三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
「江統伝」を訳し、『晋書』列伝26をコンプ(3)
遷中郎。選司以統叔父春為宜春令,統因上疏曰:「故事,父祖與官職同名,皆得改選,而未有身與官職同名,不在改選之例。臣以為父祖改選者,蓋為臣子開地,不為父祖之身也。而身名所加,亦施于臣子。佐吏系屬,朝夕從事,官位之號,發言所稱,若指實而語,則違經禮諱尊之義;若詭辭避回,則為廢官擅犯憲制。今以四海之廣,職位之眾,名號繁多,士人殷富,至使有受寵皇朝,出身宰牧,而令佐吏不得表其官稱,子孫不得言其位號,所以上嚴君父,下為臣子,體例不通。若易私名以避官職,則違《春秋》不奪人親之義。臣以為身名與官職同者,宜與觸父祖名為比,體例既全,於義為弘。」朝廷從之。

江統は、中郎に遷った。選司(人事官)は、江統の叔父である江春を、宜春令にしようとした。江統は、上疏して言った。
「故事によれば、父祖と官職が同名であれば、必ず着任先を選び直しました。官職と同名の人が就いた前例がなく、着任先を再検討されなかった例がありません。私が思うに、父祖のために改選するのは、おそらく臣子本人が地を開く(円滑に役目を果たす)ためで、父祖の身のためではありません。身名に配慮してやるのは、また臣子に恩恵を施すことに当たります。役人を補佐し、朝夕勤務すると、官位の名はよく呼ばれます。もし本人を呼ぶたびに官名を口にされては、経礼に定める諱尊ノ義に違反します。もし名前を避けて、官位の名前を変更してしまっては、憲制を擅犯することになります。
四海は広く、職位は多く、役職名はいくらでもあります。士人は富み栄え、皇朝の寵を受け、宰牧として赴任しています。(ピンポイントに「春」の字をかぶせなくても良いでしょう)
補佐官に官名を呼ばせず、子孫が官名を口に出来ないなら、君父から臣子まで、道理が通りません。もし個人の名を、官名を避けて変更したら、『春秋』に『人親ノ義を奪うってはいけない』と書いてあることに違反します。私は思うに、個人名と官名が同じだったときは、父祖の名に抵触しないかよく比較した上で、官職を変更して、義を弘めるべきではないでしょうか」と。
朝廷は、これに従った。

轉太子洗馬。在東宮累年,甚被親禮。太子頗闕朝覲,又奢費過度,多諸禁忌,統上書諫曰:
臣聞古之為臣者,進思盡忠,退思補過,獻可替否,拾遺補闕。是以人主得以舉無失行,言無口過,德音發聞,揚名後世。臣等不逮,無能雲補,思竭愚誠,謹陳五事如左,惟蒙一省再省,少垂察納。


太子洗馬に転じて、数年は東宮にいて、司馬遹からの親礼をこうむった。司馬遹の評判が悪くなり、過度に奢費するようになった。江統は、司馬遹のもろもろの行いを禁忌させ、上書して諌めた。曰く。
私が古代の臣のなすべきことを聞きますに、思が忠を尽すのを進め、思が過つのを補い、否を替えるべく献じ、遺が欠を補うを拾います。これを持って、主は失敗をすることなく、失言をすることなく、徳音を発聞し、名を後世に挙げます。私たちは逮えず、言って補うことが出来ず、思いは愚誠を掲げ、謹んで5つのことを陳べます。ただくり返し反省をして頂くため、少しく察納を垂れます。
※翻訳が全くこなれていませんが、要は前置きです笑


其一曰,六行之義,以孝為首,虞舜之德,以孝為稱,故太子以朝夕視君膳為職,左右就養無方。文王之為世子,可謂篤於事親者也,故能擅三代之美,為百王之宗。自頃聖體屢有疾患,數闕朝侍,遠近觀聽者不能深知其故,以致疑惑。伏願殿下雖有微苦,可堪扶輿,則宜自力。《易》曰:「君子終日乾乾。」蓋自勉強不息之謂也。

その1。六行の義は、孝を筆頭とします。虞舜の徳も、孝を称しました。ゆえに太子は日頃から、君膳を見て職をなし、左右の人を区別なく養って下さい。周の文王の世子は、血縁者につかえることに篤かったと言います。そのため、三代の美をほしいままにでき、百王の中心となることが出来ました。このごろ聖体(あなた)にはしばしば疾患があり、政治には不足が増えていますが、遠近の人は、その深い理由を見聞きすることができず、疑惑するに到っています。伏して殿下にお願い申し上げます。微かな苦しみがあっても、扶輿することに堪え、お力を正しくお使い下さい。『易』に曰く、「君子は終日、乾乾とす」と。おそらく勉強を絶やすなという意味でしょう。


