三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
『晋書』列伝8より、「斉王攸伝」を翻訳してみた(3)
則天下之穀可復古政,豈患于暫一水旱,便憂饑餒哉!考績黜陟,畢使嚴明,畏威懷惠,莫不自厲。又都邑之內,遊食滋多,巧伎末業,服飾奢麗,富人兼美,猶有魏之遺弊,染化日淺,靡財害穀,動複萬計。宜申明舊法,必禁絕之。使去奢即儉,不奪農時,畢力稼穡,以實倉廩。則榮辱禮節,由之而生,興化反本,于茲為盛。」

天下の農業政策は、古代の理想に戻すべきです。どうして(司馬炎が議論を命じた切り口である)目先の水害や旱魃など、心配する必要がありましょうか。憂うべきは、民の飢餓です!
役人の実績を調べて任免し、厳格に人事に望み、畏威と懐恵を発揮すれば、罪なき民を殺してしまうことはありません。
また都邑(洛陽)には、飽食・遊興・贅沢・華美という、魏の時代からの風潮が残っています。軽薄で拝金主義で、農村を疲弊させ、無意味な策謀ばかり盛んです。古代に立ち返り、これらを禁ずべきです。奢侈を禁じて倹約し、備蓄を増やしましょう。
栄辱も礼節も、(農村の供給力が支える)生命あってのものです。根本に立ち返り、道徳性を高めましょう」

轉鎮軍大將軍,加侍中,羽葆、鼓吹,行太子少傅。數年,授太子太傅,獻箴于太子曰:「伊昔上皇,建國立君,仰觀天文,俯察地理,創業恢道,以安人承祀,祚延統重,故援立太子。尊以弘道,固以貳己,儲德既立,邦有所恃。夫親仁者功成,邇佞者國傾,故保相之材,必擇賢明。昔在周成,旦奭作傅,外以明德自輔,內以親親立固,德以義濟,親則自然。

司馬攸は、鎮軍大將軍に転任して侍中となり、羽葆・鼓吹の特権を与えられ、太子少傅を兼ねた。
数年間、太子太傅を務め、太子(司馬衷)を諌めて申し上げた。
「伊昔上皇は、国を建て、君を立て、天文を仰ぎ見て、地理を偵察し、広大な道を創りました。人を安んじて、祀を承り、延を祚って統治したので、太子を守り立てることが出来ました。立派に道を広げ、絶対に己を二の次にし、徳を得て身を立ており、国に頼りにされました。そもそも仁者と親しくすれば、功は成ります。佞者と近づけば、国を傾けます。ゆえに付き合いを持つときは、賢明な人を選ばねばなりません。
むかし周成がいました。世に出ては立派な徳で自分を支え、家においては親族と結束を強め、徳によって施し、自然と親しまれました。

嬴廢公族,其崩如山;劉建子弟,漢祚永傅。楚以無極作亂,宋以伊戾興難。張禹佞給,卒危強漢。輔弼不忠,禍及乃躬;匪徒乃躬,乃喪乃邦。無曰父子不間,昔有江充;無曰至親匪貳,或容潘崇。諛言亂真,譖潤離親,驪姬之讒。晉侯疑申。固親以道,勿固以恩;修身以敬,勿托以尊。自損者有餘,自益者彌昏。庶事不可以不恤,大本不可以不敦。見亡戒危,睹安思存。塚子司義,敢告在閽。」世以為工。

故事はよく分からないので、訳を飛ばします。先例から、交際する相手が正しくて成功した事例と、交際する相手が拙くて失敗した事例を、引っ張ってきているのでしょう。

咸寧二年,代賈充為司空,侍中、太傅如故。初,攸特為文帝所寵愛,每見攸,輒撫床呼其小字曰「此桃符座也」,幾為太子者數矣。及帝寢疾,慮攸不安,為武帝敘漢淮南王、魏陳思故事而泣。

咸寧二(276)年、賈充に代わって司空になった。侍中と太傅は、継続して就いていた。
はじめ司馬攸は、文帝(司馬昭)に特別の寵愛を受けていた。司馬昭は司馬攸に会うたびに、自分の椅子を撫でて「これは桃符(司馬攸の幼年期の呼び名)の席だ」と言い、司馬攸を太子にしようとする人の数は多かった。司馬昭は病を得ると、司馬攸の将来を心配した。司馬昭は、「兄の司馬炎がいるせいで、司馬攸は、漢淮南王(劉安・呉楚七国ノ乱の首謀者)や魏陳思王(曹丕との後継者争いに敗れた曹植)と同じ運命を辿るのではないか」と言って泣いた。


臨崩,執攸手以授帝。先是太后有疾,既瘳,帝與攸奉觴上壽,攸以太后前疾危篤,因歔欷流涕,帝有愧焉。攸嘗侍帝疾,恆有憂戚之容,時人以此稱歎之。及太后臨崩,亦流涕謂帝曰:「桃符性急,而汝為兄不慈,我若遂不起,恐必不能相容。以是屬汝,勿忘我言。」

