『晋書』列伝10より、「賈充伝」を翻訳(1)
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賈充,字公閭,平陽襄陵人也。父逵,魏豫州刺史、陽裏亭侯。逵晚始生充,言後當有充閭之慶,故以為名字焉。充少孤,居喪以孝聞。襲父爵為侯。拜尚書郎,典定科令,兼度支考課。辯章節度,事皆施用。累遷黃門侍郎、汲郡典農中郎將。參大將軍軍事,從景帝討毌丘儉、文欽于樂嘉。帝疾篤,還許昌,留充監諸軍事,以勞增邑三百五十戶。
賈充、あざなは公閭という。平陽郡の襄陵県の人。
父の賈逵は、魏の豫州刺史で陽裏亭侯。賈逵は、晩年に初めての子を授かり、「充閭之慶だ」と喜んだ。これに因んで、あざなを決めた。
賈充は幼くして父を亡くし、孝聞をもって(規定に則って)服喪した。父の爵を継ぎ、陽裏亭侯となった。 尚書郎を拝し、科令を典定し(条文の作成に携わり)、兼ねて考課を度支した(評価を手伝った)。辯章節度(賈充の意見は的を射ており)、尚書府でみな採用された。黃門侍郎に進み、郡典農中郎將になった。 大將軍軍事に参じ、司馬師に従って、毌丘倹と文欽を楽嘉で討った。司馬師が病没すると、許昌に還り、賈充は監諸軍事として留まり、功労により邑三百五十戶の追加を受けた。
後為文帝大將軍司馬,轉右長史。帝新執朝權,恐方鎮有異議,使充詣諸葛誕,圖欲伐吳,陰察其變。充既論說時事,因謂誕曰:「天下皆願禪代,君以為如何?」誕曆聲曰:「卿非賈豫州子乎,世受魏恩,豈可欲以社稷輸人乎!若洛中有難,吾當死之。」充默然。及還,白帝曰:「誕在再揚州,威名夙著,能得人死力。觀其規略,為反必也。今征之,反速而事小;不征,事遲而禍大。」帝乃征誕為司空,而誕果叛。複從征誕,充進計曰:「楚兵輕而銳,若深溝高壘以逼賊城,可不戰而克也。」帝從之。城陷,帝登壘以勞充。帝先歸洛陽,使充統後事,進爵宣陽鄉侯,增邑千戶。遷廷尉,充雅長法理,有平反之稱。
のちに司馬昭の大将軍司馬となり、右長史に転じた。司馬昭は朝権を新執した(晋が魏の実権を奪った)。司馬昭は、方鎮(地方の鎮台の将)がこれを快く思わないのを恐れた。そのため賈充を諸葛誕への使者に遣わし、「呉を討って下さい」と相談させつつ、ひそかに諸葛誕の変(司馬昭への本心)を観察させた。賈充は時世について諸葛誕に論じてから、問うた。
「天下はみな(魏晋の)禅代を望んでいる。あなたはどうか?」と。諸葛誕は、曆聲して曰く。「キミは賈豫州の子ではないのか。代々魏に恩を受けたのに、なぜ社稷が他人に輸ることを望むのか。もし洛陽に難があれば、私は死ぬ気だ」と。
賈充は黙っていた。洛陽に還り、司馬昭に報告した。「諸葛誕は再び揚州にあり、威名夙著(敬われ)、諸葛誕のためなら死ねるという臣を得ています。彼の規略を見るに、必ず(晋に)叛します。いま彼を征伐すれば、叛乱は速やかに収まり、小火で済みます。もし征伐しなければ、後手に回って大火事になります」
司馬昭は諸葛誕を司空にして、諸葛誕に叛乱を決行させた。復た諸葛誕征伐に従軍し、賈充は計を申し出た。「(諸葛誕が率いる)楚兵は、輕銳です(素早くて強いので、正攻法は不利です)。溝を深めて塁を高くし、賊城(寿春城)に迫れば、戦わずして勝てます」と。司馬昭は、この作戦を採用した。
寿春城が陥落すると、司馬昭は塁に登って、賈充を労った。司馬昭は先に洛陽に帰り、賈充に統後事(戦後処理の指揮)を任せた。賈充は、宣陽鄉侯になり、邑千戶を増賜された。廷尉に遷った。賈充は、雅長法理(法学に優れ)、平反之稱(平と叛のバランスをはかった)。
轉中護軍,高貴鄉公之攻相府也,充率衆距戰于南闕。軍將敗,騎督成倅弟太子舍人濟謂充曰:「今日之事如何?」充曰:「公等養汝,正擬今日,複何疑!」濟於是抽戈犯蹕。及常道鄉公即位,進封安陽鄉侯,增邑千二百戶,統城外諸軍,加散騎常侍。