其二曰,古之人君雖有聰明之姿,睿喆之質,必須輔弼之助,相導之功,故虞舜以五臣興,周文以四友隆。及成王之為太子也,則周、召為保傅,史佚昭文章,故能聞道早備,登崇大業,刑措不用,流聲洋溢。伏惟殿下天授逸才,聰鑒特達,臣謂猶宜時發聖令,宣揚德音,諮詢保傅,訪逮侍臣,覲見賓客,得令接盡,壅否之情沛然交泰,殿下之美煥然光明。如此,則高朗之風,扇於前人;弘範令軌,永為後式。

その2。古代の人君は、聡明な容姿と、叡喜の資質があっても、輔弼の助けを受け、功に導いてもらう必要がありました。ゆえに虞舜には5人の臣下が活躍し、周の文王は4人の友が隆盛しました。成王が太子になったときは、周朝では保傅を付け、史佚は文章を昭かにし、道を聞いて早くから執政に備えることができ、崇高な大業に登ることができ、刑は用いず、名声は海内に溢れました。殿下(あなた)は天授逸才・聡鑑特達であらせられますが、聖令を自発し、徳音を宣揚し、保傅(世話係)に諮詢し、侍臣を訪逮し、賓客と会って接盡を得させれば、(中略)もっと良くなりますよ。


其三曰,古之聖王莫不以儉為德,故堯稱采椽茅茨,禹稱卑宮惡服,漢文身衣弋綈,足履革舄,以身先物,政致太平,存為明王,沒見宗祀。及諸侯修之者,魯僖以躬儉節用,聲列《雅頌》;蚡冒以篳路藍縷,用張楚國。大夫修之者,文子相魯,妾不衣帛;晏嬰相齊,鹿裘不補,亦能匡君濟俗,興國隆家。庶人修之者,顏回以簞食瓢飲,揚其仁聲;原憲以蓬戶繩樞,邁其清德。此皆聖主明君賢臣智士之所履行也。故能懸名日月,永世不朽,蓋儉之福也。及到末世,以奢失之者,帝王則有瑤台瓊室,玉懷象箸,肴膳之珍則熊蹯豹胎,酒池肉林。諸侯為之者,至於丹楹刻桷,餼征百牢。大夫有瓊弁玉纓,庶人有擊鐘鼎食。亦罔不亡國喪宗,破家失身,醜名彰聞,以為後戒。竊聞後園鏤飾金銀,刻磨犀象,畫室之巧,課試日精。臣等以為今四海之廣,萬物之富,以今方古,不足為侈也。然上之所好,下必從之,是故居上者必慎其所好也。昔漢光武皇帝時,有獻千里馬及寶劍者,馬以駕鼓車,劍以賜騎士。世祖武皇帝有上雉頭裘者,即詔有司焚之都街。高世之主,不尚尤物,故能正天下之俗,刑四方之風。臣等以為畫室之功,可且減省,後園雜作,一皆罷遣,肅然清靜,優遊道德,則日新之美光于四海矣。

その3。古代の聖王は、倹約をもって徳としない人はいませんでした。(以下、いかに過去の皇帝が質素な生活を心がけていたかが続きます。質素ならば、美名が広がりますよ、と言っています)


其四曰,以天下而供一人,以百里而供諸侯,故王侯食藉而衣稅,公卿大夫受爵而資祿,莫有不贍者也。是以士農工商四業不雜。交易而退,以通有無者,庶人之業也。《周禮》三市,旦則百族,晝則商賈,夕則販夫販婦。買賤賣貴,販鬻菜果,收十百之盈,以救旦夕之命,故為庶人之貧賤者也。樊遲匹夫,請學為圃,仲尼不答;魯大夫臧文仲使妾織蒲,又譏其不仁;公儀子相魯,則拔其園葵,言食祿者不與貧賤之人爭利也。秦、漢以來,風俗轉薄,公侯之尊,莫不殖園圃之田,而收市井之利,漸冉相放,莫以為恥,乘以古道,誠可愧也。今西園賣葵菜、藍子、雞、面之屬,虧敗國體,貶損令問。

