翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による試験的な翻訳です;Q&A主催者が翻訳することについて参照
景皇帝諱師、字子元、宣帝長子也。雅有風彩、沈毅多大略。少流美譽、與夏侯玄・何晏齊名。晏常稱曰、惟幾也能成天下之務、司馬子元是也。魏景初中、拜散騎常侍、累遷中護軍。為選用之法、舉不越功、吏無私焉。宣穆皇后崩、居喪以至孝聞。
景皇帝 諱は師、字は子元、宣帝の長子なり。 雅(もと)より風彩〔一〕有り、沈毅にして大略多し。少くして美譽を流(なが)し〔二〕、夏侯玄・何晏と名を齊(ひと)しくす。晏 常に稱して曰く、「惟(た)だ幾(き)なり能く天下の務を成す〔三〕といふは、司馬子元 是なり」と。魏の景初中、散騎常侍に拜し、累(しき)りに中護軍に遷る。選用の法を為して、舉(きょ)は功を越えず、吏(り)は私すること無し。宣穆皇后 崩ずるや、喪に居(を)りて至孝を以て聞こふ。
〔一〕『漢書』巻六十八 霍光伝に、霍光を形容し「天下想聞其風采」とある。
〔二〕『世説新語』言語篇に引く『魏書』に「以道徳清粋重於朝廷」とあり、『晋書斠注』景帝紀に言及がある。なお、『世説新語』言語篇第二は、司馬師が上党の李喜(李憙)を登用した逸話を載録している。
〔三〕『周易』繋辞上に、「夫易、聖人之所以極深而研幾也。唯深也、故能通天下之志。唯幾也、故能成天下之務」とあり、出典である。
景皇帝は諱を師、字を子元といい、宣帝(司馬懿)の長子である。つねに立派な立ち居ふるまいをし、落ち着きがあって意志がかたく遠大な計略をおおく考えついた。若いときから名声を博し、夏侯玄・何晏と同等の評価を得ていた。何晏はいつも、「(聖人は)機微に通じて天下の務めを成すことができると(『周易』繋辞上に)いうが、司馬子上こそがこれに該当する」と称賛していた。魏の景初期、散騎常侍を拝命し、たびたび異動して中護軍に遷った。人材登用の方法を(適正に)運用し、 功績を越えて(不釣り合いに高い官職に)推薦することはなく、私情をはさんで役人に登用することはなかった。 宣穆皇后(実母の張氏)が崩御すると、喪に服するさま(期間や様式)が至孝(孝のきわみ)であると言われた。
宣帝之將誅曹爽、深謀祕策、獨與帝潛畫、文帝弗之知也、將發夕乃告之。既而使人覘之、帝寢如常、而文帝不能安席。晨會兵司馬門、鎮靜內外、置陣甚整。宣帝曰、此子竟可也。初、帝陰養死士三千、散在人間、至是一朝而集、眾莫知所出也。事平、以功封長平鄉侯、食邑千戶、尋加衞將軍。及宣帝薨、議者咸云伊尹既卒、伊陟嗣事、天子命帝以撫軍大將軍輔政。
宣帝の將に曹爽を誅せんとするや、深謀祕策、獨り帝とのみ潛(ひそ)かに畫し、文帝 之を知ること弗きなり。將に發せんとし夕(ゆふ)に乃ち之を告ぐ。既にして人をして之を覘(うかが)はしめば、 帝 寢(い)ぬること常の如く、而るに文帝 席を安んずること能はず。晨(あした)に兵を司馬門に會するに、內外を鎮靜し、陣を置くこと甚だ整ふ。 宣帝曰く、「此の子 竟に可(よ)きなり」と。 初め、帝 陰かに死士三千を養ひて、人間〔一〕に散(さん)じ在(お)き、是に至り一朝にして集まる。眾 出づる所を知るもの莫きなり。事 平らぎて、功を以て長平鄉侯に封ぜられ〔二〕、食邑は千戶、尋(つ)いで衞將軍を加へらる。宣帝の薨ずるに及び、議者 咸 「伊尹 既に卒して、伊陟 事を嗣ぐと」云ひ、天子 帝に命じて撫軍大將軍を以て輔政せしむ。
〔一〕人間は、唐代の避諱による表現で、元来は「民間」か。
〔二〕司馬師の爵位の変遷について、『晋書斠注』に指摘がある。『三国志』巻四 斉王芳紀 嘉平六(二五四)年に引く『魏書』に、「大将軍・武陽侯臣師」と見え、潘眉『三国志攷證』によると、これは司馬師のことである。ただし、盧弼『三国志集解』によると、『魏書』に見える「武陽」は、「舞陽」に改められるべきである。舞陽は、『晋書』巻十四 地理志上 豫州によると、襄城郡に属する県。司馬懿がここに封建され、かれが死ぬと(二五一年)、司馬師が爵位を継承したと考えられる。司馬師が舞陽県侯であったことは、『三国志』陳留王紀 咸煕元年五月の文からも確認できる。
宣帝が曹爽を誅殺しようとしたが、熟慮の秘策は、ひそかに景帝とだけ検討し、文帝には知らされなかった。いざ決行するときは(宣帝が二子に対し)前夜にこれを告知した。知らせてから(宣帝が)ひとをやって偵察させると、景帝は普段どおり眠っていたが、文帝は落ち着いていられなかった。翌朝に兵を司馬門に集合させると、(景帝は)内外(の兵)を鎮静し、完全に整列させていた。宣帝は、「この子は思いがけず優れていたぞ」と言った。これより先、景帝はひそかに死士三千人を養って、庶民の間に散らして紛れこませ、このときに至り(宣帝から決行を告げられると)一夜にして集合させた。兵衆がどこから出てきたか分かる者はいなかった。事変がかたづくと、功績によって長平郷侯に封建され、食邑千戸をあたえられ、さらに衛将軍を加えられた。宣帝が薨去すると、議者がみな「伊尹が死去すると、(子の)伊陟が事業を嗣いだ」と述べたので、天子は(故事に基づいて)景帝に命じて撫軍大将軍として輔政させた。
魏嘉平四年春正月、遷大將軍、加侍中、持節・都督中外諸軍・錄尚書事。命百官舉賢才、明少長、卹窮獨、理廢滯。諸葛誕・毌丘儉・王昶・陳泰・胡遵都督四方、王基・州泰・鄧艾・石苞典州郡、盧毓・李豐掌選舉、傅嘏・虞松參計謀、鍾會・夏侯玄・王肅・陳本・孟康・趙酆・張緝預朝議。四海傾注、朝野肅然。或有請改易制度者、帝曰、不識不知、順帝之則、詩人之美也。三祖典制、所宜遵奉。自非軍事、不得妄有改革。
魏の嘉平四年、春正月、大將軍に遷り、侍中・持節・都督中外諸軍・錄尚書事を加へらる。百官に命じて賢才を舉げ、少長を明らかにし、窮獨に卹(めぐ)み、廢滯を理(をさ)めしむ〔一〕。諸葛誕・毌丘儉・王昶・陳泰・胡遵は四方を都督し、王基・州泰・鄧艾・石苞は州郡を典(つかさど)り、盧毓・李豐は選舉を掌(つかさど)り、傅嘏・虞松は計謀に參(あづか)り、鍾會・夏侯玄・王肅・陳本・孟康・趙酆・張緝は朝議に預る。四海 傾注し、朝野 肅然たり。或ひとの制度を改易せんと請ふ者有るに、帝曰く、「識らず知らず、帝の則に順(したが)ふことは、詩人の美なり〔二〕。三祖の典制、宜しく遵奉すべき所なり。自(も)し軍事に非ずんば、妄(みだ)りに改革すること有るを得ず」と。
〔一〕『北堂書鈔』巻五十九に引く王隠『晋書』に、当該時期のこととして、「司馬景王為撫軍大將軍・持節・都督中外諸軍・錄尚書事、上初揔萬機、正身平法、朝政肅然」とある。この景帝紀にも「朝野肅然」とあり、共通の文がある。
〔二〕『毛詩』大雅 文王之什に「不識不知、順帝之則」とあり、出典である。
魏の嘉平四(二五二)年、春正月、大將軍に遷り、侍中・持節・都督中外諸軍・錄尚書事を加えられた。百官に命じて賢才を挙げ、長幼(年齢による秩序)を明らかにし、貧窮者や独身者を救済し、打ち捨てられて顧みられぬものを把握し管理させた。諸葛誕・毌丘儉・王昶・陳泰・胡遵は四方を都督し、王基・州泰・鄧艾・石苞は州郡を統治し、盧毓・李豐は人材登用と配置を担当し、傅嘏・虞松は(国家運営の)計略に参画し、鍾會・夏侯玄・王肅・陳本・孟康・趙酆・張緝は朝廷での議論に参預した。天下全土から(国力や人材が)集約され、官界も在野も粛然となった。あるひとが(魏王朝の)制度変更を提案したが、景帝は、「知らず知らずのうちに、帝王の規範にかなっているのは、『詩』が賛美していることである。三祖(武帝・文帝・明帝)が定めた制度は、尊んで従うべきものである。(臨機応変とせざるを得ない)軍事に係わることでない限り、軽々しく変更してはならない」と言った。
五年夏五月、吳太傅諸葛恪圍新城、朝議慮其分兵以寇淮・泗、欲戍諸水口。帝曰、諸葛恪新得政於吳、欲徼一時之利、并兵合肥、以冀萬一、不暇復為青徐患也。且水口非一、多戍則用兵眾、少戍則不足以禦寇。恪果并力合肥、卒如所度。帝於是使鎮東將軍毌丘儉・揚州刺史文欽等距之。儉・欽請戰、帝曰、恪卷甲深入、投兵死地、其鋒未易當。且新城小而固、攻之未可拔。遂命諸將高壘以弊之。相持數月、恪攻城力屈、死傷太半。帝乃敕欽督銳卒趨合榆、要其歸路、儉帥諸將以為後繼。恪懼而遁、欽逆擊、大破之、斬首萬餘級。
五年夏五月、吳の太傅たる諸葛恪 新城を圍むや、朝議 其の兵を分けて以て淮泗を寇せんことを慮り、諸々の水口を戍(まも)らんと欲す。帝曰く、「諸葛恪 新たに政を吳に得、一時の利を徼(もと)めんと欲し、兵を合肥に并(あは)せて、以て萬一を冀(こひねが)ひ、復た青徐の患と為るに暇(いとま)あらざるなり。且つ水口は一に非ず、戍(まも)りを多くするときは則ち兵を用ふること眾(おほ)く、戍りを少なくするときは則ち以て寇を禦ぐに足らず」と。恪 果たして力を合肥に并(あは)せ、卒(つひ)に度する所の如し。帝 是に於いて鎮東將軍の毌丘儉・揚州刺史の文欽等をして之を距(ふせ)がしむ。儉・欽 戰はんと請ふに、帝曰く、「恪 卷甲して深く入り、兵を死地に投じ〔一〕、其の鋒 未だ當たること易からず。且つ新城 小さけれども固し、之を攻むるとも未だ拔く可からず」と。遂に諸將に命じ壘を高くして以て之を弊(つか)れしむ。相ひ持すること數月、恪 城を攻むるも力は屈し、死傷すること太半なり。帝 乃ち欽に敕して銳卒を督して合榆に趨(おもむ)き、其の歸路を要(むか)へ、儉をして諸將を帥ゐて以て後繼を為さしむ。恪 懼れて遁ぐるや、欽 逆(むか)ひ擊ちて、大いに之を破り、首を斬ること萬餘級なり。
〔一〕巻甲は『孫子』軍争篇にみえ、死地は『孫子』九地篇にみえる。
嘉平五(二五三)年夏五月、吳の太傅である諸葛恪が(合肥)新城を包囲すると、朝廷では(恪が)その兵を分けて淮水・泗水一帯を侵略することを懸念し、各地の河口を防衛せよという議論がおきた。景帝は、「諸葛恪は新たに呉で政権を獲得し、短期的な利益を求め、兵を合肥に集約して、(ここを一点突破するという)万に一つの賭けに出ており、さらに(兵を回して)青州や徐州を脅かすほどの余力はない。しかも河口は一箇所ではないから、守兵を増やそうとすれば大量の人数が必要となり、(兵力が分散して)守兵が少なくなれば敵軍を防ぐには不足する」と言った。諸葛恪は果たして全兵力を合肥に集中し、結局は(景帝が)分析した通りとなった。ここにおいて景帝は鎮東將軍の毌丘儉・揚州刺史の文欽らにこれを防がせた。毌丘倹・文欽が交戦を求めたが、景帝は、「恪は甲(よろい)を巻いて(軽装ですばやく動いて)深入りし、兵を死地に投じており、士気が高いのでまだ対処しづらい。しかも新城は小さいが堅固であり、これを攻めてもまだ抜けないだろう」と言った。こうして諸将に命じて土塁を高くして(守りに徹し)敵軍を疲弊させた。攻防は数ヶ月におよび、恪は城を攻めたが力尽き、死傷者が大半となった。すかさず景帝は文欽に命じて精兵を督して合榆に赴き、敵軍の帰路で待ち受けさせ、毌丘倹には諸将をひきいて(文欽の)後続を務めさせた。諸葛恪が懼れて逃げると、文欽は迎え撃って、おおいにこれを破り、一万餘の首を斬った。
正元元年春正月、天子與中書令李豐・后父光祿大夫張緝・黃門監蘇鑠・永寧署令樂敦・宂從僕射 1.劉寶賢等謀以太常夏侯玄代帝輔政。帝密知之、使舍人王羨以車迎豐。豐見迫、隨羨而至、帝數之。豐知禍及、因肆惡言。帝怒、遣勇士以刀鐶築殺之。逮捕玄・緝等、皆夷三族。
三月、乃諷天子廢皇后張氏、因下詔曰、姦臣李豐等靖譖庸回、陰構凶慝。大將軍糾虔天刑、致之誅辟。周勃之克呂氏、霍光之擒上官、曷以過之。其增邑九千戶、并前四萬。帝讓不受。
1.『三国志』巻九 諸夏侯曹 夏侯玄伝・『資治通鑑』巻七十六は、「劉賢」に作る。
正元元年春正月〔一〕、天子 中書令の李豐・后の父たる光祿大夫の張緝・黃門監の蘇鑠・永寧署令の樂敦・宂從僕射の劉寶賢等と與(とも)に太常の夏侯玄を以て帝に代へて輔政せしめんと謀る。帝 密かに之を知り、舍人の王羨をして車を以て豐を迎へしむ。豐 迫られ、羨に隨ひて至るに、帝 之を數(せ)む。豐 禍の及ぶを知り、因りて惡言を肆(はな)つ。帝 怒りて、勇士をして刀鐶〔二〕を以て之を築(つ)き殺さしむ。玄・緝らを逮捕し、皆 夷三族とす。
三月、乃ち天子に皇后張氏を廢せんことを諷し、因りて詔を下して曰く、「姦臣李豐等 譖を靖(はか)りて回なるを庸(もち)ゐ〔三〕、陰かに凶慝を構ふ。大將軍 虔(つつし)みて天刑を糾し〔四〕、之を誅辟に致す。周勃が呂氏に克ち〔五〕、霍光が上官を擒ふ〔六〕は、曷(いづく)んぞ以て之に過ぎんか。其れ邑九千戶を增し、前を并はせて四萬とす」と。帝 讓りて受けず。
〔一〕嘉平六年十月、正元と改元された。この記事は春のことなので、まだ年号は嘉平である。この出来事は、『三国志』巻四 斉王芳紀では二月とし、『晋書』巻十三 天文志下に、「正元元年……二月、李豐及弟翼・后父張緝等謀亂、事泄、悉誅」とあるため、正月とする景帝紀の誤りが疑われる。
〔二〕刀鐶は刀環に通じ、刀の頭(柄の先端)に付いた輪。「刀鐶」は『晋書』では、巻百九 慕容翰載記・巻百二十七 慕容徳載記にも見える。
〔三〕『春秋左氏伝』文公 伝十八年に「靖譖庸回」とあり、出典である。
〔四〕『国語』魯語下に「司載糾虔天刑」とあり、出典である。
〔五〕周勃は、前漢の臣。外戚の呂氏を排除した(『漢書』巻四十 周勃伝)。
〔六〕霍光は、前漢の臣。外戚の上官傑を排除した(『漢書』巻六十八 霍光伝)。
正元元年春正月、天子(曹芳)は中書令の李豊・皇后の父である光祿大夫の張緝・黃門監の蘇鑠・永寧署令の樂敦・宂從僕射の劉寶賢らとともに太常の夏侯玄を(担ぎ上げて)景帝に代えて輔政をさせようと計画した。景帝はひそかにこれを知り、舍人の王羨に馬車で李豊を迎えにゆかせた。李豊は脅されて、王羨に連れてこられると、景帝はかれを追及した。李豊は禍いが及んだ(計画が知られた)ことを悟り、遠慮なく悪言を浴びせた。景帝は怒って、勇士に刀環でかれを打ち殺させた。夏侯玄・張緝らを逮捕し、いずれも夷三族とした。
三月、(景帝が)天子に皇后張氏の廃位を勧めると、詔が下され、「姦臣の李豊らは讒言をまき散らして徒党を組み、ひそかに凶悪なことを計画した。大将軍がつつしんで天の刑罰を行い、かれら全員を誅殺した。周勃が呂氏に勝ち、霍光が上官氏を捕らえたことですら、これを上回るものではない(今回のほうが、前漢の先例より優れた処置である)。そこで食邑九千戸を増やし、既存のものと合計して四萬戸とする」と言った。景帝は辞退して受けなかった。
天子以玄・緝之誅、深不自安。而帝亦慮難作、潛謀廢立、乃密諷魏永寧太后。秋九月甲戌、太后下令曰、皇帝春秋已長、不親萬機、耽淫內寵、沈嫚女德、日近倡優、縱其醜虐、迎六宮家人留止內房、毀人倫之敘、亂男女之節。又為羣小所迫、將危社稷、不可承奉宗廟。帝召羣臣會議、流涕曰、太后令如是、諸君其如王室何。咸曰、伊尹放太甲以寧殷、霍光廢昌邑以安漢。權定社稷、以清四海。二代行之於古、明公當之於今、今日之事、惟命是從。帝曰、諸君見望者重、安敢避之。
