『晋書』列伝10より、「賈謐伝」他賈氏を翻訳(3)
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尋轉侍中。領秘書監如故。謐時從帝幸宣武觀校獵,諷尚書于會中召謐受拜,誡左右勿使人知,於是衆疑其有異志矣。謐既親貴,數入二宮,共湣懷太子游處,無屈降心。常與太子弈棋爭道,成都王穎在坐,正色曰:「皇太子國之儲君,賈謐何得無禮!」謐懼,言之於後,遂出穎為平北將軍,鎮鄴。
賈謐は侍中に転じ、領秘書監はそのままとされた。賈謐が、恵帝の行幸に従って、宣武觀校獵に赴いたとき、恵帝は尚書を通じて、會中に賈謐を召した。恵帝は、「取り巻きの連中を用いるのはやめよ」と、賈謐を戒めた。この一件で、衆人は賈謐の有異志(特別の権勢)を疑うようになった。
すでに賈謐の権勢は、親貴(皇帝の血縁でとうとく)、一族を2名も皇室に送り込み、恵帝にも遠慮がなかった。いつも司馬遹と囲碁で道を争い、成都王(司馬)頴が同席したとき、「皇太子は国の儲君だ。賈謐はなんと無礼なのか」と気色ばんで叱った。賈謐は懼れ、賈皇后に告げ口したため、司馬頴は平北將軍として、鄴城に出鎮させられた。
及為常侍,侍講東宮,太子意有不悅,謐患之。而其家數有妖異,飄風吹其朝服飛上數百丈,墜於中丞台,又蛇出其被中,夜暴雷震其室,柱陷入地,壓毀床帳,謐益恐。及遷侍中,專掌禁內,遂與後成謀,誣陷太子。及趙王倫廢後,以詔召謐於殿前,將戮之。走入西鐘下,呼曰:「阿後救我!」乃就斬之。韓壽少弟蔚有器望,及壽兄鞏令保、弟散騎侍郎預、吳王友鑒、謐母賈午皆伏誅。
賈謐は常侍になるに及び、侍講東宮(皇太子の教師)となった。司馬遹が喜ばなかったので、賈謐はこれを恨んだ。そのため、賈謐の家には多くの妖異現象が起こった。飄風が吹いて、賈謐の朝服を数百丈(1丈=2.3メートル)も飛ばし、中丞台に墜ちた。また賈謐の朝服の中から、蛇が出てきた。夜には暴雷が賈充の屋敷を振るわし、柱は折れて地に落ち、床帳が柱の重みで壊れた。賈謐はますます恐れた。
侍中に遷り、賈謐は禁內を一手に掌握し、ついに賈皇后と謀略を成して、司馬遹を誣陷(ハメた)。趙王(司馬)倫は賈皇后を廃し、詔を発して賈謐を殿前に召し、殺そうとした。賈謐は西鐘下に走り入り、呼んだ。「阿后、お助け下さい」と。間をおかずに賈謐は斬られた。 韓寿の幼い弟・韓蔚は、才気を望まれた。韓蔚と、韓寿の兄で鞏令の韓保、その弟で散騎侍郎の韓預は、呉王と親交があったが、賈謐の母である賈午とともに、皆殺しにされた。
初,充伐吳時,嘗屯項城,軍中忽失充所在。充帳下都督周勤時晝寢,夢見百餘人錄充,引入一逕。勤驚覺,聞失充,乃出尋索,忽睹所夢之道。遂往求之。果見充行至一府舍,侍衛甚盛。府公南南坐,聲色甚曆,謂充曰:「將亂吾家事,必爾與荀勖,既惑吾子,又亂吾孫。間使任愷黜汝而不去,又使庾純詈汝而不改。今吳寇當平,汝方表斬張華。汝之暗戇,皆此類也。若不悛慎,當旦夕加罪。」
かつて賈充は、呉を伐つとき、項城に駐屯し、軍中には賈充の居場所が分からない人はいなかった。帳下都督の周勤が昼寝をしているとき、夢を見た。100余人が賈充を録し、賈充を小径に引き入れていた。周勤は驚いて目覚め、賈充が行方不明になったと聞き、捜索に出たが、夢で見た小径は見つからなかった。