死の床で、司馬昭は司馬攸の手を執り、帝の位を授けた。???
これより前、太后が病気になったことがあった。病気が治ったとき、司馬昭と司馬攸は祝いのさかずきを交わした。司馬攸は、太后が一度危篤になったときに、すすり泣いて涙を流した。(無事に快癒したから良かったものの)司馬昭は司馬攸の涙を恥ずかしく思った。
司馬攸はかつて、司馬昭の看病をしたとき、ずっと憂い悲しむ表情をしていた。当時の人々は、この様子を「残念なことだ」と嘆いた。
太后が(ついに)死ぬと、また司馬昭は涙を流して言った。「桃符(司馬攸)は早合点をしがちだ(太后の病で取り乱した件など)。また、兄がいるせいで境遇に恵まれない。もし私が二度と立ち上がれなければ、兄弟が争いを始めることが恐ろしい。この言葉を確かに、お前に託したぞ。忘れるな」


及帝晚年,諸子並弱,而太子不令,朝臣內外,皆屬意於攸。中書監荀勖、侍中馮紞皆諂諛自進,攸素疾之。勖等以朝望在攸,恐其為嗣,禍必及己,乃從容言於帝曰:「陛下萬歲之後,太子不得立也。」帝曰:「何故?」

司馬昭の晩年(病が流行して)司馬氏の子たちが軒並み弱り、太子(司馬炎)も病気になった。内外の朝臣は、みな司馬攸に期待した。
中書監荀勖・侍中馮紞は、諂諛して司馬攸にいち早く接近した。荀勖らは、朝望が司馬攸にあるため、後継問題の火の粉が降りかかることを怖れた。荀勖は、従容とした物腰で司馬昭に聞いた。「陛下の100年の御世の次のため、太子を立てないのですか」と。
司馬昭は「なぜそんなことを聞くのか」と問うた。


勖曰:「百僚內外皆歸心于齊王,太子焉,得立乎!陛下試詔齊王之國,必舉朝以為不可,則臣言有徴矣。」紞又言曰:「陛下遣諸侯之國,成五等之制者,宜先從親始。親莫若齊王。」帝既信勖言,又納紞說。

荀勖は言った。「内外の朝臣の心は、斉王さま(司馬攸)に帰しています。太子にお立て下さい!試みに、斉王に国(青州)へ赴任せよ(之け)と詔を発して下さい。必ず朝臣たちは、反対するでしょう。これが、私の提案の裏づけとなるのでございます」
また馮紞が言う。「陛下、諸侯を国に赴任させて下さい。(その一方で)五等ノ制に成るものは、まず血縁の近さ(親ナル)に従って(中央での厚遇を)始めて下さい。斉王(司馬攸)ほど、血縁が近いものは他に居りませんでしょう」
帝(司馬昭)は既に、荀勖の発言を信じており、馮紞の提案を受け容れていた。(この後『晋書』は、また司馬昭死後に戻ります)
『晋書』列伝8より、「斉王攸伝」を翻訳してみた(4)
太康三年乃下詔曰:「古者九命作伯,或入毗朝政,或出禦方嶽。周之呂望,五侯九伯,實得征之,侍中、司空、齊王攸,明德清暢,忠允篤誠。以母弟之親,受台輔之任,佐命立勳,劬勞王室,宜登顯位,以稱具瞻。其以為大司馬、都督青州諸軍事,侍中如故,假節,將本營千人,親騎帳下司馬大車皆如舊,增鼓吹一部,官騎滿二十人,置騎司馬五人。余主者詳案舊制施行。」

太康三(282)年、司馬炎は詔を下した。
「(周礼曰く)古代、九命を作伯し、朝政を見させたり、国防を任せたりした。呂望(太公望)は、五侯九伯を討った。侍中・司空を務める齊王攸は、明德清暢,忠允篤誠だ。母に孝行で、輔政に勲功がある。王室のために尽くし、顯位に就き、尊敬を集めている。だから新しく、大司馬・都督青州諸軍事に任命する。侍中は留任とし、假節・將本營1000人・親騎帳下司馬大車(?)も全て元のまま。鼓吹は1部を増やし、官騎は20人に満たし、騎司馬は5人を置く。その他の詳細は、旧制に倣うこととする」


攸不悅,主簿丁頤曰:「昔太公封齊,猶表東海;桓公九合,以長五伯。況殿下誕德欽明,恢弼大籓,穆然東軫,莫不得所。何必絳闕,乃弘帝載!」攸曰:「吾無匡時之用,卿言何多。」

司馬攸は悦ばなかった。主簿の丁頤が言った。「むかし太公望が斉国に封じられたとき、なお東海(日本海)に面していました。斉の桓公は、五覇に数えられるまでになりました。まして殿下(司馬攸)は生まれつき徳があり、ご聡明です。東の大国を支えることは、決して意味のない役目ではありません。帝を推戴するために、どうして必ずしも宮殿(絳も闕も宮殿の意)に居なければならないのでしょうか(反語)」
司馬攸は言った。 「私など、世を正すのに不要なのだ。あなたは何とお喋りなんだ(黙っていてくれ)」