乃與羣公卿士共奏太后曰、臣聞天子者、所以濟育羣生、永安萬國。皇帝春秋已長、未親萬機、日使小優郭懷・袁信等裸袒淫戲。又於廣望觀下作遼東妖婦、道路行人莫不掩目。清商令令狐景諫帝、帝燒鐵 1.炙之。太后遭合陽君喪、帝嬉樂自若。清商丞龐熙諫帝、帝弗聽。太后還北宮、殺張美人、帝甚恚望。熙諫、帝怒、復以彈彈熙。每文書入、帝不省視。太后令帝在式乾殿講學、帝又不從。不可以承天序。臣請依漢霍光故事、收皇帝璽綬、以齊王歸藩。奏可、於是有司以太牢策告宗廟、王就乘輿副車、羣臣從至西掖門。帝泣曰、先臣受歷世殊遇、先帝臨崩、託以遺詔。臣復忝重任、不能獻可替否。羣公卿士、遠惟舊典、為社稷深計、寧負聖躬、使宗廟血食。於是使使者持節衞送、舍河內之重門、誅郭懷・袁信等。
1.中華書局本は「灸」に作る。
天子 玄・緝が誅せらるを以て、深く自ら安ぜず。而して帝も亦 難の作(お)こらんことを慮り、潛かに廢立を謀り、乃ち密かに魏の永寧太后に諷す。秋九月甲戌、太后 令を下して曰く、「皇帝の春秋 已に長じて、萬機を親(みづか)らせず、淫して內寵に耽り、嫚して女德に沈み、日に倡優に近づき、其の醜虐を縱にし、六宮の家人を迎へて內房に留止し、人倫の敘を毀ち、男女の節を亂す。又 羣小の迫る所と為り、將に社稷を危ふくせんとし、宗廟を承奉す可からず」と。帝 羣臣を會議に召し、流涕して曰く、「太后の令 是の如し、諸君 其れ王室を如何せん」と。咸曰く、「伊尹は太甲を放ちて以て殷を寧んじ、霍光 昌邑を廢して以て漢を安んず。權(はか)りて社稷を定め、以て四海を清す。二代 之を古に行ひ、明公 之を今に當たる。今日の事、惟だ命あらば是れ從はん」と。帝曰く、「諸君 望まるることは重し、安ぞ敢へて之を避けんか」と。
乃ち羣公卿士〔一〕と共に太后に奏して曰く、「臣聞く天子なるものは、羣生を濟育し、萬國を永安する所以なり。皇帝の春秋 已に長ずるとも、未だ萬機を親せず、日に小優の郭懷・袁信等をして裸袒し淫戲せしむ。又 廣望觀下に於いて遼東の妖婦と作し〔二〕、道路の行人 掩目せざる莫し。清商令の令狐景 帝を諫むるも、帝 鐵を燒にて之に炙す。太后 合陽君〔三〕の喪に遭ふも、帝 嬉樂として自若たり。清商丞の龐熙 帝を諫むるも、帝 聽かず。太后 北宮に還り、張美人を殺すや、帝 甚だ恚望す。熙 諫むるや、帝 怒り、復た彈を以て熙を彈ず。文書 入るる每に、帝 省視せず。太后 帝に令して式乾殿に在りて講學せしめども、帝 又 從はず。以て天序を承く可からず。臣 請ふらくは漢の霍光が故事に依り、皇帝の璽綬を收めて、齊王たるを以て歸藩せしめんことを」と。奏可し、是に於いて有司 太牢を以て策を宗廟に告げ、王 乘輿の副車に就きて、羣臣 從ひて西掖門に至る。帝 泣いて曰く、「先に臣 歷世の殊遇を受け、先帝 崩に臨みて、遺詔を以て託せらる。臣 復た重任を忝くするも、能く可を獻じ否に替へず。羣公卿士、遠く舊典を惟みて、社稷の為に深計し、寧ろ聖躬に負(そむ)くとも、宗廟をして血食せしめん」と。是に於いて使者をして持節して衞送せしめ、河內の重門に舍(を)り、 郭懷・袁信等を誅す。
〔一〕一連の文は、『三国志』斉王芳紀 注引『魏書』が節略されたもの。『魏書』には、司馬孚を筆頭とした、三公九卿以下の連名が掲載されている。
〔二〕『三国志』ちくま学芸文庫の訳は「遼東の妖婦のかっこうをさせて」とし、その内容を「不詳」としている。
〔三〕合陽君は、皇太后の母である杜氏。郃陽君。
天子は夏侯玄・張緝が誅殺されたので、ひどく不安になった。そして景帝もまた政変が起こることを心配し、ひそかに皇帝廃立を画策し、ひそかに魏の永寧太后(明帝の郭皇后)にほのめかした。秋九月甲戌、太后は令を下して、「皇帝(曹芳)はすでに成年に達しているが、親政することなく、お気に入りの婦人におぼれ、みだりに女色にふけり、日々役者を引き入れ、その醜悪な戯れをほしいままにし、後宮女官の親族を迎え入れて宮殿内部に留めおき、ひとの倫理をこわし、男女の節度を乱している。またつまらぬ者どもに感化され、もはや社稷を絶やそうとしており、宗廟を継承する資格を持たない」と言った。景帝は群臣を会議に召し、涙を流して、「太后の令はこの通りだが、諸君よ王室をどうしたものか」と言った。みな、「伊尹は太甲を放逐して殷王朝を安寧にし、霍光は昌邑王を廃位して漢王朝を安泰にしました。かりの措置で社稷を安定させ、四海を清めたのです。古くは二王朝(殷・漢)がこれを行い、現代は明公が同じ局面に当たっておられます。今日のことは、ただ命令があれば従います」と言った。景帝は、「諸君からの期待は高い、どうして避けようか」と言った。
こうして群公卿士とともに太后に上奏し、「臣が聞きますに天子というのは、衆民を養育し、万国を永続させるものです。(ところが)皇帝は年齢がすでに成人に達しても、まだ親政をならさず、日々つまらぬ役者の郭懐・袁信らを裸にして戯れさせています。また広望観のもとで遼東の妖婦をまね、道行くひとは目を覆わぬものはありません。清商令の令狐景が皇帝を諫めても、皇帝は鉄を熱してかれに焼き付けました。太后が(実母)合陽君を亡くされたときも、皇帝は嬉々として普段どおりでした。清商丞の龐熙が皇帝を諫めても、皇帝は聞きません。太后が北宮に還り、張美人を殺すと、皇帝は怨恨を抱きました。龐熙が諫めると、皇帝は怒り、しかも弾丸でかれを撃ちました。文書が提出されようとも、皇帝は閲覧しません。太后は皇帝に式乾殿で講学させようとしましたが、皇帝は従いません。天の秩序を受ける(帝位におる)資格がありません。臣らは請願します、前漢の霍光の故事に依拠し、皇帝の璽綬を取りあげ、斉王として封国に帰らせんことを」と言った。上奏が認可されると、担当官が太牢をそなえて命令書を宗廟に報告し、斉王(曹芳)は乗輿の副車に乗り、群臣は随従して西掖門に至った。景帝は泣いて、「かつて臣(司馬氏)は累代の厚遇を受け、先帝(曹叡)が崩御する際、遺詔により(後事を)託された。臣もまた重要な任を承ったが、悪しき状況を変えられなかった。群公卿士よ、遠く旧典を参照し、社稷のためによく考え、たとえ皇帝個人にそむこうとも、宗廟祭祀を永続させてゆこう」と言った。ここにおいて使者に持節して護送させ、(斉王を)河内の重門に居住させ、郭懐・袁信らを誅した。
是日、與羣臣議所立。帝曰、方今宇宙未清、二虜爭衡、四海之主、惟在賢哲。彭城王據、太祖之子、以賢、則仁聖明允、以年、則皇室之長。天位至重、不得其才、不足以寧濟六合。乃與羣公奏太后。太后以彭城王先帝諸父、於昭穆之序為不次、則烈祖之世永無承嗣。東海定王、明帝之弟、欲立其子高貴鄉公髦。帝固爭不獲、乃從太后令、遣使迎高貴鄉公於元城而立之、改元曰正元。天子受璽惰、舉趾高、帝聞而憂之。及將大會、帝訓於天子曰、夫聖王重始、正本敬初、古人所慎也。明當大會、萬眾瞻穆穆之容、公卿聽玉振之音。詩云、示人不佻、是則是效。易曰、出其言善、則千里之外應之。雖禮儀周備、猶宜加之以祗恪、以副四海顒顒式仰。
是の日、羣臣と立つる所を議す。帝曰く、「方今 宇宙は未だ清からず、二虜 衡を爭ひ、四海の主、惟だ賢哲在るべし。彭城王據、太祖の子なり、賢を以てせば、則ち仁聖明允たり、年を以てせば、則ち皇室の長なり。天位は至重なり、其の才を得ずんば、以て六合を寧濟するに足らず」と。乃ち羣公と與に太后に奏す。太后 彭城王は先帝の諸父たるを以て、昭穆の序に於いて不次と為り、則ち烈祖の世 永(とこし)へに承嗣無し。東海定王は、明帝の弟なり、其の子たる高貴鄉公髦を立てんと欲す。帝 固く不獲を爭ひ、乃ち太后の令に從ひ、使を遣はして高貴鄉公を元城に迎へしめて之を立て、改元して正元と曰ふ。天子 璽を受くるも惰(おこ)たり、舉趾は高く〔一〕、帝 聞きて之を憂ふ。將に大會せんとするに及び、帝 天子に訓じて曰く、「夫れ聖王は始めを重んじ、本を正し初を敬ふは、古人の慎む所なり。明に大會に當たり、萬眾 穆穆の容を瞻(み)、公卿 玉振の音を聽く。詩に云はく、人に示して佻(かろ)からざりしめ、是れ則ち是れ效す〔二〕。易に曰く、其の言を出すこと善なれば、則ち千里の外も之に應ずと〔三〕。禮儀 周備すると雖も、猶ほ宜しく祗恪を以て之に加へ、以て四海の顒顒として式仰するに副ふべし」と。
〔一〕『春秋左氏伝』桓公 伝十三年に「莫敖必敗、舉趾高、心不固矣」とあり、出典である。莫敖がつま先を高くあげており(反り返り)、慎重さに欠くとした。
〔二〕『毛詩』小雅 鹿鳴之什に「我有嘉賓、德音孔昭、視民不恌、君子是則是傚」とあり、出典である。goushu @goushuoujiさまによると、鄭玄注と孔穎達によると、「我に嘉賓有り、德音 孔(はなは)だ昭かなり、民に視(しめ)して恌(うす)からざらしめ、君子は是(ここ)に則(のっと)り是に傚(なら)う」となる。宴会で杯を交わし合う時に、嘉賓が先王の道徳の教えが明らかであることを述べて、天下の民が礼儀を軽んじないようにし、また君子もそれを規範として学ぶ、という意味。「民」が「人」になっているのは唐の避諱。
〔三〕『周易』繋辞上伝に「子曰、君子居其室。出其言善、則千里之外應之」とあり、出典である。
この日、群臣とともに立てるべき人物を議論した。景帝は、「方今この世界はまだ騒がしく、二虜(呉と蜀)が権勢を競っているから、天下の主(魏帝)は、もっぱら賢哲な人物でなければならない。彭城王の曹據は、太祖(武帝)の子であり、賢さでは、仁聖明允(最高評価)であり、年齢では、皇室の最年長である。帝位はきわめて重く、かれの才覚でなければ、天下を平穏にできない」と言った。そこで群公とともに太后に上奏した。太后は彭城王が先帝の親世代であり、世代の序列が逆転するため、烈祖(明帝)の系統が永久に途絶えてしまう(と思った)。東海定王ならば、明帝の弟であり、その子である高貴郷公の曹髦を立てたいと考えた。景帝は強く反対したが、太后の令に従い、使者を派遣して高貴郷公を元城に迎えに行かせてこれを立て、正元と改元した。天子(曹髦)は璽を受け取ったが気が緩み、つま先を高くあげた(慎重さに欠けた)ため、景帝は聞いてこれを憂慮した。 いざ群臣と一堂に会するとき、景帝は天子を諭し、「そもそも聖王は始めを重んじ、もとを正して初めを敬うものであり、(この教えは)古人が守ってきたことです。明日は群臣と面会しますが、百官は麗しい顔を仰ぎ見、公卿は美しい声に耳を立てています。『詩』に、『天下の民が(礼儀を)軽んじないようにし、(君子も)これを実行する』とあります。『易』に、『その発言が優れていれば、千里の外からで呼応する』といいます。礼義を完全に備えた上で、さらに慎み深くし、四海からの敬慕と期待に応えなさい」と言った。
癸巳、天子詔曰、朕聞創業之君、必須股肱之臣、守文之主、亦賴匡佐之輔。是故文武以呂召彰受命之功、宣王倚山甫享中興之業。大將軍世載明德、應期作輔。遭天降險、帝室多難、齊王蒞政、不迪率典。公履義執忠、以寧區夏、式是百辟、總齊庶事。內摧寇虐、外靜姦宄、日昃憂勤、劬勞夙夜。德聲光于上下、勳烈施於四方。深惟大議、首建明策、權定社稷、援立朕躬、宗廟獲安、億兆慶賴。伊摯之保乂殷邦、公旦之綏寧周室、蔑以尚焉。朕甚嘉之。夫德茂者位尊、庸大者祿厚、古今之通義也。其登位相國、增邑九千、并前四萬戶。進號大都督・假黃鉞、入朝不趨、奏事不名、劍履上殿。賜錢五百萬、帛五千匹、以彰元勳。帝固辭相國。
又上書訓于天子曰、荊山之璞雖美、不琢不成其寶、顏冉之才雖茂、不學不弘其量。仲尼有云、予非生而知之者、好古敏以求之者也。仰觀黃軒五代之主、莫不有所稟則、顓頊受學於綠圖、高辛問道於柏招。逮至周成、旦望作輔、故能離經辯志、安道樂業。夫然、故君道明於上、兆庶順於下、刑措之隆、實由於此。宜遵先王下問之義、使講誦之業屢聞於聽、典謨之言日陳於側也。時天子頗修華飾、帝又諫曰、履端初政、宜崇玄樸。并敬納焉。
十一月、有白氣經天。
癸巳、天子 詔して曰く、「朕 聞くならく創業の君は、必ず股肱の臣を須(もち)ゐ、守文の主も、亦た匡佐の輔に賴る。是が故に文武は呂召を以ゐて受命の功を彰らかにし〔一〕、宣王は山甫に倚(たの)みて中興の業を享(う)く〔二〕。大將軍 世々明德を載(かさ)ね、期に應じて輔を作す。天の險を降し、帝室 難多きに遭ひ、齊王 政に蒞(のぞ)むに、率典を迪(ふ)まず。公 義を履み忠を執りて、以て區夏を寧(やす)んじ、是れ百辟を式(もち)ゐ、庶事を總齊す。內に寇虐を摧(くじ)き、外に姦宄を靜め、日昃(にっそく)まで憂勤し、夙夜に劬勞す。德聲 上下に光(み)ち、勳烈 四方に施す。深く大議を惟(おもんみ)るに、首(はじ)めとして明策を建て、權(はか)りて社稷を定め、援けて朕の躬を立てれば、宗廟 安きを獲、億兆 慶賴す。伊摯の殷邦を保乂し、公旦の周室を綏寧するも〔三〕、以て焉(これ)より尚(たふと)きこと蔑(な)し。朕 甚だ之を嘉す。夫れ德茂なる者 位の尊く、庸大なる者 祿の厚きは、古今の通義なり。其れ位を相國に登(のぼ)し、邑九千を增し、前と并はせて四萬戶とす。號を大都督に進め、黃鉞を假し、入朝不趨、奏事不名、劍履上殿とす。錢五百萬、帛五千匹を賜ひ、以て元勳を彰らかにせよ」と。帝 固く相國を辭す。
又 上書して天子に訓じて曰く、「荊山の璞 美なると雖も、琢(みが)かずんば其の寶と成らず〔四〕、顏冉の才 茂なると雖も、學ばずんば其の量を弘(ひろ)めず〔五〕。仲尼 云ふこと有り、予 生れながらにして之を知る者に非ず、古を好み敏にして以て之を求むる者なりと〔六〕。仰ぎて黃軒五代の主を觀るに、稟(う)け則る所有らざる莫く、顓頊 學を綠圖に受け、高辛 道を柏招に問ふ〔七〕。周成に至るに逮び、旦望 輔と作り、故に能く經を離し志を辯じ、道を安んじ業を樂しむ。夫れ然り、故に君道 上に於いて明らかなれば、兆庶 下に於いて順ひ、刑措の隆、實に此に由る。宜しく先王の下問の義に遵ひ、講誦の業 屢々聽に聞き、典謨の言 日々側に陳べしむべきなり〔八〕」と。時に天子 頗る華飾を修め、帝 又 諫めて曰く、「端を初政に履み、宜しく玄樸を崇(たふと)ぶべし」と。并びに焉を敬納す。
十一月、白氣の天を經(ふ)る有り。
〔一〕呂召は、呂尚と召公。呂尚は、周の文王・武王の軍師を務め、殷との戦いにおいて、周を勝利に導き、のち斉に封建された(『史記』卷三十二 齊太公世家)。召公は、召公奭。周の文王の子、武王・周公旦の弟。北燕に封ぜられた(『史記』卷三十四 燕召公世家)。
〔二〕宣王は、周の第十一代の王。西周中興の王。十四年間の空位時代(共和)の後に即位した(『史記』巻四 周本紀)。山甫は、仲山甫。樊穆仲のこと。周の宣王に仕えた名宰相(『史記』本紀四 周本紀)。
〔三〕伊摯は、伊尹。殷の湯王に請われて宰相となり、夏の桀王を討伐して殷王朝創業の功臣となった(『史記』巻三 殷本紀)。公旦は、周公旦。兄の武王を政治的に補佐し、その死後は摂政として兄の子である成王をもり立てた(『史記』卷三十三 魯周公世家)。
〔四〕荊山の璞は、何氏の璧(『韓非子』和氏を参照)。
