三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
『晋書』地理志で「州」を知る(3)
■秦州
案《禹貢》本雍州之域,魏始分隴右置焉,刺史領護羌校尉,中間暫廢。及泰始五年,又以雍州隴右五郡及涼州之金城、梁州之陰平,合七郡置秦州,鎮冀城。太康三年,罷秦州,並雍州。七年,複立,鎮上邽。統郡六,縣二十四,戶三萬二千一百。

『禹貢』によれば、もとは雍州の領域だったが、魏のはじめに隴右を分割して置かれた。秦州刺史は、護羌校尉を兼任した。しかし秦州は、いつのまにか廃止された。
泰始五(269)年、また雍州の隴右五郡と、涼州の金城郡、梁州の陰平郡を寄せ集めて、7郡を秦州とした。鎮(刺史の役所)は冀城。太康三年に秦州を廃止して、雍州に繰り込んだが、同七年にまた分割し、上邽に役所を置いた。 郡は6、県は24、戸は3万2100である。

■梁州
案《禹貢》華陽黑水之地,舜置十二牧,則其一也。梁者,言西方金剛之氣強梁,故因名焉。《周禮》職方氏以梁並雍。漢不立州名,以其地為益州。及獻帝初平六年,以臨江縣屬永寧郡。建安六年,劉璋改永寧為巴東郡,分巴郡墊江置墊江。劉備據蜀,又分廣漢之葭萌,涪城、梓潼、白水四縣,改葭萌曰漢壽,又立漢德縣,以為梓潼郡;割巴郡之宕渠、宣漢、漢昌三縣宕渠郡,尋省,以縣並屬巴西郡。泰始三年,分益州,立梁州於漢中,改漢壽為晉壽,又分廣漢置新都郡。梁州統郡八,縣四十四,戶七萬六千三百。


『禹貢』には、華陽黑水の地と書いてあり、舜が置いた12牧の1つである。梁の名前の由来は、「西方から立ち上る金剛の気は、強梁である」から。『周礼』の職方氏は、梁州と雍州が併記されている。
漢代には州を立てず、益州の一部とした。献帝の初平6年、臨江県を永寧郡に組み込んだ。建安六年、劉璋が永寧郡を巴東郡とし、巴郡の墊江県を分割して、巴西郡とした。劉備が蜀を取ると、廣漢郡にある4県(葭萌・涪城・梓潼・白水)を分割した。葭萌県は、漢寿県に改められた、漢徳県が建てられ、梓潼郡に入れられた。
巴郡の3県(宕渠、宣漢、漢昌)を分割して、宕渠郡とした。のちに、宕渠郡は廃止され、巴西郡に繰り込まれた。
泰始三(267)年、益州を分けて、漢中に梁州を立てた。漢壽の地名を晋壽に改めた。廣漢郡を分割して、新都郡を置いた。

■益州
案《禹貢》及舜十二牧俱為梁州之域,周合梁於雍,則又為雍州之地。《春秋元命包》雲:「參伐流為益州,益之為言厄也。」言其所在之地險厄也,亦曰疆壤益大,故以名焉。始秦惠王滅蜀,置郡,以張若為蜀守。及始皇置三十六郡,蜀郡之名不改。漢初有漢中、巴蜀。高祖六年,分蜀置廣漢,凡為四郡。武帝開西南夷,更置犍為、牂柯、越巂、益州四郡,凡八郡,遂置益州統焉,益州始此也。及後漢,明帝以新附置永昌郡,安帝又以諸道置蜀、廣漢、犍為三郡屬國都尉,及靈帝又以汶江、蠶陵、廣柔三縣立汶山郡。獻帝初平元年,劉璋分巴郡立永寧郡。 ※訳の中略開始部分
建安六年,改永寧為巴東,以巴郡為巴西,又立涪陵郡。二十一年,劉備分巴郡立固陵郡。蜀章武元年又改固陵為巴東郡,巴西郡為巴郡,又分廣漢立梓潼郡,分犍為立江陽郡,以蜀郡屬國為漢嘉郡,以犍為屬國為硃提郡。劉禪建興二年,改益州郡為建寧郡,廣漢屬國為陰平郡,分建寧永昌立雲南郡,分建寧<片羊>柯立興古郡,分廣漢立東廣漢郡。魏景元中,蜀平,省東廣漢郡。及武帝泰始二年,分益州置梁州,以漢中屬焉。七年,又分益州置寧州。益州統郡八,縣四十四,戶十四萬九千三百。


