三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
『晋書』地理志で「州」を知る(5)
■揚州
案《禹貢》淮海之地,舜置十二牧,則其一也。《周禮》:「東南曰揚州。」《春秋元命包》雲:「牽牛流為揚州,分為越國。」以為江南之氣躁勁,厥性輕揚。亦曰,州界多水,水波揚也。于古則荒服之國,戰國時其地為楚分。秦始皇並天下,以置鄣、會稽、九江三郡。項羽封英布為九江王,盡有其地。漢改九江曰淮南,即封布為淮南王。六年,分淮南置豫章郡。十一年,布誅,立皇子長為淮南王,封劉濞為吳王,二國盡得揚州之地。文帝十六年,分淮南立廬江、衡山二郡。景帝四年,封皇子非為江都王,並得鄣、會稽郡,而不得豫章。武帝改江都曰廣陵,封皇子胥為王而以屬徐州。元封二年,改鄣曰丹楊,改淮南複為九江。

『禹貢』には、淮海の地と書かれ、舜が置いた12牧の1つ。『周礼』は「東南を揚州という」とある。『春秋元命包』曰く「牽牛星が流れて、揚州となった。越国から分割した」とある。江南の気質は躁勁で、厥性は輕揚であるから、揚州という。また、揚州には河川が多いため、波が揚がることが由来だともいう。古代は、荒れて中原に服属している國だった。戦国時代は、楚が領有した。始皇帝が天下を平定すると、3郡(鄣、會稽、九江)を設置した。項羽が、英布を九江王に封じると、揚州を支配圏にした。
漢は、九江郡を淮南郡と改め、英布を淮南王に封じた。六年、淮南郡を分けて、豫章郡を置いた。十一年、英布が誅されると、皇子の劉長を淮南王に封じ、劉濞を呉王にした。淮南と呉の2国は、揚州をことごとく掌握した。前漢文帝の十六年、淮南郡を分けて、2郡(廬江、衡山)を立てた。前漢景帝の四年、皇子を封じたが江都王とはせず、鄣郡と會稽郡と豫章郡を与えなかった。
武帝のとき、江都郡を改めて廣陵郡とし、皇子を王に封じて、徐州に管轄させた(呉楚七国の乱後の対策か)。元封二年、鄣郡を改めて丹楊郡とし、淮南郡を改めて再び九江郡とした。

後漢順帝分會稽立吳郡,揚州統會稽、丹楊、吳、豫章、九江、廬江六郡,省六安並廬江郡。獻帝興平中,孫策分豫章立廬陵郡。孫權又分豫章立鄱陽郡,分丹楊立新都郡。孫亮又分豫章立臨川郡,分會稽立臨海郡。孫休又分會稽立建安郡。孫皓分會稽立東陽郡,分吳立吳興郡,分豫章、廬陵、長沙立安成郡,分廬陵立廬陵南部都尉,揚州統丹楊、吳、會稽、吳興、新都、東陽、臨海、建安、豫章、鄱陽、臨川、安成、廬陵南部十四郡。 江西廬江、九江之地,自合肥之北至壽春悉屬魏。及晉平吳,以安成屬荊州,分丹楊之宣城、宛陵、陵陽、安吳、涇、廣德、甯國、懷安、石城、臨城、春穀十一縣立宣城郡,理宛陵,改新都曰新安郡,改廬陵南部為南康郡,分建安立晉安郡,又分丹楊立毗陵郡。揚州合統郡十八,縣一百七十三,戶三十一萬一千四百。

後漢の順帝のとき、会稽郡を分けて呉郡を立てた。揚州は6郡(會稽、丹楊、吳、豫章、九江、廬江)を統治した。六安郡を除いて、廬江郡郡に組み入れた。献帝の興平年間に、孫策は豫章郡を分けて、廬陵郡を立てた。孫権はさらに豫章郡を分割して鄱陽郡を立て、丹楊郡を分けて、新都郡を立てた。
孫亮は、また豫章郡を分けて、臨川郡を立てた。孫休はさらに、会稽郡を分けて、建安郡を立てた。孫皓は、会稽郡を分けて、東陽郡を立て、呉郡を分けて吳興郡を立てた。孫皓は、3郡(豫章、廬陵、長沙)から切り取って、安成郡を立てた。孫皓は、廬陵郡を分けて、廬陵南部都尉を立てた。揚州は、14郡(内訳は原文参照)を統治した。江西廬江、九江の地は、合肥から北の寿春までは魏に属した。
晋が呉を平定すると、安成郡は荊州に帰属し、丹楊郡の11県(宣城、宛陵、陵陽、安吳、涇、廣德、甯國、懷安、石城、臨城、春穀)を分割して宣城郡を立てた。宛陵 を理し、新都郡を新安郡と改称し、廬陵南部を南康郡と読み替え、建安を分けて晋安郡を立てた。また丹楊郡を分けて、毗陵郡を立てた。
揚州は、郡が18、県は173、戸は31万1400であった。

