「江統伝」を訳し、『晋書』列伝26をコンプ(1)
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江統,字應元,陳留圉人也。祖蕤,以義行稱,為譙郡太守,封亢父男。父祚,南安太守。統靜默有遠志,時人為之語曰:「嶷然稀言江應元。」與鄉人蔡克俱知名。襲父爵,除山陰令。時關隴、屢為氐、羌所擾,孟觀西討,自擒氐帥齊萬年。統深惟四夷亂華,宜杜其萌,乃作《徙戎論》。其辭曰:
江統は、あざなを応元という。陳留郡圉県の人。祖父の江蕤は義のある行いで称えられ、譙郡太守となり、亢父男に封じられた。父の江祚は、南安太守である。 江統は口数が少なかったが、遠い志があった。時の人は江統のことを、こう語った。「嶷然稀言なり、江應元」と。同郷の蔡克とともに、名を知られた。父を継ぎ、山陰令に除された。当時、関中・隴右は、氐や羌がしばしば騒ぎを起こした。孟觀は西に征伐に行って、氐族の首長・斉万年に捕えた。江統は、四夷が中華を乱すことを深く考え、涌き出るアイディアを書面に落とし、『徙戎論』を著した。江統は『徙戎論』で、以下のように論じた。
夫夷蠻戎狄,謂之四夷,九服之制,地在要荒。《春秋》之義,內諸夏而外夷狄。以其言語不通,贄幣不同,法俗詭異,種類乖殊;或居絕域之外,山河之表,崎嶇川穀阻險之地,與中國壤斷土隔,不相侵涉,賦役不及,正朔不加,故曰「天子有道,守在四夷」。禹平九土,而西戎即敘。其性氣貪婪,兇悍不仁,四夷之中,戎狄為甚。弱則畏服,強則侵叛。雖有賢聖之世,大德之君,鹹未能以通化率導,而以恩德柔懷也。當其強也,以殷之高宗而憊于鬼方,有周文王而患昆夷、獫狁,高祖困于白登,孝文軍於霸上。及其弱也,周公來九譯之貢,中宗納單于之朝,以元成之微,而猶四夷賓服。此其已然之效也。故匈奴求守邊塞,而侯應陳其不可,單于屈膝未央,望之議以不臣。是以有道之君牧夷狄也,惟以待之有備,禦之有常,雖稽顙執贄,而邊城不弛固守;為寇賊強暴,而兵甲不加遠征,期令境內獲安,疆埸不侵而已。
そもそも夷蛮戎狄は、九服の制では四夷と呼ばれ、地を荒す奴らだ。『春秋』によれば、中原に諸夏が、外縁には夷狄がいる。言語は通じず、通貨も異なり、法制や習俗も違い、人種も全然違う。絶域ノ外、山河ノ表だという人もあり、海や川や険しい山に阻まれた土地で、中原とは断絶し、交戦も交渉を持たず、労役も負担せず、改元に従わない。このため、「天子の道は四夷を守ることだ」と言う。 禹が全土を平定し、西戎に序列に加えた。性気は貪婪で、兇悍不仁、四夷の中でも戎狄は最も酷かった。弱ければ畏服し、強くなれば侵叛する。いくら中国に、賢聖ノ世や大德ノ君が現れても、教化できないので、恩徳によって懐柔した。四夷は強くなると、殷ノ高宗は北方に備え、周ノ文王は獣めに思い煩い、漢ノ高祖は白登で包囲され、漢ノ文帝は自ら出陣した。四夷が弱くなると、周公に九譯ノ貢を遣し、中宗は単于の朝貢を納め、元成ノ微により、四夷は賓服したように見えた。これがこれまでの歴史である。
かつて匈奴は、辺塞を守ることを求めたが、諸侯は許可しなかった。単于は膝を未央宮(漢政権)に屈し、不臣(対等の関係)を望んだ。これにより、有道ノ君は夷狄を従え、待遇して保護してやり、四夷が叩頭して生贄を提出しなくても、辺境の城を固い守りを緩めなかった。寇賊に強暴されても、兵甲は遠征を加えず、領域内に安全を享受させるため、境界が侵されないようにだけした。 ※膠着状態