『禹貢』と舜がおいた12牧では、梁州の一部である。周は梁州を雍州に合わせたため、益州は雍州の一部ということになる。
『春秋元命包』曰く「參伐し流れて益州とする。益とは、厄の意味である」と。この地は険しくて厄(益)介である、という意味だ。別の説があって、疆壤(大地の恵み)が益大だから、益州と呼ばれるとも言う。
秦の恵王が蜀を滅ぼしたとき、郡を置き、張若という人を蜀守にした。始皇帝が36郡を置いたとき、蜀の名前は改めなかった。
劉邦ははじめ、漢中や巴蜀にいた。高祖六年、蜀郡を分割して、広漢郡を置き、全部で4郡とした。前漢武帝が西南夷を討伐すると、4郡(犍為、牂柯、越巂、益州)を設置して、全部で8郡となり、ついに益州を置いた。州に昇格したのは、このときが初めてだ。
後漢の明帝は、新たに永昌郡を置いた。安帝は道路を整備し、3郡(蜀、廣漢、犍為)に屬國都尉を置いた。霊帝のとき、3県(汶江、蠶陵、廣柔)を切り取って、汶山郡を設けた。献帝の初平元年、劉璋は巴郡を分割して、永寧郡を置いた。(南方開発の過程を中略します)
司馬炎は益州を分割して梁州を置き、漢中を含めた。同七年、また益州を分割し、寧州を置いた。郡は8、県は44、戸は14万9300である。

寧州
于漢魏為益州之域。泰始七年,武帝以益州地廣,分益州之建甯、興古、雲南,交州之永昌,合四郡為寧州,統縣四十五,戶八萬三千。
太康三年,武帝又廢寧州入益州,立南夷校尉以護之。太安二年,惠帝複置寧州,又分建寧以西七縣別立為益州郡。永嘉二年,改益州郡曰晉寧,分牂柯立平夷、夜郎二郡,然是時其地再為李特所有。


漢魏の益州の一部。泰始七(271)年、司馬炎は益州が広いことを理由に、益州の建甯、興古、雲南郡と、交州の永昌を合わせて、4郡で寧州とした。県は45、戸は8万3000である(意外に戸数が多い)。
282年、司馬炎は寧州をやめて益州に戻し、南夷校尉に守らせた。
303年、司馬衷はまた寧州を復活させ、建寧郡の西側7県を分けて、益州郡を置いた。
308年、益州郡は晉寧郡と改められ、牂柯郡を分けて、平夷と夜郎の2郡を立てたが、すでに李特にこの地を奪われていた。

■青州
案《禹貢》為海岱之地,舜置十二牧,則其一也。舜以青州越海,又分為營州,則遼東本為青州矣。《周禮》:「正東曰青州。」蓋取土居少陽,其色為青,故以名也。《春秋元命包》雲:「虛危流為青州。」
漢武帝置十三州,因舊名,曆後漢至晉不改。州統郡國六,縣三十七,戶五萬三千。


『禹貢』では、海岱の地と言われ、舜が置いた12牧の1つ。舜は青州から海を渡り、營州を設置した。だから、遼東はもとは青州と呼ばれたのだ。『周礼』には「正東を青州という」とある。おそらく土質が少陽で、青かったために、命名されたのだろう。 『春秋元命包』曰く、「虛危が流れて青州となる」とある。
漢の武帝が13州を置いたとき、旧名どおりで、晋まで改められない。群国は6、県は37、戸は5万3000である。
『晋書』地理志で「州」を知る(4)
■徐州
案《禹貢》海岱及淮之地,舜十二牧,則其一也。于周入青州之域。《春秋元命包》雲:「天氐流為徐州。」蓋取舒緩之義,或雲因徐丘以立名。秦兼天下,以置泗水、薛、琅邪三郡。楚漢之際,分置東陽郡。漢又分置東海郡,改泗水為沛,改薛為魯,分沛置楚國,以東陽屬吳國。景帝改吳為江都,武帝分沛、東陽置臨淮郡,改江都為廣陵。及置十三州,以其地為徐州,統楚國及東海、琅邪、臨淮、廣陵四郡。宣帝改楚為彭城郡,後漢改為彭城國,以沛郡之廣戚縣來屬,改臨淮為下邳國。及太康元年,複分下邳屬縣在淮南者置臨淮郡,分琅邪置東莞郡。州凡領郡國七,縣六十一,戶八萬一千二十一。

