三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
『晋書』列伝10より、「賈謐伝」他賈氏を翻訳(1)
列伝10は、メインは「賈充伝」と「楊駿伝」なんですが、オマケがついてます。
賈充の嫉妬深い妻、郭槐(女性)。賈充の前妻で、父の李豊に連座した李氏(女性)。賈謐の娘で、夜這いを招き入れた賈午(女性)。賈午の夫で、若くイケメンの韓寿(男性)。賈午と韓寿の子で、賈充を継いだ豪遊好きの賈謐(男性)。賈充の子孫の暗い運命を予見させるような逸話。賈充の從子で、裴秀と裴頠に政治を委任して評判が良い、賈模(男性)。賈皇后の從舅で、賈謐とともに「賈郭」と呼ばれた郭彰(男性)。
『晋書』の順番に準じて、訳してゆきます。

充婦廣城君郭槐,性妒忌。初,黎民年三歲,乳母抱之當閣。黎民見充入,喜笑,充就而拊之。槐望見,謂充私乳母,即鞭殺之。黎民戀念,發病而死。後又生男,過期,複為乳母所抱,充以手摩其頭。郭疑乳母,又殺之,兒亦思慕而死。充遂無胤嗣。及薨,槐輒以外孫韓謐為黎民子,奉充後。郎中令韓咸、中尉曹軫諫槐曰:「禮,大宗無後,以小宗支子後之,無異姓為後之文。無令先公懷腆後土,良史書過,豈不痛心。」槐不從。

賈充の妻は、廣城君の郭槐で、性格は妬忌だった。はじめ、(賈充と郭槐の長男)賈黎民が3歳のとき、乳母に抱かれて閣にいた。賈黎民は視界に賈充が入ったので、喜んで笑った。賈充は、賈黎民をなでた。郭槐は遠くからこれを見て、賈充が乳母と私通していると言い、乳母を鞭で殺した。賈黎民は乳母を恋しく思い、発病して死んでしまった。のちに賈充と郭槐の間に男子ができたが、時が過ぎ、また乳母に抱かれていて、賈充が頭を撫でた。郭槐は乳母を疑い、また殺した。男児はまた乳母を思慕して、死んだ。こんな調子なので、賈充はついに胤嗣(男子の跡継ぎ)がいなかった。
賈充が死ぬと、郭槐は外孫の韓謐を、(死んだ)賈黎民の養子にして、賈充の後を継がせた。郎中令の韓咸と、中尉の曹軫は、郭槐を諌めて言った。
「礼経には、『大宗(当主)が死んだ後、小宗(本家の年少者)か支子(分家の子)に後を継がせよ。異姓養子はいけない』と書いてある。先公の懷腆后土を無くさせてはいけない。良き史書を過てば、なぜ心が痛くないことがあろうか」と。郭槐は従わなかった。


鹹等上書求改立嗣,事寢不報。槐遂表陳是充遺意。帝乃詔曰:「太宰、魯公充,崇德立勳,勤勞佐命,背世殂隕,每用悼心。又胤子早終,世嗣未立。古者列國無嗣,取始封支庶,以紹其統,而近代更除其國。至於周之公旦,漢之蕭何,或豫建元子,或封爵元妃,蓋尊顯勳庸,不同常例。太宰素取外孫韓謐為世子黎民後。吾退而斷之,外孫骨肉至近,推恩計情,合于人心。其以謐為魯公世孫,以嗣其國。自非功如太宰,始封無後如太宰,所取必以己自出不如太宰,皆不得以為比。」

