三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
『晋書』列伝23、司馬遹「愍懐太子伝」翻訳!(3)
九年六月,有桑生於宮西廂,日長尺餘,數日而枯。十二月,賈後將廢太子,詐稱上不和,呼太子入朝。既至,後不見,置於別室,遣婢陳舞賜以酒棗,逼飲醉之。使黃門侍郎潘岳作書草,若禱神之文,有如太子素意,因醉而書之。令小婢承福以紙筆及書草使太子書之。

元康九(299)年6月、桑の木が宮西の廂に生えていた。日に日に成長し、一尺余りになり、数日して枯れた。12月、賈皇后はちょうど司馬遹を廃太子しようとし、偽って恵帝が不和(体調不良)だと称し、司馬遹を朝廷に呼んだ。
司馬遹が到着しても、賈皇后は会わず、別室にいた。婢(奴隷)の陳舞を遣わして、酒と棗を太子に賜り、逼って(強制的に)飲んで酔わせた。黃門侍郎の潘岳に文書を起草させた。(その文書とは)司馬遹が神に祈祷し、素意(かねてからの思惑。ここでは、恵帝への呪いカ)を抱いており、酔って書いてしまったかのような内容だった。
小婢の承福に紙と筆を持たせ、司馬遹に(潘岳がでっち上げた文章を)書き写させた。


文曰:「陛下宜自了;不自了,吾當入了之。中宮又宜速自了;不了,吾當手了之。並謝妃共要克期而兩發,勿疑猶豫,致後患。茹毛飲血於三辰之下,皇天許當掃除患害,立道文為王,蔣為內主。願成,當三牲祠北君,大赦天下。要疏如律令。」

その文章に曰く。「陛下(恵帝)は自殺する(みずから了わる)べし。もし自殺しないなら、私が宮殿に入って殺してやろう。中宮(賈皇后)も速やかに自殺するべし。もし自殺しないなら、私がこの手で殺してやろう。
ならびに(実母)謝妃とともに、この期待を叶えて、兩發(恵帝と賈皇后を亡きものにする呪いを発動させる)必要がある。疑うな。猶予(先延ばし)すれば、後患を残してしまう。毛を結い、血をすすり、三辰(日・月・星)のもとに、皇天はまさに患害を取り除くことを許され、道文を立てて王と為し、蔣氏(司馬遹の男子を産んだ寵妃)を皇后にしよう。願いは実現し、三牲祠北君は、天下を大赦するだろう。要疏如律令」


太子醉迷不覺,遂依而寫之,其字半不成。既而補成之,後以呈帝。帝幸式乾殿,召公卿入,使黃門令董猛以太子書及青紙詔曰:「遹書如此,今賜死。」遍示諸公王,莫有言者,惟張華、裴頠證明太子。賈後使董猛矯以長廣公主辭白帝曰:「事宜速決,而群臣各有不同,若有不從詔,宜以軍法從事。」議至日西不決。

司馬遹は酩酊して意識が薄れ、ついに書き移したが、半分も完成しなかった。すでに(賈皇后側が)補って完成させ、後に恵帝に提出した。恵帝は、式乾殿に行幸し、召して公卿を入れ、黃門令の董猛に、司馬遹が書いたものを青紙(?)に及ばせた。詔して曰く。「司馬遹の筆跡はこのような感じだ。死を賜れ」と。
あまねく諸公王に示すと、発言するものはなく、ただ張華と裴頠が、司馬遹の潔白を訴えた。賈皇后は、董猛に命じて、長廣公主に本心ではない発言をさせた。「早く司馬遹の判決を下すべきです。郡臣の言うことが食い違い、もし(司馬遹に死を賜うという)詔に従わなければ、軍法をもって処罰すべきです」と。
議論は日が西に傾いても、決まらなかった。


後懼事變,乃表免太子為庶人,詔許之。於是使尚書和郁持節,解結為副。及大將軍梁王肜、鎮東將軍淮南王允、前將軍東武公澹、趙王倫、太保何劭詣東宮,廢太子為庶人。是日太子游玄圃,聞有使者至,改服出崇賢門,再拜受詔,步出承華門,乘粗犢車。澹以兵仗送太子妃王氏、三皇孫于金墉城,考竟謝淑妃及太子保林蔣俊。