〔五〕顏冉は、顔回と冉求。顔回は、春秋時代の魯の人、字を子淵。孔子の弟子で、徳行に秀でた。孔子の弟子中最も優れたが、三十二歳で早卒した。冉求は、孔子の弟子。字を子有。孔子より二十九歳の年少で、政事を得意とした(『史記』巻六十七 仲尼弟子列伝)。
〔六〕出典は、『論語』述而篇。
〔七〕顓頊と高辛は、いにしえの伝説上の帝王(『史記』巻一 五帝本紀)。綠圖は、『漢書』巻二十に「顓頊師」とあり、顓頊の学問の師。柏招は、『漢書』巻二十に「柏招帝嚳師」とあり、高辛(帝嚳)の学問の師。
〔八〕典謨は、『尚書』(書経)の文の種類。「典」は堯典・舜典、「謨」は大禹謨・皐陶謨など。
癸巳、天子が詔して、「朕が聞くに創業の君とは、必ず股肱の臣を用い、守文の主(後継者)もまた、補佐の臣を頼りにするものである。ゆえに文王と武王は呂尚と召公を用いて天命を受けた事業(周王朝の創始)をおこない、宣王は仲山甫に頼って(周王朝を)中興できた。さて大将軍は代々明徳をかさね、時期に応じ補佐をしてきた。天が試練を課し、(魏の)帝室は苦難が多く、斉王芳の為政は、規範を踏み外したものだった。公(あなた)は義と忠を実践し、国土を安定させ、百官を登用し、政治全般をみている。内でも外でも秩序を乱すものを除き、昼過ぎまで精勤し、朝晩に苦労している。有徳の評判は上下に充満し、功績は四方に伝播している。重要な議論を参照するに、(公は)はじめに皇帝擁立を企画し、社稷安定を図り、朕を即位させてくれたので、宗廟が安泰となり、万民から祝福されている。伊摯(伊尹)が殷王朝を安定させ、周公旦が周王朝を安定させたが、今回のことほど立派ではなかった。朕は大変喜ばしく思う。そもそも徳が盛んなものは位が高く、功が大きなものは禄が多いのは、古今の道理である。そこで位を相国に上げ、食邑九千を増やし、合計四万戸とする。官号を大都督に進め、黄鉞を假し、入朝不趨、奏事不名、剣履上殿(の待遇)とする。銭五百万、帛五千匹を賜い、おおきな功績を明らかにするように」と言った。景帝は相国を固辞した。
また(景帝が)上書して天子に教訓をしめし、「荊山の璞は美しいが、磨かねば宝玉とならず、顔回や冉求は才能が豊かですが、学ばなければ度量が広がりませんでした。仲尼(孔子)も、私は生まれながらに分かっていたのではなく、努力して探究したと言っています。黄帝から五代の君主を仰ぎ見ますに、規範に従わぬものはおらず、顓頊は緑図より学を授けられ、高辛(帝嚳)は柏招より道を教わりました。周の成王のとき、周公旦と太公望が補佐すると、儒家経典を読解し、政治が安定しました。上に君主の道が明らかならば、下に万民は従い、刑罰が要らぬ理想の世は、こうして到来します。どうぞ前代の君主たちが学んだのと同様、しばしば講義をお受けになり、『尚書』の文言が日常的に耳に入るようにしなさい」と。このとき天子がひどく華美を好んだので、景帝がさらに諫め、「即位して政治を始めるにあたり、実直さを大切にしなさい」と言った。どちらも謹んで聞き入れられた。
十一月、白気が天を横切った。
二年春正月、有彗星見於吳楚之分、西北竟天。鎮東大將軍毋丘儉・揚州刺史文欽舉兵作亂、矯太后令移檄郡國。為壇盟于西門之外、各遣子四人質于吳以請救。1.二月、儉・欽帥眾六萬、渡淮而西。帝會公卿謀征討計、朝議多謂可遣諸將擊之、王肅及尚書傅嘏・中書侍郎鍾會勸帝自行。2.戊午、帝統中軍步騎十餘萬以征之。倍道兼行、召三方兵、大會于陳許之郊。
3.甲申、次于㶏橋、儉將史招・李續相次來降。儉・欽移入項城、帝遣荊州刺史王基進據南頓以逼儉。帝深壁高壘、以待東軍之集。諸將請進軍攻其城、帝曰、諸君得其一、未知其二。淮南將士本無反志。且儉・欽欲蹈縱橫之迹、習儀・秦之說、謂遠近必應。而事起之日、淮北不從、史招・李續前後瓦解。內乖外叛、自知必敗、困獸思鬭、速戰更合其志。雖云必克、傷人亦多。且儉等欺誑將士、詭變萬端、小與持久、詐情自露、此不戰而克之也。乃遣諸葛誕督豫州諸軍自安風向壽春、征東將軍胡遵督青・徐諸軍出譙・宋之間、絕其歸路。
1.中華書局本は、月の誤記を指摘している。
2.中華書局本は、日付の誤記を指摘している。
3.中華書局本は、日付の誤記を指摘している。
二年春正月、彗星の吳楚の分に見(あらは)るる有り、西北に天に竟(わた)る。鎮東大將軍の毋丘儉・揚州刺史の文欽 兵を舉げて亂を作し、太后の令を矯めて檄を郡國に移す。壇を為りて西門の外に盟(ちか)ひ、各々子四人を遣はして吳に質として以て救ひを請ふ。二月、儉・欽 眾六萬を帥ゐ、淮を渡りて西す。帝 公卿に會して征討の計を謀り、朝議 多く諸將を遣はして之を擊たしむ可しと謂ひ、王肅及び尚書の傅嘏・中書侍郎の鍾會 帝に自ら行かんことを勸む。戊午、帝 中軍の步騎十餘萬を統べて以て之を征す。道を倍して兼行し、三方の兵を召し、大いに陳許の郊に會す。
甲申、㶏橋に次り、儉が將たる史招・李續 相い次いで來降す。儉・欽 移りて項城に入り、帝 荊州刺史の王基を遣はして進みて南頓に據り以て儉に逼らしむ。帝 壁を深くし壘を高くし〔一〕、以て東軍の集ふを待つ。諸將 軍を進めて其の城を攻めんと請ふも、帝曰く、「諸君 其の一を得て、未だ其の二を知らず。淮南の將士 本は反志無し。且つ儉・欽 縱橫の迹を蹈み、儀・秦が說に習はんと欲し〔二〕、遠近 必ず應ぜんと謂ふ。而るに事 起こすの日、淮北 從はず、史招・李續 前後して瓦解す。內は乖(そむ)き外は叛き、自ら必敗を知り、困(きは)める獸 鬭を思ひ、速かに戰はば更に其の志を合せん。必克と云ふと雖も、傷人 亦た多し。且つ儉等 將士を欺誑し、詭變萬端、小さく與に持久せば、詐情 自ら露はれ、此れ戰はずして之に克つなり」と。乃ち諸葛誕をして豫州諸軍を督し安風自り壽春に向かはしめ、征東將軍の胡遵をして青・徐諸軍を督して譙・宋の間を出で、其の歸路を絕たしむ。
〔一〕『春秋左氏伝』文公十二年に、「請深壘固軍以待之」とあり、鄭玄注に、「深髙也、是其義也」とある。深は高の意味なので、「深壁」は壁を高くすること。藍田邸 @kusamaturi さまの指摘より。
〔二〕儀・秦は、張儀・蘇秦。張儀は、張儀は、魏の人。蘇秦とともに斉の鬼谷先生に雄弁の術を学んだとされる戦国時代の縦横家の一人。秦に仕えた張儀は対楚工作を行い、楚の懐王との約束を反故にし、領土を獲得した。蘇秦は、雒陽の人、字は季子。燕の文侯に任用され、東方六国に説いて合従同盟を締結、秦に対抗した(『史記』巻六十九 蘇秦伝)。
正元二(二五五)年春正月、彗星が呉楚の分野にあらわれ、西北の空にかかった。鎮東大将軍の毌丘倹・揚州刺史の文欽が兵を挙げて反乱し、太后の令に仮託して檄文を郡国に回付した。壇を築いて西門の外で盟約し、それぞれの子四人を人質として呉に派遣し、救援を要請をした。二月、毌丘倹・文欽は軍勢六万をひきい、淮水を渡り西にむかった。景帝が公卿をあつめ討伐計画をねると、朝臣らは諸将を派遣して撃てば充分だと述べたが、王粛および尚書の傅嘏・中書侍郎の鍾会は景帝に自ら行くよう勧めた。戊午、景帝は中軍の歩騎十餘萬を統率して征伐にむかった。倍速で急行し、三方の兵を召し、大々的に陳許の郊で集まった。
甲申、(景帝が)㶏橋に停泊していると、毌丘倹の将である史招・李続があいついで投降した。毌丘倹・文欽が移って項城に入ると、景帝は荊州刺史の王基を遣わして南頓を拠点とし毌丘倹に肉迫させた。景帝は壁や土塁を高くし、東からの軍が集まるのを待った。諸将は(東からの到着を待たず)進んで項城を攻撃したいと言ったが、景帝は、「諸君は一を分かっているが、まだ二を知らぬ。淮南の将士は元来反乱の意志がなかった。毌丘倹・文欽が縦横家を気どり、張儀・蘇秦のように(外交戦略を)説けば、遠近がきっと味方すると吹き込んだのだ。しかしいざ決起すると、淮北が従わなかったから、史招・李続が前後して見限った。内外がばらばらになり、必ず負けると悟れば、追い詰められた獣のように(破れかぶれで)闘争を求めるものだから、速戦をしかければ彼らを団結させてしまう。必ず勝ちはするが、けが人も多く出る。しかも毌丘倹らは将士をだましているから、少しでも戦いが長引けば、うそが発覚し、戦わずとも勝つことができよう」と言った。諸葛誕に豫州諸軍を督して安風から寿春に向かわせ、征東将軍の胡遵には青州・徐州諸軍を督して譙・宋の間に出撃し、敵軍の帰路を絶たせた。
帝屯汝陽、遣兗州刺史鄧艾督太山諸軍進屯樂嘉、示弱以誘之。欽進軍將攻艾、帝潛軍銜枚、徑造樂嘉、與欽相遇。欽子鴦、年十八、勇冠三軍、謂欽曰、及其未定、請登城鼓譟、擊之可破也。既謀而行、三譟而欽不能應。鴦退、相與引而東。帝謂諸將曰、欽走矣、命發銳軍以追之。諸將皆曰、欽舊將、鴦少而銳。引軍內入、未有失利、必不走也。帝曰、一鼓作氣、再而衰、三而竭。鴦三鼓、欽不應、其勢已屈、不走何待。欽將遁、鴦曰、不先折其勢、不得去也。乃與驍騎十餘摧鋒陷陣。所向皆披靡、遂引去。帝遣左長史 1.司馬璉督驍騎八千翼而追之、使將軍樂綝等督步兵繼其後。比至沙陽、頻陷欽陣、弩矢雨下。欽蒙楯而馳。大破其軍、眾皆投戈而降、欽父子與麾下走保項。儉聞欽敗、棄眾宵遁淮南。安風津都尉追儉、斬之、傳首京都。欽遂奔吳、淮南平。
1.『資治通鑑』巻七十六は「司馬班」に作る。
帝 汝陽に屯し、兗州刺史の鄧艾をして太山諸軍を督して進みて樂嘉に屯せしめ、弱を示して以て之を誘(みちび)く。欽 軍を進めて將に艾を攻めんとするに、帝 軍を潛めて枚(ばい)を銜み、徑(ただ)ちに樂嘉に造(いた)り、欽と相遇す。欽が子たる鴦、年十八、勇は三軍に冠(いただ)けり。欽に謂ひて曰く、「其の未だ定らざるに及び、請ふ城に登りて鼓譟し、之を擊たば破る可きなり」と。既にして謀りて行ひ、三譟すれども欽 能く應ぜず。鴦 退き、相ひ與に引きて東す。帝 諸將に謂ひて「欽 走れり」と曰ひ、命じて銳軍を發して以て之を追はしむ。諸將 皆 曰く、「欽は舊將なり、鴦は少くして銳なり。軍を引きて內に入るるは、未だ利を失ふこと有らず、必ず走らざるなり」と。帝曰く、「一鼓して氣を作し、再びして衰へ、三たびして竭(つ)く。鴦 三鼓するとも、欽 應ぜず、其の勢 已に屈す、走らずして何を待たんか」と。欽 將に遁げんとし、鴦曰く、「先に其の勢を折(くじ)かずんば、去ることを得ざるなり」と。乃ち驍騎十餘と與に鋒を摧(くじ)き陣を陷とす。向かふ所 皆 披靡し、遂に引去す。帝 左長史の司馬璉をして驍騎八千翼を督して之を追はしめ、將軍の樂綝等をして步兵を督して其の後を繼がしむ。沙陽に至るに比(およ)び、頻りに欽が陣を陷とし、弩矢 雨のごとく下(ふ)る。欽 楯を蒙(おほ)ひて馳す。大いに其の軍を破り、眾 皆 戈を投じて降り、欽が父子 麾下と與に走りて項に保(とりで)す。儉 欽の敗るるを聞き、眾を棄て宵に淮南に遁(のが)る。安風津都尉 儉を追ひ、之を斬り、首を京都に傳ふ。欽 遂に吳に奔り、淮南 平らぐ。
景帝は汝陽に駐屯し、兗州刺史の鄧艾に太山の諸軍を督して進んで楽嘉に駐屯させ、弱みを見せて(敵軍を)誘いこんだ。文欽が進軍して鄧艾を攻めようしたとき、景帝は軍の位置を隠して枚をくわえ、まっすぐ楽嘉に向かい、文欽と遭遇した。文欽の子である文鴦は、十八歳で、武勇は三軍の頂点であった。(文鴦は)文欽に、「やつらが態勢を整える前に、城壁にのぼって鼓を鳴らして騒げば、撃破できます」と言った。提案どおり実行し、三たび気勢を上げたが文欽は呼応できなかった。文鴦は撤退し、文鴦とともに東に移った。景帝は諸将に、「文欽が逃げたぞ」と言い、精鋭に追撃を命じた。諸将はみな、「文欽は熟練の将で、文鴦は若くても精強です。軍を引いて城内に入りましたが、まだ利を失っておらず、きっと逃げたのではありません」と言った。(しかし)景帝は、「ひとたび鼓を鳴らせば士気があがり、ふたたび鳴らせば士気が衰え、みたび鳴らせば気力が尽きるものだ。文鴦が三回も鼓を鳴らしたが、文欽は呼応しなかったから、もう士気は尽きている、逃げたに違いない」と言った。文欽が逃げようとすると、文鴦は、「敵軍の勢いを削いでおかねば、撤退もままなりません」と言った。そこで驍騎十餘とともに(景帝の軍に)攻撃をしかけて陣を落とした。(文鴦の)向かうところは全て潰走し、おかげで(文欽は)撤退した。景帝は左長史の司馬璉に驍騎八千翼を督してこれを追わせ、将軍の樂綝らに歩兵を督してその後続とした。沙陽に到達すると、つぎつぎと文欽の陣をおとし、弩矢を雨のごとく降らせた。文欽は楯をかぶって駆けた。おおいに軍を破り、兵はみな武器を捨てて投降し、文欽の父子は配下とともに走って項を拠点とした。毌丘倹は文欽が敗れたと聞き、軍勢を捨てて夜に淮南に逃げた。安風津都尉が毌丘倹を追い、かれを斬り、首を都に送った。こうして文欽は呉に出奔し、淮南は平定された。
初、帝目有瘤疾、使醫割之。鴦之來攻也、驚而目出。懼六軍之恐、蒙之以被。痛甚、齧被敗而左右莫知焉。閏月疾篤、使文帝總統諸軍。辛亥、崩于許昌、時年四十八。
二月、帝之喪至自許昌、天子素服臨弔、詔曰、公有濟世寧國之勳、克定禍亂之功、重之以死王事、宜加殊禮。其令公卿議制。有司議以為忠安社稷、功濟宇內。宜依霍光故事、追加大司馬之號以冠 1.(軍)大將軍、增邑五萬戶、諡曰武公。文帝表讓曰、臣亡父不敢受丞相・相國・九命之禮、亡兄不敢受相國之位。誠以太祖常所階歷也。今諡與二祖同、必所祗懼。昔蕭何・張良・霍光咸有匡佐之功、何諡文終、良諡文成、光諡宣成。必以文武為諡、請依何等就加。詔許之、諡曰忠武。晉國既建、追尊曰景王。武帝受禪、上尊號曰景皇帝、陵曰峻平、廟稱世宗。
1.中華書局本 所引 李慈銘『晋書札記』に従い、「軍」一字を削る。
初め、帝 目に瘤疾有り、醫をして之を割かしむ。鴦の來攻するや、驚きて目 出づ。六軍の恐るるを懼れ、之を蒙(おほ)ふに被を以てす。痛み甚しく、被を齧(か)み敗れども左右 知るもの莫し。閏月 疾は篤かれば、文帝をして諸軍を總統せしむ。辛亥、許昌に崩じ、時に年四十八なり。
二月、帝の喪 許昌自り至り、天子 素服して臨弔し、詔して曰く、「公 濟世寧國の勳、克定禍亂の功有り、之に重ぬるに王事に死するを以てせば、宜しく殊禮を加ふべし。其れ公卿に令して制を議せ」と。有司 議して以為へらく忠もて社稷を安じ、功は宇內を濟ふ。宜しく霍光の故事に依り〔一〕、追ひて大司馬の號を加へて以て大將軍に冠し、邑五萬戶を增し、諡して武公と曰へと。文帝 表にて讓して曰く、「臣が亡父 敢へて丞相・相國・九命の禮を受けず、亡兄 敢へて相國の位を受けず。誠に以て太祖の常(かつ)て階歷する所なり。今 諡 二祖と同じくするは〔二〕、必ず祗懼する所なり。昔 蕭何・張良・霍光 咸 匡佐の功有るも、何 文終と諡し、良 文成と諡し、光 宣成と諡せらる。必ず文武を以て諡と為す、請ふ何等に依りて就加すべし」と。詔ありて之を許し、諡して忠武と曰ふ。晉國 既に建ち、追尊して景王と曰ふ。武帝 受禪し、尊號を上(たてまつ)りて景皇帝と曰ひ、陵は峻平と曰ひ、廟は世宗と稱す。
〔一〕霍光は、前漢の宰相。武帝の遺詔により大司馬・大将軍となり昭帝を補佐した。昭帝の崩御後、一度は昌邑王の劉賀を擁立したが、劉賀が非道であり皇帝に相応しくないとして廃位し、改めて宣帝を立てた(『漢書』卷六十八 霍光傳)。