嗣子を賈謐から別の者に改めるように上書があったが、放置されて報いられなかった。郭槐はついに「賈謐に継がせたのは、夫・賈充の遺志です」と表して陳べた。司馬炎は詔した。
「太宰(太師)で魯公の賈充は、崇德立勳(手柄があり)勤勞佐命(晋を助けたが)背世殂隕(死んだので)每用悼心(痛ましい)。また男子が早世してしまい、いまだ嗣子が立っていない。古代、列国で嗣子がなければ、分家や庶流から養子にして継がせた。だが近年は、嗣子がないと国を取り潰す。
周の公旦や漢の蕭何は、予め太子を建てたり、正妻を封爵したりした。公旦も蕭何も、尊顯勳庸な人物だが、彼らは例外である。
賈充はもとより、外孫・賈謐を長男・賈黎民の跡取りとして置いていた。私は退いてこれを断ち、外孫は骨肉至近(血が濃く)、恩を推し情を計り、人心に合わす。賈謐を、賈充の嗣孫として、魯国を継がせよ。もし賈充のような功績がないのに、賈充のように嗣子がいなければ、賈充のような特例は認めない。誰もが今回のようなことはできない(嗣子がいなければ取り潰しだ)」


及下禮官議充諡,博士秦秀議諡曰荒,帝不納。博士段暢希旨,建議諡曰武,帝乃從之。自充薨至葬,賻賜二千萬。惠帝即位,賈後擅權,加充廟備六佾之樂,母郭為宜城君。及郭氏亡,諡曰宣,特加殊禮。時人譏之,而莫敢言者。

礼官に賈充のおくりなを議論するように命令が下ったとき、博士の秦秀は「荒」を提案したが、司馬炎は却下した。博士の段暢が、「武」を建議したので、司馬炎は認めた。賈充の葬儀が行われ、二千萬が贈賜された。
司馬衷が即位し、賈皇后は権勢を擅(ほしいまま)にすると、賈充の廟には六佾之樂がさらに供えられ、(賈皇后の)母の郭氏は「宜城君」と呼ばれた。郭氏が死ぬと、「宣」とおくりなされ、特別な礼を加えられた。当時の人はこれをそしったが、敢えて言うものはいなかった。

初,充前妻李氏淑美有才行,生二女褒、裕,褒一名荃,裕一名浚。父豐誅,李氏坐流徙。後娶城陽太守郭配女,即廣城君也。武帝踐阼,李以大赦得還,帝特詔充置左右夫人,充母亦敕充迎李氏。郭槐怒,攘袂數充曰:「刊定律令,為佐命之功,我有其分。李那得與我並!」充乃答詔,托以謙沖,不敢當兩夫人盛禮,實畏槐也。而荃為齊王攸妃,欲令充遣郭而還其母。

はじめ賈充の妻は、李氏だった。淑美で才行があり、2人の女児を産んだ。賈褒、賈裕である。賈褒はまたの名を荃といい、賈裕はまたの名を浚という。父の李豊が(司馬師に)誅されると、李氏は連座して流罪になった。 のちに賈充は、城陽太守の郭配の娘を娶った。(前述の嫉妬深い)廣城君(郭槐)である。
司馬炎が即位すると、李氏は大赦を得て、還って来られた。司馬炎は特別に詔して、賈充に2名の夫人を置くように命じた。賈充の母も、李氏を迎えようと言った。郭槐は(嫉妬して)怒り、賈充のたもとをつかんで言った。「(あんたは)律令を刊定し、佐命の功を成し遂げた。私の内助の功のおかげだよ。李氏が今さら帰ってきて、良い目を見ようなんて許せないよ」と。賈充は詔に「ご遠慮申し上げます。私などの人物が、2名の夫人を立てるなど畏れ多いことです」と返事した。じつは郭槐を畏れたのである。
(賈充と李氏の娘)賈荃は、斉王(司馬)攸の妃になり、賈充に「郭槐を遠ざけて、私のお母さん(李氏)と復縁して下さい」と願い出た。


時沛國劉含母,及帝舅羽林監王虔前妻,皆毌丘儉孫女。此例既多,質之禮官,俱不能決。雖不遣後妻,多異居私通。充自以宰相為海內準則,乃為李築室於永年裏而不往來。荃、浚每號泣請充,充竟不往。
會充當鎮關右,公卿供帳祖道,荃、浚懼充遂去,乃排幔出於坐中,叩頭流血,向充及群僚陳母應還之意。衆以荃王妃,皆驚起而散。充甚愧愕,遣黃門將宮人扶去。既而郭槐女為皇太子妃,帝乃下詔斷如李比皆不得還,後荃恚憤而薨。


