翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です;Q&A主催者が翻訳することについて参照。この巻は、長谷川大和氏の『晋書簡訳所』※にも現代語訳が掲載されています。私が翻訳を完成させた後、長谷川氏の翻訳を参照しました。これを受けて訂正した部分、もしくは引用した注釈は、「長谷川訳」「長谷川注」として示します。※ https://readingnotesofjinshu.com/
孝惠皇帝諱衷、字正度、武帝第二子也。泰始三年、立為皇太子、時年九歲。太熙元年四月己酉、武帝崩。是日、皇太子即皇帝位、大赦、改元為永熙。尊皇后楊氏曰皇太后、立妃賈氏為皇后。夏五月辛未、葬武皇帝於峻陽陵。丙子、增天下位一等、預喪事者二等、復租調一年、二千石已上皆封關中侯。以太尉楊駿為太傅、輔政。
秋八月壬午、立廣陵王遹為皇太子、以中書監何劭為太子太師、吏部尚書王戎為太子太傅、衞將軍楊濟為太子太保。遣南中郎將石崇・射聲校尉胡奕・長水校尉趙俊・揚烈將軍趙歡將屯兵四出。冬十月辛酉、以司空石鑒為太尉、前鎮西將軍隴西王泰為司空。
1.永平元年春正月乙酉朔、臨朝、不設樂。詔曰、朕夙遭不造、淹恤在疚。賴祖宗遺靈、宰輔忠賢、得以眇身託于羣后之上。昧於大道、不明于訓、戰戰兢兢、夕惕若厲。乃者哀迷之際、三事股肱、惟社稷之重、率遵翼室之典、猶欲長奉先皇之制、是以有永熙之號。然日月踰邁、已涉新年。開元易紀、禮之舊章。其改永熙二年為永平元年。又詔子弟及羣官並不得謁陵。丙午、皇太子冠、丁未、見于太廟。二月甲寅、賜王公已下帛各有差。癸酉、鎮南將軍楚王瑋・鎮東將軍淮南王允來朝。戊寅、復置祕書監官。
三月辛卯、誅太傅楊駿・駿弟衞將軍珧・太子太保濟・中護軍張劭・散騎常侍段廣・楊邈・左將軍劉預・河南尹李斌・中書令蔣俊・東夷校尉文淑・尚書武茂、皆夷三族。壬辰、大赦、改元。賈后矯詔廢皇太后為庶人、徙于金墉城、告于天地宗廟。誅太后母龐氏。壬寅、徵大司馬、汝南王亮為太宰、與太保衞瓘輔政。以秦王柬為大將軍、東平王楙為撫軍大將軍、鎮南將軍楚王瑋為衞將軍、領北軍中候、下邳王晃為尚書令、東安公繇為尚書左僕射、進封東安王。督將侯者千八十一人。庚戌、免東安王繇及東平王楙、繇徙帶方。
夏四月癸亥、以征東將軍梁王肜為征西大將軍、都督關西諸軍事、太子少傅阮坦為平東將軍、監青徐二州諸軍事。己巳、以太子太傅王戎為尚書右僕射。2.五月甲戌、毗陵王軌薨。壬午、除天下戶調緜絹、賜孝悌・高年・鰥寡・力田者帛、人三匹。六月、賈后矯詔使楚王瑋殺太宰汝南王亮・太保菑陽公衞瓘。乙丑、以瑋擅害亮・瓘、殺之。曲赦洛陽。以廣陵王師劉寔為太子太保、司空隴西王泰錄尚書事。
秋七月、分揚州・荊州十郡為江州。八月庚申、以趙王倫為征東將軍、都督徐兗二州諸軍事。河間王顒為北中郎將、鎮鄴。太子太師何劭為都督豫州諸軍事、鎮許昌。徙長沙王乂為常山王。己巳、進西陽公羕爵為王。辛未、立隴西世子越為東海王。九月甲午、大將軍秦王柬薨。辛丑、徵征西大將軍梁王肜為衞將軍・錄尚書事、以趙王倫為征西大將軍、都督雍梁二州諸軍事。冬十二月辛酉、京師地震。是歲、東夷十七國・南夷二十四部並詣校尉內附。
1.この年は三月に「元康」と改元する。「元康」に作るべきである。
2.朔閏および干支の順序に基づき、「五月」二字は、衍字が疑われる。
孝惠皇帝 諱は衷、字は正度、武帝の第二子なり。泰始三年、立ちて皇太子と為り、時に年九歲なり。太熙元年四月己酉、武帝 崩ず。是の日、皇太子 皇帝の位に即き、大赦し、改元して永熙と為す。皇后楊氏を尊び皇太后と曰ひ、妃賈氏を立てて皇后と為す。夏五月辛未、武皇帝を峻陽陵に葬る。丙子、天下に位一等を增し、喪事に預る者は二等、租調一年を復し、二千石已上 皆 關中侯に封ず。太尉楊駿を以て太傅と為し、輔政せしむ。
秋八月壬午、廣陵王遹を立てて皇太子と為し、中書監何劭を以て太子太師と為し、吏部尚書王戎を太子太傅と為し、衞將軍楊濟を太子太保と為す。南中郎將石崇・射聲校尉胡奕・長水校尉趙俊・揚烈將軍趙歡を遣はして屯兵を將ゐて四出せしむ。冬十月辛酉、司空石鑒を以て太尉と為し、前鎮西將軍隴西王泰を司空と為す。
永平元年春正月乙酉朔、朝廷に臨み、樂を設けず。詔して曰く、「朕 夙に不造に遭ひ、淹恤して疚に在り。祖宗の遺靈、宰輔の忠賢に賴り、眇身を以て羣后の上を託すことを得。大道に昧く、訓に明ならず、戰戰兢兢として、夕惕 厲むが若し。乃者(さきに) 哀迷の際、三事の股肱、社稷の重きを惟ひ、翼室の典に率遵し〔一〕、猶ほ長く先皇の制を奉ぜんと欲し、是を以て永熙の號有り。然れども日月 踰邁し、已に新年に涉る。元を開き紀を易へるは、禮の舊章なり。其れ永熙二年を改めて永平元年と為せ〔二〕」と。又 子弟及び羣官に詔して並びに謁陵するを得ず。丙午、皇太子 冠し、丁未、太廟に見ゆ。二月甲寅、王公已下に帛を賜ふこと各々差有り。癸酉、鎮南將軍楚王瑋・鎮東將軍淮南王允 來朝す。戊寅、復た祕書監官を置く。
三月辛卯、太傅楊駿・駿の弟たる衞將軍珧・太子太保濟・中護軍張劭・散騎常侍段廣・楊邈・左將軍劉預・河南尹李斌・中書令蔣俊・東夷校尉文淑・尚書武茂を誅し、皆 夷三族とす。壬辰、大赦、改元。賈后 詔を矯めて皇太后を廢して庶人と為し、金墉城に徙し、天地宗廟に告ぐ。太后母龐氏を誅す。壬寅、大司馬を徵し、汝南王亮を太宰と為し、太保衞瓘と與に輔政せしむ。秦王柬を以て大將軍と為し、東平王楙を撫軍大將軍と為し、鎮南將軍楚王瑋を衞將軍と為し、北軍中候を領せしめ、下邳王晃を尚書令と為し、東安公繇を尚書左僕射と為し、進めて東安王に封ず。督將の侯たる者は千八十一人。庚戌、東安王繇及び東平王楙を免じ、繇は帶方に徙さる。
夏四月癸亥、征東將軍梁王肜を以て征西大將軍と為し、關西諸軍事を都督せしめ、太子少傅の阮坦を平東將軍と為し、青徐二州諸軍事を監せしむ。己巳、太子太傅の王戎を以て尚書右僕射と為す。五月甲戌、毗陵王軌 薨ず。壬午、天下の戶調緜絹を除き、孝悌・高年・鰥寡・力田なる者に帛を賜ふこと、人ごとに三匹なり。六月、賈后 詔を矯めて楚王瑋をして太宰汝南王亮・太保菑陽公衞瓘を殺さしむ。乙丑、瑋 擅に亮・瓘を害するを以て、之を殺す。洛陽に曲赦す。廣陵王師劉寔を以て太子太保と為し、司空隴西王泰を錄尚書事とす。