賈充は中護軍に転じた。曹髦が相府(司馬昭の役所)を攻めたとき、賈充は兵を率いて、南闕で距戰した。賈充の軍が今にも敗れようとしたとき、成氏の倅弟を騎督し、太子舍人を務める成濟が、賈充に聞いた。「今日の変事はどうしたらいいですか」と。賈充は「公(司馬昭)たちがお前らを養うのは、正に今日を想定してのことだ。復た何を疑うことがあるか」と。成濟は、戈をひいて、蹕(天子の車)を犯した。 曹奐が即位に及び、賈充は安陽鄉侯に進められ、邑千二百戶を増やされた。賈充は、城外諸軍を統べ、散騎常侍を加えられた。
鐘會謀反於蜀,帝假充節,以本官都督關中、隴右諸軍事,西據漢中,未至而會死。 時軍國多事,朝廷機密,皆與籌之。帝甚信重充,與裴秀、王沈、羊祜、荀勖同受腹心之任。帝又命充定法律。假金章,賜甲第一區。五等初建,封臨沂侯,為晉元勳,深見寵異,祿賜常優於群官。
鍾会が蜀で謀反を起こしたとき、司馬昭は賈充に假節の権限を与え、本官(賈充が担当する軍)を、都督關中・隴右諸軍事とした。賈充が西の漢中に進んだときに、鍾会は叛乱を成功させずに死んだ。
軍事案件が多い時期で、朝廷の機密を、司馬昭はすべて賈充に相談した。司馬昭は賈充を信じて重んじ、裴秀・王沈・羊祜・荀勖も、同じように腹心之任を受けていた。
司馬昭はまた、賈充に法律を定めるように命じた。賈充は、金章(金印)を假に与えられ、甲第一區を賜わった。五等官が初めて建てられたとき、賈充は臨沂侯に封じられ、晋の元勲となった。深く異例の恩寵を受け、祿賜(位や物の賜り物)はつねに他の群官より優遇された。
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『晋書』列伝10より、「賈充伝」を翻訳(2)
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充有刀筆才,能觀察上旨。初,文帝以景帝恢贊王業,方傳位於舞陽侯攸。充稱武帝寬仁,且又居長,有人君之德,宜奉社稷。及文帝寢疾,武帝請問後事。文帝曰:「知汝者賈公閭也。」帝襲王位,拜充晉國衛將軍、儀同三司、給事中,改封臨潁侯。及受禪,充以建明大命,轉車騎將軍、散騎常侍、尚書僕射,更封魯郡公,母柳氏為魯國太夫人。
賈充には、刀筆才(文才)があり、上旨をよく読み取ることができた。
はじめ司馬昭は、司馬師の恢贊王業(ものすごい偉業)を、舞陽侯(司馬)攸に継承させようとしていた。だが賈充は、司馬炎を推薦した。司馬炎は寬仁で、成長しては人君の德があり、社稷を奉じられる人物であると説いた。司馬昭が病で寝込むと、司馬炎は後事について遺言を求めた。司馬昭は言った。
「お前の理解者は、賈公閭だよ」と。司馬炎が晋王になると、賈充は、晉國衛將軍を拝し、儀同三司・給事中とされ、臨潁侯に改封された。
司馬炎が皇帝になると、賈充は建明(建国)の大命によって、車騎將軍、散騎常侍、尚書僕射となり、さらに魯郡公に封じられた。賈充の母・柳氏は、魯國太夫人となった。
充所定新律既班于天下,百姓便之。詔曰:「漢氏以來,法令嚴峻。故自元成之世,及建安、嘉平之間,咸欲辯章舊典,刪革刑書。述作體大,歷年無成。先帝湣元元之命陷於密網,親發德音,厘正名實。車騎將軍賈充,獎明聖意,諮詢善道。
賈充が定めた新律は、すでに天下に班(布き伸べられ)、万民が利用した。詔に曰く。「漢代以来、法令は嚴峻になった。ゆえに(暦でいう)元成から建安・嘉平の間に及び、みな辯章舊典(古い本の正しい理解)、刪革刑書(刑のルールの改訂版)が欲しかった。述作體大(いろいろ作ってみたが)、歷年無成(なかなか出来ない)。 先帝(司馬昭)は、元元之命(民の命)を憐れんだはずが、密網(法学の袋小路)に陥った。親發德音(先帝のお気持ち)は、厘正名實(名も実も明らかにすること)だったのに。車騎將軍の賈充は、獎明聖意(先帝のお心を明らかにし)諮詢善道(ご意見をくみ取った)。
