『晋書』列伝8より、「斉王攸伝」を翻訳してみた(1)
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2008年7月15日時点でがんばってネットで検索したけど、『晋書』司馬攸伝を翻訳しているサイトがなかったので、無謀にも初めての翻訳に挑みます。解体晋書さんでも、なぜか飛ばされていました。。
荻生徂徠の和点と、『学研新漢和大字典』だけが頼りです笑
さすがに実力及ばず、分からない箇所は灰色文字です。というか、全然分からなかったので、原文と対照させながら、ご覧下さい。。
『晋書』列伝八>文六王>齊獻王攸
齊獻王攸,字大猷,少而岐嶷。及長,清和平允,親賢好施,愛經籍,能屬文,善尺牘,為世所楷。才望出武帝之右,宣帝每器之。
斉献王・司馬攸。字は大猷という。幼いころから大柄で堂々としていた。長じては、性格は明るく誠実で、賢者に親しみ、施しを好んだ。経籍を愛し、名文が書け、手紙が巧く、世の手本とされた。 才望は(兄の)司馬炎の右に出て、(祖父の)司馬懿はいつも「この子は、大器だ」と期待した。
景帝無子,命攸為嗣。從征王淩,封長樂亭侯。及景帝崩,攸年十歲,哀動左右,大見稱歎。襲封舞陽侯。奉景獻羊後於別第,事後以孝聞。複曆散騎常侍、步兵校尉,時年十八,綏撫營部,甚有威惠。五等建,改封安昌侯,遷衛將軍。
(伯父の)司馬師には子がなく、攸が後継とされた。(251年に)王淩の征伐に従軍し、長楽亭侯に封じられた。 司馬師が死んだとき、司馬攸は10歳だったが、ひどく悲しんで周囲を感動させ、(孝行ぶりを)大いに称賛された。司馬師を継いで舞陽侯に封じられた。(義母の)羊氏を別殿に奉り、それ以後、孝行に励んだ。 また、散騎常侍、步兵校尉を歴任した。18歳にして、職務を滞りなくこなし、厳しさと優しさをよく具えていた。(九品中正の制度により)五等官となり、安昌侯・遷衛將軍に遷った。
居文帝喪,哀毀過禮,杖而後起。左右以稻米乾飯雜理中丸進之,攸泣而不受。太后自往勉喻曰:「若萬一加以他疾,將複如何!宜遠慮深計,不可專守一志。」常遣人逼進飲食。
(265年、実父の)司馬昭の喪のとき、哀んで正気を失い、その様子は(儒教が定める)礼を越えていた。側近が、米粒を丸めて差し出したが、司馬攸は泣いて受け取らなかった。 太后(実母の王氏)が強く諭した。「もし万が一(断食で)病気になったら、どうするんですか!どうか先々のことを深く洞察しなさい。かたくなに、父を弔うという志だけを貫いてはいけません」と。 常に人を遣わせて、無理にでも司馬攸に飲食をさせた。
司馬嵇喜又諫曰:「毀不滅性,聖人之教。且大王地即密親,任惟元輔。匹夫猶惜其命,以為祖宗。況荷天下之大業,輔帝室之重任,而可盡無極之哀,與顏閔爭孝!不可令賢人笑,愚人幸也。」喜躬自進食,攸不得已,為之強飯。喜退,攸謂左右曰:「嵇司馬將令我不忘居喪之節,得存區區之身耳。」
司馬(を務める)嵇喜も、諌めて言った。 「取り乱しても、判断力を失ってはいけない、これは聖人(孔子)の教えです。且つ大王(あなた)は、皇帝に最も近い血筋として重要な国を治め、国を補佐する立場を預かっています。
取るに足らない男ですら、命を大切にして、喪でも食事くらいします。ましてあなたは、天下の大業を背負い、帝室の重任を助ける身です。きちんと栄養を取らねばなりません。あなたは至高の哀しみを尽し、顏淵や閔子騫に匹敵する孝を行いました。もう充分でしょう。見境なく断食して、賢人には笑われ、(司馬攸に劣る)愚人に活躍の場を与えてやってもいいんですか」