『禹貢』によれば、海岱(海岸線)は淮の地まで入り込む。舜が置いた12牧の1つでらう。周代には、青州の一部とされた。
『春秋元命包』には、「天氐が流れて徐州となる」とある。おそらく舒緩(リラックス)の意味から取ったか、もしくは徐丘にちなんで名づけられたともいう。
秦が天下を平定すると、3郡(泗水、薛、琅邪)が置かれた。項羽と劉邦が争ったとき、東陽郡が分割された。漢は東海郡を分割し、泗水郡を沛郡と改め、薛郡を魯郡と改め、沛郡を分割して楚国を置き、東陽郡は呉国に所属させた。漢の景帝が呉国を改めて、江都郡とした。武帝は沛国を分けて、東陽に臨淮郡を置き、江都郡を改めて廣陵郡とした。武帝が13州を置いたとき、この土地は徐州とされ、楚国と4郡(東海、琅邪、臨淮、廣陵)を徐州の領域とした。 ※呉楚七国ノ乱ガラミですね。
漢の宣帝は、楚国を彭城郡とし、後漢には彭城国となった。沛郡が広くて周囲の県に影響が大きいので、臨淮郡を下邳國とした。
秦の太康元年、再び下邳国に属している県のうち、淮南にあるものを臨淮郡とした。瑯邪郡を分割して、東莞郡を置いた。
徐州の郡国は7、県は61、戸は8万1021である。

■荊州
案《禹貢》荊及衡陽之地,舜置十二牧,則其一也。《周禮》:「正南曰荊州。」《春秋元命包》雲:「軫星散為荊州。」荊,強也,言其氣躁強。亦曰警也,言南蠻數為寇逆,其人有道後服,無道先強,常警備也。又雲取名于荊山。六國時,其地為楚。及秦,取楚鄢郢為南郡,又取巫中地為黔中郡,以楚之漢北立南陽郡,滅楚之後,分黔中為長沙郡。漢高祖分長沙為桂陽郡,改黔中為武陵郡,分南郡為江夏郡。武帝又分長沙為零陵郡。及置十三州,因舊名為荊州,統南郡、南陽、零陵、桂陽、武陵、長沙、江夏七郡。

『禹貢』を見ると、荊および衡陽の地とあり、舜がおいた12牧の1つである。『周礼』には「正南を荊州という」とある。『春秋元命包』曰く、「軫星が散じて荊州となった』と。荊というのは、強いという意味である。この地の気質は躁強である。また、警という意味もある。南蛮が多くて、しばしば寇逆する土地で、道中はつねに警戒しなければならない。また、荊山から名をとったとも言われる。
春秋戦国時代、楚国だった。秦が楚を攻めると、鄢郢を南郡とし、巫中を黔中郡とし、漢北(漢水の北)を南陽郡を置いた。楚を滅ぼした後、 黔中を分けて長沙郡とした。劉邦は、長沙郡から桂陽郡を分けた。黔中を改めて武陵郡とし、南郡を分けて江夏郡とした。漢の武帝が、長沙郡から零陵郡を分けた。13州を置いたとき、旧名にちなんで荊州と名づけ、7郡(南郡、南陽、零陵、桂陽、武陵、長沙、江夏)を統治させた。

