三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
『晋書』地理志で「州」を知る(1)
『晋書』地理志をまるまる翻訳すればいいのですが、骨が折れそうでした。そこで「州」の統廃合についてのみ注目したいと思います。陳寿『三国志』には地理のコーナーがないため、けっこう参考にされているようです。
かっこつけて故事を引きまくった総括文は省略するとして、各州の概説を訳してみましょう。
■司州
案《禹貢》豫州之地。及漢武帝,初置司隸校尉,所部三輔、三河諸郡。其界西得雍州之京兆、馮翊、扶風三郡,北得冀州分河東、河內二郡,東得豫州之弘農、河南二郡,郡凡七。位望降于牧伯,銀印青綬。及光武都洛陽,司隸所部與前漢不異。魏氏受禪,即都漢宮,司隸所部河南、河東、河內、弘農並冀州之平陽,合五郡,置司州。晉仍居魏都,乃以三輔還屬雍州,分河南立滎陽,分雍州之京兆立上洛,廢東郡立頓丘,遂定名司州,以司隸校尉統之。州統郡一十二,縣一百,戶四十七萬五千七百。

『禹貢』には「豫州の地」と書かれる。漢の武帝のとき、はじめて司隷校尉を置き、三輔・三河の諸郡を統括させた。西は、雍州の京兆・馮翊・扶風がを含む。北は、冀州から河東・河内郡を切り取り、東は豫州の弘農・河南2郡を持ってきて、全部で7郡とした。統治者には、牧伯と銀印青綬が与えられた。
光武帝が洛陽に都を置いた後も、前漢と同じ領域だった。
魏が禅譲を受けると、河南・河東・河內・弘農と冀州の平陽、合計で5郡が「司州」とされた。晋になると、三輔を雍州に戻し、河南郡を分けて滎陽郡を立て、雍州の京兆を分けて上洛郡を立て、東郡をやめて頓丘郡とし、「司州」として、司隷校尉に統治させた。
郡は12で、県は100、戸は47万5700である。

■兗州
案《禹貢》濟河之地,舜置十二牧,則其一也。《周禮》:「河東曰兗州。」《春秋元命包》雲命:「五星流為兗州。兗,瑞也,信也。」又雲:「蓋取兗水以名焉。」漢武帝置十三州,以舊名為兗州,自此不改。州統郡國八,縣五十六,戶八萬三千三百。

『禹貢』には、「済河の地」と書かれる。舜が12牧を置いたときに、設けられた。『周礼』には「河東を兗州という」とあり、『春秋元命包』には、「五星が流れて、兗州となった。兗は、縁起がよい」とある。また「きっと兗水から名を取ったのだろう」とある。
漢の武帝が13州を置いたとき、古い「兗州」という名前を採用し、改めなかった。
郡国は8、県は56、戸は8万3300ある。

■豫州
案《禹貢》為荊河之地。《周禮》:「河南曰豫州。」豫者舒也,言稟中和之氣,性理安舒也。《春秋元命包》雲:「鉤鈐星別為豫州。」地界,西自華山,東至於淮,北自濟,南界荊山。秦兼天下,以為三川、河東、南陽、潁川、碭、泗水、薛七郡。漢改三川為河南郡,武帝置十三州,豫州舊名不改,以河南、河東二郡屬司隸,又以南陽屬荊州。先是,改泗水曰沛郡,改碭郡曰梁,改薛曰魯,分梁沛立汝南郡,分潁川立淮陽郡。後漢章帝改淮陽曰陳郡。魏武分沛立譙郡,魏文分汝南立弋陽郡。及武帝受命,又分潁川立襄城都,分汝南立汝陰郡,合陳郡于梁國。州統郡國十,縣八十五,戶十一萬六千七百九十六。

『禹貢』には、「荊河の地」と書かれる。『周礼』には「河南を豫州という」とある。豫とは、舒のことで、和の気を含んだ言葉で、安舒の性質を指す。
『春秋元命包』には、「鉤鈐星が分かれて豫州となる」とある。西の境界に華山があり、東は淮水があり、北はおのずから済み、南には荊山がある。秦が天下をとったとき、三川、河東、南陽、潁川、碭、泗水、薛の7郡とした。漢は、三川を河南郡に組み込んだ。
漢の武帝が13州を置いたとき、豫州は旧名のままを採用された。河南、河東の2郡は司隷に属させ、南陽郡は荊州になった。泗水郡を沛郡と改め、碭郡を梁郡と改め、薛郡を魯郡と改め、梁郡と沛郡を分けて淮陽郡を立てた。
後漢の章帝のとき、潁川郡を分けて淮陽郡を立てた。曹操は、沛郡を分けて譙郡を立て、曹丕は汝南郡を分けて弋陽郡を立てた。
司馬炎が皇帝になると、頴川郡を分けて襄城郡を立て、汝南郡を分けて汝陰郡を立て、陳郡を梁國に合併した。
郡国は10、県は85、戸は11万6796である。

