡臣も一斉に斬衰をまとい、尚書和郁(賈皇后に持節を取り上げられた人)に、東宮に所属する官人を率いさせ、吉凶之制を具えさせ、太子(の死体)を迎えて、許昌で喪に服した。
喪が発せられると、大風雷電,幃蓋飛裂(とばりや被いは飛び裂けた)。哀策をなして曰く。「皇帝は軒に臨み、洗馬の劉務(私)に皇太子を弔う言葉を述べさせております。『ああ悲しや、我が子の遹よ。 幼稟英挺、芬馨誕茂。既表髫齔、高明逸秀。昔爾聖祖、嘉爾淑美。顯詔仍崇、名振同軌。(詩的な表現は訳すのが難しく、また訳したら味わいもなくなるので、訳しません。代作の追悼文は長文でした)
諡曰湣懷。六月己卯,葬于顯平陵。帝感閻纘之言,立思子台,故臣江統、陸機並作誄頌焉。太子三子:彪,臧,尚,並與父同幽金墉。
史臣曰:湣懷挺岐嶷之姿,表夙成之質。(中略)雖複禮備哀榮,情深憫慟,亦何補於荼毒者哉!
贊曰:湣懷聰穎,諒惟天挺。皇祖鐘心,庶僚引領。震宮肇建,儲德不恢。掇蜂構隙,歸胙生災。既罹凶忍,徒望歸來。
湣懷とおくり名された。6月己卯、顯平陵で葬られた。恵帝は閻纘(張魯の将だった閻圃の孫)の言葉に感じ入り、思子台に立ち、古くからの臣である江統と陸機の2人ともに、誄頌(生前の業績を讃え、その死を弔う文章)を作らせた。
司馬遹には、3人の子がいた。彪,臧,尚である。彼らは父と同じように、金墉城に幽閉された。(3人の子の短い伝記は省略)
史臣も贊も、司馬遹の賢さと仁徳、司馬炎の寵愛、賈氏に殺された無念さを、言葉を変えて述べているだけなので、逐語訳を試みません。
■訳後の感想1(切なさ)
瀕死の息子に王号が欲しかったから、「恵帝から賜った酒を飲みなさい」という言葉に、司馬遹は従ってしまった。 切なさのツボはここにある。 皇帝の命令は絶対、父親の命令は絶対。これが一般則だ。とは言え、いきなり「酒を3升やるから、必ずその場で飲み干せ」というのは、道理がない命令だ。アルハラだ。通常の司馬遹ならば、この勅令(を偽装した罰ゲームの指示)をはねつけただろう。だが、もし司馬彪が王号を得るチャンスを失ったら、、
20歳過ぎの若い父親が、必死に搾り出した、青い親心に漬け込み、賈皇后の陰謀は成功したわけですね。馬を水辺に連れて行けても、水を飲ませることはできない。司馬遹が飲んでしまった理由は、司馬彪が熱病にうなされた幼い苦悶の表情なんだ。
この経緯が、列伝の地の文ではなく、離縁を望む太子妃への弁明として載っているのも、胸を締め付ける。 もしくは、信憑性について評判の悪い『晋書』ですが、柄にもなく、客観的な記述を心がけたのかも。すなわち、手紙の体裁にすることで、「司馬遹が泥酔して、書写をさせられたと言われていますが、あくまで彼の自己申告です。事実だと、『晋書』編集局は保障しませんからね」と。
ちなみに司馬彪は、300年正月(泥酔事件の直後)死んだ。
我が子の死に、悲嘆に暮れている司馬遹は、呼び出しを喰らう。何かと思えば、覚えがない、自分の筆跡の「恵帝死ね、皇后死ね」という証拠文書を突きつけられた。おまけに妃は離縁したいと言う。 司馬遹にとって、あれもこれも藪から棒の、人生で最悪の1ヶ月です。
■訳後の感想2(黒幕)
司馬遹を殺したのは、孫秀だ。賈皇后ではないだろう。
賈皇后は、「司馬遹は私の子じゃない」ということに(感情的に)拘っていただけだ。賈皇后が一歩引いて、輔政を裴秀に委ねていた290年代は、洛陽は平穏だったのだ。父も兄もいない賈皇后が、賈氏の外戚権力の未来を危ぶんで、司馬遹を殺したとは思えない。
なるほど賈謐は司馬遹に良からぬ感情を持っていただろうが、賈謐は異姓養子だ。外戚として権力を振える血筋ではない。囲碁の件も、裕福な子供たちが、ゲームの勝ち負けで喧嘩するのは、大騒ぎする事件ではない。軽く伏線にはなっても、決定打にはならない。
争点を見極めていたのでしょう、司馬遹は「賈皇后に実母のように仕えても、心が通じない」と嘆いていた。 2人の間にあった対立は、邪悪な外戚と皇族の次世代リーダーのものではなく、なかなか分かり合えない義理の母子の葛藤だったんじゃないか。後漢の外戚闘争を連想するから、見誤るのだ笑
賈皇后は、女性にありがちなヒステリックさを、孫秀に掻き立てられて、凶行に及んでしまった。冷静な大局よりも、目先の感情に身を焦がしてしまう。緊急の(ように見せかけた)危機感に焚き付けられたとき、「おばちゃん」は判断を誤る。現代においては、高額商品を買わされたり、電話一本で大金を振り込んだりする笑
「サア、狭義の八王ノ乱を始めようか」という孫秀の不気味な狼煙が、司馬遹の殺害事件だったのではないかなあ。080719
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