三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
『晋書』列伝5より、「裴頠伝」を翻訳(1)
頠字逸民。弘雅有遠識,博學稽古,自少知名。禦史中丞周弼見而歎曰:「頠若武庫,五兵縱橫,一時之傑也。」賈充即頠從母夫也,表「秀有佐命之勳,不幸嫡長喪亡,遺孤稚弱。頠才德英茂,足以興隆國嗣。」詔頠襲爵,頠固讓,不許。太康二年,徵為太子中庶子,遷散騎常侍。惠帝既位,轉國子祭酒,兼右軍將軍。

裴頠はあざなを逸民という。弘雅で遠識があり、博學で稽古し(古事に学び)、幼いときから名を知られた。
禦史中丞の周弼は、裴頠に会って感心して言った。「裴頠は武庫のようだ。五兵縱橫(大勢の兵を自在に動かして)、一時代の傑物となるだろう」と。
賈充は、裴頠の從母の夫だった。賈充が上表して曰く。「裴秀は佐命の勳がありますが、不幸にして長男は死んで、遺孤(嫡孫)は稚弱です。裴頠は、才德英茂で、國嗣(次代の皇帝)を興隆するに足りる人物です」と。詔で裴頠は襲爵を命じられた。裴頠は固く遠慮したが、(司馬炎は相続拒否を)許さなかった。
太康二(281)年、徴されて太子中庶子となり、散騎常侍に遷った。恵帝が即位すると、國子祭酒となり、右軍將軍を兼ねた。


初,頠兄子憬為白衣,頠論述世勳,賜爵高陽亭侯。楊駿將誅也,駿党左軍將軍劉豫陳兵在門,遇頠,問太傅所在。頠紿之曰:「向於西掖門遇公乘素車,從二人西出矣。」豫曰:「吾何之?」頠曰:「宜至廷尉。」豫從頠言,遂委而去。尋而詔頠代豫領左軍將軍,屯萬春門。

裴頠の兄の遺児・裴憬は白衣だった(喪に服していた)。裴頠は、世勳(裴秀以来の功績)を論述し、裴憬を高陽亭侯に封じてもらった。
楊駿が誅殺されたとき、楊駿の一味である左軍將軍の劉豫は、兵を率いて門を守っていた。劉豫は裴頠と遭い、太傅(楊駿)の所在を問うた。裴頠はあざむいて曰く。「西掖門の方向で、素車に載っている公(楊駿)に遭いました。2人を従えて、西門から出て行かれました」と。劉豫は「我はどこへ行ったらよいか」と聞いた。裴頠は「廷尉に行かれる(出頭される)のが宜しかろう」と答えた。劉豫は裴頠の言に従い、(自軍を裴頠に)任せて去った。詔があり、裴頠は左軍將軍を劉豫の代わりに領することになり、萬春門を守った。


及駿誅,以功當封武昌侯,頠請以封憬,帝竟封頠次子該。頠苦陳憬本承嫡,宜襲钜鹿,先帝恩旨,辭不獲命。武昌之封,己之所蒙,特請以封憬。該時尚主,故帝不聽。累遷侍中。

楊駿が誅されるにおよび、功績から裴頠は武昌侯に封じられた。裴頠は、(兄の子)裴憬を封じるように請うた(裴頠自身は辞退した)ので、恵帝は(仕方なく)裴頠の次子の、裴該を封じた。
裴頠は、苦々しく「本承嫡(本来の嫡流)は裴憬です」と陳べ、(裴秀が賜った司馬炎に賜った)钜鹿郡公を、裴憬に継がせたいと願い、次子・裴該への(武昌侯)拝命を遠慮した。「武昌侯を頂きましたが、私は蒙昧ですので、特別に(兄の子)裴憬を封じて下さい」と申し出た。
(楊駿が殺されるなど)時世を考えると、当主は尚(かしこい)者が適切であるため、恵帝は(裴頠の辞退を)許さなかった。
かさねて裴頠は、侍中に遷った。

時天下暫寧,頠奏修國學,刻石寫經。皇太子既講,釋奠祀孔子,飲饗射侯,甚有儀序。又令荀籓終父勖之志,鑄鐘鑿磬,以備郊廟朝享禮樂。頠通博多聞,兼明醫術。荀勖之修律度也,檢得古尺,短世所用四分有餘。
頠上言:「宜改諸度量。若未能悉革,可先改太醫權衡。此若差違,遂失神農、岐伯之正。藥物輕重,分兩乖互,所可傷夭,為害尤深。古壽考而今短折者,未必不由此也。」卒不能用。樂廣嘗與頠清言,欲以理服之,而頠辭論豐博,廣笑而不言。時人謂頠為言談之林藪。


