『晋書』列伝10より、「賈充伝」を翻訳(3)
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侍中任愷、中書令庾純等剛直守正,鹹共疾之。又以充女為齊王妃,懼後益盛。及氐羌反叛,時帝深以為慮,愷因進說,請充鎮關中。乃下詔曰:「秦涼二境,比年屢敗,胡虜縱暴,百姓荼毒。遂使異類扇動,害及中州。雖複吳蜀之寇,未嘗至此。誠由所任不足以內撫夷夏,外鎮醜逆,輕用其衆而不能盡其力。非得腹心之重,推轂委成,大匡其弊,恐為患未已。
侍中の任愷、中書令の庾純らは、剛直守正な性格で、賈充のやり方をしょっぱく思って反発した。賈充の娘が齊王(司馬攸)の后になったので、賈氏がますます栄えるのを懼れた。 氐羌が反叛するに及び、司馬炎は思い悩んだ。
任愷は進み出て、賈充に関中を鎮めさせて下さいと説いた。詔が下された。 「秦涼の辺境2州は、数年来、敗戦を重ね、胡虜はほしいままに暴れ、万民の荼毒だ。ついに異類(異民族)を扇動し、中原に害を及ぼした。吳蜀の寇も、ここまでは酷くなかった。 現状の人材配置は、内で夷夏を撫し、外で醜逆を鎮ずには、不充分である。用兵を軽んじ、(着任者の)実力を発揮させない、不適切な対処だった。これまで腹心の重(側近の重臣)を西方に動員せず、(並の人物を)推戴して鎮圧を任せてきた。いま大いにその弊害を匡し、(氐羌が)患いをなすことを恐れるのみである。
※詔は、まだ続きます。
每慮斯難,忘寢與食。侍中、守尚書令、車騎將軍賈充,雅量弘高,達見明遠,武有折沖之威,文懷經國之慮,信結人心,名震域外。使權統方任,綏靜西夏,則吾無西顧之念,而遠近獲安矣。其以充為使持節、都督秦涼二州諸軍事,侍中、車騎將軍如故,假羽葆、鼓吹,給第一駙馬。」朝之賢良欲進忠規獻替者,皆幸充此舉,望隆惟新之化。
私は(秦州と涼州の)受難を心配するといつも、寝食を忘れる。 侍中・守尚書令・車騎將軍の賈充は、雅量は弘高、達見は明遠で、武には折沖の威があり、文には經國の慮を持っている。彼の信は人心を結び、彼の名は域外を震わしている。方任(関中平定の任務)を権統させ、西夏を綏靜させれば、私は西顧の念(国土の西の心配事)は無くなり、遠近は平安を獲るだろう。賈充を使持節とし、都督秦涼二州諸軍事に任命する。侍中と車騎將軍は、もとのまま残す。賈充に、假羽葆・鼓吹を与え、第一駙馬を給え」と。
朝廷の賢良なる人たちは、進忠規獻(結果を出せる)後任者を待っていたので、みな賈充の抜擢を喜び、惟新の化(西方異民族への教化)が高まるのを望んだ。
充既外出,自以為失職,深銜任愷,計無所從。將之鎮,百僚餞於夕陽亭,荀勖私焉。充以憂告,勖曰:「公,國之宰輔,而為一夫所制,不亦鄙乎!然是行也,辭之實難,獨有結婚太子,不頓駕而自留矣。」充曰:「然。孰可寄懷?」對曰:「勖請行之。」俄而侍宴,論太子婚姻事,勖因言充女才質令淑,宜配儲宮。而楊皇后及荀顗亦並稱之。帝納其言。會京師大雪,平地二尺,軍不得發。既而皇儲當婚,遂不西行。詔充居本職。先是羊祜密啟留充,及是,帝以語充。充謝祜曰:「始知君長者。」
賈充は外出し、自分が職を失する(西方に出される)ことについて、任愷に深く銜(ふくむ)ところがあり、計って従わなかった。赴任するとき、百僚は夕陽亭で餞け、荀勖はプライベートに餞けた。賈充が憂いて荀勖に相談すると、荀勖は言った。「あなたは国の宰輔で、国民のために法制度を作った方だ。なぜ荒野に着任せねばならないか(行かなくて良い)。関中行きを辞退するのは実に難しい。だが、たった1つ方法がある。太子を結婚させれば、駕を頓さず、あなたは都に留まれます」と。
賈充は「その通りだ。だが、誰を頼ればよいか」と聞いた。荀勖は「私にやらせて下さい」と答えた。荀勖は俄かに(皇帝の)宴に侍り、太子(司馬遹)の婚姻のことを話題にした。荀勖は「賈充の娘は、才質令淑なので、太子妃になさいませ」と言った。楊皇后も荀勖も、並んで賈充の娘を推薦した。司馬炎は、この意見を採用した。ちょうど京師(洛陽)は大雪で、平地でも二尺(50センチ弱)積雪し、軍は出発できなかった。すでに太子は成婚し、賈充はついに関中に行かなかった。詔があり、賈充は元の職に戻った。 先に、羊祜は密かに賈充を留めるように司馬炎に提案していた。司馬炎は、洛陽に残った賈充にこのことを教えた。賈充は羊祜に感謝して言った。「はじめてキミが長者(立派な人物)であると知ったよ」
