三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
渡邉義浩『後漢国家の支配と儒教』の行論。(1)
渡邉義浩の著作が、どんな議論を進めているか、ざっくりとした概略だけでも追いかけます。とても勉強になる、いい本でした。大学図書館で借りてきたんですが、『三国志』に関して学術論文レベルを読んだのは、これが初めてです。
ぼくは学生時代の専攻が日本史学だったので、研究史の取扱に免疫があり、楽しく読むことができました。マルクスに照らした、時代区分や生産形態の話が、どうしても戦後史学の主流になるんですが、それは日本史も東洋史も同じだったんですね。
あまりに日本史と同じような過程を辿っているので、通勤電車の中で読みながら、笑いが止まりませんでした。
渡邉氏は、興味の出発点が『三国志』にあると仰っていた研究者なので、マルクスの賛美にも克服にも流されることなく笑、『三国志』の前史にあたる後漢を、三国志ファンが知りたかったことを代弁するように論考にして下さっていました。議論の幹だけでも、メモします。
第1章 白虎観
■「儒学」と「儒教」
教説なのか宗教なのかという議論が、盛んだ。
日本では、「儒学」として捉えることが多い。情意的な信仰・願球も、見神や救済に達するという目標もないからだ。修養法の体系、倫理教説の体系として見るべきだとされる。
同じように「儒学」として見る方法として、政治秩序への従属が指摘される。王権の誇示・社会的意図に発するものが多く、封禅や郊祀はその例というのは、池田末利。

中国や欧米では、「儒教」として、捉える者もある。グラネは「おおやけの宗教」だとし、「皇帝は祭祀する最高の宗教的かしら」だと言う。任継愈は「董仲舒によって神学的目的論が加えられ、宋明で儒仏道の3教合一され、儒教が完成した」とする。
日本でも、宗教と捉える研究者はいる。板野長八は「図讖と孔子教が、光武帝のとき結合した。人道の教えを説く聖人孔子が、図讖を前面受容し、天道を説く呪術の最高権威となった。即位・政策・封禅などは、図讖に由来する」と言った。
加持伸行も宗教だとし、死に対する説明として『孝』があり、その上に家族倫理・社会倫理(政治理論)を作り、宇宙論・形而上学を発展させたと言った。

渡邉氏は、「儒の国化」と「儒の官化」を分けて論ぜよという冨谷至には批判的で、そうやって教説と宗教に分けられるものじゃないと言う。
こうした「儒教」の諸要素を、溝口雄三は10項目に洗い出した。(1)礼制・儀法・礼観念、(2)哲学思想、(3)世界観・治世理念、(4)政治・経済思想、(5)指導者の責任理論、(6)教育論・学問論・修養論・道徳論、(7)民間倫理、(8)共同体倫理、(9)家族倫理・君臣倫理、(10)個人倫理。
この「羅列的な類型論」に比べ、「累層的」に5段階を示したのが加持氏で、(1)原儒時代(孔子以前)の死への不安に対処する呪術、(2)春秋戦国に、生命論としての「孝」を根底に儒教が成立し、(3)漢から唐に家族論・政治論が形成されて、礼教性を獲得した経学となり、(4)宋学で宇宙論・形而上学が形成されて、哲学となったが、(5)現在では「孝」以外の、礼教も哲学も崩壊した、と言う。

ここまで研究史を引用しておいて、渡邉氏はこの議論を保留する笑
結論が出そうにないので、儒教の在り方(歴史的存在形態)を話そうと言い出す。そのためには、「儒教の国教化」が措定される漢代の検討が最優先である、と。その契機を、後漢の白虎観会議に見るのだ、と。

■前漢武帝から王莽までの儒者
武帝親政までは、黄老思想が中心だった。
董仲舒が「対策」を提出してから、儒者が台頭する。董仲舒は、「高廟園炎対」してしまったのは、『春秋公羊伝』によれば、武帝の親政に対する天譴だと、政治批判をした。「天人相関説」だ。
董仲舒は、武帝の不興を買い、官位は低かった。当時の儒者には「大愚」と言われ、董仲舒は官僚としては敗北者だった。
ただし、董仲舒が言った天によって漢を正当化するという、議論の前半部分は武帝に嘉納され、五経博士設置のきっかけになった。国教化とは程遠いが、インパクト0でもない。

董仲舒と好対照なのが、曲学阿世だと言われた公孫弘。彼は、武帝にへつらって、「文法・吏事」を「縁飾」する「儒術」に長けていた。結果、高官に上り詰めた。董仲舒とは対照的で、武帝の絶対的な支配を粉飾する正当性を提供するのが、この時代の「儒教」だったことが分かる。

