渡邉義浩『後漢国家の支配と儒教』の行論。(3)
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第2章 官僚
■豪族政権
劉秀は南陽の豪族で、功臣も豪族出身だ。だが、私権力である「豪族」と、唯一無二の公権力である国家を、無媒介に併置するのはおかしい。媒介には「清」「孝」といった「儒教」的理念があり、「民の望」となったとされる。次代の貴族も、逸事・美談は(虚構でも)影響し、郷挙里選として漢代にも生きる。
■枢要官の人的構成
中央官制と地方官制に大別できる。中央は、内朝(尚書)と外朝(三公・九卿)に分立し、前漢武帝以降、内朝に権力が集中する。尚書を掌握した録尚書事、尚書の長官である尚書令は要チェックだ。
後漢は4つに区分できる。(1)外戚宦官が政治を壟断しなかった3代章帝まで、(2)外戚宦官の抗争が続いた4代和帝から党錮の禁まで、(3)後漢政権と士人の関係が質的変化した黄巾の乱まで、(4)黄巾の乱から滅亡まで、をそれぞれ初期・中期・後期・末期と渡邉氏は名づけた。時代の呼び名を踏襲して引用する。
「豪族」とは、大土地所有し(経済)、同姓が有力者を中心に集まり(同族結合)、賓客等と任侠的結合をして在地社会に規制力を持ち(社会)、代々官職に就く(政治)という特徴がある。
登用には、毎年人口に比例して推薦される「常挙」(孝廉・茂才)と、天変地異のイレギュラーで皇帝が直接策試する「制挙」(賢良・方正・直言・極諌」の4科や、至孝・有道など)がある。
名声には、清・廉のタイプ、仁・愛・篤のタイプ、孝・忠・正のタイプ、礼・節・簡・直・俊・義のタイプがある。
これらの基準を使い、渡邉氏は以下を指摘する。
まず『後漢書』が豪族を形容する「貧」は、レトリックなので信用できない。「貧」のくせに、客を養い、驢を飼う。豪族性を隠し、清貧というポーズを取り、その種の名声獲得に熱心だった。おまけに皇帝に従順な、孝・忠・正という態度を求められたので、顕官はそう振る舞った。
後漢は建国後、南陽郡の豪族社会を優遇した。荊州の次には、洛陽の河南郡を含む司隷が優遇された。「帝郷」南陽郡と「帝城」河南郡は検地が難しい地域として認識された。外戚の竇憲・閻顕・竇武は、司隷出身だ。
前漢の都だった扶風郡を中心とする三輔の「旧族」も、国家の敵対勢力に向けた軍事拠点として重んじられた。
一方で、弘農・汝南・頴川は、このときはまだ特別視されていない。中後期には、儒教的官僚を輩出して、豫州が台頭するのだが。いちおう弘農郡は司隷だけど、傾向としては豫州と似てる。
豫州の沛国・汝南・頴川は、後期は荊州・司隷と並ぶ三公を出す。魏晋の貴族の中核となる。ここは、桓帝・霊帝のときの人物評価の中心地で、「汝頴優劣論」なんてのも出るくらいだ。門閥化の傾向(祖先の官職が高い人が、高官につく)が強いのも、ここだ。
光武帝が儒教を尊重したので、今文学を相伝する「家学」が官僚では栄えた。文化史としては、古文学が隆盛と言って誤りではないが、高官は今文学だった。彼らの多くは豫州の人で、反外戚の態度を取って門閥化し、南陽の功臣や三輔の外戚を駆逐した。
■楊氏と袁氏
門閥化の好例が、弘農の楊氏と、汝南の袁氏だ。楊氏は家学の「欧陽尚書」を強みにして、三公を出し続けた。袁氏は、「孟氏易」を使ってたが、袁逢・袁隗のときは、書名が見えない。宦官・外戚との結託や、反宦官の名声で勝ち続けた。袁隗が、「宗」である中常侍・袁赦と結託したのは、変容の事例だ。袁氏の中にも反省勢力はいたが。
楊震に手が出せなかったのは「名儒だから」だそうなので、外戚・宦官・皇帝さえ遠慮させたのが、「経学」の知識と言える。
楊氏・袁氏には、天下に「門生・故吏」がいた。家学は、全国の州に人的結合を植え付け、儒教的官僚を支えた。彼らの支持があればこそ、安帝は楊震の「名儒」たるを怖れたのだ。
「門生・故吏」がついてきたのは、官吏登用制度(儒教的察挙体制)に根拠があると、渡邉氏は考える。引き上げてもらうには、師匠の家学をマスターすることが必要条件だった。個人的結合として、支えあう関係だった。
実態は、豪族間の恣意的な人選だったとしても、「孝行」などの儒教的姿態を取り続けた。儒教国家である後漢は、豪族層を儒教的官僚として(望むらくは儒教的官僚に変質させて)取り込む支配形態なので、楊氏・袁氏のような「四世三公」を生み出したのだ。これが「官僚層への授業の浸潤」に見えなくはないだろう、と渡邉氏は指摘する。
第3章 支配
■「徳治」から「寛治」へ
前漢の「循吏」がやることが「徳治」と称され、儒教的支配の典型とされた。勧農による小農民の保護・育成で、国家の安定を図り、学官を建てて儒を教化したのが特徴だ。
武帝のとき、法治する「酷吏」が現れて、法に違反する豪強を処断したが、小農民保護をやったという点では、「循吏」と同じだ。
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渡邉義浩『後漢国家の支配と儒教』の行論。(4)