秋七月、揚州・荊州十郡を分けて江州と為す。八月庚申、趙王倫を以て征東將軍と為し、徐兗二州諸軍事を都督せしむ。河間王顒を北中郎將と為し、鄴に鎮せしむ。太子太師何劭を都督豫州諸軍事と為し、許昌に鎮せしむ。長沙王乂を徙して常山王と為す。己巳、西陽公羕の爵を進めて王と為す。辛未、隴西世子越を立てて東海王と為す。九月甲午、大將軍秦王柬 薨ず。辛丑、征西大將軍梁王肜を徵して衞將軍・錄尚書事と為し、趙王倫を以て征西大將軍と為し、雍梁二州諸軍事を都督せしむ。冬十二月辛酉、京師 地震あり。是の歲、東夷十七國・南夷二十四部 並びに校尉に詣りて內附す。
〔一〕長谷川注:『尚書』顧命篇に「延入翼室、恤宅宗」とある。孔伝には「明、室、路寢。延之、使居憂、為天下宗主」とあるが、『後漢書』伝六四上、袁紹伝上の李賢注に引く「孔安国注」に「翼、明也。室謂路寢」とある。
〔二〕長谷川注:皇帝が崩御して新帝が立った場合、元号は即日改めず、新年を迎えてから改めるのが慣わしであったが、恵帝の場合は即日に改元してしまっている。その言い訳をここで述べているのだろう。楊駿伝には次のような記述が見えている。「駿闇於古義、動違旧典。武帝崩未踰年而改元、議者咸以為違春秋踰年書即位之義。朝廷惜於前失、令史官没之、故明年正月復改年焉」。よく探してみれば、恵帝の詔が言うように周以前の先王の制として立年改元が記されているのかもしれない。
孝恵皇帝は諱を衷、字を正度といい、武帝の第二子である。泰始三(二六七)年、皇太子に立てられ、このとき九歳。太熙元(二九〇)年四月己酉、武帝が崩じた。同日、皇太子が皇帝の位に即き、大赦し、改元して永熙とした。皇后の楊氏を尊んで皇太后といい、妃の賈氏を立てて皇后とした。夏五月辛未、武皇帝を峻陽陵に葬った。丙子、天下全員の爵位を一等級あげ、葬儀にたずさわった者は二等級あげ、租調を一年分免除し、二千石以上のひとは全員を関中侯に封じた。太尉の楊駿を太傅とし、輔政させた。
秋八月壬午、広陵王遹(司馬遹)を皇太子とし、中書監の何劭を以て太子太師とし、吏部尚書の王戎を太子太傅とし、衛将軍の楊済を太子太保とした。南中郎将の石崇・射声校尉の胡奕・長水校尉の趙俊・揚烈将軍の趙歓を派遣して駐屯地の兵を率いて四方に出発させた。冬十月辛酉、司空の石鑒を太尉とし、前の鎮西将軍である隴西王泰(司馬泰)を司空とした。
永平元(二九一)年春正月乙酉朔、(恵帝が)朝廷に臨んだが、音楽を演奏しなかった。詔して、「朕は突然の不幸にあい、危難にあり気に病んでいる。祖先の遺霊と、宰相らの忠賢を頼り、幼き身ながら諸侯に政治を託すことができた。大いなる道のことを知らず、教えも分からず、戦々恐々として、朝晩に励むようなものだ。先日の哀しみと混乱(武帝の崩御)の際、三公ら重臣は、社稷の重大さを思い、王朝を助ける典範にしたがい、先代からの皇業を長く継続させたいと考え、そのために永熙という年号を定めた。しかし月日が経過し、もう新年が明けた。始まりを宣言して年号を変えるのは、『礼』の旧来の定めである。そこで永熙二年を改めて永平元年とせよ」と言った。さらに子弟及び群官に詔して彼らの(武帝の)陵への拝謁を禁じた。丙午、皇太子が元服し、丁未、太廟に賛拝した。二月甲寅、王公より以下に帛を賜与することは差等があった。癸酉、鎮南将軍の楚王瑋(司馬瑋)・鎮東将軍の淮南王允(司馬允)が来朝した。戊寅、ふたたび秘書監官を設置した。
三月辛卯、太傅の楊駿・楊駿の弟である衛将軍の楊珧・太子太保の楊済・中護軍の張劭・散騎常侍の段広・楊邈・左将軍の劉預・河南尹の李斌・中書令の蔣俊・東夷校尉の文淑・尚書の武茂を誅殺し、いずれも夷三族とした。壬辰、大赦し、(元康と)改元した。賈后は詔を偽造して楊皇太后を廃して庶人とし、金墉城に移し、天地と宗廟に告げた。太后の母である龐氏を誅した。壬寅、大司馬を徴し、汝南王の亮を太宰とし、太保の衛瓘とともに輔政させた。秦王柬(司馬柬)を大将軍とし、東平王楙(司馬楙)を撫軍大将軍とし、鎮南将軍の楚王瑋(司馬瑋)を衛将軍とし、北軍中候を兼任させ、下邳王晃(司馬晃)を尚書令とし、東安公繇(司馬繇)を尚書左僕射とし、進めて東安王に封じた。督や将のうち侯の爵位にある者は千八十一人であった。庚戌、東安王繇及び東平王楙を免官し、司馬繇は帯方に徙刑となった。
夏四月癸亥、征東将軍の梁王肜(司馬肜)を征西大将軍とし、関西諸軍事を都督させ、太子少傅の阮坦を平東将軍とし、監青徐二州諸軍事とした。己巳、太子太傅の王戎を尚書右僕射とした。五月甲戌、毗陵王軌(司馬軌)が薨じた。壬午、天下の戸調の緜や絹(戸ごとに課される織物)を免除し、孝悌・高年・鰥寡・力田(郷官の名及び社会的弱者)に帛を賜与し、人ごとに三匹とした。六月、賈后が詔を偽造して楚王瑋に(教唆して)太宰の汝南王亮(司馬亮)・太保である菑陽公の衛瓘を殺害させた。乙丑、司馬瑋が自己判断で司馬亮・衛瓘を殺害したという罪により、これを殺した。洛陽で曲赦(地域限定の赦免)が行われた。広陵王師の劉寔を太子太保とし、司空の隴西王泰(司馬泰)を録尚書事とした。
秋七月、揚州・荊州の十郡を分けて江州を新設した。八月庚申、趙王倫(司馬倫)を征東将軍とし、徐兗二州諸軍事を都督させた。河間王顒(司馬顒)を北中郎将とし、鄴に出鎮させた。太子太師の何劭を都督豫州諸軍事とし、許昌に出鎮させた。長沙王乂(司馬乂)を移して常山王とした。己巳、西陽公羕(司馬羕)の爵位を進めて王とした。辛未、隴西王の世子越(司馬越)を立てて東海王とした。九月甲午、大将軍の秦王柬(司馬柬)が薨じた。辛丑、征西大将軍の梁王肜(司馬肜)を徴して衛将軍・録尚書事とし、趙王倫を征西大将軍とし、雍梁二州諸軍事を都督させた。冬十二月辛酉、京師で地震が起きた。この年、東夷十七国・南夷二十四部が揃って(管轄者の)校尉を訪れて帰服した。
二年春二月己酉、賈后弒皇太后于金墉城。秋八月壬子、大赦。九月乙酉、中山王耽薨。冬十一月、大疫。是歲、沛國雨雹、傷麥。三年夏四月、滎陽雨雹。六月、弘農郡雨雹、深三尺。冬十月、1.太原王泓薨。
