平勢隆郎『都市国家から中華へ』から抜書き。(3)
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■第6章 春秋時代の史実
春秋戦国の諸侯は、周が陝西の大国だったことと、東方の殷を滅ぼしたことを、無視できなかった。漢字の伝播、官僚支配の浸透によって、周の権威は大きくなる一方なので、その先行者たる夏・殷もひっくるめて、何らかの論理での関連づけた。
「戦国時代の典籍を密かに改造した漢代の注釈」というコラムが載っているので、メモります。
後漢は、東遷後の周が洛陽を都にしたことから、周王朝を語るいろんな戦国諸国の典籍を、洛陽中心かのようにゴマカした。
斉の『公羊伝』では、「中国」は東にズレていて、洛陽は「諸夏」として蔑まれていた。そりゃ、斉の領域を「中国」と呼ぶから、当然です。そこで、ギリギリ洛陽を「中国(中域)」に含む記述がある『穀梁伝』を使って、『公羊伝』を読み替えた。注釈と言うか、思いっきりミスリードなんだが、現代人までを騙し通してきたようだ、と。
春秋時代と言えば、まず孔子だ。今日の孔子のイメージは、朱子学・陽明学で、士大夫の理想として化けてしまった。
しかし後漢の「緯書」にも、いろんな孔子が登場する。『孝経鉤命決』では、口は海、背は亀、掌は虎だと書かれている。
戦国時代の始儒教は、地方性が豊かで、いろいろだ。斉では孔子は大切だが、他の国では、くさした。賢人だと言われたり、未来の見えない馬鹿にもなったりする。
戦国時代の領域国家は、新石器時代以来の文化地域と一致しているので、伝統の重みは統制に役立つ。しかし、後漢は文化的領域を越えて支配するので、伝統が敵になる。
遊侠は、都市や過去の領域国家の一部で活動していた。遊侠たちは、伝統的絆が強かった。独自性が強く、孔子を敬う奴らもいれば、くさす奴らもいて、バラバラだった。前漢の武帝が儒教を国教化しても、遊侠は独自性を保った。中央と遊侠は、並立のままだった。
後漢になり、遊侠らが儒教教典を議論することで、天下の中央との関係を築き始めた。これは宮崎市定先生の議論らしい。孔子は、「仁」以外にも、遊侠が大切な「勇」を重んじたし、「智」の話もした。「文人」として評価されるばかりではなく、孔子は遊侠でもあったのだ。
■第7章 戦国時代の史実
合従(縦)連衡(横)の時代だと言われる。
秦に対抗して南北(縦)に連合するのと、秦と結んで東西(横)に手を結ぶと理解されがちだが、違う。綺麗に領地が並んでいる、面の支配など、なかなか存在しなかったからだ。
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平勢隆郎『都市国家から中華へ』から抜書き。(4)
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なんか、すごい中途半端ですが、本をざーっと読み終わって、だいたい満足してしまったので、抜書きは終わりです。
春秋時代、戦国時代の具体的な歴史の流れについては、今のところ興味の対象外なので、抜書きすることはしません。
今回の読書の大きな発見は、後漢の豪族官僚たちが儒教研究に熱心であることの、隠れた意味を知ったことです。新石器時代以来の独自性を、やっとのことで消して、天下を均一化する作業だったのですね。
本の表紙をめくったところに、新石器時代の文化区分の地図が載っているので、それをメモって終わりとしたいと思います。
中原区(東が秦で、西が河北。東西に分けることも可)
海岱区(河南、青州・徐州)
江浙区(いわゆる呉越)
両湖区(のちの荊州)
巴蜀区(のちの益州)
甘青区(のちの涼州)
雁北区(のちの并州)
燕遼区(のちの幽州)
どれくらい権威のある分類なのか分かりませんが、こんな感じ。
言われて見れば、三国時代に割拠するときも、だいたいこんな分かれ方で、勢力が立つんですよね。 そして、見ていて気づくのが、洛陽の位置の不安定感。 中原区の東というか、海岱区の西というか、両湖区の北というか、江浙からも伺える北西というか、微妙な位置にあって、ソワソワします。そりゃ、守りにくいよ。関羽にも劉曜にも脅かされるよ。
王莽の簒奪で悔しい思いをした光武帝が、頭脳の暴走に任せて「周にならえ」と理想を掲げちゃって、どっち付かずの微妙なところに遷都しちゃったんだろう。 こういう境界線上だからこそ、どんな文化圏の伝説も、詭弁を使いながら吸収できたんだろうけど。コテコテの偏った地域とかだったら、無色に折衷的に振る舞うことなんか、できなかったんだろうから。呉楚七国ノ乱の再来への牽制になるし、根拠地だった南陽郡にも近いしねえ。だが、儒教を愛した劉秀の先走りですな。
自分で書いてておかしいけど、天下の中心である洛陽があちこちの境界線上とは、皮肉な物言いだ笑。でも、この気持ち悪さが『三国志』の凄惨な流血ドラマに必要な舞台なのだね。080518
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