嵇喜が必死に「お食べ下さい」と進めたので、司馬攸はやむを得ず、がんばって食事を取った。 嵇喜が退出すると、司馬攸は側近に言った。
「嵇喜は、私に喪の節度を思い出させてくれた。私は、ちっぽけで取るに足らない命を取りとめた」
武帝踐阼,封齊王,時朝廷草創,而攸總統軍事,撫寧內外,莫不景附焉。詔議籓王令自選國內長吏,攸奏議曰;「昔聖王封建萬國,以親諸侯,軌跡相承,莫之能改。誠以君不世居,則人心偷幸。
(265年)司馬炎が禅譲を受けると、司馬攸は斉王に封じられた。晋朝の草創期で、司馬攸は軍隊の総指揮を預かり、内外の勢力を鎮圧し、従わない者はいなかった。
晋の朝議で、(魏の皇族政策を転換して)司馬氏の藩王に封国の役人の任免権を与えるかどうかが、検討された。司馬攸は、提案した。
「むかし聖王が各地に数多くの国を封建したとき、聖王は諸侯に親しみ、封土は継承され、改善の余地がないほど(理想的)でした。野に賢者を残すことなく政治を担当させたので、人々は幸せを喜びました。
人無常主,則風俗偽薄。是以先帝深覽經遠之統,思複先哲之軌,分土畫疆,建爵五等,或以進德,或以酬功。伏惟陛下應期創業,樹建親戚,聽使籓國自除長吏。而今草創,制度初立,雖庸蜀順軌,吳猶未賓,宜俟清泰,乃議復古之制。」書比三上,輒報不許。
人には定まった主人がいないと、風紀が乱れるものです。ですから太古の王は、儒典が説く治世のあり方を洞察し、先哲が残した歴史に学んで、王を各地に封建し、爵五等を設け、徳行を勧めたり、功績に報いたりしました。
畏れながら私が考えますに、陛下(司馬炎)は建国の時期にあって、同族の司馬氏を王に封じ、彼らには任国の役人の任免権をお与えになるのが宜しいでしょう。今は草創期で、制度を一から打ち立てるときです。すでに蜀が降伏し、呉はまだ降伏しておりませんが、天下が清く治まるのを待ち、古代の素晴らしい制度を復活させて下さい」
3回上書されたが、そのたびに認可されなかった。
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『晋書』列伝8より、「斉王攸伝」を翻訳してみた(2)
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其後國相上長吏缺,典書令請求差選。
攸下令曰:「忝受恩禮,不稱惟憂。至於官人敘才,皆朝廷之事,非國所宜裁也。其令自上請之。」
その後、国相(王の補佐、行政のトップ)や上級役人は欠員し、典書令は欠員補充を要求した。
司馬攸が令を下して曰く、「かたじけなくも恩礼を受け、憂いや悩みはありません。が、官吏が人を任命することは、全て皇帝の仕事であり、各国で決裁して良いことではありません。私が出した令は、このことを要請しているのです」と。
時王家人衣食皆出禦府,攸表租秩足以自供,求絕之。前後十餘上,帝又不許。攸雖未之國,文武官屬,下至士卒,分租賦以給之,疾病死喪賜與之。而時有水旱,國內百姓則加振貸,須豐年乃責,十減其二,國內賴之。
当時、王家の人の衣食は、全て禦府(朝廷?)が賄っていた。 司馬攸は「租税を自給させて、禦府からの出費を止めてはどうですか」と上表した。(これまで見てきたように)前後で10余の提案を司馬攸はしたが、司馬炎は許さなかった。
司馬攸はまだ任国(斉)に赴任していなかったが、文官武官には士卒(下っぱ)に到るまで、税収入を分配して支給した。疾病や喪中で物入りの者には、手厚く与えた。水害や旱魃のとき、国内の百姓が飢えないように貸し与え、豊作の年に返済させた。借りた米の8割しか返済義務がなかったから、国民は司馬攸の政策を頼りにした。