四年春正月丁酉朔、侍中・太尉2.安昌公石鑒薨。夏五月、蜀郡山移、淮南壽春洪水出、山崩地陷、壞城府及百姓廬舍。匈奴郝散反、攻上黨、殺長吏。六月、壽春地大震、死者二十餘家。上庸郡山崩、殺二十餘人。秋八月、郝散帥眾降、馮翊都尉殺之。上谷居庸・上庸並地陷裂、水泉涌出、人有死者。大饑。九月丙辰、赦諸州之遭地災者。3.甲午、枉矢東北竟天。是歲、京師及郡國八地震。
五年夏四月、彗星見于西方、孛于奎、至軒轅。六月、金城地震。東海雨雹、深五寸。秋七月、下邳暴風、壞廬舍。九月、雁門・新興・太原・上黨大風、傷禾稼。冬十月、武庫火、焚累代之寶。十二月丙戌、新作武庫、大調兵器。丹楊雨雹。有石生于京師宜年里。是歲、荊・揚・兗・豫・青・徐等六州大水、詔遣御史巡行振貸。
六年春正月、大赦。司空下邳王晃薨。以中書監張華為司空、太尉隴西王泰為尚書令、衞將軍梁王肜為太子太保。丁丑、地震。三月、東海隕霜、傷桑麥。彭城呂縣有流血、東西百餘步。夏四月、大風。五月、荊・揚二州大水。匈奴郝散弟度元帥馮翊、北地馬蘭羌・盧水胡反、攻北地、太守張損死之。馮翊太守歐陽建與度元戰、建敗績。徵征西大將軍趙王倫為車騎將軍、以太子太保梁王肜為征西大將軍、都督雍梁二州諸軍事、鎮關中。秋八月、雍州刺史解系又為度元所破。秦雍氐・羌悉叛、推氐帥齊萬年僭號稱帝、圍涇陽。冬十月乙未、曲赦雍涼二州。十一月丙子、遣安西將軍夏侯0.(俊)〔駿〕・建威將軍周處等討萬年、梁王肜屯好畤。關中饑、大疫。
七年春正月癸丑、周處及齊萬年戰於六陌、王師敗績、處死之。夏五月、魯國雨雹。秋七月、雍・梁州疫。大旱、隕霜、殺秋稼。關中饑、米斛萬錢。詔骨肉相賣者不禁。丁丑、司徒京陵公王渾薨。九月、以尚書右僕射王戎為司徒、太子太師何劭為尚書左僕射。八年春正月丙辰、地震。詔發倉廩、振雍州饑人。三月壬戌、大赦。夏五月、郊禖石破為二。秋九月、荊・豫・揚・徐・冀等五州大水。雍州有年。
九年春正月、左積弩將軍孟觀伐氐、戰于中亭、大破之、獲齊萬年。徵征西大將軍梁王肜錄尚書事。以北中郎將河間王顒為鎮西將軍、鎮關中。成都王穎為鎮北大將軍、鎮鄴。夏四月、鄴人張承基等妖言署置、聚黨數千。郡縣逮捕、皆伏誅。六月戊戌、太尉5.隴西王泰薨。秋八月、以尚書裴頠為尚書僕射。冬十一月甲子朔、日有蝕之。京師大風、發屋折木。十二月壬戌、廢皇太子遹為庶人、及其三子幽于金墉城、殺太子母謝氏。
1.『晋書』列伝では、名を「弘」に作り、当時は「中丘王」に改封されていた。
2.「安昌」は「昌安」に作るべきである。
3.「甲午」の記事は、「丙辰」より前に置くべきである。
4.中華書局本に従い、「俊」を「駿」に改める。
5.中華書局本に引く『資治通鑑考異』によると、「隴西王」は「高密王」に作るべきである。
二年春二月己酉、賈后 皇太后を金墉城に弒す。秋八月壬子、大赦す。九月乙酉、中山王耽 薨ず。冬十一月、大疫あり。是の歲、沛國 雹雨(ふ)り、麥を傷つく。三年夏四月、滎陽 雹雨る。六月、弘農郡 雹雨り、深さ三尺なり。冬十月、太原王泓 薨ず。
四年春正月丁酉朔、侍中・太尉たる安昌公の石鑒 薨ず。夏五月、蜀郡 山移り、淮南の壽春 洪水 出で、山は崩れ地は陷し、城府及び百姓の廬舍を壞す。匈奴郝散 反し、上黨を攻め、長吏を殺す。六月、壽春の地 大いに震へ、死者二十餘家なり。上庸郡 山 崩れ、二十餘人を殺す。秋八月、郝散 眾を帥ゐて降り、馮翊都尉 之を殺す。上谷の居庸・上庸 並びに地 陷裂し、水泉 涌出し、人の死する者有り。大いに饑す。九月丙辰、諸州の地災に遭ふ者を赦す。甲午、枉矢 東北に天に竟(わた)る。是の歲、京師及び郡國八 地震あり。
五年夏四月、彗星 西方に見(あらは)れ、奎に孛し、軒轅に至る。六月、金城 地震あり。東海 雹雨(ふ)り、深さ五寸なり。秋七月、下邳 暴風あり、廬舍を壞す。九月、雁門・新興・太原・上黨 大風あり、禾稼を傷つく。冬十月、武庫 火あり、累代の寶を焚く。十二月丙戌、新たに武庫を作り、大いに兵器を調ふ。丹楊 雹雨る。石の京師の宜年里に生ずる有り。是の歲、荊・揚・兗・豫・青・徐等六州 大水あり、詔して御史を遣はして巡行し振貸せしむ。
六年春正月、大赦す。司空たる下邳王晃 薨ず。中書監張華を以て司空と為し、太尉たる隴西王泰もて尚書令と為し、衞將軍たる梁王肜もて太子太保と為す。丁丑、地震あり。三月、東海 隕霜あり、桑麥を傷つく。彭城呂縣に流血有り、東西に百餘步なり。夏四月、大風あり。五月、荊・揚二州 大水あり。匈奴の郝散が弟たる度元 馮翊を帥ゐ、北地の馬蘭羌・盧水胡 反し、北地を攻め、太守張損 之に死す。馮翊太守の歐陽建 度元と戰ひ、建 敗績す。征西大將軍たる趙王倫を徵して車騎將軍と為し、太子太保たる梁王肜を以て征西大將軍と為し、雍梁二州諸軍事を都督して、關中に鎮せしむ。秋八月、雍州刺史の解系 又 度元の破る所と為る。秦雍の氐・羌 悉く叛し、氐帥の齊萬年を推して僭號稱帝せしめ、涇陽を圍む。冬十月乙未、雍涼二州に曲赦す。十一月丙子、安西將軍の夏侯駿・建威將軍の周處等を遣はして萬年を討たしめ、梁王肜 好畤に屯す。關中 饑し、大いに疫す。
七年春正月癸丑、周處及び齊萬年 六陌に戰ひ、王師 敗績し、處 之に死す。夏五月、魯國 雹雨る。秋七月、雍・梁州 疫す。大いに旱し、霜隕りて、秋稼を殺す。關中 饑し、米は斛ごとに萬錢なり。詔して骨肉 相 賣る者は禁ぜず。丁丑、司徒たる京陵公王渾 薨ず。九月、尚書右僕射の王戎を以て司徒と為し、太子太師の何劭もて尚書左僕射と為す。八年春正月丙辰、地震あり。詔して倉廩を發し、雍州の饑人に振す。三月壬戌、大赦す。夏五月、郊禖石〔一〕破れて二と為る。秋九月、荊・豫・揚・徐・冀等五州 大水あり。雍州に年有り。
九年春正月、左積弩將軍の孟觀 氐を伐ち、中亭に戰ひ、大いに之を破り、齊萬年を獲ふ。征西大將軍たる梁王肜を徵して錄尚書事とす。北中郎將たる河間王顒を以て鎮西將軍と為し、關中に鎮せしむ。成都王穎 鎮北大將軍と為り、鄴に鎮す。夏四月、鄴人の張承基等 妖言もて署置し、黨數千を聚む。郡縣 逮捕し、皆 誅に伏す。六月戊戌、太尉たる隴西王泰 薨ず。秋八月、尚書裴頠を以て尚書僕射と為す。冬十一月甲子朔、日の之を蝕する有り。京師 大風あり、屋を發し木を折る。十二月壬戌、皇太子遹を廢して庶人と為し、及び其の三子 金墉城に幽し、太子母の謝氏を殺す。
