三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
渡邉義浩『後漢国家の支配と儒教』の行論。(7)
第7章 党錮
川勝義雄は、「党人」を中核とする「清流」豪族が、六朝貴族の母体だと言った。曹丕は、宦官が官位を恣意的に決定したように、党人が名声を勝手に定めたことを批判したが、それが彼らのIDだったりする笑

■「清流」・「逸民的人士」・「権道派」
川勝氏は、儒教の体現者たる豪族が、小農を支持したら「清流」で、豪族化したら「濁流」だと言ったが、こんな類型論は成立しない(と渡邉氏はいう)。それより、宦官と対決したら「清流」で、宦官に阿附して高官に登ったら「濁流」だろう。
「逸民的人士」は、隠逸思想が流行したから、「党人」に重宝がられたものの、時代を切り開いて行く主体ではない。平たく言えば、無視して構わない。
吉川忠夫氏は、貴族はどっち就かずの「権道派」から生まれたという。陳寔・荀爽・王允・荀彧が該当するとするらしい。しかし、党錮を食らった前2人や、党錮が解かれた後の董卓との関係で、人を分類するのはメチャクチャだと渡邉氏は切り捨てた。

■後漢時代史における党錮の禁
六朝前史ではなく、後漢そのものを見た研究は少ないらしい。

党人は、宦官批判には慎重だった。州郡で辣腕を振るった黄瓊も、五侯の前では仮病だった。このように宦官と妥協する儒教官僚は輿論に支持されなくなり、公卿を脅かす「党人」が太学で登場する。
彼らは家柄の低い豪族の出身だ。これは、国政が私物化され、孝廉や学問では中央進出できないことに由来する。梁冀の死(159年)から第二次党錮(169年)までが「党人」が最も活躍した時期だが、要職にいるものは少なかった。「命をかけた上昇運動」を仕掛けないと、彼らにチャンスはなかった。
彼らの出身は、豫州と兗州で3分の2を占め、汝南・頴川・山陽が突出する。一方で、皇帝や外戚を出した、河南・南陽は少ない。また「交友」「門生・故吏」のネットワークで全土に政治集団が広がっていた。

■自立的秩序の形成
三公に準えた「三君」を設定し、自立的秩序を形成した。前漢にも、政治的敗者を「朋党だろ」と言って扱き下ろすことがあったが、今回は違う。メンバーに入ることを誉れとした。黄巾の乱まで、国家から締め出されるが、めげない。
「謡」という人物評価を根拠に、輿論を形成した。太学は「浮華」で内輪褒めをしてダラけ、儒者の風は衰えていた。宦官のせいで就職困難なので、不満を持て余した。学生は、政治的色彩を帯び、趙忠に敗れた朱穆や、皇甫規を救うためにデモをやった。

桓帝以降、名声が尊重されるようになった。在地社会の郡レベル、海内レベルなどが設定された。郭泰や李膺のコメントは、在地の輿論と、在地性のない「太学生」を中心とする「党人」の名声を調停する役割を果たし、公的な裏づけがないくせに権威を持った。
陳寔や李膺に「ダメだろ」と言われることを、国家に否定されるより畏れた。張儉が亡命すると、家を破って匿った。
でも後漢に登用される一縷の望みは捨てず、陳蕃を三君の最下位、李膺を三君より下(八俊の筆頭)に降ろしてまで、外戚の竇武と、桓帝の覚えがめでたい劉淑を立てた。虚しい努力に終わったが。
世代交代し、彼らの後継は「名士」となった。

「党人」の名声は、許靖と許劭が仲が悪かったように、主観的で、分裂性があった。排他性も含んでくる。それゆえに、一大勢力を築き、政治の勝者になることは出来なかった。軍閥=次代の皇帝権力とせめぎ合う運命だ。
曹操は「党人」を非難し、「冀州の連中は、褒めたり毀ちたり、ウザい。こんな風俗は改めろ」と命じた。 ※冀州を手に入れたのだから、袁紹を討った後だね。袁紹こそ、宦官を討った「党人」の代表格なのだから、この曹操の命令は象徴的だ。
渡邉義浩『後漢国家の支配と儒教』の行論。(8)
以上で、渡邉氏の本を読むのは終わりです。
ここまで見てくると、第二次党錮から黄巾ノ乱まで、何をやっていたんだ、という疑問が湧いてきますが笑、どうやら宦官が好き勝手やっていた時代のようです。
儒教が前漢末に本気で話題になり、王莽が実はレールを敷いたという基礎知識が得られてよかったです。白虎観があったことを知らず、単純に「清流VS濁流」という図式で後漢を捉えようとしていたのは、恥ずかしい限り。儒教官僚が何にそんなに拘っていたのかも、少しずつ自分の心の中に落としこんで行きたい。
章末に並んでいた参考文献を、順番に攻略していけたらと思います。論文を読むのは、本当に楽しいですね。080601
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