惠帝元康元年,有司奏,荊、揭二州疆土廣遠,統理尤難,於是割揚州之豫章、鄱陽、廬陵、臨川、南康、建安、晉安、荊州之武昌、桂陽、安成,合十郡,因江水之名而置江州。永興元年,分廬江之尋陽、武昌之柴桑二縣置尋陽郡,屬江州,分淮南之烏江、曆陽二縣置曆陽郡。又以周創義討石冰,割吳興之陽羨並長城縣之北鄉置義鄉、國山、臨津並陽羨四縣,又分丹陽之永世置平陵及永世,凡六縣,立義興郡,以表紀之功,並屬揚州。又以毗陵郡封東海王世子毗,避毗諱,改為晉陵。懷帝永嘉元年,又以豫章之彭澤縣屬尋陽郡。湣帝立,避帝諱改建鄴為建康。

惠帝の元康元年、有司が奏上し、荊州と揚州は広くて遠く、統治が困難なので、揚州の7郡(豫章、鄱陽、廬陵、臨川、南康、建安、晉安)と、荊州の3郡(武昌、桂陽、安成)を分割して、長江にちなんで「江州」と名づけなさいと提案した。永興元年、廬江郡の尋陽県と武昌郡の柴桑県分けて、尋陽郡を設置し、江州に所属させた。淮南郡の2県(烏江、曆陽)を分けて、曆陽郡とした。また石冰を討ったとき、呉興郡の陽羨県と、長城県の北郷に4県(義鄉、國山、臨津、陽羨)を設置した。また、丹陽郡の永世県を分けて、平陵や永世ら全部で6県には、義興郡を立てた。上表した功績により、揚州に属した。毗陵郡には、東海王(司馬倫)の世子の司馬毗を封建し、司馬毗のいみなを避けて晉陵郡とされた。
懷帝の永嘉元年、豫章郡の彭澤県は、尋陽郡に付け替えられた。湣帝が即位すると、皇帝のいみなを避けて、建鄴を建康と改めた。

※関心の所在が、徐々に揚州の南方に下がっていきます。開拓されている証拠です。由緒ある地名が、鄣(丹楊)、會稽、九江(淮南)であり、呉郡は比較的新しいというのがポイントですね。
『晋書』地理志で「州」を知る(6)
■交州
案《禹貢》揚州之域,是為南越之土。秦始皇即略定揚越,以謫戍卒五十萬人守五嶺。自北徂南,入越之道,必由嶺嶠,時有五處,故曰五嶺。後使任囂、趙他攻越,略取陸梁地,遂定南越,以為桂林、南海、象等三郡,非三十六郡之限,乃置南海尉以典之,所謂東南一尉也。漢初,以嶺南三郡及長沙、豫章封吳芮為長沙王。十一年,以南武侯織為南海王。陸賈使還,拜趙他為南越王,割長沙之南三郡以封之。武帝元鼎六年,討平呂嘉,以其地為南海、蒼梧、郁林、合浦、日南、九真、交趾七郡,蓋秦時三郡之地。元封中,又置儋耳、珠崖二郡,置交趾刺史以督之。昭帝始元五年,罷儋耳並珠崖。元帝初元三年,又罷珠崖郡。

『禹貢』によると、揚州の領域内で、南越の土と書かれている。始皇帝が異民族・揚越を攻略したとき、50万人を五嶺の守備に置いてきた。北から越地方に行くには、かならず難所が5ヶ所を通らなければならず、それゆえに「五嶺」といった。のちに、趙他に越地方を攻めさせ、陸梁を侵略して、南越を占領し、3郡(桂林、南海、象)を設置した。36郡の制限とは関係なく、南海尉を置くことを定め、いわゆる「東南一尉」のことである。
漢の初め、嶺南三郡と長沙・豫章に、吳芮を長沙王として封建した。十一年、南武侯の劉織を、南海王とした。陸賈を使者にして、趙他を南越王にし、長沙郡の南3郡を領土として与えた。
漢の武帝の元鼎六年、呂嘉を討ち滅ぼし、その地に7郡(南海、蒼梧、郁林、合浦、日南、九真、交趾)を置いた。おそらく、秦が置いた3郡と同じ土地であろう。元封年間(紀元前110年-紀元前105年)、2郡(儋耳、珠崖)を設置し、交趾刺史に監督させた。
前漢の昭帝の始元五年、儋耳郡を廃止して、珠崖に組み込んだ。前漢の元帝の初元三年、珠崖郡を廃止した。(漢の支配が届かなくなった)