後漢獻帝建安十三年,魏武盡得荊州之地,分南郡以北立襄陽郡,又分南陽西界立南鄉郡,分枝江以西立臨江郡。及敗于赤壁,南郡以南屬吳,吳後遂與蜀分荊州。於是南郡、零陵、武陵以西為蜀,江夏、桂陽、長沙三郡為吳,南陽、襄陽、南鄉三郡為魏。而荊州之名,南北雙立。蜀分南郡,立宜都郡,劉備沒後,宜都、武陵、零陵、南郡四郡之地悉複屬吳。魏文帝以漢中遺黎立魏興、新城二郡,明帝分新城立上庸郡。孫權分江夏立武昌郡,又分蒼梧立臨賀郡,分長沙立衡陽、湘東二郡。孫休分武陵立天門郡,分宜都立建平郡。孫皓分零陵立始安郡,分桂陽立始興郡,又分零陵立邵陵郡,分長沙立安成郡。荊州統南郡、武昌、武陵、宜都、建平、天門、長沙、零陵、桂陽、衡陽、湘東、邵陵、臨賀、始興、始安十五郡,其南陽、江夏、襄陽、南鄉、魏興、新城、上庸七郡屬魏之荊州。及武帝平吳,分南郡為南平郡,分南陽立義陽郡,改南鄉順陽郡,又以始興、始安、臨賀三郡屬廣州,以揚州之安成郡來屬。州統郡二十二,縣一百六十九,戶三十五萬七千五百四十八。

後漢献帝の建安13年、曹操が荊州を得ると、南郡を分けて北を襄陽郡とし、南陽郡の西を分けて南郷郡とし、枝江より西を臨江郡とした。曹操が赤壁に敗れると、南郡より南は孫呉に帰属し、その後は蜀と荊州を分割した。南郡・零陵・武陵より西は蜀に、江夏・桂陽・長沙の3郡は呉に、南陽・襄陽・南郷の3郡は魏に属した。荊州の名前は、南北に2つ存在した。蜀は南郡を分けて、宜都郡を立てた。劉備の没後、蜀の4郡(宜都、武陵、零陵、南郡)は、呉に取り戻された。
曹丕は、漢中から2郡(魏興、新城)を分割した。曹叡は、新城郡を分けて、上庸郡を立てた。
孫権は、江夏郡を分けて武昌郡を立て、蒼梧郡を分けて臨賀郡を立て、長沙郡を分けて2郡(衡陽、湘東)を立てた。孫休は、武陵郡を分けて天門郡を立て、宜都郡を分けて建平郡を立てた。孫皓は、零陵郡を分けて始安郡を立て、桂陽郡を分けて始興郡を立て、零陵郡を分けて邵陵郡を立て、長沙郡を分けて安成郡を立てた。
荊州は15郡(内訳は本文参照)あり、そのうち7郡(南陽、江夏、襄陽、南鄉、魏興、新城、上庸)が魏領だった。
司馬炎が呉を平定すると、南郡を分けて南平郡を立て、南陽郡を分けて義陽郡を立て、南郷郡を改めて順陽郡とした。また、3郡(始興、始安、臨賀)を廣州に属させ、揚州の安成郡を荊州に組み入れた。
郡は22、県は169、戸は35万7548である。

惠帝分桂陽、武昌、安成三郡立江州,以新城、魏興、上庸三郡屬梁州,又分義陽立隨郡,分南陽立新野郡,分江夏立竟陵郡。懷帝又分長沙、衡陽、湘東、零陵、邵陵、桂陽及廣州之始安、始興、臨賀九郡置湘州。時蜀亂,又割南郡之華容、州陵、監利三縣別立豐都,合四縣置成都郡,為成都王穎國,居華容縣。

恵帝は、(劉邦が長沙から分けた)桂陽郡と、(孫権が江夏から分けた)武昌郡と、(孫皓が長沙から分けた)安成郡を分けて、江州を立てた。新城郡・魏興郡・上庸郡を梁州に組み入れた。また、義陽郡を分けて新野郡を立て、江夏郡を分けて竟陵郡を立てた。司馬熾は、荊州の6郡(長沙、衡陽、湘東、零陵、邵陵、桂陽)と廣州の3郡(始安、始興、臨賀)を分割して、湘州を置いた。
このとき蜀は叛乱があり、南郡の3県(華容、州陵、監利)は、別れて豐都郡となり、4県を合わせて成都郡となり、成都王司馬頴の国になって、司馬頴は華容県にいた。
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