時吳將孫秀降,拜為驃騎大將軍。帝以充舊臣,欲改班,使車騎居驃騎之右。充固讓,見聽。尋遷司空,侍中、尚書令、領兵如故。
會帝寢疾,充及齊王攸、荀勖參醫藥。及疾愈,賜絹各五百匹。初,帝疾篤,朝廷屬意於攸。河南尹夏侯和謂充曰:「卿二女婿,親疏等耳,立人當立德。」充不答。及是,帝聞之,徙和光祿勳,乃奪充兵權,而位遇無替。尋轉太尉、行太子太保、錄尚書事。 咸寧三年,日蝕於三朝,充請遜位,不許。更以沛國之公丘益其封,寵倖愈甚,朝臣鹹側目焉。
孫呉の将軍、孫秀が投降したとき、賈充は驃騎大將軍になった。司馬炎は、賈充が旧くからの臣であるため、官制を改めて、車騎将軍を驃騎将軍の右(下位)にしたいと考えた(賈充が就いている職を格上げしたいと考えた)。賈充は固辞したが、許されなかった。司空に遷り、侍中・尚書令・領兵はもとのままだった。
司馬炎が寝込んだとき、賈充は齊王(司馬)攸と荀勖と、医薬を献上した。司馬炎が快癒すると、各人は各五百匹を賜った。はじめ司馬炎が病気のとき、朝廷の輿論は「後継者は司馬攸に」と傾いた。河南尹の夏侯和は賈充に言った。「あなたの2人の娘婿(衷と攸)は、親疏(現皇帝との血統の近さ)が等しい。徳のある方をお立て下さい(攸がいいですよ)」と。賈充は答えなかった。司馬炎が復帰し、この話を聞いた。夏侯和は光祿勳に降格された。賈充は兵権を奪われたが、位は替えられなかった。賈充は大尉に転任し、太子太保・錄尚書事を兼務した。咸寧三(277)年、日蝕が三朝で起こり、賈充は大尉を辞任したいと申し出たが、許されなかった。さらに沛國の公である丘は、その封土を益し、寵倖はいよいよ甚だしく、朝臣はこれを横目に見て嘆いた。
河南尹王恂上言:「弘訓太后入廟,合食于景皇帝,齊王攸不得行其子禮。」充議以為:「禮,諸侯不得祖天子,公子不得禰先君,皆謂奉統承祀,非謂不得複其父祖也。攸身宜服三年喪事,自如臣制。」有司奏:「若如充議,服子服,行臣制,未有前比。宜如恂表,攸喪服從諸侯之例。」帝從充議。
河南尹の王恂は上言した。「弘訓太后(羊氏)を入廟させ、景皇帝(羊氏の夫・司馬師)と合葬しましょう。(廟が別では、司馬師を継いだ)斉王攸が、(諸侯の)子としての礼を執り行うことができません」と。 賈充は意見した。「礼に関して、諸侯は祖天子を祀らず、公子は祖先君を祀りません。みな承祀を奉統すと言い、その父祖を奉統するとは言いません。司馬攸は3年の喪に服せばよく、臣制に則っらせれば良いでしょう」と。有司が賈充に反論して上奏した。「賈充が言うように、司馬攸に子として喪に服させ、臣制を執り行わせるというのは、前例がないことです。どうか王恂の上表をご採用なさり、司馬攸には諸侯の例で服喪をさせて下さい」と。
司馬炎は、賈充の案を採用した。
伐吳之役,詔充為使持節、假黃鉞、大都督,總統六師,給羽葆、鼓吹、緹幢、兵萬人、騎二千,置左右長史、司馬、從事中郎,增參軍、騎司馬各十人,帳下司馬二十人,大車、官騎各三十人。
孫呉を征圧する軍役のとき、詔して賈充を使持節・假黃鉞・大都督とした。賈充に6方面軍を率いさせ、羽葆・鼓吹・緹幢・兵10000人、騎2000を与えた。左右長史・司馬・從事中郎を置かせ、參軍と騎司馬をそれぞれ10人ずつ増員し、帳下の司馬を20人に、大車と官騎をそれぞれ30人とした。
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『晋書』列伝10より、「賈充伝」を翻訳(4)
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充慮大功不捷,表陳「西有昆夷之患,北有幽並之戍,天下勞擾,年穀不登,興軍致討,懼非其時。又臣老邁,非所克堪。」詔曰:「君不行,吾便自出。」充不得已,乃受節鉞,將中軍,為諸軍節度,以冠軍將軍楊濟為副,南屯襄陽。吳江陵諸守皆降,充乃徙屯項。