〔一〕郊禖石は、祭祀に用いる石。『後漢書』志四 礼儀上の劉昭注に見える。『全譯後漢書』第四冊参照。
元康二(二九二)年春二月己酉、賈后が楊皇太后を金墉城で弑殺した。秋八月壬子、大赦した。九月乙酉、中山王耽(司馬耽)が薨じた。冬十一月、大いに疫病が流行った。この歳、沛国で雹がふり、麦を傷つけた。元康三(二九三)年夏四月、滎陽で雹がふった。六月、弘農郡で雹がふり、厚さは三尺。冬十月、太原王泓(司馬泓)が薨じた。
元康四(二九四)年春正月丁酉朔、侍中・太尉である安昌公の石鑑が薨じた。夏五月、蜀郡で山が動き、淮南の寿春で洪水が出で、山は崩れ地は陥没し、城府及び百姓の廬舍が壊れた。匈奴の郝散が離叛し、上党を攻め、長吏を殺した。六月、寿春の地が大いに震え、死者は二十余家であった。上庸郡で山が崩れ、二十余人が死んだ。秋八月、郝散は党与をひきいて降り、馮翊都尉はかれを殺した。上谷の居庸・上庸でどちらも地が陥没して裂け、水が湧き出て、死者がでた。大規模な飢餓が起きた。九月丙辰、諸州の地災の被害にあった地域で赦免をした。甲午、枉矢(星の名)が東北の空にかかった。この歳、京師及び八つの郡国八で地震があった。
元康五(二九五)年夏四月、彗星が西方に出現し、奎(星座)できらめき、軒轅(星座)に至った。六月、金城で地震があった。東海で雹がふり、厚さは五寸。秋七月、下邳で暴風があり、廬舍を壊した。九月、雁門・新興・太原・上党で大風があり、収穫前の穀物を傷つけた。冬十月、武庫で火事があり、累代の宝を焼いた。十二月丙戌、新しく武庫を作り、大いに兵器を整備した。丹楊で雹がふった。京師の宜年里に石が出現した。是の年、荊・揚・兗・豫・青・徐ら六州で洪水があり、詔して御史を派遣して巡行させ(被災者救済のため)官庫の穀物を貸し出した。
元康六(二九六)年春正月、大赦した。司空である下邳王晃(司馬晃)が薨じた。中書監の張華を司空とし、太尉である隴西王泰(司馬泰)を尚書令とし、衛将軍である梁王肜(司馬肜)を太子太保とした。丁丑、地震がおきた。三月、東海で霜が降り、桑や麦を傷つけた。彭城の呂県に流血があり、東西に百余歩(にわたり血がついた)。夏四月、大風があった。五月、荊・揚二州で洪水があった。匈奴の郝散の弟である度元が馮翊(の兵)をひきい、北地の馬蘭羌・盧水胡が反乱し、北地を攻め、太守の張損が殺された。馮翊太守の歐陽建が度元と戦い、敗北した。征西大将軍である趙王倫(司馬倫)を徴して車騎将軍とし、太子太保である梁王肜を征西大将軍とし、雍梁二州諸軍事を都督させ、関中に出鎮させた。秋八月、雍州刺史の解系もまた度元に破られた。秦州と雍州の氐族・羌族はことごとく叛乱し、氐の族長である斉万年が推戴されて皇帝の号を僭称し、涇陽を包囲した。冬十月乙未、雍涼二州に曲赦(地域限定の赦免)をした。十一月丙子、安西将軍の夏侯駿・建威将軍の周処らを派遣して斉万年を討伐させ、梁王肜は好畤に駐屯した。関中は餓え、疫病が流行した。
元康七(二九七)年春正月癸丑、周処及び斉万年が六陌で戦い、天子の軍は敗北し、周処は戦死した。夏五月、魯国で雹がふった。秋七月、雍・梁州で疫病がおきた。ひどい日照りと、霜がおりて、秋の収穫を壊滅させた。関中は飢饉がおき、米は斛あたり一万銭となった(価格が高騰した)。詔して肉親の人身売買を禁じないものとした。丁丑、司徒である京陵公の王渾が薨じた。九月、尚書右僕射の王戎を司徒とし、太子太師の何劭を尚書左僕射とした。元康八(二九八)年春正月丙辰、地震があった。詔して官庫を開き、雍州の飢民に給付した。三月壬戌、大赦した。夏五月、郊禖石が破損して二つに割れた。秋九月、荊・豫・揚・徐・冀ら五州で洪水があった。雍州で(数年ぶりに)収穫があった。
元康九(二九七)年春正月、左積弩将軍の孟観が氐族を討伐し、中亭で戦って、大いにこれを撃破し、斉万年を捕縛した。征西大将軍である梁王肜(司馬肜)を徴して録尚書事とした。北中郎将である河間王顒(司馬顒)を鎮西将軍とし、関中に出鎮させた。成都王穎(司馬穎)を鎮北大将軍とし、鄴を鎮守させた。夏四月、鄴県のひと張承基らが妖言を利用して(反乱勢力を)組織し、数千人の仲間を集めた。郡県が逮捕し、すべて誅殺した。六月戊戌、太尉である隴西王泰(司馬泰)が薨じた。秋八月、尚書の裴頠を尚書僕射とした。冬十一月甲子朔、日蝕がおきた。京師で大風があり、家屋を飛ばし樹木を折った。十二月壬戌、皇太子遹(司馬遹)を廃位して庶人とし、かれの三子を金墉城に幽閉し、太子の母である謝氏を殺した。
永康元年春正月癸亥朔、大赦、改元。己卯、日有蝕之。丙子、皇孫1.𧇃卒。二月丁酉、大風、飛沙拔木。三月、尉氏雨血、妖星見于南方。癸未、賈后矯詔害庶人遹于許昌。夏四月辛卯、日有蝕之。癸巳、梁王肜・趙王倫矯詔廢賈后為庶人、司空張華・尚書僕射裴頠皆遇害、侍中賈謐及黨與數十人皆伏誅。甲午、倫矯詔大赦、自為相國、都督中外諸軍、如宣文輔魏故事、追復故皇太子位。丁酉、以梁王肜為太宰、左光祿大夫何劭為司徒、右光祿大夫劉寔為司空、淮南王允為驃騎將軍。己亥、趙王倫矯詔害賈庶人于金墉城。五月己巳、立皇孫臧為皇太孫、尚為襄陽王。六月壬寅、葬愍懷太子于顯平陵。撫軍將軍清河王遐薨。癸卯、震崇陽陵標。
秋八月、淮南王允舉兵討趙王倫、不克、允及其二子秦王郁・漢王迪皆遇害。曲赦洛陽。平東將軍彭城王植薨。改封吳王晏為賓徒縣王。以齊王冏為平東將軍、鎮許昌。光祿大夫陳準為太尉・錄尚書事。九月、改司徒為丞相、以梁王肜為之。冬十月、黃霧四塞。十一月戊午、大風飛沙石、六日乃止。甲子、立皇后羊氏、大赦、大酺三日。十二月、彗星見于東方。益州刺史趙廞與2.(洛陽)〔略陽〕流人李庠害成都內史3.耿勝・4.犍為太守李密・汶山太守霍固・西夷校尉陳總、據成都反。
1.中華書局本によると、『晋書』愍懷太子傳は「虨」に作る。
2.中華書局本に従い、「洛陽」を「略陽」に改める。
3.「耿勝」は、『資治通鑑』巻八十三は「耿滕」に作る。『資治通鑑考異』によると、『晋書』李特載記及び『華陽国志』はどちらも「耿滕」に作るという。