賈皇后は事変を怖れ、「司馬遹を太子から降ろし、庶人として下さい」と上表した。恵帝はこれを許した。尚書の和郁は、持節を取り上げられ、副官となった。
大將軍の梁王(司馬)肜、鎮東將軍の淮南王(司馬)允、前將軍の東武公(司馬)澹、趙王(司馬)倫、太保の何劭は、東宮に詣で、司馬遹を庶民に落とした。この日司馬遹は、玄圃で游んでおり、使者の到着を聞いた。服を改めて崇賢門を出て、再拜して詔を受け、承華門を歩み出て、粗末な犢車に乗った。
司馬澹は兵仗を率いて、太子妃の王氏(王衍の娘)と、三皇孫(司馬遹の3人の子)は金墉城に護送した。司馬澹は、(司馬遹の母)謝淑妃と、太子保林の蔣俊の末路を考えた。


明年正月,賈後又使黃門自首,欲與太子為逆。詔以黃門首辭班示公卿。又遣澹以千兵防送太子,更幽于許昌宮之別坊,令治書禦史劉振持節守之。先是,有童謠曰:「東宮馬子莫聾空,前至臘月纏汝閤。」又曰:「南風起兮吹白沙,遙望魯國欝嵯峨,千歲髑髏生齒牙。」南風,後名;沙門,太子小字也。

翌(300)年正月、賈皇后は黃門に自首させ、司馬遹に大逆罪を適用させようとした。詔があり、黄門の自白を公卿に示した。また司馬澹に兵1000を率いさせて司馬遹を護送させ、さらに許昌宮の別坊に幽閉させ、治書禦史の劉振に持節を与えて、監視をさせた。
これより前、童謡があった。「東宮の馬子は聾空すること莫し。前に臘月に到らば、汝が閤(もとどり)を纏めん」と。他の童謡では「南風が起りて、白沙を吹く。遥かに魯國を望めば、欝として嵯峨千歲、髑髏は齒牙を生やす」と。南風は、賈皇后の名である。沙門は、司馬遹の幼少期のあざなである。
『晋書』列伝23、司馬遹「愍懐太子伝」翻訳!(4)
初,太子之廢也,妃父王衍表請離婚。太子至許,遺妃書曰:「鄙雖頑愚,心念為善,欲盡忠孝之節,無有惡逆之心。雖非中宮所生,奉事有如親母。自為太子以來,敕見禁檢,不得見母。自宜城君亡,不見存恤,恆在空室中坐。

はじめ(幽閉される前)司馬遹は廃せられた。太子妃の父・王衍は、上表して離婚させたいと申し出た。司馬遹は許さず、妃に遺した書に曰く。「私は頑固で愚かだが、心は善を為して、忠孝の節を尽したいと思い、惡逆の心はない。私は賈皇后の子ではないが、実母のようにお仕え奉った。皇太子となって以来、敕(いましめて)禁檢を見るばかりで、母性を見ることはできなかった。宜城君が亡くなってから、存恤されず、つねに空室の中座があった。(司馬遹の独白は続きます)


去年十二月,道文疾病困篤,父子之情,實相憐湣。于時表國家乞加徽號,不見聽許。疾病既篤,為之求請恩福,無有噁心。自道文病,中宮三遣左右來視,雲:'天教呼汝。'到二十八日暮,有短函來,題言東宮發,疏雲:'言天教欲見汝。'即便作表求入。二十九日早入見國家,須臾遣至中宮。中宮左右陳舞見語:'中宮旦來吐不快。'

昨年12月、道文(長男の司馬彪)が病気になって寝込んだとき、父子の情はまことに憐憫して通じ合った。国家に上表し、(司馬彪に)徽號を加えて下さいと願ったとき、許されなかった。病気はすでに篤く、我が子のために恩福を請うただけで、悪い心などなかった。
道文(司馬彪)が病になってから、賈皇后は3回の遣いを寄越してきて伝えた。「恵帝があなた(司馬遹)を呼んでいますよ」と。12月28日の暮れに到り、短函が届いた。題は「東宮が開けて下さい(親展)」となっていた。開けると、疏に曰く「恵帝は、あなたに会いたいと仰っています」と。すぐに上表を作成し、私は入朝した。
12月29日の朝、私は朝廷に出仕し、しばらくして賈皇后に遣いを出した。賈皇后の側近・陳舞は、私に会って言った。「中宮さま(賈皇后)は、朝より吐かれて、ご気分が悪い」と。(司馬遹の独白は続きます)