遷驃騎將軍,開府辟召,禮同三司。降身虛己,待物以信。常歎公府不案吏,然以董禦戎政,複有威克之宜,乃下教曰:「夫先王馭世,明罰敕法,鞭撲作教,以正逋慢。且唐虞之朝,猶須督責。前欲撰次其事,使粗有常懼。
司馬攸は、驃騎将軍に遷り、開府(自前の役所を持つ)辟召(人材登用の権利)、禮同三司(三公待遇)を得た。
だが腰は低くて謙虚で、信のある態度で人を接した。いつも公府(朝廷)が役人の統制に甘いことを嘆き、大局を見失わず応変に有能な人を登用し、威厳があった。
司馬攸が説くことには、「先王が治めた世では、法治主義が浸透し、鞭打で教化し、怠惰な心を正した。唐虞(堯と舜)の王朝でも、厳格な取り締まりが行われた。法家の教訓を後回しにしようとすると、常に人は懼れる心を抱かせられた(自制心を植えつけられた)。
煩簡之宜,未審其要,故令劉、程二君詳定。然思惟之,鄭鑄刑書,叔向不韙;范宣議制,仲尼譏之。令皆如舊,無所增損。其常節度所不及者,隨事處決。諸吏各竭乃心,思同在公古人之節。如有所闕,以賴股肱匡救之規,庶以免負。」
日常の行動で大切なことですら、明らかではなかったので、むかし劉氏・程氏(誰?)が詳細を定めた。しかし、鄭鑄の刑書は、叔向が良しとしなかった。范宣の議制は、仲尼(孔子)が批判した。これら古い例のように、手を加えられなかったものはない。 節度の足りないものは、いつも目先のことに囚われて、決断をしてしまう。役人の奉仕の精神は、古人の節度と同じだ。もし節度に欠けていると自覚するなら、信頼している補佐を頼り、規範を正し、庶民の負担を軽くせよ」と。
於是內外祗肅。時驃騎當罷營兵,兵士數千人戀攸恩德,不肯去,遮京兆主言之,帝乃還攸兵。
(司馬攸の教えを聞いた)内外の臣は、慎み深く振る舞うようになった。 司馬攸が、驃騎将軍府の兵に暇を取らせようとしたとき、兵士数千人は司馬攸の恩徳を慕い、残って仕え続けたいと言った。
京兆の主(司隷校尉?)は(司馬攸の兵が戻ろうとするのを)遮り、司馬炎に報告した。司馬炎は、司馬攸に兵を返還した。
攸每朝政大議,悉心陳之。詔以比年饑饉,議所節省,攸奏議曰:「臣聞先王之教,莫不先正其本。務農重本。國之大綱、當今方隅清穆,武夫釋甲,廣分休假,以就農業。然守相不能勤心恤公,以盡地利。
司馬攸は、朝廷の会議のたび、真心を尽して意見を述べた。司馬炎は、近年の飢饉について対策を考えよと詔した。
司馬攸が奏議した。「申し上げます。先王の教えによれば、先例に手本が必ずあると言います。農業に務め、先賢を重んじましょう。国の大綱としては、清さと安らかさを国土に行き渡らせ、兵士には武装解除させ、じっくり静養させ、農業に従事させることです。そして役人が、民衆を無理に働かせず、公けのために恵めば、国土は救済されるでしょう」
昔漢宣歎曰:'與朕理天下者,惟良二千石乎!勤加賞罰,黜陟幽明,于時翕然,用多名守。計今地有餘羨,而不農者衆,加附業之人複有虛假,通天下謀之,則饑者必不少矣。今宜嚴敕州郡,檢諸虛詐害農之事,督實南畝,上下同奉所務。
むかし前漢の宣帝は嘆きました。『朕と天下を結びつけるのは、ただ地方官だけか!』と。 皇帝は、賞罰を加えることに勤め、官位を上げ下げし、時期を見て、良い太守を数多く任命することしか出来ません。遊休地があり、耕さぬものが多く、他にやることを見つけて農地をほったらかし、天下の民があまねくこんな調子では、飢えるものが必ず多くなってしまいます。 いま州郡を厳しく見回り、虚偽の申告を検挙し、耕作を督励し、役人は上下が団結してこれらに当たるべきです。
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