三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
『晋書』列伝5より、「裴頠伝」を翻訳(3)
頠深患時俗放蕩,不尊儒術,何晏、阮籍素有高名於世,口談浮虛,不遵禮法,屍祿耽寵,仕不事事;至王衍之徒,聲譽太盛,位高勢重,不以物務自嬰,遂相放效,風教陵遲,乃著崇有之論以釋其蔽曰:

裴頠は、時俗が放蕩で、儒術を尊ばないことを深く患いた。
何晏と阮籍は元から世に高名があったが、口談浮虛(いい加減なことをペラペラ言い)、不遵禮法(礼法を破り)、屍祿耽寵、仕不事事。
王衍のような奴に到っては、聲譽太盛、位高勢重、不以物務自嬰、遂相放效、風教陵遲(儒教を軽んじたひどい振る舞いをする)。
裴頠は、崇有之論を著し、注釈を用いて、当世の儒教軽視の弊害を説いて曰く(以下、儒教の議論が始まります)

※翻訳に挫折です。字面だけ訳しても、意味が無さそうだし。裴頠の主張が終了したところから、右側の「(4)」に飛んで再開します。

夫總混群本,宗極之道也。方以族異,庶類之品也。形象著分,有生之體也。化感錯綜,理跡之原也。夫品而為族,則所稟者偏,偏無自足,故憑乎外資。是以生而可尋,所謂理也。理之所體,所謂有也。有之所須,所謂資也。資有攸合,所謂宜也。擇乎厥宜,所謂情也。識智既授,雖出處異業,默語殊塗,所以寶生存宜,其情一也。眾理並而無害,故貴賤形焉。失得由乎所接,故吉凶兆焉。是以賢人君子,知欲不可絕,而交物有會。觀乎往復,稽中定務。惟夫用天之道,分地之利,躬其力任,勞而後饗。居以仁順,守以恭儉,率以忠信,行以敬讓,志無盈求,事無過用,乃可濟乎!故大建厥極,綏理群生,訓物垂範,於是乎在,斯則聖人為政之由也。

若乃淫抗陵肆,則危害萌矣。故欲衍則速患,情佚則怨博,擅恣則興攻,專利則延寇,可謂以厚生而失生者也。悠悠之徒,駭乎若茲之釁,而尋艱爭所緣。察夫偏質有弊,而睹簡損之善,遂闡貴無之議,而建賤有之論。賤有則必外形,外形則必遺制,遺制則必忽防,忽防則必忘禮。禮制弗存,則無以為政矣。眾之從上,猶水之居器也。故兆庶之情,信于所習;習則心服其業,業服則謂之理然。是以君人必慎所教,班其政刑一切之務,分宅百姓,各授四職,能令稟命之者不肅而安,忽然忘異,莫有遷志。況於據在三之尊,懷所隆之情,敦以為訓者哉!斯乃昏明所階,不可不審。

夫盈欲可損而未可絕有也,過用可節而未可謂無貴也。蓋有講言之具者,深列有形之故,盛稱空無之美。形器之故有征,空無之義難檢,辯巧之文可悅,似象之言足惑,眾聽眩焉,溺其成說。雖頗有異此心者,辭不獲濟,屈於所狎,因謂虛無之理,誠不可蓋。唱而有和,多往弗反,遂薄綜世之務,賤功烈之用,高浮游之業,埤經實之賢。人情所殉,篤夫名利。於是文者衍其辭,訥者贊其旨,染其眾也。是以立言藉於虛無,謂之玄妙;處官不親所司,謂之雅遠;奉身散其廉操,謂之曠達。故砥礪之風,彌以陵遲。放者因斯,或悖吉凶之禮,而忽容止之表,瀆棄長幼之序,混漫貴賤之級。其甚者至於裸裎,言笑忘宜,以不惜為弘,士行又虧矣。