沛國出身の劉含の母と、帝舅(司馬炎の母の親族)で羽林監を務める王虔の前妻は、2人とも毌丘倹の孫娘だった。こういう(司馬氏に叛乱した重臣の娘が、返り咲いている)例はすでに多かった。賈充が礼官に「これは許されることか」と問いただしても、結論は出なかった。
賈充は、後妻(郭氏)を遠ざけなかったが、別居していることが多かった。賈充は、自分が宰相であるので、海内(国)のために、率先して規則や秩序を守った。賈充は、(叛臣の娘)李氏のために屋敷を建築したが、永年のあいだ往来はしなかった。
(賈充と李氏の娘)賈荃と賈浚とは、号泣して「お母さんを戻してほしい」と賈充に請うたが、賈充は最期まで迎えに行かなかった。
賈充が関中への出鎮を命じられたとき、公卿は祖道を供帳した。賈荃と賈浚は、賈充が(敗戦して)二度と帰って来れないことを畏れた。排幔出に及び、坐中(賈充の壮行会)で、叩頭流血して、賈充と群僚に向かって「母をお戻し下さい」と陳情した。群僚たちは、賈荃が王妃なのに(このように流血して嘆願するので)驚いて立ち上がり、(係わり合いを恐れて)退散した。賈充はとても愧じ驚いた。黃門將の宮人に助けさせ、娘を宮殿に帰らせた。
郭槐の娘(南風)が皇太子(司馬衷)妃になると、司馬炎は詔した。「李氏のような(逆臣の血縁者は)他の例に照らしても、還って来させてはいけない」と。これを聞いた賈荃は、恚憤して死んだ。
『晋書』列伝10より、「賈謐伝」他賈氏を翻訳(2)
初,槐欲省李氏,充曰:「彼有才氣,卿往不如不往。」及女為妃,槐乃盛威儀而去。既入戶,李氏出迎,槐不覺腳屈,因遂再拜。自是充每出行,槐輒使人尋之,恐其過李也。初,充母柳見古今重節義,竟不知充與成濟事,以濟不忠,數追罵之。侍者聞之,無不竊笑。及將亡,充問所欲言,柳曰:「我教汝迎李新婦尚不肯,安問他事!」遂無言。及充薨後,李氏二女乃欲令其母祔葬,賈後弗之許也。及後廢,李氏乃得合葬。李氏作《女訓》行於世。

以前より郭槐は、李氏を亡き者にしたいと思っていた。(それを感じ取った)賈充は郭槐に言った。「李氏には才気がある。あんたは、往かないより往く方が良い(うちから出て行ってくれ)」と。郭槐の娘が皇太子妃になると、郭槐の威儀は盛んになって、賈充の家を出た。郭槐が入戸(賈充を訪問)したとき、李氏が出迎えたので、郭槐は思わず膝が砕け、再拜した。このことがあってから、賈充は外出するたび、「郭槐が李氏を過(殺して)はいないだろうか」と尋ねた。
賈充の母の柳(名前)は、古今に詳しく、節義を重んじたが、ずっと賈充と成済の繋がりを知らなかった。賈充母は、成済の(曹髦を殺した)不忠を、何度も何度も罵っていた。これを聞いた侍者は、(あんたの子の差し金だよ、と)ひそかに笑わない人はなかった。
母が今にも死にそうになったとき、賈充は「言い残すことはありませんか」と問うた。母は「私はあなたに、李氏を迎えるように口を酸っぱくして言ってきた。だが新婦(郭氏)が許さなかった。李氏のことの他に、言い残すことなんてあるかい」と言って、事切れた。
賈充の死後、李氏の2人の娘は、母を合葬したいと願い出たが、(郭氏の娘)賈皇后は許さなかった。賈皇后が拝されると、李氏はやっと賈充と合葬された。李氏は『女訓』を著した。この本は、世に出回っている。