そのころ賈充は、ある府舍に迷い込んだ。府舎の侍衛たちは、大騒ぎをしていた。府舎の主人は、(皇帝のように)南を向いて座り、声色を荒げて賈充に言った。
「今にも私の一族が乱れようとしている。必ずお前と荀勖は、我が子を惑わし、私の孫を乱すだろう。任愷を操って(関中に)お前を行かせようとしたが行かず、庾純を操ってお前を罵らせたが、行いが改善されない。いま呉を平定しようというのに、お前は(呉を討つ作戦を立てた)張華を斬れと、上表しようとしている。お前が間違っているのは、こんな調子だ。もし悛慎(悔い改め)なければ、すぐにでも罪を加えるぞ!」
充因叩頭流血,公曰:「汝所以延日月而名器如此者,是衛府之勳耳。終當使系嗣死于鐘虡之間,大子斃于金酒之中,小子困於枯木之下。荀勖亦宜同,然其先德小濃。故在汝後,數世之外,國嗣亦替。」言畢,命去。充忽然得還營,顏色憔悴,性理昏喪,經日乃複。及是,謐死于鐘下,賈後服金酒而死,賈午考竟用大杖。終皆如所言。
賈充は叩頭して流血した。府公は言った。
「お前が今日まで立ててきた功績は、全て衛府のものだ(賈充に功績はない)。終末のときは、お前の系嗣を鐘虡(神獣の銅像)の間(部屋)で殺してやる。成長した子女は、金酒の中に倒して毒殺し、幼い子女は、枯木の下で餓死させてやる。荀勖も同じ目に遭わせる。お前らの子孫の徳は、太く短いぞ。数代だけ栄えた後は、当主がころころ替わる」と。言い終わると、府公は消え去った。
賈充は忽然として、もといた営舎に戻っていた。顔色は憔悴し、性理は昏喪していたが、日が経って回復した。こういうわけで、賈謐は鐘下で死に、賈皇后は金酒を服毒して死んだ。賈午の考えは、大杖を用いる(男に頼る)だけに終わった。
賈充の子供たちの最期は、府公の言ったとおりになった。
趙王倫之敗,朝廷追述充勳,議立其後。欲以充從孫散騎侍郎眾為嗣,眾陽狂自免。以子禿後充,封魯公,又病死。永興中,立充從曾孫湛為魯公,奉充後,遭亂死,國除。泰始中,人為充等謠曰:「賈、裴、王,亂紀綱。王、裴、賈,濟天下。」言亡魏而成晉也。
趙王司馬倫が敗れると、朝廷は賈充の勲功を考慮して、後継者を誰にするか検討した。賈充の從孫で、散騎侍郎の賈衆が候補になったが、賈衆は陽狂(狂人のふりをして)辞退した。そこで、賈衆の子・賈禿に継がせて、魯公に封じたが、病死した。永興年間(304-306)に、賈充の從曾孫である賈湛を魯公にして継がせたが、乱に遭って死んだため、封国は除かれた。
泰始年間(265-274)に賈充らを童謡が歌った。「賈氏・裴氏・王氏が紀綱を乱し、賈氏・裴氏・王氏がが天下を済(すくう)」と。これは、魏が滅びて晋が立つという、予兆だったのだ。
充弟混,字宮奇,篤厚自守,無殊才能。太康中,為宗正卿。曆鎮軍將軍,領城門校尉,加侍中,封永平侯。卒,贈中軍大將軍、儀同三司。
充從子彝、遵並有鑒裁,俱為黃門郎。遵弟模最知名。
模字思範,少有志尚。頗覽載籍,而沈深有智算,確然難奪。深為充所信愛,每事籌之焉。充年衰疾劇,恆憂己諡傳,模曰:「是非久自見,不可掩也。」起家為邵陵令,遂曆事二宮尚書吏部郎,以公事免,起為車騎司馬。豫誅楊駿,封平陽鄉侯,邑千戶。及楚王瑋矯詔害汝南王亮、太保衛瓘,詔使模將中騶二百人救之。
賈充の弟、賈混は、あざなを宮奇といった。篤厚自守(おとなしく)無殊才能(凡庸だった)。以下略!