4.『資治通鑑考異』によると、『華陽国志』に「犍為太守李苾・汶山太守楊邠」とあり、名が異なる。犍為太守は、『晋書』載記でも「李苾」に作り、この恵帝紀の誤りであろうという。
永康元年春正月癸亥朔、大赦し、改元す。己卯、日の之を蝕する有り。丙子、皇孫𧇃 卒す。二月丁酉、大風あり、沙を飛し木を拔く。三月、尉氏 血雨り、妖星 南方に見(あらは)る。癸未、賈后 詔を矯めて庶人遹を許昌に害す。夏四月辛卯、日の之を蝕する有り。癸巳、梁王肜・趙王倫 詔を矯めて賈后を廢して庶人と為し、司空張華・尚書僕射裴頠 皆 害に遇ひ、侍中賈謐及び黨與數十人 皆 誅に伏す。甲午、倫 詔を矯めて大赦し、自ら相國と為り、中外諸軍を都督すること、宣文輔魏故事の如くし、追て故皇太子の位を復す。丁酉、梁王肜を以て太宰と為し、左光祿大夫何劭もて司徒と為し、右光祿大夫劉寔もて司空と為し、淮南王允もて驃騎將軍と為す。己亥、趙王倫 詔を矯めて賈庶人を金墉城に害す。五月己巳、皇孫臧を立てて皇太孫と為し、尚もて襄陽王と為す。六月壬寅、愍懷太子を顯平陵に葬る。撫軍將軍清河王遐 薨ず。癸卯、崇陽陵の標を震はす。
秋八月、淮南王允 兵を舉げて趙王倫を討ち、克たず、允及び其の二子たる秦王郁・漢王迪 皆 害に遇ふ。洛陽に曲赦す。平東將軍たる彭城王植 薨ず。吳王晏を改封して賓徒縣王と為す。齊王冏を以て平東將軍と為し、許昌に鎮せしむ。光祿大夫陳準もて太尉・錄尚書事と為す。九月、司徒を改めて丞相と為し、梁王肜を以て之と為す。冬十月、黃霧 四塞す。十一月戊午、大風 沙石を飛し、六日にして乃ち止む。甲子、皇后羊氏を立て、大赦し、大酺すること三日。十二月、彗星 東方に見る。益州刺史の趙廞 略陽流人の李庠と與に成都內史耿勝・犍為太守李密・汶山太守霍固・西夷校尉陳總を害し、成都に據りて反す。
永康元(三〇〇)年春正月癸亥朔、大赦し、(永康と)改元した。己卯、日蝕がおきた。丙子、皇孫の𧇃(司馬虨)が卒した。二月丁酉、大風があり、砂を飛し木を倒した。三月、尉氏で血が降り、妖星が南方に現れた。癸未、賈后が詔を偽作して庶人遹(司馬遹)を許昌で殺害した。夏四月辛卯、日蝕がおきた。癸巳、梁王肜(司馬肜)・趙王倫(司馬倫)が詔を偽作して賈后を廃して庶人とし、司空の張華・尚書僕射の裴頠はどちらも殺害され、侍中の賈謐及び党与の数十人も全員が誅殺された。甲午、司馬倫が詔を偽造して大赦し、みずから相国となり、中外諸軍を都督するのは、宣帝や文帝が魏王朝を補弼した故事にならい、追って(故人の)もと皇太子(司馬遹)の位を回復させた。丁酉、梁王肜を太宰とし、左光禄大夫の何劭を司徒とし、右光禄大夫の劉寔を司空とし、淮南王允(司馬允)を驃騎将軍とした。己亥、趙王倫が詔を偽造して賈庶人を金墉城で殺害した。五月己巳、皇孫臧(司馬臧)を立てて皇太孫とし、司馬尚を襄陽王とした。六月壬寅、愍懷太子(司馬遹)を顕平陵に葬った。撫軍将軍である清河王遐(司馬遐)が薨じた。癸卯、崇陽陵の墓標が震えた。
秋八月、淮南王允(司馬允)兵を挙げて趙王倫(司馬倫)を討ったが、敗れて、司馬允及びその二子である秦王郁・漢王迪は全員が殺害された。洛陽で曲赦をした。平東将軍である彭城王植(司馬植)が薨じた。呉王晏(司馬晏)を改封して賓徒県王とした。斉王冏(司馬冏)を平東将軍とし、許昌を鎮守させた。光禄大夫の陳準を太尉・録尚書事とした。九月、司徒を改めて丞相とし、梁王肜をこれに任じた。冬十月、黄色の霧が四方を塞いだ。十一月戊午、大風が砂や石を飛ばし、六日でおさまった。甲子、皇后羊氏を立て、大赦し、三日間の宴飲をゆるした。十二月、彗星が東方に現れた。益州刺史の趙廞は略陽の流人である李庠とともに成都内史の耿勝・犍為太守の李密・汶山太守の霍固・西夷校尉の陳総を殺害し、成都城を拠点に反乱した。
永寧元年春正月乙丑、趙王倫篡帝位。丙寅、遷帝于金墉城、號曰太上皇、改金墉曰永昌宮。廢皇太孫臧為濮陽王。五星經天、縱橫無常。癸酉、倫害濮陽王臧。略陽流人李特殺趙廞、傳首京師。三月、1.平東將軍齊王冏起兵以討倫、傳檄州郡、屯于陽翟。征北大將軍成都王穎・征西大將軍河間王顒・常山王乂・2.豫州刺史李毅・兗州刺史王彥・南中郎將新野公歆、皆舉兵應之、眾數十萬。倫遣其將閭和出伊闕、張泓・孫輔出堮坂以距冏、孫會・士猗・許超出黃橋以距穎。及穎將趙驤・石超戰于湨水、會等大敗、棄軍走。閏月丙戌朔、日有蝕之。
夏四月、歲星晝見。冏將何勖・盧播擊張泓於陽翟、大破之、斬孫輔等。辛酉、左衞將軍王輿與尚書淮陵王漼勒兵入宮、禽倫黨孫秀・孫會・許超・士猗・駱休等、皆斬之。逐倫歸第、即日乘輿反正。羣臣頓首謝罪、帝曰、非諸卿之過也。癸亥、詔曰、朕以不德、纂承皇統、遠不能光濟大業、靖綏四方。近不能開明刑威、式遏姦宄、至使逆臣孫秀敢肆凶虐、窺間王室、遂奉趙王倫饕據天位。鎮東大將軍齊王冏・征北大將軍成都王穎・征西大將軍河間王顒、並以明德茂親、忠規允著、首建大策、匡救國難。尚書漼共立大謀、左衞將軍王輿與羣公卿士、協同謀略、親勒本營、斬秀及其二子。前趙王倫為秀所誤、與其子等已詣金墉、迎朕幽宮、旋軫閶闔。豈在予一人獨饗其慶、宗廟社稷實有賴焉。於是大赦、改元、孤寡賜穀五斛、大酺五日。誅趙王倫・義陽王威・九門侯質等及倫之黨與。
五月、立襄陽王尚為皇太孫。六月戊辰、大赦、增吏位二等。復封賓徒王晏為吳王。庚午、東萊王蕤・左衞將軍王輿謀廢齊王冏、事泄、蕤廢為庶人、輿伏誅、夷三族。甲戌、以齊王冏為大司馬・都督中外諸軍事、成都王穎為大將軍・錄尚書事、河間王顒為太尉。罷丞相、復置司徒官。己卯、以梁王肜為太宰、領司徒。封齊王冏功臣葛旟牟平公、3.路季小黃公、衞毅平陰公、劉真安鄉公、韓泰封丘公。
秋七月甲午、立吳王晏子4.國為漢王、復封常山王乂為長沙王。八月、大赦。戊辰、原徙邊者。益州刺史羅尚討羌、破之。己巳、徙南平王祥為宜都王。下邳王5.韡薨。以東平王6.(懋)〔楙〕為平東將軍、都督徐州諸軍事。九月、追東安王繇復其爵。7.丁丑、封楚王瑋子範為襄陽王。冬十月、流人李特反於蜀。十二月、8.司空何劭薨。封齊王冏子冰為樂安王、英為濟陽王、超為淮南王。是歲、郡國十二旱、六蝗。