(賈充が整理してくれたおかげで、晋国は、いい法典を手に入れることが出来た)
※もう少し、詔は続きます。
太傅鄭沖,又與司空荀顗、中書監荀勖、中軍將軍羊祜、中護軍王業,及廷尉杜友、守河南尹杜預、散騎侍郎裴楷、潁川太守周雄、齊相郭頎、騎都尉成公綏荀煇、尚書郎柳軌等,典正其事。朕每鑒其用心,常慨然嘉之。今法律既成,始班天下,刑寬禁簡,足以克當先旨。昔蕭何以定律受封,叔孫通以制儀為奉常,賜金五百斤,弟子皆為郎。夫立功立事,古之所重。自太傅、車騎以下,皆加祿賞。其詳依故典。」
太傅鄭沖、司空荀顗、中書監荀勖、中軍將軍羊祜、中護軍王業、廷尉杜友、守河南尹杜預、散騎侍郎裴楷、潁川太守周雄、齊相郭頎、騎都尉成公綏荀煇、尚書郎柳軌らは、法典を正すのに協力した。朕は、いつも賈充の心遣いを鑑みるたび、つねに心が奮い立ち、功績をよみする気持ちになる。いま法律は完成し、天下に施行され始め、刑罰はゆるく、禁令はシンプルになり、古代の制度にも勝るものだ。 むかし蕭何は定律をもって受封し、叔孫通は制儀をもって奉常をなし、金五百斤を賜り、子弟はみな郎になったという。そもそも功を立てることは、古くから重んじられたことだ。太傅から車騎将軍以下、みな(法策定に関わった人は)祿賞を加える。詳細に故典どおりに恩賞を与えよ」
於是賜充子弟一人關內侯,絹五百匹。固讓,不許。
後代裴秀為尚書令,常侍、車騎將軍如故。尋改常侍為侍中,賜絹七百匹。以母憂去職,詔遣黃門侍郎慰問。又以東南有事,遣典軍將軍楊囂宣諭,使六旬還內。
この詔によって、賈充の子弟は1名が関内侯になり、絹五百匹を賜った。固辞したが、許されなかった。
後に、裴秀が尚書令に代わったが、賈充は常侍、車騎將軍に留任した。(制度上の官名である)常侍を改めて、侍中にするように尋ね、絹七百匹を賜った。 賈充は母の病気を心配して職を去った。詔して、黃門侍郎が慰問に遣わされた。東南有事(伏呉の役)のとき、典軍將軍の楊囂を賈充に遣わして、司馬炎の意志を伝えさせた。楊囂は、6旬(2ヶ月)で賈充の元から宮中に還った。
充為政,務農節用,並官省職,帝善之,又以文武異容,求罷所領兵。及羊祜等出鎮,充複上表欲立勳邊境,帝並不許。
賈充の為政・務農節用・並官省職(政治家ぶり)を、司馬炎は評価した。また賈充は、文武異容(晋の統治状態が良い)ので、罷所領兵(州郡の軍隊を撤廃)したいと考えた。 羊祜らは出鎮しており、上表して邊境で立勳したい(平定戦をやりたい)と願った。司馬炎は、羊祜の上表を許さなかった。
從容任職,褒貶在已,頗好進士,每有所薦達,必終始經緯之,是以士多歸焉。帝舅王恂嘗毀充,而充更進恂。或有背充以要權貴者,充皆陽以素意待之。而充無公方之操,不能正身率下,專以諂媚取容。
賈充は、相手の容(顔つき、様子)を見て人事を決めたので、毀誉褒貶は飛び交った。賈充は、人を推薦する(人事問題をいじくる)のがすこぶる好きで、誰かを推薦するたびに、どのように務め上げるか必ず見届けた。多くの士が、賈充の傘下に帰順した。 帝舅の王恂(王朗の孫)が、かつて賈充を批判したことがあったが、賈充は王恂を昇進させた。 あるいは、賈充に背いて權貴を要する者がいれば、賈充はみな素意をもって陽とし、その人物を待遇した。だから、賈充には公方の操がなく、率下に身を正すことが出来ず、専ら諂媚をもって取り入られた。
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