賈充の從子、賈彝と賈遵は、鑒裁(みどころ)があり、黃門郎になった。賈遵の弟の、賈模が最も有名だった。
賈模は、あざなを思範という。幼くして志尚があった。載籍に詳しく、沈深して智算があり、確かな解決能力があった。賈充に深く信愛され、韓寿にいつも仕えた。賈充は老衰して病が重くなると、つねに賈模は心配して、賈謐に伝えた。賈模曰く、
「是非(賈充の容態)はもう明らかです。治癒は見込めません」と。邵陵令から起家し、二宮尚書吏部郎になった。これを罷免になり、車騎司馬となった。楊駿の誅殺に参与し、平陽鄉侯に封じられ、邑千戶を与えられた。楚王(司馬)瑋が、詔を偽って汝南王(司馬)亮を害そうとしたとき、太保の衛瓘は、詔で賈模に中騶200人率させ、司馬倫を救わせた。
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『晋書』列伝10より、「賈謐伝」他賈氏を翻訳(4)
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是時賈後既豫朝政,欲委信親黨,拜模散騎常侍,二日擢為侍中。模乃盡心匡弼,推張華、裴顗同心輔政。數年之中,朝野寧靜,模之力也。乃加授光祿大夫。然模潛執權勢,外形欲遠之,每有啟奏賈後事,入輒取急,或托疾以避之。至於素有嫌忿,多所中陷,朝廷甚憚之。加貪冒聚斂,富擬王公。但賈後性甚強暴,模每盡言為陳禍福,後不能從,反謂模毀己。於是委任之情日衰,而讒間之徒遂進。模不得志,憂憤成疾。卒,追贈車騎將軍、開府儀同三司,諡曰成。子遊字彥將嗣,曆官太子侍講、員外散騎侍郎。
賈皇后が実権を握ったとき、政治を委ねようと、身内や与党を信任した。賈模は散騎常侍を拝したが、畏れ多いとして2日後に侍中となった。賈模は、心を尽して政治を助け、張華・裴頠を推戴して、心を合わせて輔政した。数年間は朝野は寧靜だったが、これは賈模の力である。光祿大夫を加えられた。 しかし賈模は、權勢を潛執し(ひかえめ)で、見た目は、政治から遠ざかっている容子でありたかった。賈皇后から政治について諮問を受けると、急いで入朝して片付けるか、病だと偽って協力を避けた。賈模が、不機嫌になると、多くの人はひどい目に遭ったので、朝廷は賈模を憚った。がめつく蓄財したので、富は王公に並んだ。
だが、賈皇后の気性はとても強暴で、賈模が諭しても、聞く耳をもたず、かえって賈模の悪口を言った。賈皇后から賈模への信頼の情は、日ましに衰え、讒間の徒(嫌われ者)になってしまった。賈模は志を得ず、憂憤して病死した。車騎將軍・
開府儀同三司を追贈され、おくりなは成。
子は賈遊で、あざなは彥將と言った。賈模を継ぎ、太子侍講、員外散騎侍郎を務めた。
郭彰,字叔武,太原人,賈後從舅也。 與賈充素相親遇,充妻待彰若同生。曆散騎常侍、尚書、衛將軍,封冠軍縣侯。及賈後專朝,彰豫參權勢,物情歸附,賓客盈門。世人稱為「賈郭」,謂謐及彰也。卒,諡曰烈。
郭彰は、あざなを叔武といい、太原郡の人。賈皇后の從舅である。
賈充ともとより通婚しており、賈充の妻は、郭彰を同生のように待遇した。散騎常侍、尚書、衛將軍を歴任し、冠軍縣侯に封じられた。賈皇后の専政におよび、郭彰は権勢を振るい、物情(財産と人心)は彼のもとに集まり、賓客は門を溢れた。当時の人が口にした「賈郭」とは、賈謐と郭昭のことである。死ぬと、烈とおくりなされた。
■翻訳後の感想
賈充に男子がいなかったのは、最低でも2名以上が、後妻に「殺され」たからだったのか!皇帝を殺した賈充に、世間の目は冷たいですが、彼も家では苦労してたんだ。言い訳にならんが。
賈謐を異姓養子にねじこんだのは、自分の過失を、世間に暴かれるのを嫌がったからだろう。もしこれで、賈充ほどの功績のある家が断絶したら、誰もが「なんで?なんで?」と詮索するに決まっている。
李氏いびりは、醜さが極致。司馬攸に嫁いだのは、才気ある李氏の子。司馬衷に嫁いだのは、郭槐の子。夫が夫ならば、妻も妻です。さらに言うなら、妻の母も妻の母です。 賈充に「どっちが即位しても、あなたから見て血の濃さは同じ」とコメントしていた人がいた。夏侯和だっけな。確かに他人から見たらそうだが、本人にしてみれば、李氏の娘が可愛いに決まってるよ。「外戚」として繁栄を期待するにも、断然に司馬攸をプッシュしたかったでしょう。賈充は夏侯和には返事をしなかったが、心の中では前妻と後妻が戦っていたのかも。1人で勝手に修羅場になってた。
司馬炎が「李氏は還ってくるな」と詔したのは、李氏が悪いんじゃなく、司馬攸の勢いを殺ぐためだ。我が子可愛さだね。李氏は悪くない。李氏の娘たちは、本当に不幸でした。
■夜這いを書き留める正史
賈午のラブロマンスを、訳させられるとは想わなかった。無粋そうな賈充が、香りをきっかけに娘の逢引を知るなんて、これが『晋書』の小説ぶりか。魏帝・曹髦と渡り合って圧勝した賈充が、イケメンで身の軽い韓寿に、出し抜かれるのは痛快だ。だが、それも「小説」を作った人の狙いだろう。手のひらの上で踊らされて、「二次創作」みたく想像を膨らますのは、どうもねえ。
最後の防衛戦で賈充を降参させた「キツネかタヌキ」は、韓寿だね。厳重な警護をかいくぐって、賈午と交わってしまったんだ。「小説」を極めるなら、そのときに賈謐を身籠ってほしいね。
賈午の容姿も美しいことになっているが、妹の賈皇后は色黒のブサイクで有名だから、怪しいものです。立場の弱い婢が、気を使わされた可能性が大きい。 もしかして韓寿は、ずっと暗がりで賈午を抱き続け、顔を知らなかった。雷の夜は、大雨を冒して会いに行っても、通してもらえなかった(ぼくの勝手な設定)。だが韓寿は、賈氏の権勢との結びつきが欲しかったから、必死に通った。 いざ結婚が公認されると、がーん、と思った。賈充がやたら慎重だったのは、「本当にいいんだな」という念押しだったりして。
■韓寿の暗殺?