後漢馬援平定交部,始調立城郭置井邑。順帝永和九年,交趾太守周敞求立為州,朝議不許,即拜敞為交趾刺史。桓帝分立高興郡,靈帝改曰高涼。建安八年,張津為刺史,土燮交趾太守,共表立為州,乃拜津為交州牧。十五年,移居番禺,詔以邊州使持節,郡給鼓吹,以重城鎮,加以九錫六佾之舞。吳黃武五年,割南海、蒼梧、郁林三郡立廣州,交趾、日南、九真、合浦四郡為交州。戴良為刺史,值亂不得入,呂岱擊平之,複還並交部。赤烏五年,複置珠崖部。永安七年,複以前三郡立廣州。及孫皓,又立安七年三郡。蜀以李恢為建甯太守,遙領交州刺史。晉平蜀,以蜀建甯太守霍弋遙領交州,得以便宜選用長吏。平吳後,省珠崖入合浦。
交州統郡七,縣五十三,戶二萬五千六百。


後漢の馬援がこの辺りを平定したので、城郭を立て井邑を置いた。順帝の永和九年、交趾太守である周敞が「交州」への格上げを求めたが、朝廷は許さずに、周敞を交趾刺史に任命した。桓帝は高興郡を設け、霊帝は高涼郡と改称した。建安八年、張津が刺史となり、士燮が交趾太守となり、州への格上げを要請した。認められ、張津は交州牧となった。建安十五年、番禺に役所を移し、詔があって、邊州使持節,郡給鼓吹が与えられ、城鎮を重んじて、九錫六佾の舞が加えられた。
呉の黄武五年、3郡(南海、蒼梧、郁林)を分割して、広州が立てられた。交州は、残りの4郡(交趾、日南、九真、合浦)となった。戴良が刺史に任命されたが、現地民に拒まれて着任できなかった。呂岱が平定して、広州を交州に再び併せた。赤烏五年、珠崖部が復活した。
永安七(264)年、以前のように広州が設置された。孫皓の立安七年、3郡が立てられた。
蜀の李恢は、建甯太守として、交州刺史を兼任する(と支配権が及ばないのに、勝手に名乗った)。晋が蜀を平定すると、蜀の建甯太守である霍弋に、交州刺史を兼任させ、役人を任命させた。
五を平定すると、珠崖郡を廃止して合浦郡に含めた。交州は7郡、県は53、戸は2万5600であった。

廣州
案《禹貢》揚州之域,秦末趙他所據之地。及漢武帝,以其地為交址郡。至吳黃武五年,分交州之南海、蒼梧、郁林、高梁四郡立為廣州,俄復舊。永安六年,複分交州置廣州,分合浦立合浦北部,以都尉領之。孫皓分郁林立桂林郡。及太康中,吳平,遂以荊州始安、始興、臨賀三郡來屬。合統郡十,縣六十八,戶四萬三千一百二十。
武帝后省高興郡。懷帝永嘉元年,又以臨賀、始興、始安三郡凡二十縣為湘州。


『禹貢』には、揚州の一部と描かれる。秦末に、趙他が根拠とした土地。漢の武帝のとき、交址郡が置かれた。
呉の黄武(226)五年、交州の4郡(南海、蒼梧、郁林、高梁)を分割して立てられ、すぐに取り消された。永安六年、また交州を分けて広州が置かれ、合浦郡を分けて合浦北部が立てられ、都尉が管轄した。孫皓は、郁林郡を分割して、桂林郡を立てた。
太康年間に呉を平定すると、荊州の始安、始興、臨賀を広州に帰属させた。郡は10、県は68、戸は4万3120である。
■翻訳後の感想
三国志ファンにとっては「幻」である、梁州・江州・広州・湘州・秦州などのことを知りたかったので、訳してみました。行政区分は、政治的意図をもって境界線が引かれる。「地理志」だけでも、1つの歴史物語になっていて、おもしろいですね。
そして、国境なき大地を色分けするのは、そのときどきの人間の勝手です。だから、ぼくが『三国志』を整理するために、大陸のピースをバラバラにするときも、好きにやっていい、ということが分かりました。『晋書』を見れば、模範解答みたいな真理が手に入るかと思ったが、そうじゃなかった。極めて変化に富み、混沌としてました。080726
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