謐字長深。母賈午,充少女也。父韓壽,字德真,南陽堵陽人,魏司徒暨曾孫。美姿貌,善容止,賈充辟為司空掾。充每宴賓僚,其女輒於青鎖中窺之,見壽而悅焉。問其左右識此人不,有一婢說壽姓字,雲是故主人。女大感想,發於寤寐。婢後往壽家,具說女意,並言其女光麗豔逸,端美絕倫。壽聞而心動,便令為通殷勤。婢以白女,女遂潛修音好,厚相贈結,呼壽夕入。壽勁捷過人,逾垣而至,家中莫知,惟充覺其女悅暢異于常日。

賈謐はあざなを長深という。母は賈午で、賈充の次女(母は郭槐)である。父は韓寿で、あざなは德真といい、(荊州)南陽郡の堵陽県の人で、魏の司徒だった韓暨の曾孫である。 
※『三国志』によれば、韓暨は、袁術や劉表の招聘を拒んだ人物。系図にするとは、術-純-暨-繇-洪-寿-謐となる。
韓寿は姿貌が美しく、容止が善かったので、賈充は辟召して、司空掾にした。
賈充が賓僚(賓客や役人)と宴をするときはいつも、賈充の娘たちは宴会の様子を伺っていた。賈午は、韓寿を見初めた。左右の人に、あの(カッコいい人は誰か)と聞いたが、答えられる人がいなかった。だが1人の婢が韓寿の姓名を知っていたので、賈午に教えた。賈午は大いに韓寿のことを想い、寤寐(寝ても冷めても)発情した。
婢がのちに韓寿の家に仕えたとき、つぶさに 賈午の恋心を伝え、並べて「賈午さまは、光麗豔逸・端美絕倫な女性です」と告げた。韓寿はこれを聞いて心を動かされ、作法に則って簡素な手紙を送らせた。婢が韓寿の伝言を賈午にすると、賈午は潜修音好(こっそり文通し)、厚相贈結(心が通じ合ったので)、韓寿を夕入(夜)に呼んだ。
韓寿は、人よりも勁捷(強くて素早い)で、垣根を飛び越えて賈充の屋敷に入った。だが家中に韓寿の顔を知る人はなく、ただ賈充が、娘がいつも悅暢(熱を入れている)奴だと覚えているだけだった。

時西域有貢奇香,一著人則經月不歇,帝甚貴之,惟以賜充及大司馬陳騫。其女密盜以遺壽,充僚屬與壽燕處,聞其芬馥,稱之於充。自是充意知女與壽通,而其門閣嚴峻,不知所由得入。乃夜中陽驚,托言有盜,因使循牆以觀其變。左右白曰:「無餘異,惟東北角如狐狸行處。」充乃考問女之左右,具以狀對。充秘之,遂以女妻壽。壽官至散騎常侍、河南尹。元康初卒,贈驃騎將軍。

西域から貢ぎ物の奇香が届いたとき、この奇香は時が経っても香りがなくならないと言った人がいたので、司馬炎は奇香をとても貴重に思い、賈充と大司馬の陳騫に賜った。賈午はひそかに奇香を盗み(自分に焚き付けていたので)韓寿に香りが残った。
賈充が僚属と韓寿とゆったりくつろいでいたとき、芬馥(奇香のよい香り)がしたので、賈充は指摘した。これにより賈充は、賈午と韓寿が通じていることを知った。賈充は自邸の門閣を嚴峻に固め、韓寿が夜這いできないようにした。
夜中に騒ぎがあり、盗人だと声が上がった。壁を見回らせ、変事を明らかにしようとした。左右の人は「異常ありません。ただ東北に、狐狸が出ただけです」と報告した。賈充は、賈午に仕える者に呼び出し、くれぐれも口外するなと命じた。賈充は、夜這いがあったことを揉み消し、賈午を韓寿に嫁がせた。韓寿の官は、散騎常侍、河南尹にまで登った。韓寿は、291年に死に、驃騎將軍を贈られた。