天下はしばらく安寧で、裴頠は国学を修めるように上奏し、石に刻んで(儒教典を)写経した。皇太子(司馬遹)はすでに講義ができ、釋奠(儀礼の名)で孔子ら十哲を祀り、飲饗射侯するさまは、甚だ儀序が整っていた。また荀籓に命じて、父・荀勖の遺志を完遂させ、鑄鐘鑿磬、備郊の廟を以って、朝廷は禮樂を享しんだ(儒教が栄えた)。
裴頠は通博多聞で、医術にも明るかった。荀勖の(書いた)律度を修め、古尺(度量衡の基準)を研究した。古尺は、当世に用いられている基準よりも、4分余り短かった。
裴頠は上表して曰く。「もろもろの度量を改めて下さい。もし全てを(同時に)革めることが出来なければ、まず太医権衡(医術用の測り)を改めて下さい。もし差異をそのままにすると、(古代の)神農や岐伯が開発した医術を失うことになります。薬品の重量は、わずかに間違えるだけで、傷夭(医療事故)を招き、最も深い害があります。古代と同じ度量衡の基準に修正しましょう」


頠以賈後不悅太子,抗表請增崇太子所生謝淑妃位號,仍啟增置後衛率吏,給三千兵,於是東宮宿衛萬人。遷尚書,侍中如故,加光祿大夫。每授一職,未嘗不殷勤固讓,表疏十餘上,博引古今成敗以為言,覽之者莫不寒心。

賈皇后が太子(司馬遹)をよく思っていないため、裴頠は、司馬遹の生母・謝淑妃を崇えて号を送ることに反対する上表を奉った。これ(賈皇后の意に適ったこと)により裴頠は、率吏3000人を給い、東宮は10000人が宿衛することになった。
尚書に遷ったが、侍中には留任し、光祿大夫を加えられた。
1つの職を授かるごとに、殷勤固讓(鄭重に固辞)し、十餘上の意見を表疏しないことはなかった(いつも遠慮し、いつも盛んに上疏した)。裴頠の文書は、ひろく古今の事例が引用され、読んで心が寒くならない者はいなかった(鳥肌が立つほど素晴らしかった)。
『晋書』列伝5より、「裴頠伝」を翻訳(2)
頠深慮賈後亂政,與司空張華、侍中賈模議廢之而立謝淑妃。華、模皆曰:「帝自無廢黜之意,若吾等專行之,上心不以為是。且諸王方剛,朋黨異議,恐禍如發機,身死國危,無益社稷。」

裴頠は、賈皇后の乱政を深慮し、司空の張華侍中の賈模と、賈氏を廃して 謝淑妃を皇后に立てることを議論した。張華も賈模も口をそろえて言った。「恵帝には、廢黜之意(皇后を代える意思)がない。もし我らが独断専行したら、恵帝は反対をなさるのではないか。諸王は強硬な態度をとり、(賈氏の)朋党は異議を唱えるだろう。發機(有事)のごとき禍いを恐れる。我が身は死に、国は危うくなり、社稷にとって無益だ」


頠曰:「誠如公慮。但昏虐之人,無所忌憚,亂可立待,將如之何?」華曰:「卿二人猶且見信,然勤為左右陳禍福之戒,冀無大悖。幸天下尚安,庶可優遊卒歲。」此謀遂寢。頠旦夕勸說從母廣城君,令戒喻賈後親待太子而已。或說頠曰:「幸與中宮內外可得盡言。言若不行,則可辭病摒退。若二者不立,雖有十表,難乎免矣。」頠慨然久之,而竟不能行。

裴頠は言った。「誠にあなた方のご心配のとおりだ。だが昏虐之人(賈皇后)は、思慮も配慮もない。乱は(爪を研いで)待っており、今にも起こりそうなのではないか?」
張華曰く。「ご両名の言うとおりだ。左右(皇帝の側近)のために、禍福の戒(賈皇后の弊害)を説明することに勤め、大悖(国政の乱れ)が無くなることを願う。天下に、尚安の幸あれ。庶民たちは、優遊して卒歲(寿命で死ねる)世の中であるべきだ」
このはかりごとは、遂に取りやめになった。
裴頠は朝も夕も、從母の廣城君(裴氏で賈充の妻)を説得し、賈皇后に太子(司馬遹)を親待(温かく接する)するよう戒めさせた。あるとき裴頠が言った。
「(太子と和解して)中宮内外に幸を行き渡らせなさいと(賈皇后に)伝えて下さい。言っても(賈皇后が)実行しなければ、皇后を辞退せよと言って下さい。もしどちらも賈氏が嫌がれば、10件の上表をしても、彼女を皇后位から罷免することは難しいでしょう
裴頠は、慨然(憤り嘆いて)これを言い続けたが、ついに(賈皇后と太子の和解も、賈皇后の辞任も)実行に移されなかった。