及至周室失統,諸侯專征,以大兼小,轉相殘滅,封疆不固,而利害異心。戎狄乘間,得入中國。或招誘安撫,以為己用。故申、繒之禍,顛覆宗周;襄公要秦,遽興薑戎。當春秋時,義渠、大荔居秦、晉之域,陸渾、陰戎處伊、洛之間,鄋瞞之屬害及濟東,侵入齊、宋,陵虐邢、衛,南夷與北狄交侵中國,不絕若線。齊桓攘之,存亡繼絕,北伐山戎,以開燕路。故仲尼稱管仲之力,嘉左衽之功。逮至春秋之末,戰國方盛,楚吞蠻氏,晉翦陸渾,趙武胡服,開榆中之地,秦雄咸陽,滅義渠之等。始皇之並天下也,南兼百越,北走匈奴,五嶺長城,戎卒億計。雖師役煩殷,寇賊橫暴,然一世之功,戎虜奔卻,當時中國無複四夷也。
周王朝の正統が絶え、諸侯が専ら征めあうと(春秋時代)、大国は小国を呑みこんで中原が殺しあうと、諸侯の統治は緩まり、利害によって異心を抱いた。戎狄はこの混乱に乗じ、中原への侵入に成功した。諸侯によっては、戎狄を手なずけて兵として用いた。春秋時代、秦・晋・斉・宋・衛の領域まで、南夷や北狄が国境線を侵した。斉の桓公は異民族を北伐した。孔子が管仲の功を嘉すのは、これを助けたからである。戦国時代には、楚が蛮氏を併呑し、晉・趙・秦が国境を押し戻した。始皇帝は、百越・匈奴を討ち、長城を築いた。だが一代限りの攻勢だった。
漢興而都長安,關中之郡號曰三輔,《禹貢》雍州,宗周豐、鎬之舊也。及至王莽之敗,赤眉因之,西都荒毀,百姓流亡。建武中,以馬援領隴西太守,討叛羌,徙其餘種于關中,居馮翊、河東空地,而與華人雜處。數歲之後,族類蕃息,既恃其肥強,且苦漢人侵之。永初之元,騎都尉王弘使西域,發調羌、氏,以為行衛。於是群羌奔駭,互相扇動,二州之戎,一時俱發,覆沒將守,屠破城邑。鄧騭之征,棄甲委兵,輿屍喪師,前後相繼,諸戎遂熾,至於南入蜀漢,東掠趙、魏,唐突軹關,侵及河內。及遣北軍中候硃寵將五營士于孟津距羌,十年之中,夷夏俱斃,任尚、馬賢僅乃克之。
漢は都を長安に置き、関中を三輔と呼んだ。『禹貢』には、雍州は周の国力を受け継いだとある。王莽が簒奪し、赤眉ノ乱が起きると、長安は荒毀し、万民は流亡した。建武年間、馬援は隴西太守となり、羌を討って関中に移住させ、馮翊・河東の空き地に定着させた。漢人と異民族が雑居するようになった。数年間は大人しくしていたが、肥強をたのみ、再び漢人を苦しめた。永初の初め(107年)、騎都尉の王弘は西域に派遣され、氐・羌を徴発し、護衛をさせた。羌が反発して扇動すると、2州の戎は将守を破り、城邑を破壊した。鄧騭が遠征したが、何度も敗北した。蜀・趙・魏の地方でも叛乱がおき、河内郡が犯された。北軍中候の硃寵は、5営の兵士を率いて孟津で羌を防いだ。10年戦って、夷と漢は共倒れした。任尚・馬賢が、僅かに勝っただけだった。
此所以為害深重、累年不定者,雖由禦者之無方,將非其才,亦豈不以寇發心腹,害起肘腋,疢篤難療,瘡大遲愈之故哉!自此之後,餘燼不盡,小有際會,輒複侵叛。馬賢忸忲,終於覆敗;段穎臨沖,自西徂樂。雍州之戎,常為國患,中世之寇,惟此為大。漢末之亂,關中殘滅。魏興之初,與蜀分隔,疆埸之戎,一彼一此。魏武皇帝令將軍夏侯妙才討叛氏阿貴、千萬等,後因拔棄漢中,遂徙武都之種于秦川,欲以弱寇強國,扞禦蜀虜。此蓋權宜之計,一時之勢,非所以為萬世之利也。今者當之,已受其弊矣。