1.中華書局本によると、「鎮東將軍」に作るべきである。
2.中華書局本によると、李毅の官職は、冀州刺史に作るべきである。『資治通鑑』巻八十四は、正しく冀州刺史に作っている。なお、当時の豫州刺史は何勖。
3.『晋書』司馬冏傳および『資治通鑑』巻八十四は、「路秀」に作る。
4.中華書局本によると、『晋書』武十三王傳は「國」を「固」に作る。
5.中華書局本によると、「韡」を「韓」に作る版本もある。
6.中華書局本に従い、「懋」を「楙」に改める。
7.中華書局本によると、丁丑は八月にめぐる干支であり、八月二十五日か。
8.中華書局本によると、「司空」は「太宰」に作るべきか。
永寧元年春正月乙丑、趙王倫 帝位を篡す。丙寅、帝を金墉城に遷し、號して太上皇と曰ひ、金墉を改めて永昌宮と曰ふ。皇太孫臧を廢して濮陽王と為す。五星 天を經(へ)、縱橫して常無し。癸酉、倫 濮陽王臧を害す。略陽流人の李特 趙廞を殺し、首を京師に傳ふ。三月、平東將軍たる齊王冏 起兵して以て倫を討たんとし、檄を州郡に傳へて、陽翟に屯す。征北大將軍たる成都王穎・征西大將軍たる河間王顒・常山王乂・豫州刺史李毅・兗州刺史王彥・南中郎將たる新野公歆、皆 兵を舉げて之に應じ、眾は數十萬なり。倫 其の將たる閭和を遣はして伊闕を出で、張泓・孫輔をして堮坂を出でて以て冏を距ぎ、孫會・士猗・許超 黃橋を出でて以て穎を距がしむ。穎の將たる趙驤・石超と湨水に戰ふに及ぶ、會等 大敗し、軍を棄てて走る。閏月丙戌朔、日の之を蝕する有り。
夏四月、歲星 晝に見る。冏の將たる何勖・盧播 張泓を陽翟に擊ち、大いに之を破り、孫輔等を斬る。辛酉、左衞將軍の王輿 尚書たる淮陵王漼と與に兵を勒して宮に入り、倫の黨たる孫秀・孫會・許超・士猗・駱休等を禽へ、皆 之を斬る。倫を逐ひて歸第せしめ、即日に輿に乘りて正に反す。羣臣 頓首して謝罪するも、帝曰く、「諸卿の過に非ざるなり」と。癸亥、詔して曰く、「朕 不德を以て、皇統を纂承するも、遠くは大業を光濟し、四方を靖綏する能はず。近くは刑威を開明し、姦宄を式遏する能はず、逆臣孫秀をして敢て凶虐を肆にし、王室を窺間し、遂に趙王倫を奉りて天位に饕據せしむに至る。鎮東大將軍たる齊王冏・征北大將軍たる成都王穎・征西大將軍たる河間王顒、並びに明德を以て茂親たり、忠規は允著にして、首めて大策を建て、國難を匡救す。尚書漼 共に大謀を立て、左衞將軍の王輿 羣公卿士と與に、謀略を協同し、親(みづか)ら本營を勒し、秀及び其の二子を斬る。前の趙王倫 秀が為に誤る所、其の子等と與に已に金墉に詣りて、朕を幽宮に迎へ、軫を閶闔に旋す。豈に予一人に在りて獨り其の慶を饗くるのみならんや、宗廟社稷 實に焉に賴ること有り」と。是に於て大赦し、改元し、孤寡に穀五斛を賜ひ、大酺すること五日。趙王倫・義陽王威・九門侯質等及び倫の黨與を誅す。
五月、襄陽王尚を立てて皇太孫と為す。六月戊辰、大赦し、吏に位を增すこと二等。復た賓徒王晏を封じて吳王と為す。庚午、東萊王蕤・左衞將軍王輿 齊王冏を廢せんと謀り、事 泄れ、蕤 廢して庶人と為り、輿 誅に伏し、三族を夷せらる。甲戌、齊王冏を以て大司馬・都督中外諸軍事と為し、成都王穎もて大將軍・錄尚書事と為し、河間王顒もて太尉と為す。丞相を罷め、復た司徒の官を置く。己卯、梁王肜を以て太宰と為し、司徒を領せしむ。齊王冏の功臣たる葛旟もて牟平公、路季もて小黃公、衞毅もて平陰公、劉真もて安鄉公、韓泰もて封丘公に封ず。
秋七月甲午、吳王晏の子國を立てて漢王と為し、復た常山王乂を封じて長沙王と為す。八月、大赦す。戊辰、邊に徙す者を原(ゆる)す。益州刺史羅尚 羌を討ちて、之を破る。己巳、南平王祥を徙して宜都王と為す。下邳王韡 薨ず。東平王楙を以て平東將軍と為し、徐州諸軍事を都督せしむ。九月、追ひて東安王繇もて其の爵を復す。丁丑、楚王瑋の子範を封じて襄陽王と為す。冬十月、流人の李特 蜀に於いて反す。十二月、司空何劭 薨ず。齊王冏の子冰を封じて樂安王と為し、英もて濟陽王と為し、超もて淮南王と為す。是の歲、郡國十二に旱あり、六に蝗あり。
永寧元(三〇一)年春正月乙丑、趙王倫(司馬倫)帝位を簒奪した。丙寅、恵帝を金墉城に遷し、称号を太上皇とし、金墉城を改称して永昌宮とした。皇太孫臧(司馬臧)を廃して濮陽王とした。五星が天を横切り、縦横に不規則に動いた。癸酉、司馬倫が濮陽王臧を殺害した。略陽の流人である李特が趙廞を殺し、首を京師に届けた。三月、平東将軍(正しくは鎮東将軍)である斉王冏(司馬冏)が起兵して司馬倫を討伐しようとし、檄を州郡に回付し、陽翟に駐屯した。征北大将軍である成都王穎(司馬穎)・征西大将軍である河間王顒(司馬顒)・常山王乂(司馬乂)・豫州刺史(正しくは冀州刺史)の李毅・兗州刺史の王彦・南中郎将である新野公歆(司馬歆)は、みな兵を挙げてこれに呼応し、軍勢は数十万となった。司馬倫は部将の閭和を派遣して伊闕から出て、張泓・孫輔には堮坂から出て司馬冏を食い止め、孫会・士猗・許超は黄橋から出て司馬冏を食い止めさせた。司馬穎の部将である趙驤・石超は湨水で戦うことになり、孫会らが大敗し、軍を棄てて逃げた。閏月丙戌朔、日蝕がおきた。
夏四月、歳星(木星)が昼に現れた。司馬冏の部将である何勖・盧播は(司馬倫の部将である)張泓を陽翟で攻撃し、おおいに打ち破り、孫輔らを斬った。辛酉、左衛将軍の王輿は尚書である淮陵王漼(司馬漼)とともに兵をひきいて宮殿に入り、司馬倫の党与である孫秀・孫会・許超・士猗・駱休らを捕らえ、全員を斬った。司馬倫を追放して邸宅に帰らせ、同日に(恵帝が)輿に乗って帝位を回復した。群臣は頓首して謝罪したが、恵帝は、「きみたちの過失ではない」と言った。癸亥、詔して、「朕は不徳ながら、皇統を継承したが、遠くは大いなる事業を輝かせ、天下を安定させられなかった。近くは刑罰を適切に執行し、奸悪なものを制止できず、逆臣孫秀に好き勝手に凶悪をはたらかせ、王室の隙を窺い、(孫秀が)趙王倫を天子の位に祭りあげるに至った。鎮東大将軍である斉王冏・征北大将軍である成都王穎・征西大将軍である河間王顒は、いずれも明徳をそなえた近親であり、忠心が明らかであり、率先して優れた計画を立て、国難を救済した。尚書の司馬漼はともに計画をねり、左衛将軍の王輿は群臣とともに、謀略に協力し、みずから営兵をひきい、孫秀及びその二子を斬った。前の趙王である倫は孫秀に誤らされたのであり、その子らとともに金墉城をおとずれ、朕を幽閉された宮殿から迎え、馬車を閶闔(皇宮)に差し向けた。どうして予一人(わたし)だけがこの恩恵を受けたのであろうか、宗廟と社稷が助けられたのである」と言った。ここにおいて大赦し、(永寧と)改元し、孤寡(独身と未亡人)に穀五斛を賜わり、五日間おおいに饗宴をさせた。趙王倫(司馬倫)・義陽王威(司馬威)・九門侯質(司馬質)ら及び司馬倫の党与を誅殺した。