■冀州
案《禹貢》、《周禮》並為河內之地,舜置十二牧,則其一也。《春秋元命包》雲:「昴畢散為冀州,分為趙國。」其地有險有易,帝王所都,則冀安,弱則冀強,荒則冀豐。舜以冀州南北闊大,分衛以西為並州,燕以北為幽州,周人因焉。及漢武置十三州,以其地依舊名焉冀州,曆後漢至晉不改。州統郡國十三,縣八十三,戶三十二萬六千。

『禹貢』と『周礼』には、「河内の地」と書かれ、舜が置いた12牧の1つ。『春秋元命包』には、「昴畢が散って冀州となり、趙国を分けて作った」とある。この地は、険も易もあり、帝王が都を置くけば平安を冀(ねが)い、弱ければ強くなることを冀(ねが)い、土地が荒れたら豊作を冀(ねが)う。舜は冀州が南北闊大なので、衛国は西を并州として分割し、燕国は北を幽州とした。
漢の武帝が13州を置いたとき、旧名を残し、晋まで変わらない。
郡国は13、県は83、戸は32万6000である。

■幽州
案《禹貢》冀州之域,舜置十二牧,則其一也。《周禮》「東北曰幽州。」《春秋元命包》雲:「箕星散為幽州,分為燕國。」言北方太陰,故以幽冥為號。武王定殷,封召公于燕,其後與六國俱稱王。及秦滅燕,以為漁陽、上穀、右北平、遼西、遼東五郡。漢高祖分上谷置涿郡。武帝置十三州,幽州依舊名不改。其後開東邊,置玄菟、樂浪等郡,亦皆屬焉。元鳳元年,改燕曰廣陽郡。幽州所部凡九郡,至晉不改。幽州統都國七,縣三十四,戶五萬九千二十。

『禹貢』にある冀州の一部で、幽州は舜が置いた12牧の1つである。『周礼』は「東北を幽州という」とある。『春秋元命包』は、「箕星が散って幽州となり、燕国を分けた」とある。北方太陰というのは、幽冥という意味の呼び名である。
武王が殷を定めたとき、公を召して燕国に封じ、のちに(春秋時代)6国はともに王を名乗った。秦が燕を滅ぼすと、漁陽、上穀、右北平、遼西、遼東の5郡を幽州とした。劉邦が上谷郡を分けて、涿郡を置いた。幽州は旧名のまま変えられず。
東方を切り開いて、玄菟郡、樂浪郡などを置き、服属させた。 元鳳元年、燕国を改めて、廣陽郡とした。幽州は9郡を治め、晋になっても変わらず。
幽州は郡国が7、県が34、戸は5万9020である。
『晋書』地理志で「州」を知る(2)
平州
案《禹貢》冀州之域,于周為幽州界,漢屬右北平郡。後漢末,公孫度自號平州牧。及其子康、康子文懿並擅據遼東,東夷九種皆服事焉。魏置東夷校尉,居襄平,而分遼東、昌黎、玄菟、帶方、樂浪五郡為平州,後還合為幽州。及文懿滅後,有護東夷校尉,居襄平。咸寧二年十月,分昌黎、遼東、玄菟、帶方、樂浪等郡國五置平州。統縣二十六,戶一萬八千一百。

『禹貢』にある冀州の一部で、周代は幽州の国境であり、漢の右北平郡に属す。
後漢末に、公孫度が自ら平州牧を名乗った。その子・公孫康と公孫淵は、遼東と東夷九族を勝手に服属させた。魏は、東夷校尉を襄平に駐屯させ、遼東、昌黎、玄菟、帶方、樂浪の5郡を平州として分けた。しかし後から幽州に戻した。
公孫淵が滅びた後、護東夷校尉が襄平で守った。咸寧(276)年10月、昌黎、遼東、玄菟、帶方、樂浪らの5つの郡国を分けて、平州とした。県は26、戸は1万8100である。
※公孫度の僭称が、晋に追認されたようです笑

■并州
案《禹貢》蓋冀州之域,舜置十二牧,則其一也。《周禮》:正北曰並州,其鎮曰恆山。《春秋元命包》雲:「營室流為並州,分為衛國。」州不以衛水為號,又不以恆山為稱,而雲並者,蓋以其在兩穀之間也。漢武帝置十三州,並州依舊名不改,統上黨、太原、雲中、上郡、雁門、代郡、定襄、五原、西河、朔方十郡,又別置朔方刺史。後漢建武十一年,省朔方入並州。靈帝末,羌胡大擾,定襄、雲中、五原、朔方、上郡等五郡並流徙分散。建安十八年,省入冀州。二十年,始集塞下荒地立新興郡,後又分上党立樂平郡。魏黃初元年,複置並州,自陘嶺以北並棄之,至晉因而不改。並州統郡國六,縣四十五,戶五萬九千二百。