老子既著五千之文,表摭穢雜之弊,甄舉靜一之義,有以令人釋然自夷,合于《易》之《損》、《謙》、《艮》、《節》之旨。而靜一守本,無虛無之謂也;《損》《艮》之屬,蓋君子之一道,非《易》之所以為體守本無也。觀老子之書雖博有所經,而雲「有生於無」,以虛為主,偏立一家之辭,豈有以而然哉!人之既生,以保生為全,全之所階,以順感為務。若味近以虧業,則沈溺之釁興;懷末以忘本,則天理之真滅。故動之所交,存亡之會也。夫有非有,於無非無;于無非無,於有非有。是以申縱播之累,而著貴無之文。將以絕所非之盈謬,存大善之中節,收流遁於既過,反澄正於胸懷。宜其以無為辭,而旨在全有,故其辭曰「以為文不足」。若斯,則是所寄之塗,一方之言也。若謂至理信以無為宗,則偏而害當矣。先賢達識,以非所滯,示之深論。惟班固著難,未足折其情。孫卿、楊雄大體抑之,猶偏有所許。而虛無之言,日以廣衍,眾家扇起,各列其說。上及造化,下被萬事,莫不貴無,所存僉同。情以眾固,乃號凡有之理皆義之埤者,薄而鄙焉。辯論人倫及經明之業,遂易門肆。頠用矍然,申其所懷,而攻者盈集。或以為一時口言。有客幸過,鹹見命著文,擿列虛無不允之征。若未能每事釋正,則無家之義弗可奪也。頠退而思之,雖君子宅情,無求於顯,及其立言,在乎達旨而已。然去聖久遠,異同紛糾,苟少有仿佛,可以崇濟先典,扶明大業,有益於時,則惟患言之不能,焉得靜默,及未舉一隅,略示所存而已哉!

夫至無者無以能生,故始生者自生也。自生而必體有,則有遺而生虧矣。生以有為已分,則虛無是有之所謂遺者也。故養既化之有,非無用之所能全也;理既有之眾,非無為之所能循也。心非事也,而制事必由於心,然不可以制事以非事,謂心為無也。匠非器也,而制器必須於匠,然不可以制器以非器,謂匠非有也。是以欲收重泉之鱗,非偃息之所能獲也;隕高墉之禽,非靜拱之所能捷也;審投弦餌之用,非無知之所能覽也。由此而觀,濟有者皆有也,虛無奚益於已有之群生哉!


ちゃんと読んでもいませんが、「裴頠の主張はここを読めば分かる」ということをマークできただけでも、本日の成果とします。儒教や思想史についての論文を読んで、その後にトライしたら、訳せるかも知れません。

王衍之徒攻難交至,並莫能屈。又著《辯才論》,古今精義皆辨釋焉,未成而遇禍。

王衍たちは裴頠と、攻難交至(互いに激論を交わし)、拮抗して屈することはなかった。また裴頠は『弁才論』を著し、古今の精義にみな注釈したが、完成させる前に禍に遭ってしまった。
『晋書』列伝5より、「裴頠伝」を翻訳(4)
初,趙王倫諂事賈後,頠甚惡之,倫數求官,頠與張華複固執不許,由是深為倫所怨。倫又潛懷篡逆,欲先除朝望,因廢賈後之際遂誅之,時年三十四。二子嵩、該,倫亦欲害之。梁王肜、東海王越稱頠父秀有勳王室,配食太廟,不宜滅其後嗣,故得不死,徙帶方;惠帝反正,追複頠本官,改葬以卿禮,諡曰成。以嵩嗣爵,為中書黃門侍郎。該出後從伯凱,為散騎常侍,並為乞活賊陳午所害。

はじめ趙王司馬倫は、賈皇后に諂事していた。裴頠は司馬倫をはなはだ憎んだ。司馬倫が官に招聘したとき、裴頠と張華は断固拒否したので、彼らは司馬倫に深く怨まれた。司馬倫が潛懷篡逆(帝位を奪った)とき、まず朝望を除きたいと思い、賈皇后を廃したときに(併せて)裴頠を殺してしまった。34歳だった。
2人の子がいて、嵩、該といった。司馬倫は、2子も殺したいと思った。梁王(司馬)肜と東海王(司馬)越は、言った。「裴頠の父・裴秀は王室に勲がある人物だから、太廟を配食し、その子孫を滅ぼしてはいけない。殺害はできないので、帶方郡へ流罪とせよ」と。
恵帝が(司馬倫が倒れて)帝位に還ると、追って裴頠を本官に戻し、卿禮で改葬し、「成」とおくりなした。裴嵩を後継として爵を嗣がせ、中書黃門侍郎にした。裴該は、のちに伯凱(誰のあざな?)に従い、散騎常侍となったが、陳午に殺された。
■翻訳後の感想
裴頠は、頑迷に儒教の規定どおりの世を実現することにこだわった。

兄の子には、臣としての資質はない。裴頠には、資質がある。だから、実利を重視する人たちは、裴頠を裴秀の後継だと認めている。従母の夫・賈充がそうだったし、恵帝(のブレーン)もそういう認識だった。だが裴頠は、「実力より、長幼の序ですよ」として、うんざりするくらいに辞退を繰り返した。前半を読んでいるだけでは、何が彼をそこまで意固地にしたか分からなかった。でも後半に「崇有之論」があるのを見て、理解できた感じです。
べつに自分の能力を低く評価していたわけでも、朝廷を困らせてやろうと意地悪だったのでもなく、ただ儒教の定めに従っていただけなんだ。