〔二〕曹操は武帝、曹丕は文帝と謚された。すでに司馬懿は「文」と謚され(『晋書』宣帝紀)、司馬師に「武」と謚すれば、父子二代の謚が一致してしまう。
これより先、景帝は目にこぶがあり、医者に切り取らせた。文鴦に襲撃されると、驚いて目が飛び出した。(味方の)六軍が怖がらぬよう、かぶり物で隠した。痛みがひどく、かぶり物を噛みちぎったが側近でも(病状に)気づかなかった。閏月、傷が悪化したので、文帝に諸軍を統率させた。辛亥、許昌で崩じた。四十八歳であった。
二月、景帝の遺体が許昌から(洛陽に)運ばれると、天子は素服にて対面し、詔して、「公(景帝)は国家を安寧とし、反乱を平定した勲功があり、しかも王業において(遠征中に)死去したため、特別な礼を加えねばならない。公卿に命じて議論させよ」と言った。担当官は「忠により社稷を安んじ、国家を救った功績があります。霍光の故事にならい、追って大司馬の官号を大将軍に加え(大司馬大将軍とし)、食邑五万戸を増やし、武公と謚すべきです」と言った。文帝は上表して辞譲し、「わが亡父はあえて丞相・相国・九命(九錫)の礼を受けず、亡兄もあえて相国の位を受けませんでした。これこそ前代に太祖(曹操)が段階を踏んだやり方です。いま謚を二祖と等しくするなど、畏れ多いことです。むかし蕭何・張良・霍光はいずれも皇帝補佐の功績がありながら、蕭何は文終、張良は文成、霍光は宣成と謚されました。(司馬氏に)文や武を謚とするには、根拠や正当性がありません」と言った。詔があって辞退をゆるし、(景帝に)忠武と謚した。晋が建国されると、追尊して景王とした。武帝が受禅すると、皇帝号を贈って景皇帝とし、陵を峻平といい、廟号を世宗とした。
文皇帝諱昭、字子上、景帝之母弟也。魏景初二年、封新城鄉侯。正始初、為洛陽典農中郎將。值魏明奢侈之後、帝蠲除苛碎、不奪農時、百姓大悅。轉散騎常侍。
大將軍曹爽之伐蜀也、以帝為征蜀將軍、副夏侯玄出駱谷、次于興勢。蜀將王林夜襲帝營、帝堅卧不動。林退、帝謂玄曰、費禕以據險距守、進不獲戰、攻之不可。宜亟旋軍、以為後圖。爽等引旋、禕果馳兵趣三嶺、爭險乃得過。遂還、拜議郎。及誅曹爽、帥眾衞二宮、以功增邑千戶。
文皇帝 諱は昭、字は子上、景帝の母弟なり。魏の景初二年、新城鄉侯に封ぜらる。正始の初、洛陽典農中郎將と為る。魏明の奢侈の後に值たり、帝 苛碎を蠲除し、農時を奪はず、百姓 大いに悅ぶ。散騎常侍に轉ず。
大將軍曹爽の蜀を伐つや、帝を以て征蜀將軍と為し、夏侯玄に副たらしめ駱谷を出で、興勢に次る。蜀將王林 帝の營を夜襲するも、帝 堅卧して動ぜず。林 退き、帝 玄に謂ひて曰く、「費禕 以て險に據りて距守し、進めども戰ふことを獲ず、之を攻むるは不可なり。宜しく亟かに軍を旋(めぐ)らせ、以て後圖を為すべし」と。爽ら引旋し、禕 果たして兵を馳せて三嶺に趣き、險を爭ひて乃ち過ぐるを得。遂に還り、議郎を拜す。曹爽を誅するに及び、眾を帥ゐて二宮を衞り、功を以て邑千戶を增せらる。
文皇帝は、諱を昭、字を子上といい、景帝の同母弟である。魏の景初二(二三八)年、新城郷侯に封ぜられた。正始の初め(二四〇~)、洛陽典農中郎将となった。魏の明帝が奢侈を極めた時代の後を受け、文帝は煩瑣な労役を中止し、農時を奪わなかったので、万民から歓迎された。散騎常侍に転任した。
大将軍の曹爽が蜀を討伐すると、文帝を征蜀将軍とし、夏侯玄の副将として駱谷を越え、興勢に進軍した。蜀将の王林が文帝の軍営を夜襲したが、文帝は(自軍を)抑え動揺しなかった。王林が退くと、文帝は夏侯玄に、「費禕は険しい地形を頼みに守っているので、進んでも(有利に)戦えず、攻めるのは得策ではありません。どうぞ速やかに軍を還し、別の機会にしましょう」と言った。曹爽らが軍を退くと、案の定費禕が軍を動かして三嶺に赴いたが、険阻な地形を奪いあい通過(して撤退)できた。撤退を完了し、議郎を拝した。曹爽を誅殺する際は、軍勢を率いて二宮を守り、功績により邑千戸を増やされた。
蜀將姜維之寇隴右也、征西將軍郭淮自長安距之。進帝位安西將軍・持節、屯關中、為諸軍節度。淮攻維別將句安於麴、久而不決。帝乃進據長城、南趣駱谷以疑之。維懼、退保南鄭、安軍絕援、帥眾來降。轉安東將軍・持節、鎮許昌。及大軍討王淩、帝督淮北諸軍事、帥師會于項。增邑三百戶、假金印紫綬。尋進號都督、統征東將軍胡遵・鎮東將軍諸葛誕伐吳、戰于東關。二軍敗績、坐失侯。
蜀將姜維又寇隴右、揚聲欲攻狄道。以帝行征西將軍、次長安。雍州刺史陳泰欲先賊據狄道。帝曰:「姜維攻羌、收其質任、聚穀作邸閣訖、而復轉行至此。正欲了塞外諸羌、為後年之資耳。若實向狄道、安肯宣露、令外人知。今揚聲言出、此欲歸也。」維果燒營而去。會新平羌胡叛、帝擊破之、遂耀兵靈州、北虜震讋、叛者悉降。以功復封新城鄉侯。
高貴鄉公之立也、以參定策、進封高都侯、增封二千戶。毌丘儉・文欽之亂、大軍東征、帝兼中領軍、留鎮洛陽。
蜀將姜維の隴右に寇するや、征西將軍郭淮 長安自り之を距ぐ。帝 位を安西將軍・持節に進め、關中に屯し、諸軍の節度と為る。淮 維の別將句安を麴に於いて攻め、久しくも決せず。帝 乃ち進みて長城に據り、南のかた駱谷に趣きて以て之を疑はしむ。維 懼れ、退きて南鄭を保てば、安が軍 援を絕たれ、眾を帥ゐて來降す。安東將軍・持節に轉じ、許昌に鎮す。大軍 王淩を討つに及び、帝 淮北諸軍事を督し、師を帥ゐて項に于いて會す。邑を增やすこと三百戶、金印紫綬を假せらる。尋いで號を都督に進め、征東將軍胡遵・鎮東將軍諸葛誕を統べて吳を伐ち、東關に于いて戰ふ。二軍 敗績し、坐して侯を失ふ。
蜀將姜維 又 隴右に寇し、揚聲して狄道を攻めんと欲す。帝を以て征西將軍を行し、長安に次らしむ。雍州刺史陳泰 賊に先んじ狄道に據らんと欲す。帝曰く、「姜維 羌を攻め、其の質任を收め、穀を聚めて邸閣を作り訖はり、而して復た轉行して此に至る。正に塞外諸羌を了(さと)して、後年の資と為さんと欲す。若し實に狄道に向かはば、安肯んぞ宣く露し、外人をして知らしめんや。今 揚聲して出でんと言ふは、此れ歸らんと欲すればなり」と。維 果して營を燒きて去る。會 新平の羌胡 叛き、帝 擊ちて之を破り、遂に兵を靈州に耀かせ、北虜 震讋し、叛者 悉く降る。功を以て復た新城鄉侯に封ぜらる。
高貴鄉公の立つや、定策に參ずるを以て、封を高都侯に進め、封二千戶を增す。毌丘儉・文欽の亂するや、大軍 東征し、帝 中領軍を兼ねて、留まりて洛陽に鎮す。
蜀将の姜維が隴右に攻め入ると、征西将軍の郭淮が長安から(出撃し)これを防いだ。文帝の官位を安西将軍・持節に進め、関中に駐屯させ、諸軍を監察した。郭淮は姜維の別将である句安を麴において攻めたが、なかなか決着がつかなかった。これを受けて文帝は進軍して長城に拠り、南方の駱谷に行って(本拠地を突くと見せかけ)敵軍をだました。姜維は恐れ、撤退して南鄭を保ったため、句安の軍は孤立し、軍勢を連れて降服した。安東将軍・持節に転任し、許昌に鎮した。天子の軍が王淩を討つとき、文帝は淮北諸軍事を督し、軍勢を率いて項県に参集した。食邑を三百戸増やし、金印紫綬を仮せられた。ほどなく官号を都督に進め、征東将軍の胡遵・鎮東将軍の諸葛誕をひきいて呉を討伐し、東関で戦った。二軍が敗北し、責任をとり侯の爵位を失った。
蜀将の姜維が再び隴右に攻め入り、声を揚げて狄道を攻めると宣言した。文帝に征西将軍を兼ねさせ、長安に駐屯させた。雍州刺史の陳泰が賊に先んじて狄道を確保しようと考えた。文帝は、「姜維は羌族を攻め、その人質を取り、食料を確保して倉庫を完成させ、その上で再び軍勢を巡らせてここに襲来した。きっと塞外の諸羌に同意を取りつけ、後年の役立てたいと考えている。もし本当に(姜維が)狄道に向かうならば、どうして行き先を公言し、外部に知らせたりするものか。いま声を揚げて出撃すると言うのは、実際は帰還するつもりだからだ」と言った。姜維はやはり軍営を焼いて去った。ちょうど新平の羌胡が叛いたので、文帝がこれを撃破し、こうして兵威を霊州に輝かせ、北方の異民族は畏怖し、叛いた者は全て降った。功績により新城郷侯に復した。
高貴郷公が天子となると、即位に尽力したので、封爵を高都侯に進め、二千戸の食邑を増やした。毌丘倹・文欽が反乱すると、天子の軍が東征し、文帝は中領軍を兼ねて、洛陽に留まって鎮護した。
及景帝疾篤、帝自京都省疾、拜衞將軍。景帝崩、天子命帝鎮許昌、尚書傅嘏帥六軍還京師。帝用嘏及鍾會策、自帥軍而還。至洛陽、進位大將軍、加侍中、都督中外諸軍・錄尚書事、輔政、劍履上殿。帝固辭不受。
甘露元年春正月、加大都督、奏事不名。夏六月、進封高都公、地方七百里、加之九錫、假斧鉞、進號大都督、劍履上殿。又固辭不受。秋八月庚申、加假黃鉞、增封三縣。
景帝 疾 篤かるに及び、帝 京都自り疾を省し、衞將軍を拜す。景帝 崩ずるや、天子 帝に命じて許昌に鎮せしめ、尚書傅嘏をして六軍を帥ゐ京師に還らしむ。帝 嘏及び鍾會の策を用ひ、自ら軍を帥ゐて還る。洛陽に至り、位を大將軍に進め、侍中、都督中外諸軍・錄尚書事を加へ、輔政、劍履上殿とす。帝 固辭して受けず。
甘露元年春正月、大都督を加へ、奏事不名とす。夏六月、封を高都公に進め、地は方七百里、之に九錫を加へ、斧鉞を假し、號を大都督に進め、劍履上殿とす。又 固辭して受けず。秋八月庚申、加へて黃鉞を假し、封三縣を增す。
景帝の病が重くなると、文帝は京都より病状を見舞い、衛将軍を拝した。景帝が崩御すると、天子は文帝に命じて許昌に鎮させ、(文帝から指揮権を没収し)尚書の傅嘏に六軍をひきいて京師に帰還せよと命じた。文帝は傅嘏及び鍾会の計策をもちい、みずから軍を率いて(京師に)帰還した。洛陽に到着すると、位を大将軍に進め、侍中、都督中外諸軍・録尚書事を加え、輔政させ、剣履上殿とした。文帝は固辞して受けなかった。
甘露元(二五六)年春正月、大都督を加え、奏事不名とした。夏六月、封爵を高都公に進め、領地は七百里四方、これに九錫を加え、斧鉞を仮し、号を大都督に進め、剣履上殿とした。また固辞して受けなかった。秋八月庚申、加えて黄鉞を仮し、封邑三県を増やした。
二年夏五月辛未、鎮東大將軍諸葛誕殺揚州刺史樂綝、以淮南作亂、遣子靚為質於吳以請救。議者請速伐之、帝曰、誕以毌丘儉輕疾傾覆、今必外連吳寇。此為變大而遲。吾當與四方同力、以全勝制之。乃表曰、昔黥布叛逆、漢祖親征。隗囂違戾、光武西伐。烈祖明皇帝乘輿仍出、皆所以奮揚赫斯、震耀威武也。陛下宜暫臨戎、使將士得憑天威。今諸軍可五十萬、以眾擊寡、蔑不克矣。
秋七月、奉天子及皇太后東征、徵兵青・徐・荊・豫、分取關中遊軍、皆會淮北。師次于項、假廷尉何1.楨節、使淮南、宣慰將士、申明逆順、示以誅賞。甲戌、帝進軍丘頭。吳使文欽・唐咨・全端・全懌等三萬餘人來救誕。諸將逆擊、不能禦。將軍李廣臨敵不進、泰山太守常時稱疾不出、並斬之以徇。
八月、吳將朱異帥兵萬餘人、留輜重於都陸、輕兵至黎漿。監軍石苞・兗州刺史州泰禦之、異退。泰山太守胡烈以奇兵襲都陸、焚其糧運。苞・泰復進擊異、大破之。異之餘卒餒甚、食葛葉而遁、吳人殺異。帝曰:「異不得至壽春、非其罪也、而吳人殺之。適以謝壽春而堅誕意、使其猶望救耳。若其不爾、彼當突圍、決一旦之命。或謂大軍不能久、省食減口、冀有他變。料賊之情、不出此三者。今當多方以亂之、備其越逸。此勝計也。」因命合圍、分遣羸疾就穀淮北、廩軍士大豆、人三升。欽聞之、果喜。帝愈羸形以示之、多縱反間、揚言吳救方至。誕等益寬恣食、俄而城中乏糧。石苞・王基並請攻之、帝曰:「誕之逆謀、非一朝一夕也。聚糧完守、外結吳人、自謂足據淮南。欽既同惡相濟、必不便走。今若急攻之、損游軍之力。外寇卒至、表裏受敵、此危道也。今三叛相聚於孤城之中、天其或者將使同戮。吾當以長策縻之、但堅守三面。若賊陸道而來、軍糧必少、吾以游兵輕騎絕其轉輸、可不戰而破外賊。外賊破、欽等必成擒矣。」全懌母、孫權女也、得罪於吳。全端兄子2.禕及儀奉其母來奔。儀兄靜時在壽春、用鍾會計、作禕・儀書以譎靜。靜兄弟五人帥其眾來降、城中大駭。
1.『晋書斠注』・中華書局本は「楨」に作るが、中華書局本によると、『晋書』何充伝及び『魏志』斉王芳紀注引『魏書』はいずれも「禎」に作る。以下同様。
2.『晋書斠注』・中華書局本は「禕」に作るが、中華書局本によると、『魏志』鍾会伝・『資治通鑑』巻七七は「輝」に作る。以下同様。
二年夏五月辛未、鎮東大將軍諸葛誕 揚州刺史樂綝を殺し、淮南を以て亂を作し、子の靚を遣はして吳に質と為して以て救を請ふ。議者 速やかに之を伐たんことを請ふも、帝曰く、「誕 毌丘儉の輕疾にして傾覆せしを以て、今 必ず外に吳寇と連ならん。此れ變を為すに大にして遲たり。吾 當に四方と力を同(とも)にし、全勝を以て之を制さん」と。乃ち表して曰く、「昔 黥布 叛逆し、漢祖 親征す〔一〕。隗囂 違戾し、光武 西伐す〔二〕。烈祖明皇帝 輿に乘りて仍(しき)りに出づ。皆 赫斯を奮揚し、威武を震耀する所以なり。陛下 宜しく暫く戎に臨み、將士をして天威に憑くを得しめよ。今 諸軍 五十萬可(ばか)り、眾を以て寡を擊たば、克たざる蔑(な)し」と。
秋七月、天子及び皇太后を奉りて東征し、兵を青・徐・荊・豫に徵し、關中の遊軍を分取し、皆 淮北に會す。師 項に次り、廷尉何楨に節を假し、淮南に使ひして、宣く將士を慰し、逆順を申明し、誅賞を以て示す。甲戌、帝 丘頭に進軍す。吳 文欽・唐咨・全端・全懌ら三萬餘人をして來りて誕を救はしむ。諸將 逆擊するも、禦ぐ能はず。將軍李廣 敵に臨みて進まず、泰山太守常時 疾と稱して出でず、並びに之を斬りて以て徇(とな)ふ。
八月、吳將朱異 兵萬餘人を帥ゐ、輜重を都陸に留め、輕兵もて黎漿に至る。監軍石苞・兗州刺史州泰 之を禦ぎ、異 退く。泰山太守胡烈 奇兵を以て都陸を襲ひ、其の糧運を焚(や)く。苞・泰 復た進みて異を擊ち、大いに之を破る。異の餘卒 餒甚し、葛葉を食して遁ぐるに、吳人 異を殺す。帝曰く、「異 壽春に至ることを得ざるは、其の罪に非ざるなり。而るに吳人 之を殺す。適(まさ)に以て壽春に謝して誕が意を堅くし、其をして猶ほ救ひを望ましむのみ。若し其れ爾(しか)らざれば、彼 當に圍に突し、一旦の命を決すべし。或いは大軍 能く久しからずと謂ひ、食を省きて口を減らし、他變有るを冀ふ。賊の情を料るに、出でざるは此の三なり。今 當に多方に以て之を亂し、其の越逸に備ふべし。此れ勝計なり」と。因りて命じて圍を合はせ、分けて羸疾を遣はして穀を淮北の廩を就かしむ。軍士 大豆、人ごとに三升なり。欽 之を聞き、果たして喜ぶ。帝 愈々羸形 以て之に示し、多く反間を縱(はな)ち、揚言すらく吳の救ひ方に至らんと。誕ら益々寬ぎて恣に食し、俄かにして城中 糧に乏し。石苞・王基 並びて之を攻めんと請ふに、帝曰く、「誕の逆謀、一朝一夕に非ざるなり。糧を聚め守を完し、外に吳人と結び、自ら淮南に據るに足ると謂ふ。欽 既に同惡相濟し、必ず便走せず。今 若し急に之を攻むれば、游軍の力を損せん。外寇 卒かに至り、表裏に敵を受くるは、此れ危道なり。今 三叛 相ひ孤城の中に聚まり、天 其れ或いは將に同戮せしめんか。吾 當に長策を以て之を縻(つな)ぎで、但だ堅く三面を守るべし。若し賊 陸道にして來らば、軍糧 必ず少なし、吾 游兵輕騎を以て其の轉輸を絕たば、戰はずじて外賊を破る可し。外賊 破れば、欽ら必ず擒と成らん」と。全懌の母、孫權の女なり、罪を吳に得。全端の兄子たる禕及び儀 其の母を奉りて來奔す。儀の兄たる靜 時に壽春に在り、鍾會の計を用ひ、禕・儀の書を作りて以て靜を譎る。靜の兄弟五人 其の眾を帥ゐて來降し、城中 大いに駭く。