韓寿と賈午は恋愛のスリルを楽しんで結ばれた。いざ結ばれると、韓寿は器量にものを言わせて、賈午は権力にものを言わせて、他の異姓と乱遊したのかも。嫉妬した賈午は、自分のことは棚に上げて、韓寿を妬んで殺してしまった(勝手な想像)。
韓寿の政治的活躍がないのは、このためかも。存命中は女遊びに夢中。ところが、本人の予定より早く命を終える羽目になった。
韓寿は、不自然に世代が下だ。韓暨を賈逵の1世代上としても、韓寿は賈午より1世代下になる。おそらく、かなり若かったはず。賈午が「まあ、かわいい」と年甲斐のない趣味で囲い込み、可愛がったという絵が見えてきた。
そもそも賈充が、自分の家の宴に韓寿を連れてきた理由も、「かわいいから」だ。つくづく美しく生まれてしまったばっかりに、運命を弄ばれた人だったね。『魏書』に列伝がある、曽祖父が泣きます。
■賈謐は自由人
賈謐の豪遊ぶりは、節操のない家庭環境のせいだろう。
こんなガキに、賈皇后という「勘違い」を許すような後ろ盾が付いたのだから、厄介だ。
だが意外なのは「賈謐伝」には、彼の得意さをアピるエピソードよりも、斜陽を匂わせるお話が多いこと。怪異現象は置いておくとしても、あのバカ恵帝に叱られたり、司馬頴に注意されたり。
賈謐は、例えば外戚・梁冀のイメージとは遠く、限定的な権力しか持っていなかったのかも。皇太子はよその血だし、賈氏を統率できる真の当主はいない。合コン部長が関の山か。
歴史討論は興味深い。特に、へつらい好きな荀勖が、晋の起点をいちばん古く設定しているところとか笑
賈謐の意見は、いちばん新しいところに境界線を引くこと。司馬氏の魏朝内での伸張について難しい議論をするよりも、明々白々なところで、スパッと切ってしまったようだ。義母の喪を破ってまでも、こんな議論がしたかったのか。 テーマそのものより、チームに分かれて戦うのが好きだったのか。「三公を味方につけたら勝ちだな」と読んで、自分は大した根拠も持たないのに「泰始がいいなあ」なんて言って。擬似権力闘争に興じた。
■賈充の子孫の予言
賈充が征呉の途上で、えらい目にあった。もう完全なる「小説」ですよ。この「小説」を作った人がうまいのが、項城には父の賈逵の祠があるという裏設定を組み込んでいること。
司馬懿が王淩を討ったときに、王淩はこの地で賈逵の祠に舞って「魏の興隆を願う気持ち、分かってくれますね」と語りかけてから死んだ。司馬懿は、賈逵と王淩が枕頭に立って、直後に死んだ(と裴注にある)。この地で、呪いをかけられたのは、良い設定ではある。
賈衆は狂人の振りをして、賈氏の正統になることを拒んだわけですが。別に呪いが怖かったわけじゃなく、さんざん前科が積み重なった家督をもらっても、得が1つもないから断ったのでしょう。 すでに彼は散騎侍郎として、官にも登っていたわけだし。朝廷は「賈充は晋に貢献したから」という、大所高所からの正当化をやってくるが、為政者がコロコロ交代するご時世に、現政権からイレギュラーな礼遇を受けることは危険なんだ。
海の日と、翌出勤日の帰宅後を使って、賈充の周りの列伝を訳しました。ひとんちの醜い家庭事情を、グチとして聞かされたような疲労感です。正史に女性問題をやたら書きたてて、わざと賈充を小人(しょうじん)に貶めたい『晋書』の編集意図のせいか。080723
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