明年,策攸曰:「於戲!惟命不于常,天既遷有魏之祚。我有晉既受順天明命,光建群後,越造王國於東土,錫茲青社,用籓翼我邦家。茂哉無怠,以永保宗廟。」又詔下太常,議崇錫之物,以濟南郡益齊國。又以攸子寔為北海王。於是備物典策,設軒懸之樂、六佾之舞,黃鉞朝車乘輿之副從焉。

翌(283)年、司馬攸に策命が下された。「ああ戯れだな!ただ天命は永遠ではない。天命はすでに魏から去り、我が晋が受け取った。郡后を光建し、越えて東土に王国(斉)を造った。ここ青社(青州の社)に封じられ、我が司馬氏を支える藩屏とする。繁栄せよ、怠ることなく、永く宗廟を保ちたまえ
また司馬炎から詔があり、太常(官名)が遣わされた。「崇高なる錫ノ物(特別待遇の象徴)を濟南郡に与える。齊國の利益とせよ」と。また、司馬攸の子、司馬寔を北海王とした。ここにおいて、備物典策は、軒懸之樂・六佾之舞を設け、黃鉞朝車の乘輿副從となったのだ。


攸知勖、紞構己,憤怨發疾,乞守先後陵,不許。帝遣御醫診視,諸醫希旨,皆言無疾。疾轉篤,猶催上道。攸自強入辭,素持容儀,疾雖困,尚自整厲,舉止如常,帝益疑無疾。辭出信宿,歐血而薨,時年三十六。

司馬攸は、荀勖と馮紞が自分を構った(司馬昭に余計なことを吹き込み、火種を作った)ことを知っており、憤怨して発病た。
(司馬炎に)先后(実母の王氏?)の廟を守りたいと願い出たが、司馬炎に許されなかった。司馬炎は、医者を遣わして診察させた。医者は皆「健康体だ。仮病だ」と言った。病はますます篤くなったが、司馬炎はそれでも「早く来い」と催促した。司馬攸は、無理を押して出発し、暇乞い(入辞)を願い出た。
病の苦しさを堪え、立ち振る舞いや雰囲気はいつもどおりだった。司馬炎は、ますます仮病ではないかと疑った。退出して宿泊手続きをとったのち、司馬攸は血を吐いて死んだ。36歳だった。


帝哭之慟,馮紞侍側曰:「齊王名過其實,而天下歸之。今自薨隕,社稷之福也,陛下何哀之過!」帝收淚而止。詔喪禮依安平王孚故事,廟設軒懸之樂,配饗太廟。子冏立,別有傳。

司馬炎が哭きに哭くので、馮紞は側で述べた。「斉王は、評判が実際を上回っており、天下で持てはやされていました。彼はいま自滅しましたが、国家にとっては福です。陛下、悲しみ過ぎではありませんか!」と。司馬炎は泣き止んだ。詔があり、喪礼は安平王・司馬孚に倣い、廟には軒懸之樂が設けられ、太廟に饗が供えられた。司馬攸の子、司馬冏が後を継いだが、列伝は別にある。


攸以禮自拘,鮮有過事。就人借書,必手刊其謬,然後反之。加以至性過人,有觸其諱者,輒泫然流涕。雖武帝亦敬憚之,每引之同處,必擇言而後發。三子:蕤、贊、寔。

司馬攸は、礼の倫理にこだわりが強くて自縄自縛し、明らかに行き過ぎであった。
人に就いて(師事して)書を借りれば、必ず書の誤りがクセとして移ってしまい、後から訂正が必要だ(司馬攸は「礼」が持つ負の要素まで、無批判に吸収しすぎた)。それに加え、人より多感な性格だと、そういう傾向のある人物は、(「礼」に則って)いつも泣いてばかりいる。
司馬炎は、司馬攸(の才能)を敬って憚ったが、(書物の)同じところを引用するときはいつも、必ず言葉をじっくり選び、後から発言した(鵜呑みにせず、一呼吸を置くだけの落ち着きがあった)。
司馬攸には、(冏の他に)3人の子がいる。蕤、贊、寔である。

■感想
翻訳って、普通に無理ですね。
インターネットで、いろんなサイトで『晋書』の翻訳を拝見していますが、自分でやってみると、あまりに難しくてびっくり。この司馬攸の伝は、8時間ぶっ続けでやってるんですが(会社に行くまでの睡眠時間は4時間取れそう)、ぜんぜん意味が分かった気がしません。

『晋書』が付けた、末尾の司馬炎と司馬攸の人物比較論は、本当にこんな意味なのか、正直分かりません。よく言われることだけど、事実の羅列ならば辛うじて追えるけど、台詞とか上表とか論評とかになると、とたんに難易度が上がる。もうびっくりですよ。
ただ今回訳してみて、「司馬攸を帰藩させたから、西晋は早く滅びたんだ」という単純なIF発想は払拭された気がします。性急で涙もろい。司馬昭も心配して「愧」じたわけです。
八王ノ乱でさんざ引っ掻き回す、司馬攸の子の司馬冏だが、彼の出来が悪いんじゃなく、父譲りなんじゃないかと思えたほど笑 080716
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