〔一〕鯨布は、英布。六縣の人。項羽の部将として活躍し、九江王に封じられたが、随何に説かれて漢に帰属した。項羽の滅亡後、淮南王に封じられたが、のち叛乱を起こし、劉邦に平定された(『史記』巻九十一 黥布列伝)。
〔二〕隗囂は、天水郡成紀県の人、字を季孟。隴右を拠点として西州上将軍と自称。光武帝の傘下に入るが、光武帝の公孫述討伐の際、裏切って公孫述につき抵抗。建武九(三三)年、病死した(『後漢書』列傳三 隗囂伝)。
甘露二(二五七)年夏五月辛未、鎮東大将軍の諸葛誕が揚州刺史の樂綝を殺し、淮南で乱を起こし、子の諸葛靚を送って呉の人質として援軍を求めた。議者は速やかにこれを討伐せよと要請したが、文帝は、「諸葛誕・毌丘倹は軽率で判断が狂っているので、今回必ず外で呉軍と連携するだろう。これでは武装決起が大規模となり動きが鈍る。私は四方と力を合わせ、あらゆる面で圧倒してやろう」と言った。こうして上表し、「むかし黥布が叛逆すると、漢祖(劉邦)が親征しました。隗囂が道理を誤ると、光武(劉秀)が西伐しました。烈祖明皇帝は輿に乗って頻りに外征しました。いずれも怒りを燃やし、武威を轟き輝かせるためです。陛下もしばらく軍に身をおき、将士に天の威光を頼らせて下さい。いま諸軍は約五十万、多数で少数を撃てば、負けはありません」と言った。
秋七月、天子及び皇太后を奉って東征し、青・徐・荊・豫州で兵を徴発し、関中の遊軍を割き、全軍を淮北に集めた。軍勢が項県に駐屯すると、廷尉の何楨に節を仮し、淮南への使者とし、広く将士を慰撫し、順逆を説明し、賞罰を教示した。甲戌、文帝は丘頭に進軍した。呉は文欽・唐咨・全端・全懌ら三万余人を送って諸葛誕を救った。諸将が迎撃したが、防げなかった。将軍の李広が敵を前にして進まず、泰山太守の常時が病と称して出陣しなかったので、二人を斬って見せしめとした。
八月、呉将の朱異が一万余をひきい、輜重を都陸に留め、軽兵で黎漿に至った。監軍の石苞・兗州刺史の州泰はこれを防ぎ、朱異は退いた。泰山太守の胡烈が奇兵で都陸を不意討ちし、その軍需品を焼いた。石苞・州泰はさらに進んで朱異を撃ち、大いに破った。朱異の敗残兵は窮乏し、葛葉を食べて逃げたが、呉人は(帰還した)朱異を殺した。文帝は、「朱異が寿春に到達できなかったのは、彼の罪ではない。しかし呉人は彼を殺した。これは(増援失敗を)寿春に謝ることで諸葛誕に(籠城の)意思を固めさせ、増援を期待させる結果となった。さもなくば、諸葛誕は包囲に突撃し、短期決戦に持ち込んだだろう。あるいは大人数で持ち堪えるのは無理と考え、食料を節約し消費を削り、別の打開策を望むかも知れない。賊の心境を図るに、出撃してこない事情はこの三つである。いま多方面に展開して攪乱し、やつらの逃走に備えるべきだ。これが勝利の計である」と言った。そこで命令して包囲を連携させ、人手を割いて病兵に穀物を淮北の倉庫に運ばせた。軍士には大豆を、一人あたり三升支給した。(呉将)文欽はこれを聞き、まんまと喜んだ。文帝はさらに弱った様子を見せ、多く間諜を放ち、呉の援軍が来ると言い触らした。諸葛誕らはますます油断して兵糧を浪費し、ほどなく城中は食料が不足した。石苞・王基は二人とも攻撃を提案したが、文帝は、「諸葛誕の謀叛は、一朝一夕(の無計画な暴発)ではない。食料を集め防備を完成し、外に呉人と同盟し、淮南で自守独立できると考えている。文欽は協力して悪事を働き、たぶん離脱はするまい。今もし包囲を緊密にすれば、遊軍の機動力を発揮できない。外から敵軍(呉軍の追加兵力)が突然到来したら、前後に敵を受けることになり、これは危険な手である。いま三人の叛賊は孤立した城に集まっているが、恐らく天が一網打尽にせよと言っているのだ。われらは長大な計略によって彼らを封じ込め、ただ堅く三面を守るべきだ。もし賊が陸道から来るならば、必ずや軍糧補給に不安があるため、われらが遊兵軽騎により彼らの輸送を断てば、戦わずして城外の賊を破ることができる。城外の賊を破れば、文欽らは必ず捕獲できよう」と言った。全懌の母は、孫権の娘だが、呉で罪人とされた。全端の兄の子である全禕及び全儀はその母を連れて逃げてきた。全儀の兄である全静はこのとき寿春にいたが、鍾会の計略を用い、全禕・全儀の書簡を作って全静を騙した。全静の兄弟五人はその手勢を連れて来降し、城中は大いに動揺した。
三年春正月壬寅、誕・欽等出攻長圍、諸軍逆擊、走之。初、誕・欽內不相協、及至窮蹙、轉相疑貳。會欽計事與誕忤、誕手刃殺欽。欽子鴦攻誕、不克、踰城降。以為將軍、封侯、使鴦巡城而呼。帝見城上持弓者不發、謂諸將曰、可攻矣。
二月乙酉、攻而拔之、斬誕、夷三族。吳將唐咨・孫曼・孫彌・1.徐韶等帥其屬皆降。表加爵位、廩其餒疾。或言吳兵必不為用、請坑之。帝曰:「就令亡還、適見中國之弘耳。」於是徙之三河。
夏四月、歸于京師。魏帝命改丘頭曰武丘、以旌武功。五月、天子以并州之太原上黨西河樂平新興雁門、司州之河東平陽八郡、地方七百里、封帝為晉公、加九錫、進位相國、晉國置官司焉。九讓、乃止。於是增邑萬戶、食三縣、諸子之無爵者皆封列侯。秋七月、奏錄先世名臣・元功大勳之子孫、隨才敘用。
四年夏六月、分荊州置二都督、王基鎮新野、州泰鎮襄陽。使石苞都督揚州、陳騫都督豫州、鍾毓都督徐州、宋鈞監青州諸軍事。
1.中華書局本によると、『三国志』に徐韶という人は見えず、『魏志』陳留王紀・『呉志』孫晧伝に「徐紹」がおり、「呉の寿春の降将」と形容されている。『資治通鑑』巻七八も同じ。『晋書』のこの巻は後ろに「徐劭」とあるが、「徐韶」「徐紹」「徐劭」は同一人物である。
三年春正月壬寅、誕・欽ら出でて長圍を攻め、諸軍 逆擊し、之を走らす。初め、誕・欽 內に相ひ協せず、窮蹙に至るに及び、轉た相ひ疑貳す。會 欽の計事 誕と忤(さか)らひ、誕 手刃もて欽を殺す。欽の子たる鴦 誕を攻むるも、克たず、城を踰えて降る。以て將軍と為し、侯に封じ、鴦をして城を巡りて呼ばしむ。帝 城上に弓を持ちて發(はな)たざるを見、諸將に謂ゐて曰く、「攻む可し」と。
二月乙酉、攻めて之を拔き、誕を斬り、三族を夷す。吳將たる唐咨・孫曼・孫彌・徐韶ら其の屬を帥ゐて皆 降る。表して爵位を加へ、其の餒疾に廩(み)たす。或ひと言ふらく吳兵必ず用と為らず、之を坑(あな)にせんことを請ふと。帝曰く、「就令(たとい)亡還なるとも、適(た)だ中國の弘を見せんのみ」と。是に於て之を三河に徙す。
夏四月、京師に歸る。魏帝 命じて丘頭を改めて武丘と曰ひ、以て武功を旌(あらは)す。五月、天子 并州の太原・上黨・西河・樂平・新興・雁門、司州の河東・平陽八郡、地は方七百里を以て、帝を封じて晉公と為し、九錫を加へ、位を相國に進め、晉國 官司を置く。九讓して、乃ち止む。是に於いて邑萬戶を增し、三縣を食み、諸子の爵無き者は皆 列侯に封ぜらる。秋七月、奏して先世名臣・元功大勳の子孫を錄し、才に隨ひて敘用す。
四年夏六月、荊州を分けて二都督を置き、王基 新野に鎮し、州泰 襄陽に鎮す。石苞をして揚州を都督し、陳騫をして豫州を都督し、鍾毓をして徐州を都督し、宋鈞をして青州諸軍事を監せしむ。
甘露三(二五八)年春正月壬寅、諸葛誕・文欽らが出撃して包囲軍を攻めたが、諸軍は迎え撃ち、これを破った。これより先、諸葛誕・文欽は内心協調せず、危機に陥ると、対立が再燃した。折りしも文欽の考えが諸葛誕と割れると、諸葛誕は手ずから文欽を斬り殺した。文欽の子である文鴦が諸葛誕を攻めたが、敗北し、城壁を越えて降服した。彼を将軍とし、侯に封じ、文鴦に城壁を巡って(城内に)呼び掛けさせた。文帝は城壁の兵が弓を持つが矢を放たないのを見て、諸将に言った、「攻撃の好機だ」と。
二月乙酉、攻めて(寿春城を)陥落させ、諸葛誕を斬り、三族を皆殺しにした。呉将である唐咨・孫曼・孫彌・徐韶らは部下を連れて全員が降った。上表して爵位を加え、空腹を満たしてやった。あるひとが呉兵は無用だから、穴埋めにせよと述べた。文帝は、「もし(呉に)逃げ還ってしまっても、中原の寛大さを示すのだ」と言った。そして彼らを三河に移住させた。
夏四月、京師に帰った。魏帝は丘頭を武丘と改称し、武功を顕彰せよと命じた。五月、天子は并州の太原・上党・西河・楽平・新興・雁門と、司州の河東・平陽という八郡、七百里四方の地で、文帝を晋公に封建し、九錫を加え、位を相国に進め、晋国に官僚組織を設置せよと命じた。九たび辞退し、やっと取り下げられた。そこで食邑を一万戸増やし、三県を食邑とし、爵位を持たぬ子たちは全員列侯に封ぜられた。秋七月、上奏して前代の名臣・元勲らの子孫を才能に応じて任用した。
甘露四(二五九)年夏六月、荊州を分けて二都督を置き、王基は新野に鎮し、州泰は襄陽に鎮した。石苞に揚州を都督させ、陳騫に豫州を都督させ、鍾毓に徐州を都督させ、宋鈞に青州諸軍事を監させた。
景元元年夏四月、天子復命帝爵秩如前、又讓不受。天子既以帝三世宰輔、政非己出、情不能安、又慮廢辱、將臨軒召百僚而行放黜。
五月戊子夜、使宂從僕射李昭等發甲於陵雲臺、召侍中王沈・散騎常侍王業・尚書王經、出懷中黃素詔示之、戒嚴俟旦。沈・業馳告于帝、帝召1.護軍賈充等為之備。天子知事泄、帥左右攻相府、稱有所討、敢有動者族誅。相府兵將止不敢戰、賈充叱諸將曰、公畜養汝輩、正為今日耳。太子舍人成濟抽戈犯蹕、刺之。刃出於背、天子崩于車中。
帝召百僚謀其故、僕射陳泰不至。帝遣其舅荀顗輿致之、延於曲室、謂曰、玄伯、天下其如我何。泰曰、惟腰斬賈充、微以謝天下。帝曰、卿更思其次。泰曰、但見其上、不見其次。於是歸罪成濟而斬之。太后令曰、昔漢昌邑王以罪廢為庶人。此兒亦宜以庶人禮葬之、使外內咸知其所行也。殺尚書王經、貳於我也。
2.(庚寅)〔戊申〕、帝奏曰、故高貴鄉公帥從駕人兵、拔刃鳴鼓向臣所。臣懼兵刃相接、即敕將士不得有所傷害、違令者以軍法從事。騎督成倅弟太子舍人濟入兵陣、傷公至隕。臣聞人臣之節、有死無貳、事上之義、不敢逃難。前者變故卒至、禍同發機、誠欲委身守死、惟命所裁。然惟本謀、乃欲上危皇太后、傾覆宗廟。臣忝當元輔、義在安國、即駱驛申敕、不得迫近輿輦。而濟妄入陣間、以致大變。哀怛痛恨、五內摧裂。濟干國亂紀、罪不容誅。輒收濟家屬、付廷尉。太后從之、夷濟三族。與公卿議、立燕王宇之子常道鄉公璜為帝。
六月、改元。丙辰、天子進帝為相國、封晉公、增十郡、加九錫如初、羣從子弟未侯者封亭侯、賜錢千萬、帛萬匹。固讓、乃止。冬十一月、吳吉陽督蕭慎以書詣鎮東將軍石苞偽降、求迎。帝知其詐也、使苞外示迎之、而內為之備。
1.賈充の官位は「中護軍」に作るのが正しい。「中」字の脱落である。
2.中華書局本に従い、「庚寅」を「戊申」に改める。
景元元年夏四月、天子 復た帝に爵秩を命ずるに前の如くし、又 讓りて受けず。天子 既に帝の三世 宰輔し、政 己より出づるに非ざるを以て、情 能く安ぜず、又 廢辱を慮り、將に軒に臨みて百僚を召して放黜を行はんとす。
五月戊子夜、宂從僕射の李昭らをして甲もて陵雲臺を發せしめ、侍中の王沈・散騎常侍の王業・尚書の王經を召して、懷中の黃素を出して詔して之に示し、戒嚴にして旦を俟つ。沈・業 馳せて帝に告げ、帝 護軍の賈充らを召して之を備へと為す。天子 事の泄るることを知り、左右を帥ゐて相府を攻め、稱すらく討つ所有り、敢へて動く者有らば族誅せんと。相府の兵將 止まりて敢へて戰はず、賈充 諸將を叱りて曰く、「公 汝輩を畜養するは、正に今日の為なり」と。太子舍人の成濟 戈を抽きて蹕を犯し、之を刺す。刃 背より出で、天子 車中に崩ず。
帝 百僚を召して其の故を謀るに、僕射の陳泰 至らず。帝 其の舅たる荀顗を遣はし輿もて之を致し、曲室に延(まね)き、謂ひて曰く、「玄伯、天下 其れ我を如何せん」と。泰曰く、「惟だ賈充を腰斬し、以て天下に謝せざる微(な)し」と。帝曰く、「卿 更に其の次を思へ」と。泰曰く、「但だ其の上を見る、其の次を見ず」と。是に於いて罪を成濟に歸して之を斬る。太后 令して曰く、「昔 漢の昌邑王 罪を以て廢して庶人と為る〔一〕。此の兒も亦 宜しく庶人の禮を以て之を葬り、外內をして咸 其の所行を知らしむべし」と。尚書の王經を殺すは、我に貳(そむ)けばなり〔二〕。
戊申、帝 奏して曰く、「故の高貴鄉公 從駕の人兵を帥ゐ、刃を拔き鼓を鳴らして臣の所に向かふ。臣 兵刃の相ひ接するを懼れ、即ち將士に敕して傷害する所有るを得ず、令に違ふ者は軍法を以て從事す。騎督成倅が弟たる太子舍人の濟 兵陣に入り、公を傷つけて隕するに至る。臣 聞くならく人臣の節、死有りて貳無く、上に事ふるの義、敢へて難を逃れず。前に變故 卒かに至り、禍ひ機を發するに同じく、誠に身を委てて死を守り、惟命 裁する所に欲す。然るに本謀を惟ふに、乃ち上は皇太后を危ふくし、宗廟を傾覆せんと欲す。臣 忝くも元輔に當たり、義は國を安んずるに在り、即ち駱驛と申敕するも、輿輦に迫近するを得ず。而るに濟 妄りに陣間に入り、以て大變を致す。哀怛痛恨し、五內摧裂す。濟 國を干かし紀を亂し、罪は誅を容(ゆる)さず。輒ち濟の家屬を收めて、廷尉に付せ」と。太后 之に從ひ、濟の三族を夷す。公卿と議し、燕王宇の子たる常道鄉公璜を立てて帝と為す。
六月、改元す。丙辰、天子 帝を進めて相國と為し、晉公に封じ、十郡を增し、九錫を加ふること初の如し、羣從子弟 未だ侯ならざる者 亭侯に封じ、錢千萬、帛萬匹を賜ふ。固く讓し、乃ち止む。冬十一月、吳の吉陽督の蕭慎 書を以て鎮東將軍石苞に詣りて偽降し、迎へを求む。帝 其の詐なるを知り、苞をして外に之を迎ふと示し、而るに內に之に備へを為さしむ。
〔一〕昌邑王は、劉賀。劉賀は、前漢武帝の孫。昭帝の死後、いったん帝位に迎えられるが、狂乱無道であるため廃位された(『漢書』巻六十三 武五子 昌邑哀王髆伝)。
〔二〕太后の令が終わる位置は、中華書局本に依る。王経を殺すという文は、意味が繋がらない。
景元元(二六〇)年夏四月、天子は文帝に前と同じ爵秩を与えたが、また辞退して受けなかった。天子は文帝(司馬氏)が三代にわたって宰相となり、政事を親裁していないので、心情が不安定となり、さらに廃位される恥辱を憂い、前殿に立って百僚を召して文帝追放を試みた。
五月戊子の夜、冗従僕射の李昭らに武装して陵雲台から出発させ、侍中の王沈・散騎常侍の王業・尚書の王経を召して、懐中から黄色い布を出して詔を示し、臨戦態勢で夜明けを待った。王沈・王業は駆けつけ文帝に知らせ、文帝は護軍の賈充らを召して備えさせた。天子は計画が漏れたと知り、手兵を連れて相府(文帝の官舎)を攻め、討伐を遂行するぞ、敢えて動けば族誅すると唱えた。相府の将兵は制されて戦わなかったが、賈充が諸将を叱り、「公がお前たちを養ってきたのは、まさに今日のためだ」と言った。太子舍人の成済が戈を持って天子の車駕に侵入し、彼を刺した。刃が背から突き抜け、天子は馬車のなかで崩御した。