遷尚書左僕射,侍中如故。頠雖後之親屬,然雅望素隆,四海不謂之以親戚進也,惟恐其不居位。俄複使頠專任門下事,固讓,不聽。頠上言:「賈模適亡,複以臣代,崇外戚之望,彰偏私之舉。後族何常有能自保,皆知重親無脫者也。然漢二十四帝惟孝文、光武、明帝不重外戚,皆保其宗,豈將獨賢,實以安理故也。昔穆叔不拜越禮之饗,臣亦不敢聞殊常之詔。」

裴頠は、尚書左僕射に遷ったが、侍中はもとのままだった。裴頠は、后之親屬(外戚の賈氏の縁続き)だったが、然雅として素隆を望み(政治スタンスがさっぱりしていたので)、四海(世間)は、裴秀の昇進は外戚との繋がりゆえだとは言わず、ただ現在の職に裴頠が居られなくなることを心配した。にわかに復た裴頠は門下事に専任を命じられ、裴頠は固辞したが許されなかった。裴頠は上言した。
「賈模(賈詡の孫?)は亡に適い、復た臣(私)の世代で、外戚の望を崇め、明らかに私の舉(えり好みの推挙)に偏っております。后族は、なぜ常に(節度を)保持することが出来るでしょうか。親を重ねる(血縁が濃くなる)と、無脱(誰も彼も見境なく)政治に介入してくるのは、みな知っていることです。だから漢の24帝のうち、ただ孝文帝、光武帝、明帝は、外戚を重用せず、みな皇室の主導権を保ちました。(3人の皇帝は)特別に賢くなくても、(外戚を重用しなかったため)治世を安理できたのです。むかし(晋の)穆叔は、越禮之饗を拝さず、私は(この故事に関して)殊常之詔があったとも聞いておりません」と。


又表雲:「咎繇謨虞,伊尹相商,呂望翊周,蕭張佐漢,鹹播功化,光格四極。暨于繼體,咎單、傅說,祖己、樊仲,亦隆中興。或明揚側陋,或起自庶族,豈非尚德之舉,以臻斯美哉!曆觀近世,不能慕遠,溺於近情,多任後親,以致不靜。昔疏廣戒太子以舅氏為官屬,前世以為知禮。況朝廷何取于外戚,正複才均,尚當先其疏者,以明至公。漢世不用馮野王,即其事也。」表上,皆優詔敦譬。

また裴頠が上表して曰く。
「(故事を省略して抄訳します)自分の血縁者を登用するときも、尚德之舉(本人の適性を見ての推挙)なら、素晴らしいことです。しかし(漢より魏晋にいたる)近世では、親族ばかり登用して、世が治まりません。外戚をのさばらせるのも、たいがいにして下さい」と。
裴頠の上表は、どれも優れ、故事の引用が絶品だと詔があった。
時以陳准子匡、韓蔚子嵩並侍東宮,頠諫曰:「東宮之建,以儲皇極。其所與遊接,必簡英俊,宜用成德。匡、嵩幼弱,未識人理立身之節。東宮實體夙成之表,而今有童子侍從之聲,未是光闡遐風之弘理也。」湣懷太子之廢也,頠與張華苦爭不從,語在《華傳》。


陳准の子・陳匡と、韓蔚の子・韓嵩は2人とも東宮に侍っていた。裴頠が諌めて曰く。
「東宮の建には、皇極を設けるべきです。太子(司馬遹)が遊び接す相手には、必ず英俊・成德の人物を用いるべきです。陳匡と韓嵩は幼弱で、まだ人の理や立身ノ節を知りません。太子はすでに立派な体躯をされているのに、童子侍從ノ声があります。光闡遐風ノ弘理(あるべき様子)に到っては居りません」
司馬遹は、皇太子を廃された。裴頠と張華は、(廃太子に反対して)苦爭して従わず、『華伝』にある言葉を語った。
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