使住空屋中坐。須臾中宮遣陳舞見語:'聞汝表陛下為道文乞王,不得王是成國耳。'中宮遙呼陳舞:'昨天教與太子酒棗。'便持三升酒、大盤棗來見與,使飲酒啖棗盡。鄙素不飲酒,即便遣舞啟說不堪三升之意。中宮遙呼曰:'汝常陛下前持酒可喜,何以不飲?天與汝酒,當使道文差也。'

私は、誰も居ない部屋で座って待たされた。しばらくして、また賈皇后の賈皇后の側近・陳舞は言った。「あなたの陛下への上表は、道文(司馬彪)を王にすることだと聞いています。しかし(恵帝が認めないので)王(司馬彪)は国を成すことは出来ない」と。
賈皇后は遥かに陳舞を呼んで言った。「昨日陛下は、太子に酒とナツメを与えるように仰いました」と。そこで三升の酒と大皿のナツメが運ばれ、私に与えられ、全て飲み食べ尽くせと言われた。私はもとより酒を飲まず、陳舞を(賈皇后に)遣わせて、三升もの酒には堪えられないという気持ちを、啓説(説明)させた。
賈皇后は遥かに(別室から)言った。「あなたは常に陛下の御前では、(陛下から頂いた)酒を持って喜ぶべきでしょう。なぜ飲まないのか。陛下があなたに酒を与えたのは、道文(司馬彪)を差(快癒)させようと願ってのものですよ」(司馬遹の独白は続きます)


便答中宮:'陛下會同一日見賜,故不敢辭,通日不飲三升酒也。且實未食,恐不堪。又未見殿下,飲此或至顛倒。'陳舞複傳語雲:'不孝那!天與汝酒飲,不肯飲,中有惡物邪?'遂可飲二升,餘有一升,求持還東宮飲盡。逼迫不得已,更飲一升。飲已,體中荒迷,不復自覺。須臾有一小婢持封箱來,雲:'詔使寫此文書。'鄙便驚起,視之,有一白紙,一青紙。催促雲:'陛下停待。'又小婢承福持筆研墨黃紙來,使寫。急疾不容複視,實不覺紙上語輕重。父母至親,實不相疑,事理如此,實為見誣,想衆人見明也。」

私はすぐ賈皇后に答えた。「陛下が會同(謁見)が許されれば、もとより敢えて辞せず(喜んで拝謁するつもりでいますので)、通日(正月から)三升の酒を飲まないのです。かつ実(ナツメ)も恐れ多くて食べません。まだ殿下にお会いしていないのに、こんなに飲んでは、酔い潰れてしまいます」と。
陳舞は再び賈皇后の言葉を伝えて言った。「不孝者め!陛下はあなたに酒を飲めとお与えになったのに、飲むことを拒んだ。中に惡物(毒)があると言うのか」と。
私はついに2升飲み、1升を残し、東宮に持ち帰って(あと1升は)飲み干したいと求めた。だが強く迫られたので、やむを得ずさらに1升飲んだ。飲み終わると、体中が荒迷し、意識が飛んだ。しばらくして、小婢が封箱を持って現れ、言った。「陛下からの詔です。この文書を書き写して下さい」と。
私は驚いて飛び上がり、その文書を見た。白い紙と青い紙があった。(小婢は)催促して言った。「陛下が(写し終るのを)お待ちです」と。小婢は承福し、筆と研墨黃紙を持ってきて、私に写させた。にわかに具合が悪くなり、視界が閉ざされ、紙上に書き写した言葉の意味は本当に覚えていない。父母は至親で、これは疑いも余地もない(のに、父と母を呪う文書を書き写してしまった)。事件のあらましは、このようなことだ。私はハメられたことを、皆さん(まずは王衍の父娘)に知っていただけたらと願う」(司馬遹の独白は終了)
前頁 表紙 次頁
(C)2007-2008 ひろお All rights reserved. since 070331xingqi6