謐好學,有才思。既為充嗣,繼佐命之後,又賈後專恣,謐權過人主,至乃鎖系黃門侍郎,其為威福如此。負其驕寵,奢侈逾度,室宇崇僭,器服珍麗,歌僮舞女,選極一時。開閣延賓。海內輻湊,貴游豪戚及浮競之徙,莫不盡禮事之。或著文章稱美謐,以方賈誼。
渤海石崇歐陽建、滎陽潘岳、吳國陸機陸雲、蘭陵繆征、京兆杜斌摯虞、琅邪諸葛詮、弘農王粹、襄城杜育、南陽鄒捷、齊國左思、清河崔基、沛國劉瑰、汝南和郁周恢、安平牽秀、潁川陳某、太原郭彰、高陽許猛、彭城劉訥、中山劉輿劉琨皆傅會於謐,號曰二十四友,其餘不得預焉。


賈謐は、学を好み、才思があった。賈充の後嗣となり、佐命の任を継いだ。賈皇后が專恣(好き放題)しており、賈謐の権限は皇帝よりも大きかった。 賈謐は、(独断で)黃門侍郎を鎖に繋ぐ(処罰する)ことができ、彼の威福はこんな調子だった。賈皇后からの驕寵を後ろ盾に、奢侈は度を越え、屋敷は崇僭(臣下にあるまじき豪華さ)で、器服は珍麗、歌僮舞女は最も旬の者を選んだ。開閣延賓した(自宅で盛大にパーティをした)。国中から人が輻湊(押し寄せた)。豪戚(豪族や外戚)および浮競(享楽的な)人たちは貴游(豪遊)し、礼を尽してこれに従わない人はいなかった。ある人は、賈謐を賞賛する文章を表し、賈謐を「賈誼」と書いた。 ※字形が似ていて、より良い意味の漢字に置き換えた。
(個人名は省略するので原文参照)賈謐の支持者たちは、二十四友と呼ばれ、他にも数え切れない取り巻きがいた。


曆位散騎常侍、後軍將軍。廣城君薨,去職。喪未終。起為秘書監,掌國史。先是,朝廷議立晉書限斷,中書監荀勖謂宜以魏正始起年,著作郎王瓚欲引嘉平已下朝臣盡入晉史,于時依違未有所決。惠帝立,更使議之。謐上議,請從泰始為斷。於是事下三府,司徒王戎、司空張華、領軍將軍王衍、侍中樂廣、黃門侍郎嵇紹、國子博士謝衡皆從謐議。騎都尉濟北侯荀畯、侍中荀籓、黃門侍郎華混以為宜用正始開元。博士荀熙、刁協謂宜嘉平起年。謐重執奏戎、華之議,事遂施行。

賈謐は、散騎常侍、後軍將軍を経験した。(賈充の妻)廣城君が死ぬと、(服喪のため)職を去った。喪が明ける前に、秘書監となり、國史を掌握した。
これより先に、朝廷は『晋書』を制作にあたり、時代の分け方の議論があった。中書監の荀勖は、魏の正始年間(曹芳即位)を晋が起こった年とせよと言った。著作郎の王瓚は、嘉平年間(司馬懿のクーデター)以降の朝臣を、(『魏書』ではなく)『晋書』に入れよと言った。このときは、まだ結論が出なかった。
恵帝が即位し、またこの議題を検討させた。賈謐は上議し、泰始年間(司馬炎の襲位)で区切りましょうと言った。このテーマは三府に下され、司徒の王戎、司空の張華、領軍將軍の王衍、侍中の樂廣、黃門侍郎の嵇紹、國子博士の謝衡らは、賈謐の意見に従った。
騎都尉で濟北侯の荀畯、侍中の荀籓、黃門侍郎の華混は(かつての荀勖と同じ)正始年間を主張した。博士の荀熙、刁協は(かつての王瓚と同じ)嘉平を主張した。賈謐はかさねて(三公の)王戎と張華に執奏(諒解を取り)、ついに(賈謐が推す泰始年間で)決着が付いた。
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