武帝の死後、「塩鉄論争」が行われた。3つの対立として論じられる。(1)塩鉄を専売して統制経済をめざす桑弘羊と、儒教的な農本主義をめざす賢良・文学、(2)法家と春秋公羊学、(3)桑弘羊ら外朝権力と、内朝の霍光。
桑弘羊が勝った。これは、武帝のとき政治に従属し、「稼穡」を認めてしまったゆえの儒者の敗退だった。『管子』とディベートしたとき、論拠が甘かった。董仲舒に続いて、儒者は再び官僚として負けたのだ。

霍光は桑弘羊を倒し、宣帝は霍光を倒した。宣帝は親政して、「石渠閣会議」を主催した。
これは、『春秋公羊伝』に対して、『春秋穀梁伝』を顕彰するのが目的。この『春秋穀梁伝』は、宣帝が好んだから、口述されてきたものが成書されたとされる書物だ。
日原利國は、「公羊伝は、社会規範の基礎を家族道徳とした。しかし穀梁伝は、国家規範を家族道徳から分離した。善は道徳が根拠かもしれないが、正は法が根拠なんだぜ、と穀梁伝は説いた」とまとめた。
儒者は、法家思想を取り込み、宣帝の「王覇雑揉」の政治を正当化する政治思想に甘んじた。変質を犯した。
宣帝は『穀梁伝』を使って、祖父も父も殺され、それでも即位した自分を正当化した。『穀梁伝』の学官も立てられた。
だが、次の元帝になると、『穀梁伝』は一気にしぼんだ。

哀帝のとき、五経博士と劉歆が衝突し、今文学と古文学の4回の論争があった。テーマは古文学である『左氏伝』の立学を許容するか。
劉歆は『左氏伝』に学官を立てたいと言ったが、支持が少なく、左遷された。康有為には、「劉歆が『左氏伝』を偽作した」とまで言われてしまう始末だが、後の研究者が否定をした。

葬り去られたかに見えた『左氏伝』だが、王莽が古文学に味方したので、平帝のときに台頭した。王莽が『左氏伝』を支持したのは、またもや自分の政治の正当化に便利だったからだという。
重澤俊郎曰く。今文学『公羊伝』は、孔子を尊重して、漢皇帝の神聖を保証した。一方で、古文学『左氏伝』は、周公を尊重したし(漢を保証する孔子より、周公の方が格上)、王莽の祖先を顕彰する記事があり(王莽は胡広の末裔)、熾烈に尊王を説くので(簒奪者の政権であろうが)権力の絶対化を正当化してくれた。
まとめると、王莽政権を保証するために、劉歆が『左氏伝』を体系化し、平帝のとき官学にさせた、ということ。

前漢の儒教は、国家権力に密着するために変質し、権力に迎合した政治思想だったと、渡邉氏は結論づけた。
渡邉義浩『後漢国家の支配と儒教』の行論。(2)
■符命と図讖
王莽は『左氏伝』の他に、「符命」と呼ばれる予言書を利用した。
井戸から「莽よ皇帝となれ」というフダが発見されたという、アレのこと。世俗化した儒教的な「天」の命に対して、文人たちは賛美した。揚雄は「劇秦美新論」を著した。王莽は、滅亡直前まで、符命に頼り続けた。

劉秀も、讖緯思想を重視し、図讖によって政治をした。
いつも謹厚で、兄の補助に回っていた劉秀は、はじめ図讖を「戯れ」と笑っていた。だが兄が殺され、自らトップに立ち、政権の正当化が必要になると、途端に符命に傾倒した。即位のとき、後漢の支配の正当性として、公式に符命が採用された。

こういった図讖は、今文学の巻き返し運動と捉えられるそうだ。
古文学派には、「図讖はウソです」と言って、光武帝に斬られそうになった桓譚みたいな人もいた。武帝に恐れ入ってしまった董仲舒に比べると、アグレッシブだ。
前漢に比べると、外圧的な儒教理解から、内在的な儒教理解へと、質的に移ったと言える。前漢は、はじめに国家ありきだった。しかし後漢は、国家の正当性を世俗化した儒教に求めた。すなわち、はじめに儒教ありきだ。
換言すれば、後漢が正当とした儒教の一派(図讖)に、反発する儒者が出てくるのを許すくらい、国家は儒教を必要としていた。すなわち儒教は、国家の正統思想として地位を確立し、国家の支配理念として、皇帝より承認された。
「誰だよ、前漢武帝が儒教を国教化したなんて、高校世界史の授業で教えさせたのは?」という、渡邉氏の指摘なわけです笑

■白虎観会議
讖緯は革命思想なので、政権安定後は危険だった。
後漢は、王莽のときの、今文学と古文学の論争を、決着させねばならなかった。王莽を否定してナンボの後漢なので、今文学を推奨したものの、強力な君主権のためには古文学の方が都合が良かった。訓詁学としても、古文学は優れていた。
そこで、章帝の西暦79年、「石渠閣会議」に倣って、「白虎観会議」が開かれた。討議の結果は、班固の『白虎通』にまとめられた。