その4。天下をもって1人1人に恩給し、百里をもって諸侯に恩給するものです。ゆえに王侯は食藉して衣稅し、公卿大夫は受爵して資祿し、恵み与えられない者はおりません。士農工商の4業を区別して雑然とさせないものです。交易することと退くこと、すなわち通じることの有無は、庶民の生業です。『周礼』の三市には、朝には百族の全てが商売を行い、夕には夫婦が販売活動を行うと書かれています。賎しきを買って、貴きを売り、粥・野菜・果物を売って、十百の充足を手に入れ、(飢えることなく)旦夕の命を救います。ゆえに庶民の貧困な人は発生するのです。樊遲という平凡な男は、教えを請うて田畑を代価に支払おうとしたので、孔子は答えなかった。魯国の大夫である臧文仲は、妻に蒲を織らせ、その不仁をそしられました。公儀子は魯に会って、彼の栽培園の葵を引っこ抜き、「食祿は、貧賎の人に争うメリットを与えない」と言いました。秦・漢以来、風俗は軽薄な方向に転じ、公侯の尊さは経済活動に精を出すことではないはずなのに、それを恥とせずに勤しんでおります。いま太子が西園で、葵菜、藍子、雞、面のたぐいを販売しておられるようですが、国体を虧敗させるものですから、お辞めなさい。
「江統伝」を訳し、『晋書』列伝26をコンプ(4)
其五曰,竊見禁土,令不得繕修牆壁,動正屋瓦。臣以為此既違典彝舊義,且以拘攣小忌而廢弘廓大道,宜可蠲除,於事為宜。
朝廷善之。

その5。ひそかに晋の領土を見ますに、修繕されていない城壁を見ることが出来ず、屋根瓦は綺麗に並べ直されております。私が思うに、これは経典や旧義に反することです。(日曜大工の)小忌にこだわっていては、弘廓大道を廃すことになります。どうか、太子が手ずから大工まがいのことをするのは、お辞め下さい。
朝廷は、江統の5箇条の諌め文句を、善しとした。


及太子廢,徙許昌,賈後諷有司不聽宮臣追送。統與宮臣冒禁至伊水,拜辭道左,悲泣流漣。都官從事悉收統等付河南、洛陽獄。付郡者,河南尹樂廣悉散遣之,系洛陽者猶未釋。都官從事孫琰說賈謐曰:「所以廢徙太子,以為惡故耳。東宮故臣冒罪拜辭,涕泣路次,不顧重辟,乃更彰太子之德,不如釋之。」謐語洛陽令曹攄,由是皆免。及太子薨,改葬,統作誄敘哀,為世所重。

司馬遹は太子を拝され、許昌に移された。賈皇后は、有司に吹き込んで、宮臣が司馬遹を見送るのを許さなかった。江統と宮臣は、賈皇后の禁令を冒して、伊水をおかし、辞(漢詩)を道左で司馬遹に拝し、悲泣流漣した。洛陽の官人は、江統らが河南に行くことにことごとく従い、洛陽の獄に放り込まれた。江統に付き従った郡の人は、河南尹の楽広がことごとく蹴散らし、洛陽につながれたものは釈放されなかった。都官從事の孫琰は、賈謐に言った。
「司馬遹さまを拝して流罪にしたことは、悪事でしかありません。東宮の古くからの臣は、罪を犯して拝辞し、路次で涕泣し、重い咎めを顧みず、さらに太子の徳をさらに顕彰し、これを称することは上はない」と。賈謐は、洛陽令の曹攄と語り、司馬遹に連なるものをみな罷免した。太子が死ぬと、改葬し、誄敘哀を統作らせ、世のために重んじられた。


後為博士、尚書郎,參大司馬、齊王冏軍事。冏驕荒將敗,統切諫,文多不載。遷廷尉正,每州郡疑獄,斷處從輕。成都王穎請為記室,多所箴諫。申論陸雲兄弟,辭甚切至。以母憂去職。服闋,為司徒左長史。東海王越為兗州牧,以統為別駕,委以州事,與統書曰:「昔王子師為豫州,未下車,辟荀慈明;下車,辟孔文舉。貴州人士有堪應此者不?」統舉高平郗鑒為賢良,陳留阮修為直言,濟北程收為方正,時以為知人。尋遷黃門侍郎、散騎常侍,領國子博士。永嘉四年,避難奔于成皋,病卒。凡所造賦頌表奏皆傳於後。二子:ヒョウ,惇。

