三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
渡邉義浩『後漢国家の支配と儒教』の行論。(5)
第5章 外戚
東晋次は儒家思想の「親親の義」が、外戚伸張の原因だと言った。
内朝と外朝が分立し、内朝の近衛兵力を独占したことが、外戚の権力構造だとされる。霍光のように、将軍の屯兵という形を取ることも多い。

■外戚の出自と「春秋の義」
後漢の外戚は、豪族の出身が多い。竇氏・鄧氏のように、失脚して返り咲いた一族もある。再生産性が特徴の1つだ。次代の生母でない皇后ばかり(例外は明帝母と少帝母)であるのが特徴の2つ目だ。この2つの特徴は、前漢と好対照をなす。

皇后の決定は、選例で採択されることが多いが、これでは再生産性を説明できない。
劉秀のときは、婚姻政策で南陽での権力確立をした。しかし王莽の反省から、明帝が馬援を「雲台28将」から外したように、外戚を警戒した。皇帝の側は、外戚の再生産を嫌っていたことが分かる。

梁商の娘の立后の正当性は、有司が言うには『春秋公羊伝』の「娶るには大国を先にす」だった。外戚を「大国」に準える解釈は白虎観で決定されたことで、『白虎通』に見える。儒教的正当性が保証していたのだ。
桓帝は田貴人が好きだったが、陳蕃は「卑微より良家(皇后を出した実績がある家)でしょ」ということで、竇氏が皇后になった。桓帝は、儒教倫理に押し切られ、不本意だった。陳蕃は、宦官に抵抗しようとし、その根拠を白虎観に求めた。皇帝は、儒教的理念が正当の根拠なのだから、逆らえなかった。
※桓帝が、孔子廟より老子が好きになったのは、このせい?雑談だけど、桓帝は「後漢の皇帝権力」というものを嫌っていたんじゃないか。皇帝が皇帝を嫌うとは矛盾しているが、党錮の禁を許しているのも、天下国家を論じるのが嫌いそうなのも、これが原因かも?

■外戚の権力構造
光武帝・明帝・章帝のときは、未創設。
和帝の竇氏から、皇太后の臨朝称制を背景に形成された。鄧氏は「 謙譲」して和帝に逆らわなかったが、これは鄭衆を使って竇氏を倒した和帝への屈服だろう。
和帝が死ぬと、虎賁中郎将に過ぎなかった鄧騭が、車騎将軍・大将軍になった。羌に大敗したくせに、である。竇氏の反省を踏まえ、鄧氏は「天下の賢士」を招いた。鄭衆・蔡倫も取り込み、あの楊震を招き、宮城谷氏の賞賛を受けた笑

皇帝権力(+宦官や乳母)と、皇太后(外戚の一族)は競合する権力であった。
幼帝は西面し、皇太后は東面した。外戚は「擬似的な皇帝権力」を行使したが、皇帝が成人すると敗北した。孫程を使った安帝が例だ。もし真性の皇帝に勝つには、王莽の真似をすればよかったが、後漢の外戚はそこまでやらなかった。
「定策禁中」から、幼帝を好んで選んだのは、このためだ。皇帝に「子供が出来ない」というのも、外戚の仕業だったりする。

ただし外戚にも、例外がいる。
大将軍・耿宝は、安帝の嫡母が追尊されたことが権力の淵源なので、他の外戚(先帝の皇后だが、皇帝の母でない)とは質が違う。安帝親政のとき、耿宝が邪魔がられなかったのは、彼が宦官や乳母に近い立場だったからだ。この立場を貫くように、耿宝は皇太后が後ろ盾の閻顕に葬られた。
梁商は、親政下なのに、外戚として大将軍になり、これは前例がなかった。梁氏が「先帝の外戚」だと見られたから、大将軍になれた。だが梁商は、「病気ですから」と断った。親政の前に、外戚が脆いことを知っていたからだ。別に、人徳のせいじゃない笑
巨魁・曹騰と結んで儒教官僚を登用し、バランスをとった。順帝の信頼を勝ち取った。梁商は「皇太后が淵源」という外戚権力ではない。

順帝の死後の梁冀は、典型的な外戚だ。李固の反対を無視って、わざと幼少の桓帝を立てた。その梁冀も、成長した桓帝に抵抗できずに殺され、「朝廷が空となる」まで一派が掃討された。外戚は親政に敗れるというお約束を、梁冀は守った笑
梁冀は、国家の私物化がひどく、後漢の皇帝権力そのものの正当性を著しく損耗させた。梁冀が出来ることををやり尽くした外戚は、宮中を掌握した宦官に、もう勝てなくなった。
外戚に勝った宦官は、党人と対決することになる。党人は、皇帝権力の延長である宦官を根本的には打倒できず、竇武も陳蕃も破れた。外戚の最後っ屁となる何進も、宦官に負けた。