戦死者は数え切れず、国家にとって何という大きな損失か。それ以降、余燼は収まらず、小競り合いは繰り返された。(珍しく勝った)馬賢ですら、戦死した。段穎が防戦に出た。雍州の戎は、つねに国患となり、中世の寇は甚大である。漢末の乱では、関中は残滅した。魏と蜀が争い、戎をそれぞれ味方に引き入れた。曹操は、夏侯淵に1000万の氐・羌を討たせたが、魏が漢中を放棄すると、武都郡の種族は秦川に移り、魏に対抗するために蜀と結んだ。(蜀が戎を味方にしたことは)目先の勝利のためには、気の利いた作戦かも知れない。だが、万世の利ではない。いまが年貢の納めどきで、晋がその弊害を被っている。
夫關中土沃物豐,厥田上上,加以涇、渭之流溉其舄鹵,鄭國、白渠灌浸相通,黍稷之饒,畝號一鐘,百姓謠詠其殷實,帝王之都每以為居,未聞戎狄宜在此土也。非我族類,其心必異,戎狄志態,不與華同。而因其衰弊,遷之畿服,士庶玩習,侮其輕弱,使其怨恨之氣毒於骨髓。至於蕃育眾盛,則坐生其心。以貪悍之性,挾憤怒之情,候隙乘便,輒為橫逆。而居封域之內,無障塞之隔,掩不備之人,收散野之積,故能為禍滋擾,暴害不測。此必然之勢,已驗之事也。當今之宜,宜及兵威方盛,眾事未罷,徙馮翊、北地、新平、安定界內諸羌,著先零、罕並、析支之地;徙扶風、始平、京兆之氐,出還隴右,著陰平、武都之界。
そもそも関中の土は肥沃で豊かで、収穫量が多い。涇水・渭水の恵みがあり、灌漑が充実し、穀倉として万民を殷賑を謳歌している。そのため歴代の皇帝は、関中に都を定めた。戎狄を関中に居座らせて良いという話はない。戎狄と漢人は、血も心も志も違う。骨の髄まで、憎しみあっている。いま戎狄が強盛なので、彼らの貪悍な性質を露わにし、横逆している。彼らを中原の内側に住まわせては、障塞ノ隔(バリケード)がなく、戎狄は野放しだ。彼らがどれだけ暴害を働くか、予測できない。ゆえに、(北は)馮翊・北地・新平・安定郡の界内にいる諸羌を、国外に追い出すべきだ。(西は)扶風・始平・京兆にいる羌を移して隴右に還し、陰平・武都の国境を引き直すべきだ。
廩其道路之糧,令足自致,各附本種,反其舊土,使屬國、撫夷就安集之。戎晉不雜,並得其所,上合往古即敘之義,下為盛世永久之規。縱有猾夏之心,風塵之警,則絕遠中國,隔閡山河,雖為寇暴,所害不廣。是以充國、子明能以數萬之眾制群羌之命,有征無戰,全軍獨克,雖有謀謨深計,廟勝遠圖,豈不以華夷異處,戎夏區別,要塞易守之故,得成其功也哉!
道路に兵糧を蓄え、戎狄が移動するための食料は自足させ、彼らの本籍地に返し、属国として従えるべきである。戎狄が晋から離反せず、かつ本来の住処を得れば、上には古代の秩序に合致し、下には永代の和親が盛んになる。もし戎狄に漢人を狡す心があっても、国外に遠ざけて防衛すれば、被害は抑えられる。晋は国力を充実させ、群羌の命を制度で統治すれば、戦わなくても晋が威圧して勝るでしょう。華夷の居住区を分割して、国防を容易にし、どうして功を成さないのだろうか!