文帝は百僚を召して経緯を確認したが、僕射の陳泰が来なかった。文帝は彼の舅である荀顗を派遣して輿で担ぎ出し、小部屋に招き、「玄伯(陳泰の字)、天下は私をどのように捉えるだろう」と言った。陳泰は、「ただ賈充を腰斬し、天下に謝るしかありません」と言った。文帝は、「あなたには別の手を考えてほしい」と言った。陳泰は、「それ以上の手はありますが、それ以下の手はありません」と言った。こうして罪を成済のせいにして彼を斬った。太后が令して、「むかし漢の昌邑王は罪により廃位され庶人となった。あの子(天子)も庶人の礼で葬り、内外全員にその所行を分からせよ」と言った。尚書の王経を殺すのは、私に叛いたからである。
戊申、文帝が上奏し、「もと高貴郷公は近侍の兵を率い、刀を抜いて鼓を鳴らし私の居所に向かって来ました。白兵戦が起こることを恐れ、将士に命じて戦闘を禁じ、命令に逆らえば軍法にて裁くと申し渡しました。(ところが)騎督成倅の弟である太子舍人の成済が軍陣に入り、高貴郷公を傷つけ殺してしまいました。私が聞きますに人臣の節義とは、(主のために)死ぬこと以外になく、主上に仕えることの道義とは、危難を逃れないことです。さきに事変が突然発生し、弾みがついて制御不能となりましたが、誠に身を捨てて死節を守り、ただ(天子の)命令に従おうと考えました。しかし思惑の真相を調べますと、上は皇太后を脅かし、宗廟を転覆させようという計画でした。私は忝くも宰相の任にあり、国を安定させるのが使命ですが、立て続けに制止を申し上げても、御車に接近できませんでした。そのうちに成済がみだりに軍陣に飛び入り、大きな異変を起こしました。悲哀と痛恨の念に、臓腑が千切れそうです。成済は国君に手をかけ秩序を乱したので、死罪を免れません。すぐさま成済の家属を捕らえ、廷尉に引き渡しますように」と述べた。太后はこれに従い、成済の三族を皆殺しにした。公卿と話しあい、燕王宇の子である常道郷公璜を立てて新帝とした。
六月、改元した。丙辰、天子は文帝の位を進めて相国とし、晋公に封じ、十郡を増し、九錫を加えることは前回通りとし、従子弟らでまだ侯位を持たぬものを亭侯に封じ、銭千万、帛万匹を賜うとした。固辞し、取り下げられた。冬十一月、呉の吉陽督の蕭慎が書簡を鎮東将軍の石苞に届けて降服すると偽り、迎えを要請した。文帝は嘘を見抜き、石苞には外では迎えるふりをし、内では警戒させた。
二年秋八月1.甲寅、天子使太尉高柔授帝相國印綬、2.司空鄭沖致晉公茅土九錫、固辭。三年夏四月、肅慎來獻楛矢・石砮・弓甲・貂皮等、天子命歸於大將軍府。
四年春二月丁丑、天子復命帝如前、又固讓。三月、詔大將軍府增置司馬一人、從事中郎二人、舍人十人。
夏、帝將伐蜀、乃謀眾曰、自定壽春已來、息役六年、治兵繕甲、以擬二虜。略計取吳、作戰船、通水道、當用千餘萬功、此十萬人百數十日事也。又南土下溼、必生疾疫。今宜先取蜀、三年之後、因巴蜀順流之勢、水陸並進、此滅虞定虢、吞韓并魏之勢也。計蜀戰士九萬、居守成都及備他郡不下四萬、然則餘眾不過五萬。今絆姜維於沓中、使不得東顧、直指駱谷、出其空虛之地、以襲漢中。彼若嬰城守險、兵勢必散、首尾離絕。舉大眾以屠城、散銳卒以略野、劍閣不暇守險、關頭不能自存。以劉禪之闇、而邊城外破、士女內震、其亡可知也。征西將軍鄧艾以為未有釁、屢陳異議。帝患之、使主簿師纂為艾司馬以喻之、艾乃奉命。於是徵四方之兵十八萬、使鄧艾自狄道攻姜維於沓中、雍州剌史諸葛緒自祁山軍于武街、絕維歸路、鎮西將軍鍾會帥前將軍李輔・征蜀護軍胡烈等自駱谷襲漢中。
秋八月、軍發洛陽、大賚將士、陳師誓眾。將軍鄧敦謂蜀未可討。帝斬以徇。九月、又使天水太守王頎攻維營、隴西太守牽弘邀其前、金城太守楊欣趣甘松。鍾會分為二隊、入自斜谷、使李輔圍王含於樂城、又使部將易愷攻蔣斌於漢城。會直指陽安、護軍胡烈攻陷關城。姜維聞之、引還、王頎追敗維於彊川。維與張翼・廖化合軍守劍閣、鍾會攻之。
1.中華書局本によると、この年は八月丙子朔のため、八月に「甲寅」は存在しない。
2.中華書局本によると、鄭沖の官職は「司徒」が正しい。
二年秋八月甲寅、天子 太尉高柔をして帝に相國の印綬を授け、司空鄭沖をして晉公の茅土九錫を致さしめ、固辭す。三年夏四月、肅慎 來りて楛矢・石砮・弓甲・貂皮らを獻じ、天子 命じて大將軍府に歸せしむ。
四年春二月丁丑、天子 復た帝に命ずること前の如し、又 固讓す。三月、詔して大將軍府に增して司馬一人、從事中郎二人、舍人十人を置く。
夏、帝 將に蜀を伐たんとし、乃ち眾に謀りて曰く、「壽春を定めて自り已來、役を息むること六年、兵を治め甲を繕ひ、以て二虜を擬(はか)る。
吳を取るには、戰船を作り、水道を通じ、當に千餘萬功を用ふべし、此れ十萬人百數十日の事なり。又 南土は下溼にして、必ず疾疫を生ず。今 宜しく先に蜀を取り、三年の後、巴蜀 順流の勢に因り、水陸より並進し、此れ虞を滅し虢を定め〔一〕、韓を吞し魏を并はす〔二〕の勢なり。計るに蜀の戰士は九萬、居りて成都を守り及び他郡に備ふるもの四萬を下らず、然れば則ち餘眾 五萬を過ぎず。今 姜維を沓中に絆し、東顧するを得ざらしめ、直ちに駱谷を指し、其の空虛の地に出でて、以て漢中を襲はん。彼 若し城を嬰(めぐら)し險を守らば、兵勢 必ず散じ、首尾 離絕せん。大眾を舉げて以て城を屠り、銳卒を散じて以て野を略さば、劍閣 險を守る暇あらず、關頭 能く自存せず。劉禪の闇たるを以て、邊城 外に破るれば、士女 內に震へ、其の亡 知る可きなり」と。征西將軍鄧艾 以為へらく未だ釁有らず、屢々異議を陳ぶ。帝 之に患ひ、主簿師纂をして艾の司馬と為して以て之を喻さしめ、艾 乃ち命を奉ず。是に於いて四方の兵十八萬を徵し、鄧艾をして狄道自り姜維を沓中に攻めしめ、雍州剌史諸葛緒 祁山自り武街に軍し、維の歸路を絕ち、鎮西將軍鍾會 前將軍李輔・征蜀護軍胡烈らを帥ゐて駱谷自り漢中を襲ふ。
秋八月、軍 洛陽を發し、大いに將士に賚(たま)ひ、師を陳べ眾に誓ふ。將軍の鄧敦 謂へらく蜀 未だ討つ可からずと。帝 斬りて以て徇(とな)ふ。九月、又 天水太守の王頎をして維の營を攻めしめ、隴西太守牽弘 其の前に邀ひ、金城太守楊欣 甘松に趣く。鍾會 分けて二隊と為し、斜谷自り入り、李輔をして王含を樂城に圍ましめ、又 部將易愷をして蔣斌を漢城に攻めしむ。會 直ちに陽安を指し、護軍の胡烈 攻めて關城を陷とす。姜維 之を聞き、引き還し、王頎 追いて維を彊川に敗る。維と張翼・廖化 軍を合はせて劍閣を守り、鍾會 之を攻む。
〔一〕前六五五年、晋の献公が、虞・虢を滅ぼした(『史記』巻三十九 晋世家)。
〔二〕戦国時代末期、秦が、韓と魏を滅ぼした(『史記』巻五 秦本紀)。
景元二(二六一)年秋八月甲寅、天子は太尉高柔を使者として文帝に相国の印綬を授けさせ、司空(司徒か)の鄭沖に晋公の茅土と九錫を贈らせたが、固辞した。景元三(二六二)年夏四月、粛慎が到来して楛矢・石砮・弓甲・貂皮らを献上し、天子は命じて大将軍府に届けさせた。
景元四(二六三)年春二月丁丑、天子は前回同様に文帝に命じたが、また固譲した。三月、詔して大将軍府を増員して司馬一人、従事中郎二人、舍人十人を設置した。
夏、文帝が蜀を征伐しようと、群臣に諮って、「寿春を平定してから、六年のあいだ軍役を休み、兵員と武具を整え、二虜を窺ってきた。呉を取るには戦艦を作り、水路を整え、千余萬功を必要とし、これは十万人と百数十日を費やす事業となる。また南方は湿度が高く、必ず疫病が生ずる。今は先に蜀を取り、三年の後、巴蜀で編成した軍が流れの勢いに乗り、水陸を並進すれば、これは(晋の献公が)虞を滅ぼし虢を定め、(秦が)韓を飲みこみ魏を併せたのと同じ形勢となる。推定するに蜀の兵士は九万、成都を守るか他郡を防衛するものは四万を下らず、ゆえに残りは五万に満たない。いま姜維を沓中に釘付けにし、東方に回れないようにし、まっすぐ駱谷に向い、守りの薄い地に出て、漢中を襲おう。敵軍が城を囲み要所を固めれば、兵の配置が必ず分散し、連携が途絶えるだろう。大軍で城を攻略し、精鋭を配備して原野を制圧すれば、剣閣では要地の守りが間に合わず、関頭は存続できない。劉禅は暗弱だから、国境の城を突破されたら、士女は国内で震え、その滅亡は必至となる」と言った。征西将軍の鄧艾はまだ隙がないとし、何度も異議を述べた。文帝はこれを疎み、主簿の師纂を鄧艾の司馬として説得し、鄧艾もやっと賛同した。ここにおいて四方の兵十八万を徴発し、鄧艾に狄道を通って沓中で姜維を攻撃させ、雍州剌史の諸葛緒は祁山を通って武街に進軍して、姜維の帰路を絶ち、鎮西将軍の鍾会は前将軍の李輔・征蜀護軍の胡烈らをひきいて駱谷を通って漢中を襲撃させた。
秋八月、軍が洛陽を進発し、おおいに将士に賞賜をあたえ、軍隊を整列させて士民に勝利を誓った。将軍の鄧敦がまだ蜀を討つ時機ではないと言った。文帝は斬って見せしめとした。九月、さらに天水太守の王頎に姜維の軍営を攻撃させ、隴西太守の牽弘はその前軍に攻めかかり、金城太守の楊欣は甘松に向かった。鍾会は分けて二隊を編成し、斜谷より入り、李輔に命じて王含を楽城で包囲し、また部将の易愷に命じて蒋斌を漢城で攻撃した。鍾会は陽安に直行し、護軍の胡烈が関城を陥落させた。姜維はこれを聞き、引き還したが、王頎が追撃して姜維を彊川で破った。姜維と張翼・廖化は軍勢を合わせて剣閣を守り、鍾会はこれを攻めた。
冬十月、天子以諸侯獻捷交至、乃申前命曰、朕以寡德、獲承天序、嗣我祖宗之洪烈。遭家多難、不明於訓。曩者姦逆屢興、方寇內侮、大懼淪喪四海、以隳三祖之弘業。惟公經德履哲、明允廣深、迪宣武文、世作保傅、以輔乂皇家。櫛風沐雨、周旋征伐、劬勞王室、二十有餘載。毗翼前人、仍斷大政、克厭不端、維安社稷。暨儉・欽之亂、公綏援有眾、分命興師、統紀有方、用緝寧淮浦。其後巴蜀屢侵、西土不靖、公奇畫指授、制勝千里。是以段谷之戰、乘釁大捷、斬將搴旗、效首萬計。孫峻猾夏、致寇徐方、戎車首路、威靈先邁、黃鉞未啟、鯨鯢竄迹。孫壹搆隙、自相疑阻、幽鑒遠照、奇策洞微、遠人歸命、作藩南夏、爰授銳卒、畢力戎行。暨諸葛誕滔天作逆、稱兵揚楚、欽・咨逋罪、同惡相濟、帥其蛑賊、以入壽春、憑阻淮山、敢距王命。公躬擐甲冑、龔行天罰、玄謀廟算、遵養時晦。奇兵震擊、而朱異摧破。神變應機、而全琮稽服。取亂攻昧、而高墉不守。兼九伐之弘略、究五兵之正度。用能戰不窮武、而大敵殲潰。旗不再麾、而元憝授首。收勍吳之雋臣、係亡命之逋虜。交臂屈膝、委命下吏、俘馘十萬、積尸成京。雪宗廟之滯恥、拯兆庶之艱難。掃平區域、信威吳會、遂戢干戈、靖我疆土、天地鬼神、罔不獲乂。乃者王室之難、變起蕭牆、賴公之靈、弘濟艱險。宗廟危而獲安、社稷墜而復寧。忠格皇天、功濟六合。是用疇咨古訓、稽諸典籍、命公崇位相國、加于羣后、啟土參墟、封以晉域。所以方軌齊・魯、翰屏帝室。而公遠蹈謙遜、深履沖讓、固辭策命、至于八九。朕重違讓德、抑禮虧制、以彰公志、于今四載。上闕在昔建侯之典、下違兆庶具瞻之望。
惟公嚴虔王度、闡濟大猷、敦尚純樸、省繇節用、務穡勸分、九野康乂。耆叟荷崇養之德、鰥寡蒙矜卹之施、仁風興於中夏、流澤布於遐荒。是以東夷西戎、南蠻北狄、狂狡貪悍、世為寇讐者、皆感義懷惠、款塞內附、或委命納貢、或求置官司。九服之外、絕域之氓、曠世所希至者、咸浮海來享、鼓舞王德、前後至者八百七十餘萬口。海隅幽裔、無思不服;雖西旅遠貢、越裳九譯、義無以踰。維翼朕躬、下匡萬國、思靖殊方、寧濟八極。以庸蜀未賓、蠻荊作猾、潛謀獨斷、整軍經武。簡練將帥、授以成策、始踐賊境、應時摧陷。狂狡奔北、首尾震潰、禽其戎帥、屠其城邑。巴漢震疊、江源雲徹、地平天成、誠在斯舉。公有濟六合之勳、加以茂德、實總百揆、允釐庶政。敦五品以崇仁、恢六典以敷訓。而靖恭夙夜、勞謙昧旦、雖尚父之左右文武、周公之勤勞王家、罔以加焉。
昔先王選建明德、光啟諸侯、體國經野、方制五等。所以藩翼王畿、垂祚百世也。故齊魯之封、於周為弘、山川土田、邦畿七百、官司典策、制殊羣后。惠襄之難、桓文以翼戴之勞、猶受錫命之禮、咸用光疇大德、作範于後。惟公功邁於前烈、而賞闕於舊式、百辟於邑、人神同恨焉。豈可以公謙沖而久淹弘典哉。今以并州之太原・上黨・西河・樂平・新興・雁門、司州之河東・平陽・弘農、雍州之馮翊凡十郡、南至於華、北至於陘、東至於壺口、西踰於河、提封之數、方七百里。皆晉之故壤、唐叔受之、世作盟主、實紀綱諸夏、用率舊職。爰胙茲土、封公為晉公。命使持節・兼司徒・司隸校尉陔即授印綬策書、金獸符第一至第五、竹使符第一至第十。錫茲玄土、苴以白茅。建爾國家、以永藩魏室。
昔在周召、并以公侯、入作保傅。其在近代、酇侯蕭何、實以相國、光尹漢朝。隨時之制、禮亦宜之。今進公位為相國、加綠綟綬。又加公九錫、其敬聽後命。以公思弘大猷、崇正典禮、儀刑作範、旁訓四方、是用錫公大輅・戎輅各一、玄牡二駟。公道和陰陽、敬授人時、嗇夫反本、農殖維豐、是用錫公衮冕之服、亦舄副焉。公光敷顯德、惠下以和、敬信思順、庶尹允諧、是用錫公軒懸之樂・六佾之舞。公鎮靖宇宙、翼播聲教、海外懷服、荒裔款附、殊方馳義、諸夏順軌、是用錫公朱戶以居。公簡賢料材、營求俊逸、爰升多士、寘彼周行、是用錫公納陛以登。公嚴恭寅畏、厎平四國、式遏寇虐、苛厲不作、是用錫公武賁之士三百人。公明慎用刑、簡恤大中、章厥天威、以糾不虔、是用錫公鈇鉞各一。公爰整六軍、典司征伐、犯命陵正、乃維誅殛、是用錫公彤弓一・彤矢百、玈弓十・玈矢千。公饗祀蒸蒸、孝思維則、篤誠之至、通于神明、是用錫公秬鬯一卣、珪瓚副焉。晉國置官司以下、率由舊式。往欽哉、祗服朕命、弘敷訓典、光澤庶方、永終爾明德、丕顯余一人之休命。
公卿將校皆詣府喻旨、帝以禮辭讓。司空鄭沖率羣官勸進曰、伏見嘉命顯至、竊聞明公固讓、沖等眷眷、實有愚心。以為聖王作制、百代同風、褒德賞功、有自來矣。昔伊尹有莘氏之媵臣耳、一佐成湯、遂荷阿衡之號。周公藉已成之勢、據既安之業、光宅曲阜、奄有龜蒙。呂尚磻溪之漁者也、一朝指麾、乃封營丘。自是以來、功薄而賞厚者、不可勝數、然賢哲之士、猶以為美談。況自先相國以來、世有明德、翼輔魏室、以綏天下、朝無秕政、人無謗言。前者明公西征靈州、北臨沙漠、榆中以西、望風震服、羌戎來馳、迴首內向。東誅叛逆、全軍獨克。禽闔閭之將、虜輕銳之卒以萬萬計、威加南海、名懾三越、宇內康寧、苛慝不作。是以時俗畏懷、東夷獻舞。故聖上覽乃昔以來禮典舊章、開國光宅、顯茲太原。明公宜承奉聖旨、受茲介福、允當天人。元功盛勳、光光如彼。國土嘉祚、巍巍如此。內外協同、靡愆靡違。由斯征伐、則可朝服濟江、掃除吳會、西塞江源、望祀岷山。迴戈弭節、以麾天下、遠無不服、邇無不肅。令大魏之德、光于唐虞。明公盛勳、超於桓文。然後臨滄海而謝文伯、登箕山而揖許由、豈不盛乎。至公至平、誰與為鄰。何必勤勤小讓也哉。帝乃受命。