賈充は大功を立てて勝てないことを心配し、表陳した。「西には昆夷の患があり、北には幽並之戍があります。天下は勞擾(つかれて)、年穀不登(税収も少ない)。今は軍を起こして呉を討つ時機ではないと思います。私は老いており、呉との戦いに堪えられません」と。 詔があった。
「キミが行かないなら、オレが行く」と。賈充はやむを得ず、節鉞を受け、中軍を率い、諸軍節度となし、冠軍將軍の楊濟を副官として、南征して襄陽に駐屯した。呉の江陵などの防禦拠点は投降し、賈充は捕虜を項城に移した。
王浚之克武昌也,充遣使表曰:「吳未可悉定,方夏,江淮下濕,疾疫必起,宜召諸軍,以為後圖。雖腰斬張華,不足以謝天下。」華豫平吳之策,故充以為言。中書監荀勖奏,宜如充表。帝不從。杜預聞充有奏,馳表固爭,言平在旦夕。使及至轘轅,而孫皓已降。吳平,軍罷。帝遣侍中程鹹犒勞,賜充帛八千匹,增邑八千戶;分封從孫暢新城亭侯,蓋安陽亭侯;弟陽裏亭侯混、從孫關內侯眾增戶邑。充本無南伐之謀,固諫不見用。及師出而吳平,大慚懼,議欲請罪。帝聞充當詣闕,豫幸東堂以待之。罷節鉞、僚佐,仍假鼓吹、麾幢。充與群臣上告成之禮,請有司具其事。帝謙讓不許。
王浚が武昌を占領したとき、賈充は遣いを出して表した。「呉はまだ全てを平定しておりませんが、夏にの暑さにより、長江・淮水の湿地では、疾疫が流行ることは必至です。諸軍を召して、後図(晋の本国)にお帰し下さい。(疫病で兵を大量に失っては)張華を腰斬にしても、天下に謝るには足りません」と。
張華は、平吳の策を計画した。だから賈充は「張華を腰斬にしても」と言ったのだ。中書監の荀勖は奏し、賈充の提案をご採択下さいと言った。だが、司馬炎は認めなかった。杜預が賈充の上奏を聞き、馳せて固く争い(反対し)、旦夕(すぐに)呉を平定できると言った。使者が轘轅(地名)到ったとき、すでに孫皓は降伏していた。呉は平定され、軍備は解除された。司馬炎は、侍中の程鹹に賈充を労わせ、帛八千匹を賜い、邑八千戶を増やした。賈充の従孫の賈暢を、新城亭侯から分封し、安陽亭侯とした。賈充の弟で陽裏亭侯の賈混と、賈充の従孫で関内侯の賈衆は、戶邑を増やされた。 賈充はもともと、南伐の謀(呉を討つ思惑)はなく、固く諌めたが、用いられなかった。呉を平定が成功すると、賈充は大いに慚懼し、「私を罰して下さい」と願った。司馬炎は賈充が詣闕(クビを願う)のを聞き、予め東堂に行幸し、賈充を待った。賈充は、節鉞・僚佐を解除され、鼓吹・麾幢を返上した。賈充と郡臣は、告成の禮(統一おめでとう)を述べ、有司にそのこと(封禅の儀)をやるように具申せよと言った。司馬炎は謙譲して、許さなかった。
及疾篤,上印綬遜位。帝遣侍臣諭旨問疾,殿中太醫致湯藥,賜床帳錢帛,自皇太子宗室躬省起居。太康三年四月薨,時年六十六。帝為之慟,使使持節、太常奉策追贈太宰,加袞冕之服、綠綟綬、禦劍,賜東園秘器、朝服一具、衣一襲,大鴻臚護喪事,假節鉞、前後部羽葆、鼓吹、緹麾,大路、鑾路、轀輬車、帳下司馬大車,椎斧文衣武賁、輕車介士。葬禮依霍光及安平獻王故事,給塋田一頃。與石苞等為王功配饗廟庭,諡曰武。追贈充子黎民為魯殤公。
賈充は病が篤くなると、印綬を返上して位を退いた。司馬炎は侍臣を使わせて、賈充のぐあいを問わせ、殿中太醫に湯藥を作らせ、床帳錢帛を賜い、皇太子から宗室まで、賈充の起居を躬省(気にかけて見守った)。太康三(282)年4月、賈充は死んだ。66歳だった。司馬炎は賈充の死を慟(哀しみ)、使持節・太常に奉策させ、太宰を追贈し、袞冕の服・綠綟綬・禦劍を加え、東園秘器・朝服一具・衣一襲を加え、大鴻臚は喪事を護り、假節鉞・前後部羽葆・鼓吹・緹麾を持ち出し、大路・鑾路を轀輬車・帳下司馬大車が走り、椎斧文衣武賁・輕車介士が葬送した。霍光と安平獻王(司馬懿の弟、司馬孚)の故事に則り、葬礼がいとなまれ、塋田一頃が支給された。賈充は、石苞らとともに王功を為したため、配饗廟庭が与えられ、武とおくりなされた。賈充の子の賈黎民には、魯殤公が追贈された。