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「江統伝」を訳し、『晋書』列伝26をコンプ(2)
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難者曰:方今關中之禍,暴兵二載,征戍之勞,老師十萬,水旱之害,薦饑累荒,疫癘之災,劄瘥夭昏。凶逆既戮,悔惡初附,且款且畏,咸懷危懼,百姓愁苦,異人同慮,望寧息之有期,若枯旱之思雨露,誠宜鎮之以安豫。而子方欲作役起徒,興功造事,使疲悴之眾,徙自猜之寇,以無穀之人,遷乏食之虜,恐勢盡力屈,緒業不卒,羌戎離散,心不可一,前害未及弭,而後變複橫出矣。
江統を批難する人が言った。方今の関中の禍いは、暴兵を征つために老兵10万が動員されて疲弊したことだ。また、水害と干害により食べ物が無く、疫病が流行り、人民が死んだ。凶悪な逆賊はすでに殺した。逆賊の偽りの帰順を容れたことを反省し、かつ異民族への警戒を忘れてはいけない。だが、万民のことを思いやり、民族が違っても差別せず、枯木が雨露を恋しく思うように、安息を与えてやるべきだ。誠意を持って、異民族を鎮めればよい。
もし江統の提案のように移住させるとなると、民を疲悴させ、いらぬ猜疑心を呼び起こし、人々を飢えさせる。力で押さえつけようとしては、晋の統一事業は完成せず、羌戎は離散し、心は1つにならない。まず例がないほどの弊害があり、後に異民族の叛乱を招くだろう。
答曰:羌戎狡猾,擅相號署,攻城野戰,傷害牧守,連兵聚眾,載離寒暑矣。而今異類瓦解,同種土崩,老幼系虜,丁壯降散,禽離獸迸,不能相一。子以此等為尚挾餘資,悔惡反善,懷我德惠而來柔附乎?將勢窮道盡,智力俱困,懼我兵誅以至於此乎?曰,無有餘力,勢窮道盡故也。然則我能制其短長之命,而令其進退由己矣。夫樂其業者不易事,安其居者無遷志。方其自疑危懼,畏怖促遽,故可制以兵威,使之左右無違也。迨其死亡散流,離逷未鳩,與關中之人,戶皆為仇,故可遐遷遠處,令其心不懷土也。
江統は批難に答えていった。 羌戎は狡猾で、称号を勝手に名乗り、攻城野戰に明け暮れ、漢の牧守を傷害し、兵を連ね衆を集め、寒暑に晒した。いま羌戎は瓦解し、民族は崩壊し、老幼は捕虜となり、丁壯は降参し、禽獣のように離散して1つにまとまることが出来ない。こんな羌戎を尊重して資財を与え、懺悔させて更正し、徳恵を施して懐柔せよと言うのか?勢力が窮して道は絶え、智力も武力も困窮している羌戎に、この期に及んで晋軍が勝てないと懼れるのか?(以下、移住させよという持論のくり返し)
※「馬鹿で弱体化して脅威ではないが、(脅威だから)追い出せ」というのは、議論が矛盾している気がしないでもないですが笑
夫聖賢之謀事也,為之於未有,理之於未亂,道不著而平,德不顯而成。其次則能轉禍為福,因敗為功,值困必濟,遇否能通。今子遭弊事之終而不圖更制之始,愛易轍之勤而得覆車之軌,何哉?且關中之人百余萬口,率其少多,戎狄居半,處之與遷,必須口實。若有窮乏糝粒不繼者,故當傾關中之谷以全其生生之計,必無擠於溝壑而不為侵掠之害也。今我遷之,傳食而至,附其種族,自使相贍,而秦地之人得其半穀,此為濟行者以廩糧,遺居者以積倉,寬關中之逼,去盜賊之原,除旦夕之損,建終年之益。若憚暫舉之小勞,而忘永逸之弘策;惜日月之煩苦,而遺累世之寇敵,非所謂能開物成務,創業垂統,崇其拓跡,謀及子孫者也。
そもそも聖賢ノ謀というのは、事前に乱を防ぐことだ。平定したことが表に出ず、勝ったことが明らかにならないのが理想だ。次善の策は、禍いを福に転じて、闘って功を立てることである。あなたは、弊事の終結を見て、次の備えを考えていない。なぜ安易に流れて、先人の轍を踏んでしまうのか。ばーか。
関中には100余万の人口があるが、構成比は、戎狄が半数を占める。彼らを移住させると、耕作者のいない土地が余る。もし継ぐ土地がなくて窮している漢人がいたら、関中を耕させれば良い。関中を漢人で満たせば、溝壑を築かなくても、侵掠から守ることが出来るだろう。私は異民族の移動は自給させよと言った。そうすれば、秦地方の人は、(異民族が食べていた、全消費量の半分の)穀物を手に入れて食べることができ、余ったら保存すればよい。関中の食糧不足は解消され、盗賊はみるみる減少して国益となるはずだ。もし一時の小さな労力をはばかり、永逸ノ弘策を忘れるならば、日月(目先)の煩苦を惜しみ、累世ノ寇敵を遺すことと成るだろう。私たち創業の世代の功績として、金石に刻まれるだけではなく、子孫たちのためになる。