冬十月、天子 諸侯の捷を獻ずること交至するを以て、乃ち前命を申して曰く、「朕 寡德なるを以て、天序を承くるを獲、我が祖宗の洪烈を嗣ぐ。家の難多きに遭ひ、訓を明らかにせず。曩者に姦逆 屢々興こり、方寇內侮、大いに四海を淪喪して、以て三祖の弘業を隳とすを懼る。惟るに公 德を經て哲を履み、明允廣深、武文に宣迪し、世々保傅と作り、以て皇家を輔乂す。風に櫛(くしけず)り雨に沐し、周旋して征伐し、王室に劬勞すること、二十有餘載なり。前人を毗翼し、仍(しき)りに大政を斷ち、克く不端を厭し、社稷を維安す。儉・欽の亂に暨び、公 有眾を綏援し、命を分けて師を興し、統紀 方有り、用て淮浦を緝寧す。其の後 巴蜀屢々侵し、西土 靖からず、公 奇畫もて指授して、勝を千里に制す。是を以て段谷の戰、釁に乘じて大捷し、將を斬り旗を搴(と)り、首を效(いた)すこと萬を計ふ。孫峻 夏を猾(みだ)し、寇を徐方に致ふに、戎車 路に首(むか)ふや、威靈 先邁し、黃鉞 未だ啟かざるに、鯨鯢 迹を竄む。孫壹 隙を搆へ、自ら相ひ疑阻するに、幽鑒 遠照し、奇策 洞微し、遠人 命に歸し、南夏に藩と作り、爰に銳卒を授け、力を戎行に畢す。諸葛誕 天に滔らひ逆を作すに暨び、兵を揚楚に稱するに、欽・咨 罪を逋(のが)れ、同惡相濟し、其の蛑賊を帥ゐ、以て壽春に入り、淮山に憑阻し、敢へて王命を距む。公 躬ら甲冑を擐(つらぬ)き、龔(つつし)んで天罰を行ひ、玄謀廟算、遵養時晦す。奇兵 震擊し、而して朱異 摧破す。神變 機に應じ、而して全琮 稽服す。亂を取りて昧を攻め、而して高墉 守らず。九伐の弘略を兼はせ、五兵の正度を究む。用て戰を能くして武を窮めず、而して大敵 殲潰す。旗 再た麾かず、而して元憝 首を授く。吳の雋臣を收勍し、亡命の逋虜を係す。臂を交じへ膝を屈し、命を下吏に委ね、俘馘すること十萬、尸を積みて京を成す。宗廟の滯恥を雪(すす)ぎて、兆庶の艱難を拯(すく)ふ。區域を掃平し、威を吳會に信べ、遂に干戈を戢め、我が疆土を靖んじ、天地鬼神、獲乂せざる罔し。乃者(さきに) 王室の難、變 蕭牆に起こり、公の靈を賴り、艱險を弘濟す。宗廟 危くも安ずるを獲、社稷 墜ちて復た寧たり。忠は皇天に格(いた)り、功は六合を濟(すく)ふ。是を用て古訓を疇咨し、諸々の典籍を稽み、公に命じて位を相國に崇し、羣后に加へ、土を參墟に啟き、封ずるに晉域を以てす。軌を齊・魯に方(なら)べ、帝室に翰屏とする所以なり。而るに公 遠く謙遜を蹈み、深く沖讓を履み、策命を固辭すること、八九に至る。朕 重ねて讓德に違ひ、禮を抑へ制を虧き、以て公の志を彰にし、今に于いて四載なり。上は在昔 侯を建つるの典に闕き、下は兆庶 具瞻の望に違ふ。
惟るに公 王度を嚴虔し、大猷を闡濟し、純樸を敦尚し、用を節し繇を省し、穡に務めて分を勸め、九野 康乂す。耆叟 崇養の德を荷ひ、鰥寡 矜卹の施を蒙り、仁風 中夏に興こり、流澤 遐荒に布す。是を以て東夷・西戎、南蠻・北狄、狂狡・貪悍、世々寇讐為る者、皆 義に感じ惠に懷き、塞を款きて內附し、或は命を委ねて貢を納れ、或は官司を置くことを求む。九服の外、絕域の氓、曠世の希より至る所の者は、咸 海に浮びて來享し、王德を鼓舞し、前後に至る者 八百七十餘萬口なり。海隅の幽裔、服さずと思ふもの無し。西旅遠貢、越裳九譯と雖も、義は以て踰えるもの無し。維れ朕の躬を翼し、下は萬國を匡し、殊方を靖んじ、八極を寧濟せんと思へ。庸蜀の未だ賓せざるを以て、蠻荊 猾を作し、潛かに獨斷を謀り、軍を整して武を經す。將帥を簡練し、授くるに成策を以てし、始めて賊境を踐み、時に應じて摧陷す。狂狡 奔北し、首尾 震潰し、其の戎帥を禽らへ、其の城邑を屠る。巴漢 震疊し、江源 雲徹し、地 平らかにして天 成るは、誠に斯の舉に在り。公 六合の勳を濟ふこと有り、加ふるに茂德を以てし、實に百揆を總し、允に庶政を釐す。五品を敦するに以て仁を崇め、六典を恢むるに以て訓を敷く。而して夙夜を靖恭し、昧旦を勞謙するは、尚父の文武を左右し、周公の王家に勤勞すると雖も、以て焉に加ふる罔(な)し。
昔 先王 選びて明德を建て、光に諸侯を啟き、國を體し野を經、五等を方制す。王畿を藩翼し、百世に祚を垂るる所以なり。故に齊魯の封、周に於いて為に山川土田を弘げ、邦畿は七百、官司 典策、制は羣后と殊なり。惠襄の難に、桓文 翼戴の勞を以てし〔一〕、猶ほ錫命の禮を受け、咸 用て大德を光疇し、後に範を作す。惟ふに公の功 前烈に邁(す)ぎたるも、而るに賞 舊式より闕き、百辟 於邑し、人神 同に焉を恨む。豈に公の謙沖を以てして弘典を久淹す可きや。今 并州の太原・上黨・西河・樂平・新興・雁門、司州の河東・平陽・弘農、雍州の馮翊 凡そ十郡を以て、南は華に至り、北は陘に至り、東は壺口に至り、西は河を踰へ、提封の數、方七百里とす。皆 晉の故壤にして、唐叔 之を受け、世々盟主と作り〔二〕、實に諸夏を紀綱し、用て舊職を率ゐる。爰に茲土を胙(むく)いて、公を封じて晉公と為す。使持節・兼司徒・司隸校尉陔に命じて即ち印綬策書を授けしめ、金獸符 第一より第五に至り、竹使符 第一より第十に至る。茲の玄土を錫(たま)ひ、苴(つつ)むに白茅を以てす。爾の國家を建て、以て永(とこし)へに魏室に藩とせよ。
昔在 周召は、并びに公侯を以て、入りて保傅と作る。其れ近代に在り、酇侯の蕭何、實に相國を以て、漢朝に光尹たり。時に隨ふの制、禮も亦 之に宜し。今 公の位を進めて相國と為し、綠綟綬を加ふ。又 公に九錫を加ふ〔三〕、其れ敬みて後命を聽け。公 大猷を弘げんと思ひ、典禮を崇正し、儀刑 範を作り、旁(あまね)く四方に訓ずるを以て、是を用て公に大輅・戎輅各一、玄牡二駟を錫ふ。公 陰陽を道和し、人時を敬授し、嗇夫 本に反(かへ)り、農殖 維れ豐かなり、是を用て公に衮冕の服を錫ひ、赤舄 焉に副(そ)へたり。公 顯德を光敷し、下を惠むに和を以て、敬信 順を思ひ、庶尹 允諧たり、是を用て公に軒懸之樂・六佾之舞を錫ふ。公 宇宙を鎮靖し、聲教を翼播し、海外 懷服し、荒裔 款附し、殊方 義に馳せ、諸夏 軌に順ふ、是を用て公に朱戶以居を錫ふ。公 賢を簡(えら)び材を料(はか)り、俊逸を營求し、爰に多士を升し、彼の周行に寘く、是を用て公に納陛以登を錫ふ。公 嚴恭にして寅畏し〔四〕、四國を厎平し、寇虐を式遏し〔五〕、苛厲 作さず、是を用て公に武賁の士三百人を錫ふ。公 明慎にして刑を用ひ、大中を簡恤し、厥の天威を章らかにし、以て不虔を糾し、是を用て公に鈇鉞各一を錫ふ。公 爰に六軍を整へ、征伐を典司し、命を犯して正を陵さば、乃ち維れ誅殛す、是を用て公に彤弓一・彤矢百、玈弓十・玈矢千を錫ふ。公 饗祀蒸蒸、孝思維則〔六〕、篤誠の至、神明に通じ、是を用て公に秬鬯一卣を錫ひ、珪瓚 焉に副ふ。晉國 官司以下を置き、舊式に率由す。往欽哉、朕が命に祗服し、訓典を弘敷し、庶方を光澤し、永く爾の明德を終(ひさ)しくし、丕(おほ)いに余一人の休命を顯はせ」と。
公卿將校 皆 府に詣りて喻旨するに、帝 禮を以て辭讓す。司空の鄭沖 羣官を率ゐて勸進して曰く、「伏して見るに嘉命 顯らかに至り、竊かに明公 固讓すると聞き、沖ら眷眷とし、實に愚心有り。以為へらく聖王 制を作り、百代 同風し、德を褒め功を賞すること、自來有り。昔 伊尹は有莘氏の媵臣なるのみ、一たび成湯を佐け、遂に阿衡の號を荷ふ。周公は已成の勢を藉り、既安の業に據るも、曲阜に光宅し、龜蒙を奄有す。呂尚は磻溪の漁者なるも、一朝にして指麾し、乃ち營丘に封ぜらる。是自り以來、功 薄くして賞 厚き者は、勝げて數ふ可からず、然して賢哲の士、猶ほ以て美談と為る。況んや先の相國自り以來、世々明德有り、魏室を翼輔して、以て天下を綏(やす)んじ、朝に秕政無く、人に謗言無し。前者 明公 西のかた靈州を征し、北のかた沙漠に臨み、榆中以西、風を望みて震服し、羌戎 來馳し、首を迴(めぐ)らせ內向す。東のかた叛逆を誅するに、軍を全うし獨り克つのみ。闔閭の將を禽にし、輕銳の卒を虜とすること萬萬を以て計へ、威は南海に加へ、名は三越を懾(をそ)れ、宇內 康寧し、苛慝 作さず。是を以て時俗 畏懷し、東夷 舞を獻ず。故に聖上 乃昔以來 禮典舊章を覽じ、國を開き光宅し、茲の太原に顯す。明公 宜しく聖旨を承奉して、茲の介福を受け、允に天人に當たるべし。元功 盛勳にして、光光として彼の如し。國土の嘉祚、巍巍として此の如し。內外 協同せば、愆(あやま)つこと靡く違ふこと靡し。斯に由り征伐せば、則ち朝に濟江を服し、吳會を掃除し、西のかた江源を塞ぎ、岷山を望祀す可し。戈を迴(めぐ)らせ節を弭め、以て天下を麾(さしまね)けば、遠くに服せざる無く、邇くに肅せざる無し。大魏の德をして、唐虞より光(おほ)いにし、明公の盛勳、桓文に超ぐ。然る後 滄海に臨みて文伯に謝し、箕山に登りて許由に揖せば〔七〕、豈に盛ならざるか。至公至平、誰か與に鄰と為らん、何ぞ必ず小讓に勤勤たらんや」と。帝 乃ち命を受く。
〔一〕周の恵王は、前六七五年、衛らに地位を脅かされた(『春秋左氏伝』荘公十九年)が復帰し、前六六七年、恵王は斉の桓公に覇者の策命を賜い、衛の討伐を命じた(同荘公二十七年)。恵王の子である襄王は、前六三六年、地位を脅かされたが、翌年、晋の文公に助けられて復帰した(同僖公二十五年)。
〔二〕唐叔は、唐叔虞、周の武王の子であり、成王の弟。晋の前身である唐の建国者(『史記』巻三十九 晋世家)。
〔三〕九錫は、天子が殊功のあった功臣に賜う九種の栄典。歴史上、前漢から帝位を奪った王莽が賜与されたことに始まる。王莽の場合には、数は必ずしも九ではなく、後世の模範となるものは、曹操が賜与された九錫であった。石井仁『曹操 魏の武帝』(新人物往来社、二〇〇〇年)を参照。
〔四〕『尚書』無逸篇に「嚴恭寅畏」とある。
〔五〕『毛詩』大雅 民勞に「式遏寇虐」とある。
〔六〕『毛詩』大雅 下武に「孝思維則」とある。
〔七〕文伯は、支伯の誤りか(Archer @Archer12521163さまの指摘より)。支伯は、子州支甫・支父とも。『荘子』譲王篇によると、許由は尭からの、支伯は舜からの政権委譲を辞退した。二人が辞退した故事は、『三国志』文帝紀 注引『献帝伝』にも見える。
冬十月、天子は諸侯が次々と勝報を提出したので、従前の命令を述べ、「朕は徳が少ないが、天の巡りを受け、祖先の大いなる事業を嗣いだ。わが一族は困難が多く、教導を守れていない。以前より姦逆なものが次々と起こり、外憂と内乱によって、天下が衰退し、三祖の偉業を台無しにすることを懼れている。思うに公(文帝司馬昭)は徳行と知恵を身につけ、文武に精通し、代々宰相となり、皇室を補佐してきた。戦地に身を晒して、各地で討伐を行い、王朝のために二十年以上も働いてきた。先代を補佐し、幾度も大きな決断をし、悪しき者を制圧し、社稷を安泰にした。毌丘倹・文欽が乱を起こすと、公は兵士の不安を除き、命令を出して軍を起こし、統率が有効に機能し、淮浦を平穏にした。その後に巴蜀がしばしば侵入し、西方が不安になると、公は優れた計略で指示を出し、千里の先まで圧倒した。そして段谷の戦いでは、隙を突いて大勝し、将を斬り旗を奪い、献上した首は万を数えた。孫峻が中夏を乱し、徐州方面に入寇すると、戦車がそちらに向くや、威信が先に届き、黄鉞を振るう前に、くじら(呉軍)は逃亡した。孫壱が(呉の内部で)対立し、猜疑を抱くと、深遠な見識が遠くに及び、奇策が本質を貫いたので、遠くの人々は帰順し、南方で(魏の)藩屏となり、精鋭を差し出し、戦いでは力を発揮した。諸葛誕が天に叛き悪逆をなすと、兵を揚楚に振るい、文欽・唐咨は罪を逃れようと、結託して悪事をなし、配下の賊兵をつれ、寿春に入城し、淮山に依って防ぎ、王命を拒絶した。公は自ら甲冑にそでを通し、謹んで天罰を行い、優れた計略は、好機を見極めた。奇襲の兵が進撃し、朱異を撃破した。神のような機略により、全琮を敬服させた。反乱を鎮め不正なものを攻め、高垣に籠もることはない。(『周礼』夏官にある)九伐の弘略を兼ね、五兵の正度を究めている。戦いが上手いが武力一辺倒でなく、強大な敵を解体してきた。軍旗が靡かずとも、悪人は首を差し出した。呉の賢臣を収容し、亡命者を係留した。拱手して拝跪すれば、処置を下吏に委ね、生け捕りにした者は十万、死体を積み上げて京を作った。宗廟の恥をすすぎ、万民を困難から救ってくれた。中原から敵を一掃し、国威を呉会に広げ、おかげで武器をしまい、わが領土を安んじ、天地の鬼神は、秩序を得た。さきの王室の危機は、異変が宮殿のなかで起きたが、公の威信を頼りにし、艱難は救済された。宗廟は傾きかけたが安定し、社稷は失墜を持ちこたえた。忠は皇天にいたり、功は万物にわたる。そこで先例を探究し、典籍を参照し、公に命じて官位を相国に上げ、羣后に加え、封土を參墟(の分野)に啓き、晋域に封建することにした。(周王朝の)齊・魯と軌を一にし、帝室の藩屏とするためである。しかし公は大いに謙遜し、深く辞退を行い、命令書を固辞すること、八九回に至る。朕は重ねて謙譲の美徳に逆らい、礼儀を妨げ抑制を欠いてでも、公の志を顕彰しようと、今まで四年を費やした。(辞退を貫けば)上は古代の封建の規則と異なり、下は万民からの期待に背くことになる。
思うに公は王者の節度を慎み行い、治国の手法を完成させ、篤実な人材を尊重し、浪費をせず労役を削り、農事に務めて救済し、九州の地は安定した。老翁は尊重されて養われ、身寄りないものは恵みの施しを受け、仁風は中原地域から起こり、教化は周辺地域まで流布した。こうして東夷・西戎、南蛮・北狄のうち、狡賢く凶悪な、代々の反逆者ですら、みな義に感じて恵みに懐き、国境の門を叩いて帰順し、あるものは命令を奉じて貢ぎ物を納め、あるものは役所の設置を求めた。九服の外、遙か遠方の民、めったに交流のない地から来る者は、みな海路を通って奉献し、王徳を鼓舞し、前後に八百七十余万人が到来した。絶海の果てにも、帰服を望まぬ者はない。西域の彼方や、越裳のように九回翻訳しないと会話ができない南国も帰順し、理想の実現するさまは例えようもない。さあ我が身を助け、下は万国を導き、異域を安んじ、遠域を救ってくれ。庸蜀がまだ降服せず、蛮荊が狡猾を働き、ひそかに暴虐をなし、軍隊を整えてきた。将帥を訓練し、優れた計画を授け、初めて敵国まで攻め込み、時機を得て撃破できた。凶悪な者は北に逃げ、上も下も恐懼し、指揮官を捕らえ、城邑を破壊した。巴漢地域を震撼させ、長江の水源を蹴散らし、地を平らかにして天意を実現したのが、まさに今回の軍役である。公は天地を救った功績があり、盛んな徳を加え、まことに万機を統べ、みごとに政務を治めている。五種の道徳を厚くして仁を高め、(『周礼』天官の)六種の法典に基づき教えを広げた。昼夜に奉仕し、朝夕を精勤するさまは、尚父(太公望)が周の文王と武王を助け、周公(旦)が周王朝のために勤労したことですら、(公を)上回るものではない。
