三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
平勢隆郎『都市国家から中華へ』から抜書き。 (1)
平勢隆郎『都市国家から中華へ』講談社2005から、気になったところを抜粋します。直接は『三国志』の時代を扱った本ではないので、あくまで理解を深めるための、参考程度という位置づけなので、ガンガン省略します。

■はじめに
戦国時代の書物を読んでも、前の時代の事実は(時の経過というバイアスを除かない限り)分からない。夏殷周は、戦国時代のバイアスをかけて語られてきた。漢代の『史記』は、どうしても漢代を過去に投影してしまう。そこで平勢は、新石器時代の文化地域という視点で、始皇帝以前の中国史を分析する。
「天下」という考え方に引きずられると、殷や周に対抗する、文化地域や大国をどうしても見過ごしがちだ。

■第1章 本書が扱う時代
三代(夏殷周)は、聖天子が即位して始まり、無道の天子が出現して滅びるという図式だ。だがこの聞きなれた「事実」には、ウソがある。真実は、以下のかたちだ。
(1)文書行政がなかった
戦国時代以前には、律令もなく、それぞれが独立した国だった。周辺の国が、行政によって三代に臣従しているのはウソである。
(2)複数の中央があった
新石器時代の文化地域を母体にして、日本並みの広さを持つ「大国」が並立した。殷も周も、それらのうちの1つに過ぎない。
(3)漢字は都市の文字だ
殷や周のものでしかなかった漢字が広がったのは、春秋時代以降だ。それまでは、祭祀用の文字が、バラバラにあっただけだ。
(4)漢字は戦国時代に変質した
戦国時代の文書行政で、はじめて祭祀用の文字が、行政用に役割を変えた。中央と地方を結ぶものとなった。

春秋時代までは、漢字は記録用に使われていないから、当時の歴史は「わからない」のが事実となる。青銅器や甲骨文字は、用途が違う。四川の三星堆遺跡も、文字がないから「わからない」大国だ。
戦国時代に鉄器が用いられるようになり、領域国家を官僚が統治するようになり、やっと漢字を読めば「わかる」ようになった。

このような経緯を無視して、始皇帝や前漢の武帝が併合した地域まで、周の文化圏として「わかる」つもりになるのは、誤りだ。
戦国時代から作られるようになった史書は、国家の正当主張と領土支配の正統が反映されている。だが、秦以前に「天下統一」した国なんてなく、また何千年も「統一を待っていた」わけじゃない。天下統一は前提とならない。
「夏」や「中国」は、自国を指す特別な言葉だが、国ごとに違った。のちに「中国」+「夏」=「中華」が生まれるが、まだこの時代は熟さない。

周が注目を浴びたのは、洛邑には、物資が集るし、漢字という文化的魅力があるからだった。だから諸国は、周を特別視した。
文書行政が行われるようになると、大きな国の領域を「天下」と呼ぶようになり、みな夏殷周と自国を関わらせることに執心した。一方で楚は、三代との関わりをネガティブに定義した。
漢字圏の拡大が、天下の母体になった。春秋時代は都市で、戦国時代は国家で、漢字を使って証拠文書を交換し合った。

戦国時代は「天下」「中国」とは漢字圏のことで、中には複数の中央政府があり、複数の特別地域があった。しかし、漢代になると、漢字圏そのものを1つの特別領域と説明するようになった。「天下」「中国」の、意味が変遷したのだ。
「夷狄」は、戦国時代は天下の領域内にあった。「今は違うけど、いつか自分に属する敵国」という意味だった。しかし、秦以降に「敵国」がなくなると、「夷狄」が消滅してしまったため、困った。
そこで王莽が儒教的倫理を使い、異民族に当てはめた。「緯書」を利用して、理屈づけをした。ここに、「東アジア冊封体制」が成立したと、西嶋定生先生が言い出したんだそうで。へー!知らなかった。

殷代、「徳」とは、敵対する都市の征伐を支える霊力だった。しかし漢字圏が拡大・均質化すると、征伐なしに行き渡るのが「徳」だといわれた。武力で全部をゴリ押すのは、難しいしね。
漢代以降は、国内の民・国外の異民族とも、自ずと内外に浸透すると考えられた。これを「徳治」といった。周辺国との交流が「通訳」によって行われ、「東アジア冊封体制」となる。
やがて、漢字を輸入しつつも、同質に染まらない連中(日本とか)が現れていく。彼らは、漢字を知り、持ち帰って行政を独学した後に、(パクったがゆえに)中国と同じように「オレが1番」という主張を作り上げた。すると、中国と周辺諸国に軋轢が生まれた。これは、中国の戦国時代を拡大して再現したに等しい。なるほど!