並州之胡,本實匈奴桀惡之寇也。漢宣之世,凍餒殘破,國內五裂,後合為二,呼韓邪遂衰弱孤危,不能自存,依阻塞下,委質柔服。建武中,南單于複來降附,遂令入塞,居於漠南,數世之後,亦輒叛戾,故何熙、梁槿戎車屢征。中平中,以黃巾賊起,發調其兵,部眾不從,而殺羌渠。由是於彌扶羅求助於漢,以討其賊。仍值世喪亂,遂乘釁而作,鹵掠趙、魏,寇至河南。建安中,又使右賢王去卑誘質呼廚泉,聽其部落散居六郡。鹹熙之際,以一部太強,分為三率。泰始之初,又增為四。
并州の胡族は、もとは匈奴で、桀惡ノ寇を働いた連中だ。漢の宣帝期、匈奴を凍餒殘破し、国内で5つに分割させ、後に(南北)2つに合わせた。(単于の)呼韓邪は、匈奴をまとめ切れなくなり、漢に柔服した。建武年間に、南単于は漢に降伏して、漠南に移された。数世代の後にまた叛戻したので、何熙・梁槿が征伐した。中平年間、黄巾賊が起つと、匈奴の兵を徴発したが、部衆は徴発に従わず、(漢への服属策を採っていた単于)羌渠を殺した。これにより、於夫羅が漢に助けを求めて、賊を討った。中原が喪亂すると、それに乗じて趙・魏地方を匈奴は攻め、河南に到った。建安年間、右賢王は鮮卑を去り、魏に呼廚泉を人質に差し出した。匈奴の部落は6郡に散りばめられた。そのうち1部が強くなりすぎたので、3つに分割した。泰始の初(265年)、増やして4部で管理した。
於是劉猛內叛,連結外虜。近者郝散之變,發于穀遠。今五部之眾,戶至數萬,人口之盛,過於西戎。然其天性驍勇,弓馬便利,倍於氐、羌。若有不虞風塵之慮,則並州之域可為寒心。滎陽句驪本居遼東塞外,正始中,幽州刺史毋丘儉伐其叛者,徙其餘種。始徙之時,戶落百數,子孫孳息,今以千計,數世之後,必至殷熾。今百姓失職,猶或亡叛,犬馬肥充,則有噬齧,況于夷狄,能不為變!但顧其微弱勢力不陳耳。
ここにおいて劉猛が中原の内側で叛乱し、外の異民族と連結した。最近では、郝散の事変が、穀遠で起きた。いま匈奴の5部の衆は、戸が数万に到り、人口は爆発し、西戎より多くなりました。匈奴は、天性が驍勇で、弓馬に巧みなことは、氐・羌に倍します。匈奴は、風塵ノ慮を虞れないようであり、并州の人々の心を寒からしめる。 栄陽にいる高句麗の人は、もともと遼東の塞外にいて、正始年間に幽州刺史の毌丘倹が叛いた人を撃ち、その民族を連れてきたものだ。移したときは戸数は100未満だったが、子孫は繁栄し、今では1000を数える。数世代の後には、必ず殷熾してしまうだろう。 いま漢人の万民は職を失って亡叛している。犬馬ですら、肥え太ると飼い主に噛み付いてくる。まして夷狄が変を為さないことがあろうか。ただ異民族の微弱な部分にのみ目を向けて、(都合のいい空想論を)私は陳べないだけだ。
夫為邦者,患不在貧而在不均,憂不在寡而在不安。以四海之廣,士庶之富,豈須夷虜在內,然後取足哉!此等皆可申諭發遣,還其本域,慰彼羈旅懷土之思,釋我華夏纖介之憂。惠此中國,以綏四方,德施永世,于計為長。
帝不能用。未及十年,而夷狄亂華,時服其深識。
そもそも国家というものは、貧しさを患いて不平等をなくし、僅かなでも不安があることを憂うものだ。四海は広く、士人も庶民も富んでいるのだから、どうして内地に異民族を紛れ込ませ、面倒をみてやらねばならないのか。私がこのように申し上げるのは、異民族を本来の住処に還せと主張したいからだ。私は、異民族の移動の苦労と、馴れた土地への思いを慰めるが、我ら中華の民の憂いをなくしたいと思う。中原に恵みを与え、四方を綏撫すれば、徳は永き世に施され、国家の計は永続するだろう。
恵帝は、江統の意見を採用しなかった。10年経たずして、夷狄は中華を乱したとき、人は江統の深識に服した。
ずっと『徙戎論』ばかり見てきましたが、「江統伝」は、まだもうちょっと続きます。後半も、意見を陳べまくっているようです。
けっこう、お腹いっぱいの感がありますが、原典の『徙戎論』は、もっとクドかったのでしょう。と言っても、論旨は1つしかない。タイトルに「戎ヲ徙ス論」と、極めて簡潔にまとまってる。言いたいことは3文字で終わるから、、あとは文飾で水増しするしかない。これまでの胡漢の歴史を詳しく書いたり、異民族のやってきたことを、手を変え品を変え舌を変え、罵ったり。読んでもしんどいだけだろうなあ。
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