五月、襄陽王尚(司馬尚)を皇太孫に立てた。六月戊辰、大赦し、吏の位を二等ずつ進めた。ふたたび賓徒王晏(司馬晏)を呉王に封建した。庚午、東萊王蕤(司馬蕤)・左衛将軍の王輿は斉王冏(司馬冏)を廃除しようと考えたが、計画がもれ、司馬蕤は廃されて庶人とされ、王輿は誅殺され、夷三族とされた。甲戌、斉王冏を大司馬・都督中外諸軍事とし、成都王穎(司馬穎)を大将軍・録尚書事とし、河間王顒(司馬顒)を太尉とした。丞相(という官位の設置)をやめ、司徒の官位を置いた。己卯、梁王肜(司馬肜)を太宰とし、司徒を領(兼任)させた。斉王冏の功臣である葛旟を牟平公、路季を小黄公、衛毅を平陰公、劉真を安郷公、韓泰を封丘公に封建した。
秋七月甲午、呉王晏の子である司馬国(もしくは司馬固)を立てて漢王とし、常山王乂(司馬乂)を長沙王に復位させた。八月、大赦した。戊辰、辺境への徙刑を受けたものをゆるした。益州刺史の羅尚が羌族を討ち、破った。己巳、南平王祥(司馬祥)を徙して宜都王とした。下邳王韡(司馬韡)が薨じた。東平王楙(司馬楙)を平東将軍とし、徐州諸軍事を都督させた。九月、追って東安王繇(司馬繇)の爵位を回復した。丁丑、楚王瑋の子である司馬範を襄陽王に封建した。冬十月、流人の李特が蜀で反乱した。十二月、司空(太宰か)の何劭が薨じた。斉王冏の子である司馬冰を封じて楽安王とし、司馬英を済陽王とし、司馬超を淮南王とした。この年、十二の郡国で日照り、六つの郡国で蝗害があった。
太安元年春正月庚子、安東將軍譙王隨薨。三月癸卯、赦司・冀・兗・豫四州。皇太孫尚薨。夏四月、彗星晝見。五月乙酉、侍中・太宰・領司徒梁王肜薨。以右光祿大夫劉寔為太傅。太尉河間王顒遣將衙博擊李特於蜀、為特所敗。特遂陷梓潼・巴西、1.害廣漢太守張微、自號大將軍。癸卯、以清河王遐子覃為皇太子、賜孤寡帛、大酺五日。以齊王冏為太師、東海王越為司空。
秋七月、兗・豫・徐・冀等四州大水。冬十月、地震。十二月丁卯、河間王顒表齊王冏窺伺神器、有無君之心、與成都王穎・新野王歆・范陽王虓同會洛陽、請廢冏還第。長沙王乂奉乘輿屯南止車門、攻冏、殺之、幽其諸子于金墉城、廢冏弟北海王寔。大赦、改元。以長沙王乂為太尉、都督中外諸軍事。封2.(東萊侯)〔東萊王〕蕤子炤為齊王。
二年春3.正月甲子朔、赦五歲刑。4.三月、李特攻陷益州。荊州刺史5.宋岱擊特、斬之、傳首京師。夏四月、特子雄復據益州。五月、義陽蠻張昌舉兵反、以山都人丘沈為主、改姓劉氏、偽號漢、建元神鳳、攻破郡縣。南陽太守劉彬・平南將軍羊伊・鎮南大將軍新野王歆並遇害。六月、遣荊州刺史劉弘等討張昌于方城、王師敗績。
秋七月、中書令卞粹・侍中馮蓀・河南尹李含等貳於長沙王乂、乂疑而害之。張昌陷江南諸郡、武陵太守賈隆・零陵太守孔紘・豫章太守閻濟・武昌太守劉根皆遇害。昌別帥石冰寇揚州、刺史陳徽與戰、大敗、諸郡盡沒。臨淮人封雲舉兵應之、自阜陵寇徐州。八月、河間王顒・成都王穎舉兵討長沙王乂、帝以乂為大都督、帥軍禦之。庚申、劉弘及張昌戰於清水、斬之。顒遣其將張方、穎遣其將陸機・牽秀・石超等來逼京師。乙丑、帝幸十三里橋、遣將軍皇甫商距方于宜陽。己巳、帝旋軍于宣武場。庚午、舍于石樓。天中裂、無雲而雷。九月丁丑、帝次于河橋。壬午、皇甫商為張方所敗。甲申、帝軍于芒山。丁亥、幸偃師。辛卯、舍于豆田。癸巳、尚書右僕射6.興晉侯羊玄之卒、帝旋于城東。丙申、進軍緱氏、擊牽秀、走之。大赦。張方入京城、燒清明・開陽二門、死者萬計。石超逼乘輿于緱氏。
冬十月壬寅、帝旋于宮。石超焚緱氏、服御無遺。丁未、破牽秀・范陽王虓于東陽門外。戊申、破陸機于建春門、石超走、斬其大將7.賈崇等十六人、懸首銅駝街。張方退屯十三里橋。十一月辛巳、星晝隕、聲如雷。王師攻方壘、不利。方決千金堨、水碓皆涸。乃發王公奴婢手舂給兵廩、一品已下不從征者、男子十三以上皆從役。又發奴助兵、號為四部司馬。公私窮踧、米石萬錢。詔命所至、一城而已。
8.〔十二月〕壬寅夜、赤氣竟天、隱隱有聲。丙辰、地震。癸亥、東海王越執長沙王乂、幽於金墉城、尋為張方所害。9.甲子、大赦。丙寅、揚州秀才周玘・10.前南平內史王矩・前吳興內史顧祕起義軍以討石冰。冰退、自臨淮趣壽陽。征東將軍劉準遣廣陵度支陳敏擊冰。11.李雄自郫城攻益州刺史羅尚、尚委城而遁、雄盡有成都之地。封鮮卑段勿塵為遼西公。
1.中華書局本によると、張微の殺害は、『華陽国志』巻八・『資治通鑑』巻八十四では八月としており、この恵帝紀が五月としているのは誤りという。『晋書』李特載記は「張微」を「張徴」に作る。
2.中華書局本に従い、「東萊侯」を「東萊王」に改める。
3.中華書局本によると、この年は正月乙亥朔のため、恵帝紀は誤り。
4.中華書局本によると、『資治通鑑』巻八十五は益州の陥落を正月、李特を斬ったのを二月とする。恵帝紀はどちらも三月としており、異なる。
5.「宋岱」は、中華書局本によると、『晋書』羅尚傳・郭舒傳・孫旂傳と『資治通鑑』巻八十五はいずれも「宗岱」に作るという。
6.中華書局本によると「興晉侯」は羊玄之傳に従い「興晉公」に作るべきである。
7.「賈崇」は、陸機傳は「賈棱」に作る。
8.中華書局本によると、この年は十二月庚子朔なので、壬寅は十二月三日となる。後ろに丙辰の記事があるが、この出来事を『晋書』五行志下では、十二月としていることも傍証となるという。指摘に従い、「十二月」三字を補う。