江統はのちに博士となり、尚書郎となり、大司馬に参じ、司馬冏の軍事になった。司馬冏は驕荒な人であったたえ、まさに敗れようとしたとき、江統は切諫したが、その文章は多いので『晋書』には載せない。廷尉正に遷り、あらゆる州郡で疑獄事件が起こると、軽い判決を下した。司馬頴が、江統を記室に招きたいというと、司馬頴に多くの箴諫を送りつけた。陸雲の兄弟の弁護をし、その言葉ははなはだ真に迫っていた。母の喪で職を去り、復職すると司徒左長史となった。
司馬越が兗州牧となると、別駕として統治に協力したので、兗州の政治を任された。江統は書を与えて曰く、「むかし王子師は豫州となし、下車する前に、荀慈明を辟召しました。下車すると、孔文舉を辟召しました。この州の人士は、応比に堪えられる(臨機応変な対応が取れる)人がいるのではないか」と。江統は、高平郡の郗鑒を賢良として推挙し、陳留郡の阮修は直言をなし、濟北郡の程收は方正となり、当時の著名人を招いた。
黃門侍郎に遷り、散騎常侍となり、國子博士を兼任した。永嘉四(310)年、成皋に避難して奔り、病で死んだ。
江統が作った上表文(賦頌表)は、全て後世に伝えられた。2人の子がいた。ヒョウと惇という。
■翻訳後の感想
無言キャラ。なかなか顔立ちが見えてこなかった江統ですが、列伝の冒頭のおかげで、イメージができました。
時流に興味がないわけではなく、積極的に情報収集をしている様子だ。だが、宴席でも主君に招かれても、何もコメントしない。ときには三公レベルとか、皇帝(恵帝じゃいまいちだが)が諮問しても、ろくな返答をしない。 斉万年が平定されることを、じーっと待っていたんだね。平定が成功した途端に、やっと持論を開陳する気になった。それが、かの名高い『徙戎論』です。

「何か思うところはないか」と、周囲が配慮しつつ問うても、ずっとダンマリだった。だが斉万年が敗れるに及び、ただ「戎を徙すべし」とだけ言葉を発する。それはどういう意味なのか、と周囲がせっつくが、本人はまた黙っている。言葉の少ない江統という人物は、じーっと心の中で、湧き起こるアイディアを蒸し焼きにしていたのです。ある日、堰を切ったように、郡臣が驚くような雄弁ぶりで解いたものが、『徙戎論』として知名度を得た。

江統のキャラをおもんぱかるとき、国境付近で異民族に痛い目に遭わされたとか、家族を失ったとか、平定戦に参与していたとか、いろんな設定がぼくの頭の中にありました。しかし、どれも却下。陳留郡という、中原のまだまだ安全圏が出身の彼は、ただ頭の中だけで、異民族の弊害を組み立てたんだ。あんまり闊達に議論をすることが好きではない連中は、自説に他人の反論が入り込むことが少ない。どんどん純化されて、理想主義的に走っていく。
関中の人口の半分を占める異民族を、彼らにはまるで交通費を渡さずに、強制送還させよ。そんなこと、かすかにでも異民族と交際を持った人間であれば、とうてい口に出来ることではありません。同じ血の流れる人間でなく、漢文献から膨らませた「彼らは血も心も志も違う」という、二元論的にぶっ飛んだ民族観を持っていたからこそ、展開できた議論ですよ。

『晋書』の編集者が、江統の先見の明を褒めてしまった。これにより、江統は未来を見通すことができる賢者みたくなっている。だが、執政にあって政策提案するのと、無責任な庵で施策を深めた結果をアウトプットするだけであるのとは、雲泥の差がある。江統の意見は、あくまで書生の描いたファンタジーの域を脱していないと思う。

司馬遹および司馬冏を諌めていますが、大して目新しいような議論はしていない。っていうか、司馬冏への諌めは省略されてしまっているし。たまたま『徙戎論』というトリッキーなことを言い出したから名が売れたが、それ以外は100人並の人物だったんだろうね。
異民族の侵攻にさらされて避難し、その避難先で病没するときの江統は、きっと純粋に怒っていたはずだ。「オレの提案を容れないから、今日のような荒廃を招いてしまったんだ!」と。でもそれは、独善的な憤りだと思います。

ともかく無口で、内面の深化ばかりに注力した変人として、彼の人となりが確認できたので、良しとしましょう。司馬遹への抗議文の翻訳がグダグダですみません。080805
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