■訳語の感想
『晋書』は複数の人が書いたらしいが、「賈充伝」を担当した人は、「○○之○」という表現が好きらしい。何回も出てきました。
それは、さておき。 晋の初期の重臣にみんな共通しているんだが、制度づくりに詳しい学者系の人材が多い。唐は唐を正当化するために『晋書』を作ったが、あえて学者が多かったように脚色する唐にとってのメリットは感じられない。「五胡十六国以前の中華文化は発達しており」という宣伝になるくらいだ。大騒ぎして割り引くほどの脚色じゃない。
漢末と三国の反省を踏まえて、晋が国制を作り直そうとしていたという意気込みは、事実としてあったのだろう。とくに司馬昭は、酷薄な曹魏の国是に疑問があり、高い理想を目指したに違いない。そういうロマンチストの司馬昭と気が合ったのが、賈充だ。
賈充の手にかかれば、「先王」の時代からの法制史の整理はお手の物。賈充の本物の才能は、賈充自身もよく分かっており、「オレが法律だ」という自負があったのかも。これが、「情実人事の権化で、国を腐らせた悪臣」という賈充のイメージに繋がったんじゃないか。人物評ほど不確かなものはない。賈充の振る舞いを他人から見れば、いかに本人は論理的に正しい判断だと信じていても、快く思われなかった。
実力者たる司馬氏に重んじられたんだから、「勘違い」を非常に受けやすい立場だと言える。「偉くなるほどに腰を低くして」なんて君子ぶりは、学者殿に期待してはいけない笑
たびたび名前がチラつく、荀勖の性格は、別に検討が必要だが。
■賈皇后の誕生
八王ノ乱を導いた人として、賈皇后の評判は悪い。だが「裴頠伝」の翻訳で見たとおり、賈皇后その人には政治的な悪気などない。得た権限に対して、実力が伴わなかったという不幸と罪はあるが。そして「賈充伝」を読むに到り、賈皇后が司馬衷に嫁いだのは、外因に運命を弄ばれた結果だということも分かった。咎めちゃダメだ笑
秦州・涼州は、刺史が討ち死にを繰り返すような場所。そんな修羅場に法学者が行ったって、死を待つ以外に用事はない。任愷と庾純は、それを承知の上で、あえて提案しているんだから、確信犯だ。 彼らは「司馬攸に賈充の娘が嫁いでいて心配だ」と思って行動を起こしたのに、司馬衷にまで娘を嫁がせるきっかけを与えてしまうとは。ここまで裏目に出ると、むしろ爽快だ。
司馬攸と司馬衷の後継者問題は、賈充は中立派だろう。儒教の建前に頓着した様子はなく、2人とも賈氏の婿だ。だが夏侯和に対する司馬炎の処置を見て、組織人として司馬衷の支持に回った。それが、弘訓太后の合装事件だ。
■賈逵と賈充
賈充は、父の賈逵を反面教師としたかも。河東郡出身で、并州の異民族や高幹(袁紹の甥)に晒された。曹操に従っては弘農太守として、馬超討伐の後方支援をし、漢中での輸送任務では氐羌に悩まされた。曹休の石亭敗戦の尻拭いをさせられた。
戦に駆り出されると、心労ばかり大きい。主君に使い倒される。そう思ったに違いない。賈逵は曹操から「二千石(太守)の鑑」と言われたが、それだけ地方官として使い勝手が良かっただけ。賈充は、同じ道は御免だった。だから、関中赴任も平呉之役をイヤがった。
諸葛誕に「賈逵の子だろ」とたしなめられたが、「賈逵の子だからこそ、使われる側から使う側に周りたいのだ」と言いたかっただろう。人事問題が好きなのも、同じ理由か。
だが父子は似てしまうもので笑、賈逵が獄吏や曹彰を叱り飛ばしたり、時間に遅れた人を、過剰なまでに処罰したように、「法」に関する興味は見事に遺伝してしまったようだ笑
「法」への関心という点では同じでも、賈逵は法を守ることに重点を置いたので、後世に褒められた。賈充は法を改めることに重点を置いたので、後世に誹られた。「法を守れる人は多い。法を作れる人は少ない。賈逵より賈充は貴重な人材だ」とは言いません。言いませんが、ちょっと評価が両極端で不当かも知れません。080721
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