戦国時代の命名は『戦国策』に由来すると言うが、ウソだ。
漢代に『戦国策』はない。漢代には「六国の世」と呼び、楚斉燕韓魏趙を秦の脇役を勤めさせた。統一王朝の秦の前史というイメージを強めるために、清代に戦国時代と呼ばれるようになった。戦いが頻発するという点では、殷や周だって大差はないそうだ。
平勢隆郎『都市国家から中華へ』から抜書き。 (2)
■第2章 周王朝の史実
『史記』を読むと誤解するが、『逸周書』によれば、伐殷(殷を破る)から、克殷(殷を滅ぼす)までは、けっこう時間がかかっているという。でも、『三国志』の直接の興味にはヒットしないので、大胆に省略(笑)

漢字が広がる家庭で、都市国家の首長を「侯」といった。その首長が称したのが、「姓」である。同じ姓なら、同族の扱いを受けた。
鉄器が普及し、耕地も都市も増えると、出自が違う人があつまる。そこで、都市の人は出自ごとに「氏」を名乗り、やがて全員に広がった。

姫姓の周は、戦国時代の諸国家にすれば、権威を直接継承するものであり、その権威を打倒する相手ともなる。 滅ぼすには「衰えたから」でいいが、継承するには、いかに周に権威があったか証明しなければならない。最初と再興の2つの契機が周にあったから、諸国とも好きなほうを使って持ち上げた。 周公旦・共伯和の摂政が、題材になった。横並びの強弱から、中央と地方に社会が組みかえられたとき、中央の頂点に立つ王は血縁で即位したのではない!と言われた。革命(放伐)の論理が必要になった。
それぞれが好き勝手に、周の話をでっち上げたようです。

■第3章 「華夏」の源流と夏殷周三代
戦国時代の中原から山西には、韓・魏・趙があった。春秋時代の晋が分裂した国で、鼎立していた。この3国は自国の文化に、夏・殷・周の伝統を取り込もうとした。漢は天下の前史として三代を位置づけたが、3国は領域国家の前史として三代を位置づけた。対照的である。
これら戦国時代の国の文書は、『古事記』の神話のごとく残った。オリジナルは秦の焚書・項羽の焼討で失われてしまい、今日では、かなり事実と離れた『史記』の独壇場になってしまった。

『春秋』は斉の年代記で、魯・斉の小国の記録をプラスして出来上がった。孔子が斉の田氏の正統性を示すため作ったものだ。『春秋』の説明のため、サブテキスト『公羊伝』が作られた。漢代になると、田氏がマイナーになり、孔子のオリジナル作品とされた。孔子は、斉だけで認められた人だったが、漢代には「誰もが尊敬した人」ということになった。
韓では『春秋』と『公羊伝』を非難し、韓を正当化するために『左伝』を作った。しかし漢代には、もともとの意図が抜け落ち、『左伝』は『春秋』の参考書という位置づけになった。真逆じゃん!

『左伝』では、星宿に興味があり、天と地の対応が議論された。星座で夜空を分けることは、諸国が並ぶ戦国時代を投影した発想だ。
戦国時代には、君主と補佐の賢人というセットがお決まりで、韓の『左伝』も例に漏れない。韓宣子と子産のコンビが、それである。

■第4章 戦国諸国それぞれが語る夏殷周三代
秦には『呂氏春秋』があるが、新しくて不適。青銅器から、秦は自らを「夏子」だと規定したことが分かる。『左伝』では「西戎」だと扱き下ろされてしまうが、秦曰く、東の連中が「蛮夏」で、下国なんだと言う。
斉では、殷王の血をうちが引いていると言う。殷の故地を組み込んで、それ以外を「諸夏」と蔑んだ。これが『春秋』と『公羊伝』に結実する。「諸夏」を征服する野心は、田氏が夏の禹の子孫だという伝承が根拠だそうだ。
魏の『竹書紀年』にも、正当化の理屈が書かれている。
楚では、祝融という伝説の王がいて、異なる神話が起点になる。また、周の文王の徳は、周ではなく楚の武王に継承されたという、トンデモ論法を作り出した。
ともかくどこの国でも、下が上を滅ぼすという「形」を作った。それぞれ、自分の国を特別地域だと称するので、話の中身は違うけれど。

漢では、複数の特別地域を叩き潰し、周を特別視して、自らの独自性を作り上げた。周も殷も夏も、自分と同じ全土の王朝でなくてはならなかった。戦国時代の典籍はジャマなので、王莽を経て、「注釈」という方法で無力化に成功した。戦国の特別地域たちは、洛陽の周りにあったと読み替えた。この捏造のせいで、地域の議論と天下の議論がゴチャゴチャになった。というか、意図的にゴチャゴチャにされた。
しかし、意味も分からず、「下が上に克つ」という図式だけは、残った。
この捏造が未完成だった始皇帝から前漢武帝のときは、書物を持つことが禁止された。なるほど!そういう理解をすればいいんですね。

秦も漢も、夏の復興者として、夏の暦(夏正)を用いた。
伝国の璽(夏王朝復興=秦からの継承)と、斬蛇の剣(劉邦の使用品)が、漢王朝を権威付けた。王朝の復興&継承という名分と、始祖伝説(下剋上)が、漢に残る戦国時代の遺伝子だ。
第4章の最後、漢のところ、良かったですね。前漢を否定しつつ(王莽に奪われたので)、後漢の時代をたっぷり使って、漢を正当化する理屈を作りあげていったところが、とても宜しい笑
正当化に夢中になりすぎて、実際の統治がお留守になり、コケてしまうところが、本当にいい!蔡邕が刻んだ石碑(公式回答)とか、この論争を決着させる狙いがあったのかなあ?追加で調べねば。
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