■外戚の正当性と儒教
前皇帝の嫡妻権が、なぜそんな偉いのか。
根拠は、またもや白虎観だ。「王者は臣として扱っていけないものが3つある。二王の後、妻の父母、夷狄だ」と。妻の父母は、宗廟で皇帝と一体化し、皇帝の家を万世に伝える役割があると書かれている。『春秋』の原義とはズレるけれど、決まったものは決まった笑
渡邉義浩『後漢国家の支配と儒教』の行論。(6)
西嶋定生は、安帝紀から、皇位継承の儀式を明かした。祖廟親謁の儀礼をやり、光武帝を媒介にして上帝の接続し、皇帝の権威を体得した。これで、受命思想と世襲制が矛盾なく通じる。
皇太后が次代の皇帝を選べるのは、「宗廟の重き」「継嗣の統」を皇帝と一体化して有しているからだ。皇統を絶やさないために、皇帝と同じだけの決定権があった。

白虎観のお墨付きがあるから、儒教的官僚が外戚を頭ごなしに批判はできない。示威的な政治をしたときだけ、批判対象になった。だから、鄧氏は抵抗を受けなかったし、李固は梁商の従事中郎になって協力して導いた。李固は梁冀の私物化には反発したが、皇帝先帝の権限は承認せざるを得なかった。
杜喬は、外戚の「功なき封侯」を批判しているが、外戚そのものは擬似皇帝なので、批判できない。

儒教官僚は、宦官は生理的にNGだが、外戚は白虎観が権力の源泉なので、結合しやすかった。
陳蕃と竇武が好例で、彼らは宦官を打倒するために、外戚権力や官僚輿論を利用しあった。何進と袁紹が結びついたのも「必然」のうちだ。
外戚=濁流、というステレオタイプは間違ってますよ、と渡邉氏は指摘する。とは言え、皇帝も宦官も外戚も、私物化に走るため、官僚が自律して、名士や貴族として主導権を握っていく。
第6章 宦官
■宦官の権力行使形態
「家内奴隷」だと言われ、濁流として「宦官豪族」と設定され、「君寵」で進出したんだとも位置づけられる。霊帝に「張譲は我が公、趙忠は我が母」と言われるくらいの個人的な結合をした。
宦官の権力は4つの形態がある。

まずは、皇帝の秘書官。上奏内容の検討、拒否や取次、詔の下達。
次に、選挙への請託。江京や李閏、曹騰や単超、曹節や張譲と進み、子弟が官に就いた。婚姻し、「宦官派」とも呼べる勢力を築いた。皇帝が国家を指摘に運用する手段としての動きだ。
3つ目は、軍事力の掌握。孫程は18人の宦官で挙兵し、尚書が管轄する虎賁・羽林で外戚の閻氏を討った。この時点での宦官は、まだ軍事力を持ってない。孫程は順帝の怒りを買い、免官されたが唯々諾々とするしかなかった。
単超が梁冀を討ったときは、黄門令の具瑗が虎賁・羽林を動かし、司隷校尉ともに戦った。孫程よりは軍を動かしやすそうだが、まだ皇帝権力ありきだ。
党錮のときの曹節は、千余人の禁兵を掌握して竇武対抗した。人数こそ増えているが、皇帝権力が背景にあるのは不変。

4つ目は、権力装置の創設だ。曹節以降は、「詔」で逮捕した人を閉じ込める黄門北寺獄を作った。宦官の政治利害が反映され、党錮ではここで弾圧された。さらに蹇碩がトップで西園八校尉を作り、司隷校尉を「督」して、大将軍も「領属」するほど強かった。皇帝権力を背景に強くなるという、質は同じままだった。
宦官は、内朝を掌握したんじゃなく、皇帝個人に寄りかかったものだった。もっとも、西園八校尉を作った翌年に、袁紹に皆殺しを食らってしまうが。

■儒教的官僚と宦官
宦官が『周礼』に登場するように、存在そのものが悪なのではない。曹操が「宦官は必要悪だろ」とコメントしたのも有名。
孫程は、賄賂や選挙への関与で私物化に走っていない。むしろ、私物化に走る中常侍・張防を弾劾している。宦官=濁流は誤解だ。孫程は、張防に陥れられた儒官・虞詡を救い、逆に孫程が免官されると儒者・周挙に救われた。
曹騰は、「秧暠は立派な人だ」と褒め、張温・張奐らを推挙している。桓帝の五侯出現までは、宦官はそんなに濁っていなかった。政治への参加も、当然視されていた。
※余談だが、宦官を本格的に濁らせたのは、桓帝なのだね。桓帝が白虎観を頂点とする儒教国家を否定し始めたので、その爪牙として宦官がワルモノになったのでしょう。王朝を自殺させた張本人だ。

単超以降、一族を勝手に顕官につけて私欲を貪った。しかし宦官は皇帝権力の延長だから、儒教官僚には本腰が入れられない。皇帝批判になってしまうから。
ついに我慢ができず、李膺が登場し、恩赦(皇帝の命令)を無視してまでも宦官と対立した。張儉は、侯覧を弾劾して、その弾劾を皇帝が却下したのに、刑を執行してしまった。
※これも余談だが、袁紹が宦官を殺して回ったのは、皇帝の手足を切り落としたに等しい。劉虞を擁立して、新王朝を建てようとするんだが、彼は大いなる反逆者だったんだね。
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