むかし先王は明徳な人材を登用し、諸侯を啓蒙し、建国して各地をめぐり、五等爵を制定した。畿内の垣根とし、百世にわたり繁栄するためである。ゆえに斉と魯の封国は、周王朝のために山川土田を広くし、国土は七百里四方とし、官僚組織や文書、制度が他の諸侯と異なった。周の恵王と襄王の危難のとき、斉の桓公と晋の文公は補佐の功績があったので、錫命の礼を受け、どちらも大徳を輝かせ、後世の模範となった。考えるに公の功績は前例を超えるが、賞賜はこれに劣るため、百官は嘆き、人も神もこれを不満に思っている。公の謙譲の美徳を優先し、偉大な先例を蔑ろにしてよいものか。いま并州の太原・上党・西河・楽平・新興・雁門、司州の河東・平陽・弘農、雍州の馮翊の全十郡を区切り、南は華まで、北は陘まで、東は壺口まで、西は黄河を越えるまで、版図の広さは、七百里四方とする。いずれも晋の故地であり、唐叔虞(周の成王の弟)がここを賜り、代々盟主となり、まことに中原を統制し、当時の諸官を指揮したところだ。同じ地域を与え、公を封じて晋公とする。使持節・兼司徒・司隸校尉の武陔に命じて印綬策書を授けさせ、金獸符は第一より第五まで、竹使符は第一より第十までとする。かの地の玄土を賜い、これを白茅で包む。きみ自身の国家を建て、永遠に魏王朝の藩屏となれ。
むかし周の召公は、(地方の)公侯であったが、入朝して保傅ともなった。近代では、酇侯の蕭何は、相国となり、漢王朝の名宰相となった。臨機応変に対処することは、礼も認めている。いま公の位を進めて相国とし、緑綟綬を加える。さらに公に九錫を加える、謹んで後命に従うように。公は大道を広めようと考え、典礼を尊崇し、法令の規範を作り、あまねく四方を指導した、だから公に大輅・戎輅各一、玄牡二駟を賜う。公は陰陽を調和させ、農事を指導し、農夫は本業にもどり、産業が豊かになった、だから公に衮冕の服を賜い、赤舄をこれに副える。公は明徳を行き渡らせ、和をもって民を恵み、尊重して道理を思い、百官は調和した、ゆえに公に軒懸の楽・六佾の舞を賜う。公は天下を鎮静し、教化を伝播し、海外を帰服させ、遠方からも帰順し、各方面に義を届かせ、中原は礼が充実した、ゆえに公を朱戸に住まわせる。公は賢者を選び才能を査定し、優れた人物を探求し、人材を増し、官列に並べた、ゆえに公には納陛を昇らせる。公は慎み深く、四国を平定し、悪逆なものを制止し、苛烈な行動がない、ゆえに公に武賁の士三百人を賜う。公は適切に刑を運用し、正義を支持し、天威を明らかにし、不敬を糾弾した、ゆえに公に鈇鉞各一を賜う。公は六軍を整え、征伐を統括し、命令違反があれば、誅伐を遂行した、ゆえに公に彤弓一・彤矢百、玈弓十・玈矢千を賜う。公は祭祀にひたむきで、祖先の教えを守り、篤誠の極みにあり、神明に通じている、ゆえに公に秬鬯一卣を賜い、珪瓚をこれに副える。晋国に官司以下を置くのは、前例に準拠する。ああ、朕の命に慎み従い、教えを広め、官民を輝かせ、きみの明徳を永遠とし、大いに余一人の良き命令を明らかにせよ」と言った。
公卿や将校はみな府に至り説得したが、文帝は礼により辞退した。司空の鄭沖は群官を率いて勧進し、「伏して見ますに良き勅命が出ましたが、明公が固辞したと聞きました、私たちは気掛かりで、愚見を抱いています。思いますに聖王が制度を作り、百代の先までそれに従い、徳を褒め功を賞することは、当然であります。むかし伊尹は有莘氏の従僕でしたが、ひとたび成湯(殷の湯王)を補佐すると、最後には阿衡の称号を受けました。周公旦は既成の王朝で、安定した政権を継続させただけで、曲阜に居所を構え、亀蒙(亀山と蒙山)を領有しました。呂尚は磻溪(川の名)の釣り人でしたが、一朝にして軍を指揮し、営丘に封建されました。これ以来、功績が薄いにも拘わらず賞賜が厚い者は、数えきれず、しかし賢哲の士は、これすら美談としています。ましてや先代の相国より以来、代々明徳があり、魏王朝を翼輔し、天下を安んじてきたため、朝廷に悪政がなく、人々は中傷をしていません。さきに明公は西のかた霊州を征伐し、北のかた沙漠に臨み、榆中より西は、威風に接して震服し、羌戎は駆けつけ、反省して服従しました。東のかた叛逆者を誅すれば、軍隊は無傷で負け知らずです。闔閭(呉国)の将を捕らえ、獲得にした軽鋭の兵は一億人を数え、勢威は南海に届き、名声は三越を懼れさせ、天下は安寧となり、暴虐は行われなくなりました。こうして慎み畏れる風潮が浸透し、東夷は舞を献上しました。ですから聖上(天子)は古来からの礼典や文書を参照し、国を開き都を置くべきと考え、太原を選定したのです。明公は聖旨を遵奉し、この祝福を受け、まことに天人の意に沿われますように。功績は盛んで、かように輝いています。国土のめでたさは、かように壮大です。内外が協同すれば、過ちや誤りは起きません。その上で征伐をすれば、一朝に済江を征服し、呉会を滅亡させ、西のかた江源を制圧し、岷山で祭祀を行えます。軍隊の進路を変え、天下に指図すれば、遠くに服従しない者はなく、近くに畏まらない者はありません。大魏の徳は、唐虞(尭と舜)よりも偉大となり、明公の功績は、桓文(斉桓公と晋文公)を超えています。その後で滄海に臨んで文伯(支伯)に謝り、箕山に登って許由に敬意を表せば、(謙譲への配慮は)十分ではありませんか。公平の極致にあられます、誰が比肩しましょうか。なぜ小手先の謙譲に拘るのですか」と言った。文帝はこうして命を受けた。
十一月、鄧艾帥萬餘人自陰平踰絕險至江由、破蜀將諸葛瞻於緜竹、斬瞻、傳首。進軍雒縣、劉禪降。天子命晉公以相國總百揆、於是上節傳、去侍中・大都督・錄尚書之號焉。表鄧艾為太尉、鍾會為司徒。會潛謀叛逆、因密使譖艾。
咸熙元年春正月、檻車徵艾。乙丑、帝奉天子西征、次于長安。是時魏諸王侯悉在鄴城、命從事中郎山濤行軍司事、鎮於鄴、遣護軍賈充持節・督諸軍、據漢中。鍾會遂反於蜀、監軍衞瓘・右將軍胡烈攻會、斬之。初、會之伐蜀也、西曹屬邵悌言於帝曰、鍾會難信、不可令行。帝笑曰、取蜀如指掌、而眾人皆言不可。唯會與吾意同。滅蜀之後、中國將士、人自思歸、蜀之遺黎、猶懷震恐、縱有異志、無能為也。卒如所量。1.丙辰、帝至自長安。三月己卯、進帝爵為王、增封并前二十郡。
夏五月癸未、天子追加舞陽宣文侯為晉宣王、舞陽忠武侯為晉景王。秋七月、帝奏司空荀顗定禮儀、中護軍賈充正法律、尚書僕射裴秀議官制、太保鄭沖總而裁焉。始建五等爵。冬十月丁亥、奏遣吳人相國參軍2.徐劭、散騎常侍・水曹屬3.孫彧使吳、喻孫晧以平蜀之事、致馬錦等物、以示威懷。丙午、天子命中撫軍新昌鄉侯炎為晉世子。
1.中華書局本によると、二月の日付。『資治通鑑』巻七八は、これより前に「二月」二字を補っている。
2.徐劭は上で触れたように、名の表記に揺れがある。『魏志』陳留王紀は、「相國參軍事徐紹……其以紹兼散騎常侍、加奉車都尉」とあり、名と官職が異なる。
3.孫彧は、『晋書』孫楚伝は「孫郁」に作る。『魏志』陳留王紀は、「水曹掾孫彧……彧兼給事黃門侍郎」とあり、官職が異なる。
十一月、鄧艾 萬餘人を帥ゐ陰平自り絕險を踰えて江由に至り、蜀將諸葛瞻を緜竹に破り、瞻を斬り、首を傳ふ。軍を雒縣に進むるに、劉禪 降る。天子 晉公に命じて相國として百揆を總するを以て、是に於いて節傳を上(たてまつ)らしめ、侍中・大都督・錄尚書の號を去る。表して鄧艾を太尉と為し、鍾會を司徒と為す。會 潛かに叛逆を謀り、因りて密かに艾を譖らしむ。
咸熙元年春正月、檻車もて艾を徵す。乙丑、帝 天子を奉じて西征し、長安に次(やど)る。是の時 魏の諸王侯 悉く鄴城に在り、從事中郎山濤に命じ軍司事を行し、鄴を鎮めしめ、護軍賈充をして持節して諸軍を督し、漢中に據らしむ。鍾會 遂に蜀に於いて反したれば、監軍衞瓘・右將軍胡烈 會を攻めて、之を斬る。初め、會の蜀を伐つや、西曹屬邵悌 帝に言ひて曰く、「鍾會 信じ難し、行かしむ可からず」と。帝 笑ひて曰く、「蜀を取ること掌を指すが如し、而るに眾人 皆 不可と言ふ。唯 會 吾が意と同じ。蜀を滅すの後、中國の將士、人々自ら歸を思ひ、蜀の遺黎、猶ほ震恐を懷けば、縱ひ異志有るとも、能く為すこと無きなり」と。卒に量る所の如し。丙辰、帝 長安自り至る。三月己卯、帝に爵を進めて王と為し、封を增やし前と并はせて二十郡なり。
夏五月癸未、天子 追ひて舞陽宣文侯に加へて晉宣王と為し、舞陽忠武侯を晉景王と為す。秋七月、帝 奏すらく司空の荀顗もて禮儀を定め、中護軍の賈充もて法律を正し、尚書僕射の裴秀もて官制を議し、太保の鄭沖もて總べて焉を裁せしめんと。始めて五等爵を建つ。
冬十月丁亥、奏して吳人の相國參軍たる徐劭、散騎常侍・水曹屬の孫彧をして吳に使ひして、孫晧に喻せしむに、平蜀の事を以てし、馬錦等の物を致し、以て威懷を示す。丙午、天子 中撫軍新昌鄉侯炎に命じて晉の世子と為す。
(景元四年)十一月、鄧艾は一万余人をひきいて陰平より険阻な地形を超えて江由に至り、蜀将の諸葛瞻を緜竹で破り、諸葛瞻を斬り、首を届けた。雒県に進軍すると、劉禅が降服した。天子は晋公に相国として政治全般を預けているので、節伝を返上せよと命じ、侍中・大都督・録尚書の官号を除いた。上表して鄧艾を太尉とし、鍾会を司徒とした。ちょうど叛逆を画策し、勝手に鄧艾を糾弾した。
咸熙元(二六四)年春正月、檻車で鄧艾を徴した。乙丑、文帝は天子を奉じて西征し、長安に駐屯した。このとき魏の諸王侯は全員が鄴城にいたので、従事中郎の山濤に命じて軍司事を兼ね、鄴を鎮守させ、護軍の賈充に持節して諸軍を督し、漢中に拠らせた。鍾会が終には蜀で反したので、監軍の衛瓘・右将軍の胡烈が鍾会を攻め、彼を斬った。これより先、鍾会が蜀を伐つとき、西曹屬の邵悌が文帝に、「鍾会は信頼できません、行かせてはなりません」と言った。文帝は笑い、「蜀を取るのは掌を指すようなものだが、諸臣は皆できないという。ただ鍾会だけが私と同意見であった。蜀を滅ぼした後、中原出身の将士は、銘々が帰郷を願い、蜀の遺民は、まだ恐怖を抱いているから、もし(鍾会に)二心があっても、成功できまい」と言った。結果その通りとなった。(二月)丙辰、文帝は長安より至った。三月己卯、文帝の爵を進めて王とし、封土を増やし前と合わせて二十郡とした。
夏五月癸未、天子は追って舞陽宣文侯(司馬懿)に号を加えて晋宣王とし、舞陽忠武侯(司馬師)を晋景王とした。秋七月、文帝は上奏して司空の荀顗に禮儀を定めさせ、中護軍の賈充に法律を正させ、尚書僕射の裴秀に官制を議させ、太保の鄭沖に全体を統括させた。初めて五等爵を建てた。冬十月丁亥、上奏して呉出身の相国参軍である徐劭と、散騎常侍・水曹属の孫彧を呉国への使者とし、孫晧に説諭し、蜀の平定を告げ、馬や錦らの物産を授け、威勢と寛大さを示した。丙午、天子は中撫軍新昌郷侯の司馬炎に命じて晋の世子とした。
二年春二月甲辰、朐䏰縣獻靈龜、歸於相府。
夏四月、孫晧使紀陟來聘、且獻方物。五月、天子命帝冕十有二旒、建天子旌旗、出警入蹕、乘金根車、駕六馬、備五時副車、置旄頭雲罕、樂舞八佾、設鍾虡宮懸、位在燕王上。進王妃為王后、世子為太子、王女王孫爵命之號皆如帝者之儀。諸禁網煩苛及法式不便於時者、帝皆奏除之。晉國置御史大夫・侍中・常侍・尚書・中領軍・衞將軍官。
秋八月辛卯、帝崩于露寢、時年五十五。九月癸酉、葬崇陽陵、諡曰文王。武帝受禪、追尊號曰文皇帝、廟稱太祖。
二年春二月甲辰、朐䏰縣 靈龜を獻じ、相府に歸す。
夏四月、孫晧 紀陟をして來聘せしめ、且つ方物を獻ず。五月、天子 帝に冕十有二旒を命じ、天子の旌旗を建て、出警入蹕、金根車に乘り、六馬を駕し、五時の副車を備へ、旄頭雲罕を置き、樂は八佾を舞ひ、鍾虡宮懸を設け、位は燕王の上に在り。王妃を進めて王后と為し、世子を太子と為し、王女王孫の爵命の號、皆 帝者の儀が如し。諸々の禁網煩苛、法式に及び時に便ならざるは、帝 皆 奏して之を除く。晉國 御史大夫・侍中・常侍・尚書・中領軍・衞將軍官を置く。
秋八月辛卯、帝 露寢に崩じ、時に年五十五。九月癸酉、崇陽陵に葬り、諡して文王と曰ふ。武帝 受禪し、追尊して號して文皇帝と曰ひ、廟は太祖と稱す。
咸煕二(二六五)年春二月甲辰、朐䏰県は霊亀を献上し、相府に届けられた。夏四月、孫晧が紀陟を派遣し、名産品を献上した。五月、天子は文帝に冕十有二旒を命じ、天子の旌旗を建て、出警入蹕の隊列を組み、金根車に乗り、六頭立ての馬車を使い、五時の副車を備え、旄頭雲罕を置き、楽は八佾を舞い、鍾虡宮懸を設け、位は燕王の上とした。王妃を進めて王后とし、世子を太子とし、王女や王孫の爵命の号は、いずれも皇族並みとした。諸々の煩瑣な禁令や、時宜を得ない法制は、文帝が上奏して撤廃した。晋国に御史大夫・侍中・常侍・尚書・中領軍・衛将軍官を置いた。
秋八月辛卯、文帝は移動中に崩御し、時に五十五歳であった。九月癸酉、崇陽陵に葬り、文王と謚した。武帝が受禅すると、追尊して文皇帝と号し、廟は太祖と称した。
史臣曰、世宗以叡略創基、太祖以雄才成務。事殷之跡空存、翦商之志彌遠、三分天下、功業在焉。及踰劍銷氛、浮淮靜亂、桐宮胥怨、或所不堪。若乃體以名臣、格之端揆、周公流連於此歲、魏武得意於茲日。軒懸之樂、大啟南陽、1.師摯之圖、於焉北面。壯矣哉、包舉天人者也。為帝之主、不亦難乎。
贊曰、世宗繼文、邦權未分、三千之士、其從如雲。2.(世祖)〔太祖〕無外、靈關靜氛。反雖討賊、終為弒君。
1.師摯之圖は、中華書局本によると、盧文弨『羣書拾補』は「師摯之徒」に作る。
2.中華書局本に基づき、「世祖」を「太祖」に改める。司馬師は世宗、司馬昭は太祖。
史臣曰く、世宗 叡略を以て基(もとゐ)を創め、太祖 雄才を以て務を成す。殷に事ふるの跡 空しく存し、翦商の志 彌々遠く〔一〕、天下を三分して、功業 在り。劍を踰へ氛を銷し、淮に浮びて亂を靜むるに及び、桐宮 胥怨し、堪へざる所或り。若し乃ち體は名臣を以てし、之を端揆に格さば、周公 此の歲に流連し、魏武 意を茲の日に得ん。軒懸の樂、大いに南陽に啟き〔二〕、師摯の圖、焉に於いて北面す。壯なるかな、天人を包舉するものや。帝と為るの主、亦た難たからずや。
贊に曰く、世宗 文を繼ぐに、邦權 未だ分かれざるも、三千の士、其の從ふこと雲の如し。太祖 外無く、靈關 氛を靜む。反りて賊を討つと雖も、終に君を弒することと為る。
〔一〕周文王は天下の三分の二を領有しても、なお自ら周王朝を創始せず、殷の事(つか)えたことを美徳とされた(『論語』泰伯篇)。
〔二〕『春秋左氏伝』僖公二十五年に「晉侯朝王、……與之陽樊・溫原・欑茅之田、晉於是始起南陽」とある。この南陽は、太行山の南。荊州の南陽郡と異なる。春秋晋の建国について言及している。『三国志集解』武帝紀 建安十八年を参照。
史臣曰く、世宗(師)は優れた智略で基礎を築き、太祖(昭)は雄壮な才覚により務めを果たした。殷に臣従した(周文王の)前例を踏まず、殷を滅す(周武王の)志とも距離をおき、天下三分の状況で、功績をあげた。剣を振るって凶悪なものを討伐し、淮水に浮かんで乱を鎮めると、魏帝から怨恨を買い、事態が行き詰まった。もし徹底して名臣として振る舞い、宰相の任務にあたっても、この時代状況ならば周公旦ですら流離し(補佐をやり遂げられず)、魏武(曹操)ならば意を得た(簒奪した)であろう。軒懸の楽は、南陽で始まり(春秋晋が建国され)、楽団を編成し、これにより(周王朝に)北面した。壮大なものだ、天と人とを手中に収めるものは。帝王となる当事者にとって、また難しいことではないか。
賛に曰く、世宗(師)が文(懿)を継いだとき、(魏王朝の)国家権力はまだ分裂していなかったが、三千の士は、雲のように従っていた。太祖(昭)は天下をまとめ、霊州や関中は混乱が収まった。転戦し賊を討伐していたが、最後は君主を弑殺することになってしまった。