日原利國は「今文公羊学のみ採用して、古文左氏学をことごとく退けた。しかし、古文学を無視できない。古文学に反論して地位を保つため、けっきょく今文学は讖緯説を取り入れて、宗教的変質を遂げてしまった。『左氏伝』と何ら変わらない国家主義への傾倒をして、今文学は体制正当化の理論として完成した」と白虎観を位置づけた。

白虎観の議論の中心は、礼制だった。礼の規定は家族道徳(形式)なのに、背後では権威主義が根拠となっている(原理)ため、理想と現実が背反&二層断裂化したと言えるそうだ。
このおかしさを許してしまったのは、外戚のパワーだと渡邉氏は説く。
皇帝権力を裏付けるための白虎観が、実は外戚擁護へと変質を始めていた、と。外戚については、本の後章に書かれていますので、そのとき書き写します。
ちなみに班固は、外戚・竇憲の与党で、竇憲が失脚した後で暗殺された。話が綺麗すぎる気がしますが笑

■馬融と鄭玄
今文学が国家公認、ただし古文学の訓詁は兼修する。こうした儒学を集大成したのが、馬融と鄭玄の子弟だ。

『後漢書』で馬融は、(1)一度は断ったくせに、外戚・鄧氏に阿附したこと、(2)梁冀に阿諛して李固を誣告し、奢侈で放縦な生活をしたこと、の2点を酷評された。馬融は、兄の娘を娶っていた趙岐にも「士の節がない」と批判された。
権力に擦り寄ったのは、前漢の多くの儒者と同じだ。そもそも白虎観が、外戚擁護を許してしまったのが原因なのだ。それなのに、「濁流」として蔑まれた。

鄭玄は、馬融から『周官伝』を伝授されたのに、『周礼』に注を付けたときに1条も馬融の説を引用しなかった。学問・人格的に、誹っていたらしい。馬融を殺そうとした、という伝承が『世語』にあるほど。
杜密に見出され、盧植に師事した。のちに盧植の紹介で、馬融に弟子入りした。馬融が死んだとき、鄭玄は私塾を去るが、この年に第1次党錮の禁。つぎの第2次党錮の禁で、杜密に連座して14年も禁固。官につけず、学問に専念した。
彼は『六芸論』で言った。
後漢は、「経」が説くあるべき儒教国家としては、完全に崩壊してしまった。「普遍的意義にある知的王国」を構築せよ、と。
「党人」が、独自の仲間社会から「貴族制」を模索したのとは違い、鄭玄は理念的な国家を、頭の中に描いていた。
白虎観で決めた「後漢を裏付ける儒教」は、鄭玄がこんなことを考え始めた時点で、もう台無しだった。

■鋭意、迎合する政治思想
渡邉氏の解釈では、漢代の儒教は、国家のためには自説の変質も厭わないもの。宗教でもなければ、学問でもない。倫理性・自然観・哲学思想などは、二の次だった。
かろうじて学問の純粋性を保ったのは、失脚後の董仲舒、鄭玄、図讖に反発した儒者たちだけ。彼らは皆、政治的には成功しなかった。

渡邉氏の言う「儒教国家」とは、(1)政治思想として国家を正当化する「儒教」が、国家の支配理念として承認され、(2)儒教が官僚層に浸透するだけでなく、(3)支配の具体的な場にも出現し、(4)そういった支配を歓迎する在地勢力によって受容された国家だ、そうです。
■思想史は分からないけど
第1章の感想を書き留めておきます。
まず、山口久和先生の講義で聞いたんだが、「古文学」とは始皇帝の焚書を免れた書物で、「今文学」とは焚書以降の書物。 古文学は、書体が隷書に統一される前の本だから、読むのが大変。訓詁に優れていたのは、納得できることです。
ちなみに、「2字の名前はNG」というのは王莽が言い出したことらしくて、『三国志』の人たちが1字の名前なのは、その名残だそうです。「操、丕、叡」とか、確かに1文字です。

渡邉氏の論文は、「儒者を政治的な立場から」論じるものなので、まだぼくも付いていけます。思想史に突入されると、『三国志』前史を知りたいという興味から逸れてしまうので、ありがたいことです。
ただ、極めて世俗的なニーズで、『公羊伝』『左氏伝』『穀梁伝』が編集されていたことにショック。
そりゃ、思想史家からすれば、「渡邉論文は、儒教経典を不当にスポイルするものだ」と言えるんだろうけどさ、高尚ぶってばかり居られないよね。国立大学だって法人化され、博士課程を修了したフリーターがうようよして、硬派な学術書は高額だから図書館くらいしか買わねー!という現代日本を見れば、分からないでもない。
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