■周辺分野の学問への興味
父の裴秀は、地図オタクでした。いかにもオフィシャルな文系の教養だけではなく、漢代では「方技」として軽んじられていそうな理系分野にも、興味を示す。この血は、裴頠にも受け継がれていたようです。
裴頠は医術が好き。華佗のような外科ではなくて、古い書籍を参考にして、薬物の調合をしていたようで。いわゆる漢方薬ですね。
裴頠が警鐘を鳴らしたように、古代と違う度量衡で薬を調合していたら、患者には大惨事です。文面上は同じ1グラムでも、量が違うとは。基礎研究として荀勖の名が挙がってるのも面白い。

■賈皇后との縁戚
従母が賈充の妻だったというのが、裴頠の後半生の苦しみのメインだったようです。賈皇后は、同世代の親戚だ。
わざわざ『晋書』が断ってくれているように、裴頠は「賈氏の縁戚だから」という理由で、高官にあったわけではない。でもわざわざ断りを入れるということは、後世の史家以上に、当時の人に裴頠がどう見られていたかを語ってくれる。
裴頠が「賈氏は、身内ばかりを推挙する。辞めさせよ」と批判しても、「お前が言っても、説得力がないんだ」と言われたのでしょう。
従母(賈皇后の義母)を遣って、「太子と和解する気がないなら、皇后を降りよ」と踏み込んだ提案ができるのは、縁戚ならではの強みなんだが。裴頠は、そうとう葛藤して煩悶したのでしょう。

漢の孝文帝、光武帝、明帝の事例を引いているが、逆に言えば「外戚を抑える」という積極的な政治方針を打ち出したのは、24人中たった3人だった。外戚の害毒について、誰よりも研究したのが、「外戚の外戚」である裴頠だったはず。
3人の皇帝の例を引くとき、「皇帝は独り賢じゃなくても」なんて条件づけしているのがおかしい。「外戚を遠ざけると政治がうまくいくというテーゼは、たとえ馬鹿な恵帝を頂く現代でも同じなのですよ」と暗に言いたかったのでしょう。恵帝は、そんな皮肉に気づかないから、溜飲を下げるための自己満足だね。
290年代は、張華と裴頠の双頭政治だ。張華は60代の大御所だから貫禄は充分として、それを(いくら有能でも)30歳前後の裴頠が補佐するのは、 妬みの対象になっても、残念ながら「当たり前」と言える。

楊駿の朋党を欺いたとき、漠然と「外戚は王朝に良くない」という認識はあっただろうが、後にここまで先鋭化するとはね。楊駿が滅びて、次に好き勝手にやったのが、賈皇后だったのだから。「こんなことなら、協力しなきゃ良かったぜ」というのは結果論だ。
はじめ賈皇后の意に適うよう「謝氏に号を送るのは良くない」と言ってる。賈皇后との関係性は所与のものとして受容していた。賈皇后本人を気遣うような素振りもある。「太子と馴染めないなら、皇后を降りなさい」というのも、賈氏を守る思いやりでしょう。敢えて分離するなら、賈皇后のやり方やそれに付け入る周りの連中が憎かったのだね。
例えば、司馬倫のような種類の人間には、虫唾が走った。

■学問に励んだ理由
裴頠は、儒教にヒステリックに傾倒し、『弁才論』で古今の精義を解き明かそうとした。これは、「賈氏の親戚」と見られる生き心地の悪さに勝つため、自分の心を理論武装をしたかったからじゃないか。ガッチガチの固めて迷いをなくそうとしているときに、老荘にかぶれた連中が、適当なことを横から言ってこれば、キレますよ。
殺されたとき、まだ34歳。本人は『弁才論』を完成させる気満々だったのだろう。せっかくの向学心が、政治的処世の拙さに掣肘されて台無しになるのは、さぞかし残念だったでしょうに。

裴頠はどのように気持ちに整理をつければ、うまく怒りの矛をしまい、生き残れたんだろうか。
「賈皇后を討ってくれてありがとう、司馬倫さん。私はあなたの味方だ」と、ホイホイ出て行けたら良かったのだろう。だが、賈皇后の縁戚として司馬倫を仇に思うのではなく、賈皇后の人材政策を憎むがゆえに、賈皇后を廃した司馬倫には従えない。矛盾ぶくみだ。もう、ひとり孫秀の陰謀が王朝をボロボロにした気がしないでもない。裴頠にはいかなる合理的な選択肢も残されていなかったのだから。080720
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