『禹貢』ではおそらく冀州の域内で、舜がおいた12牧の1つ。
『周礼』には、正北を並州といい、その鎮(支配拠点)を恆山という、とある。『春秋元命包』に曰く、「營室が流れて、并州とし、衛国を分割する」と。州は、衛水から名づけず、恆山を名前の由来にしない。并州という名前の元は、両穀の間にあるからだろう。
漢の武帝が13州を置いたとき、お名前据え置きで、上黨、太原、雲中、上郡、雁門、代郡、定襄、五原、西河、朔方の10郡を統べさせた。また別に、朔方刺史を置いた。後漢の建武11年、朔方を取り除いて、并州に組み込んだ。霊帝の末年に、羌胡が叛乱し、5郡(定襄、雲中、五原、朔方、上郡ら)は支配が届かなくなった。
建安18年、并州を廃止して冀州に組み込んだ。建安20年、荒地の集落を新興郡とし、上党郡から樂平郡を分割した。
魏の黄初元年、また并州を復活させ、山が険しいので北辺の統治を諦めた。晋もこれを踏襲した。
并州は、郡国が6、県は45、戸は5万9200より成る。

■雍州
案《禹貢》黑水、西河之地,舜置十二牧,則其一也。以其四山之地,故以雍名焉。亦謂西北之位,陽所不及,陰氣雍閼也。《周禮》:西曰雍州。蓋並禹梁州之地。周自武王克殷,都於酆鎬,雍州為王畿。及平王東遷洛邑,以岐酆之地賜秦襄公,則為秦地,累世都之,至始皇遂平六國。秦滅,漢又都之。及武帝置十三州,其地以西偏為涼州,其餘並屬司隸,不統於州。後漢光武都洛陽,關中複置雍州。後罷,複置司隸校尉,統三輔如舊。獻帝時又置雍州,自三輔距西域皆屬焉。魏文帝即位,分河西為涼州,分隴右為秦州,改京兆尹為太守,馮翊、扶風各除左右,仍以三輔屬司隸。晉初於長安置雍州,統郡國七,縣三十九,戶九萬九千五百。

『禹貢』には、黒水・西河の地と書かれ、舜がおいた12牧の1つ。
四方を山に囲まれるので、雍と名づけられた。西北の方角には、陽気が及ばないので、陰気が雍閼する。『周礼』曰く。「西を雍州という、禹の梁州の地に並ぶであろう。周の武王が殷に勝ったとき、都を酆鎬に置いたので、雍州は首都圏となった。平王が東をせめて洛陽を手に入れると、もとの険しい周の都は、秦の襄公に下賜され、晋の累代の都となり、始皇帝が全土を統一した。秦が滅ぶと、漢もここに都を置いた。
武帝が13州を置いたとき、雍州の西は涼州とされ、それ以外を司隷とし、州という行政区分を設置しなかった。
後漢の光武帝が洛陽に遷都すると、関中には再び雍州が置かれた。のちに廃止され、再び司隷校尉が置かれ、昔のように三輔を統治した。
献帝のときに、また雍州が置かれ、三輔から西域までを全て統治した。曹丕が即位すると、黄河より西を涼州とし、隴右を分けて秦州とした。京兆尹を改めて太守を置き、左馮翊と右扶風から「左」「右」が除かれ、三輔は司隷に属した。
晋初、長安に雍州をおき、郡国7、県39、戸9万9500を統べさせた。

■涼州
案《禹貢》雍州之西界,周衰,其地為狄。秦興美陽甘泉宮,本匈奴鑄金人祭天之處。匈奴既失甘泉,又使休屠、渾邪王等居涼州之地。二王后以地降漢,漢置張掖、酒泉、敦煌、武威郡。其後又置金城郡,謂之河西五郡。漢改周之雍州為涼州,蓋以地處西方,常寒涼也。地勢西北邪出,在南山之間,南隔西羌,西通西域,于時號為斷匈奴右臂。獻帝時,涼州數有亂,河西五郡去州隔遠,於是乃別以為雍州。末又依古典定九州,乃合關右以為雍州。魏時複分以為涼州,刺史領戊己校尉,護西域,如漢故事,至晉不改。統郡八,縣四十六,戶三萬七百。

『禹貢』には、雍州の西の境界で、周が衰退すると、異民族の土地になってしまったとある。
秦は、美陽な甘泉宮を建築し、匈奴は金像をつくって天を祭った。匈奴はすでに甘泉地域を失い、渾邪王らは亡命して涼州で暮していた。二王后が漢に服属すると、漢は、張掖・酒泉・敦煌・武威郡を置いた。その後、また金城郡を置き、河西五郡といった。
漢は周の名づけた雍州を涼州と改めたのは、おそらくこの地域が西方で常に寒かったからだろう。地勢は、西北に飛び出し、南山の間にあり、南は西羌と隔てられ、西は西域と通じ、匈奴に分断された。
献帝のとき、涼州はしばしば乱があり、河西五郡を切り離して、(もとの涼州の東半分を)雍州と名づけて区別した。古典にある「九州」では、函谷関より西は雍州というからだ。
魏のときまた涼州を分け、刺史は、漢代のように戊己校尉・護西域を兼ねた。
晋になっても同じだった。郡は8、県は46、戸は3万700である。
残っているのは、秦州、梁州、益州、寧州、青州、徐州、荊州、揚州、交州、広州ですね。いっぱいあるなあ。。
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