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後漢の「酷吏」は、7人が『後漢書』に専伝が立つ。プラス「党錮」に分類された張儉も、同類だ。彼らは、外戚・宦官による国家の私物化に、法を厳格に適用した者だ。しかし、前漢のように「強幹弱枝」的な徙民政策で、豪族の勢力を殺ぐことはやってない。
後漢の「循環」は、3パタンある。 まず、前漢と同じように小農民を保護・育成した人。王景・任延・第五訪。これも前漢と同じように、儒教による人民強化政策をやった衛颯・任延。この2つは、辺郡で行われているのが特徴。廬江・九真・張掖・武威で行われ、蛮夷の懐柔が目的だったと指摘される。
3つ目は、「寛仁」で「吏人」に臨む支配だ。自分の属吏に罰を加えず、訴訟にも刑罰を加えない。劉寛は「温仁」とされ、蒲鞭でソフトに打った。鍾離意は、盗みを働いたのに許した。府県の現地勢力に迎合した人たちだ。訴訟のときも「私の教化が到らずに」と言い、太守が責任を感じるくらいだ。
この方針は、光武帝・明帝が「吏事」を重んじたのに対し、章帝・和帝のころから推進された。これは、「寛仁」を主張して、緩刑を主張した、後漢の儒教の影響だろう。
桓帝のときの南陽太守・王暢は、この転換をもろに体験した人。はじめは「清実」で「厳明」な働きぶりだったが、南陽は「貴戚」が多かったので、手心を加えるしかなかった。豪族を代表する功曹(従事)に屈して刑罰を加えない「寛」を強いられた。 王暢は、「五教在寛」という、儒教諫言によって、実質は脅された。典拠は『尚書』で、章帝のとき引用されたのが始まり。後漢の儒教は、豪族の勢力伸張と、その豪族を利用した後漢の支配を正当化する装置だった。県レベルまで浸透して、碑が残ってる。
豪族(地域の人的結合した共同体)と国家の接合点として、「里父老」が確保された。小農民を直接支配するより、豪族から「単銭」を出させたほうが、現実的だった。
第4章 祭祀
■民間祭祀と国家
「劇場国家」とも称され、自然発生した儀礼を国家祭祀は取り込んだ。戦国時代の魏の水利に事例がある。始皇帝は、封禅したとき、諸侯がバラバラに持っていた祭祀を一元化した。 劉邦は、漢の社稷を作ったが、山川の祭祀は秦を踏襲した。「七巫」を掌握して、アニミズム的段階から、霊魂崇拝・祖先崇拝、さらに天上界・神の奉仕者・霊域・生活方式の崇拝まで取り込んでいった。郡国に皇帝の廟を築いて、皇帝権力の下に祭祀をまとめた。
■儒教的祭祀の形成
武帝の封禅が、祭祀による権力確立政策の頂点だ。始皇帝のように、方術的な神秘色が強く、自己の幸福追求を残していた。
下って、元帝・成帝のころから儒教官僚が台頭し、礼教理論で方術を批判した。郡国廟は、儒教官吏が「疎遠・卑賤の地方官が、天子の霊を祭るとは、礼に反する」と文句をつけ、廃止された。前漢の皇帝は、はじめの呪術・超人的な権威から、儒教的な人道の最高権威になった。
王莽は、長安の南北郊を復活し、後漢の郊祀制度の基礎を築いた。古文学の劉歆の主張で「七廟制」が確立され、儒教で君主権力を象徴する建物も王莽によって建てられた。 王莽は、前漢の国家祭祀をパクって、簒奪したのだ。
光武帝は、王莽がつくった儒教的祭祀を受け継ぎ、讖緯思想で自分の権威を裏付けた。内容は違う(正当化するのが王莽か劉秀か)が、方法は同じだ。 王莽との違いは、光武帝が封禅をやったこと。武帝に比べると公開的で、個人の幸福ではなくて儒教的な礼説に基づいた。 日蝕などの災異は、3代・章帝までは「朕の不徳のせいだ」と言い、皇帝が儒教国家の永続的な最高祭祀者ことと整合した。三公を罷免するなんて、セコいことをやってない笑
孔子廟は、漢初までは国家と無関係に祭られた。劉邦が死の1年前に1度来ただけで、前漢の皇帝は、孔子を無視ってる。祭祀が公認されたのは、元帝のときだが、国家は金を出していない。 光武帝は孔子の廟と子孫を大切にして、後漢の皇帝は、代々親祭した。特に章帝は盛大に祭った。
■在地勢力と祭祀
124年の安帝を最後に、孔子廟の親祭が途絶えた。
孔子廟に現存する碑によれば、桓帝の153年に魯相が「廟が荒れまくってるから、祭費を国家で出してくれ」と頼んだ。つまり桓帝の頃、後漢は儒教国家の祭祀権を、喪失しつつあったことが分かる。 対照的に官僚層は、「孔子を捨てたらダメだ」という意識を持っていることも分かる。そして、再建の要請が孔子19世の孫(孔麟)からも出ているのは、孔氏の地位向上の狙いが見え透いている。
国家を私物化する皇帝の掌中から、自己を儒教的倫理の体現者として位置づける官僚(党人)に、孔子の祭祀権が移行している。 そのころ桓帝は、老子の夢を見たと言って、「老子銘」なんて造らせていた笑
儒教国家の権威は、「党人」そして「名士」の自律的な秩序への移り、貴族性の淵源となる。在地社会で、後漢に代わる権威として顕在化して行く。
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