9.『資治通鑑』巻八十五は、大赦を永康元年(翌年)に繋ぐ。甲子は、正月二十六日である。『資治通鑑考異』によると、恵帝紀にある「太安二年十二月甲子大赦」と「永興元年正月大赦改元」は、一回の出来事を重複して載せた疑いがあるという。
10.中華書局本によると、二人の「内史」があるが、『晋書』王矩傳及び周玘傳はどちらも「太守」に作っている。晋代の制度では、郡を国とし、内史は民政を治め、太守と同じような役割があった。国を除いて郡とすると、内史は太守に戻された。歴史叙述の混乱の一例であり、他にも例が多いが、いちいち指摘しないとしている。
11.『華陽国志』巻八・『資治通鑑』巻八十五は、これを等しく閏十二月としている。月の記述に脱落があるか。
太安元(三〇二)年春正月庚子、安東將軍たる譙王隨 薨ず。三月癸卯、司・冀・兗・豫四州を赦す。皇太孫尚 薨ず。夏四月、彗星 晝に見る。五月乙酉、侍中・太宰・領司徒たる梁王肜 薨ず。右光祿大夫劉寔を以て太傅と為す。太尉河間王顒 將衙博を遣はして李特を蜀に擊ち、特の敗る所と為る。特 遂に梓潼・巴西を陷し、廣漢太守張微を害し、自ら大將軍を號す。癸卯、清河王遐の子たる覃を以て皇太子と為し、孤寡に帛を賜り、大酺すること五日。齊王冏を以て太師と為し、東海王越もて司空と為す。
秋七月、兗・豫・徐・冀等四州に大水あり。冬十月、地震あり。十二月丁卯、河間王顒 表して齊王冏は神器を窺伺し、無君の心有れば、成都王穎・新野王歆・范陽王虓と與に同に洛陽に會し、冏を廢して還第せしめんことを請ふ。長沙王乂 乘輿を奉りて南止車門に屯し、冏を攻め、之を殺し、其の諸子を金墉城に幽し、冏の弟たる北海王寔を廢す。大赦し、改元す。長沙王乂を以て太尉と為し、中外諸軍事を都督せしむ。東萊王蕤の子炤を封じて齊王と為す。
二年春正月甲子朔、五歲刑を赦す〔一〕。三月、李特 攻めて益州を陷す。荊州刺史宋岱 特を擊ちて、之を斬り、首を京師に傳ふ。夏四月、特の子たる雄 復た益州に據る。五月、義陽蠻張昌 兵を舉げて反し、山都人の丘沈を以て主と為し、姓を劉氏と改め、偽りに漢と號し、神鳳と建元し、郡縣を攻破す。南陽太守劉彬・平南將軍羊伊・鎮南大將軍たる新野王歆 並びに害に遇ふ。六月、荊州刺史劉弘等を遣はして張昌を方城に討ち、王師 敗績す。
秋七月、中書令卞粹・侍中馮蓀・河南尹李含等 長沙王乂に貳(に)あり、乂 疑ひて之を害す。張昌 江南諸郡を陷し、武陵太守賈隆・零陵太守孔紘・豫章太守閻濟・武昌太守劉根 皆 害に遇ふ。昌の別帥たる石冰 揚州を寇し、刺史陳徽 戰ひて、大敗し、諸郡 盡く沒す。臨淮人封雲 兵を舉げて之に應じ、阜陵自り徐州を寇す。八月、河間王顒・成都王穎 兵を舉げて長沙王乂を討ち、帝 乂を以て大都督と為し、軍を帥ゐて之を禦ぐ。庚申、劉弘及び張昌 清水に戰ひ、之を斬る。顒 其の將張方を遣はし、穎 其將の陸機・牽秀・石超等を遣はして來りて京師に逼らしむ。乙丑、帝 十三里橋に幸し、將軍皇甫商を遣はして方を宜陽に距ぐ。己巳、帝 軍を宣武場に旋す。庚午、石樓に舍す。天中 裂け、雲無くして雷なる。九月丁丑、帝 河橋に次る。壬午、皇甫商 張方の敗る所と為る。甲申、帝 芒山に軍す。丁亥、偃師に幸す。辛卯、豆田に舍す。癸巳、尚書右僕射たる興晉侯羊玄之 卒し、帝 城東に旋す。丙申、軍を緱氏に進め、牽秀を擊ち、之を走らす。大赦す。張方 京城に入り、清明・開陽二門を燒き、死者 萬を計ふ。石超 乘輿に緱氏に于いて逼る。
冬十月壬寅、帝 宮に旋す。石超 緱氏を焚き、服御 遺(のこ)る無し。丁未、牽秀・范陽王虓を東陽門外に破る。戊申、陸機を建春門に破り、石超 走り、其の大將賈崇等十六人を斬り、首を銅駝街に懸く。張方 退きて十三里橋に屯す。十一月辛巳、星 晝に隕ち、聲は雷が如し。王師 方壘を攻め、利あらず。方 千金堨を決し、水碓 皆 涸る。乃ち王公奴婢を發し手づから舂(つ)きて兵廩を給せしめ、一品已下の征に從はざる者は、男子十三以上 皆 役に從はしむ。又 奴を發して兵を助けしめ、號して四部司馬と為す。公私 窮踧し、米は石ごとに萬錢なり。詔命 至る所、一城なるのみ。
十二月壬寅夜、赤氣 天に竟り、隱隱として聲有り。丙辰、地震あり。癸亥、東海王越 長沙王乂を執へ、金墉城に幽し、尋いで張方の害する所と為る。甲子、大赦す。丙寅、揚州秀才の周玘・前の南平內史王矩・前の吳興內史顧祕 義軍を起して以て石冰を討つ。冰 退き、臨淮自り壽陽に趣く。征東將軍劉準 廣陵度支陳敏を遣はして冰を擊たしむ。李雄 郫城自り益州刺史羅尚を攻め、尚 城を委てて遁げ、雄 盡く成都の地を有つ。鮮卑の段勿塵を封じて遼西公と為す。
〔一〕『三国志』巻二 文帝紀に「犯五歲刑已下、皆原除之」とある。これと同じ施策で、五年以下の刑を受けるべき罪を犯したものを赦免したということか。
太安元(三〇二)年春正月庚子、安東将軍である譙王随(司馬随)が薨じた。三月癸卯、司・冀・兗・豫四州で赦免をした。皇太孫尚(司馬尚)が薨じた。夏四月、彗星が昼に現れた。五月乙酉、侍中・太宰・領司徒である梁王肜(司馬肜)が薨じた。右光録大夫の劉寔を太傅とした。太尉である河間王顒(司馬顒)は部将の衙博を派遣して李特を蜀に攻撃し、李特に破られた。李特はついに梓潼・巴西を陥落させ、広漢太守の張微を殺害し、自ら大将軍を号した。癸卯、清河王遐の子である覃(司馬覃)を皇太子とし、孤児や未亡人に帛を賜り、五日間の宴飲をゆるした。斉王冏(司馬冏)を太師とし、東海王越(司馬越)を司空とした。
秋七月、兗・豫・徐・冀ら四州で洪水がおきた。冬十月、地震がおきた。十二月丁卯、河間王顒(司馬顒)が上表するには斉王冏(司馬冏)は神器を(わがものにせんと)窺い、君主を蔑ろにする心があるため、成都王穎・新野王歆・范陽王虓とともに洛陽に集まり、司馬冏の官爵を剥奪し邸宅に帰らせなさいと求めた。長沙王乂(司馬乂)は恵帝の乗輿を奉り(玉体を確保して)南止車門にとどまり、司馬冏を攻めて、これを殺し、その諸子を金墉城に幽閉し、司馬冏の弟である北海王寔(司馬寔)を廃位した。大赦し、(太安と)改元した。長沙王乂を太尉とし、中外諸軍事を都督させた。東萊王蕤の子炤(司馬炤)を封建して斉王とした。
太安二(三〇三)年春正月甲子朔、五歳(以下の)刑を赦免した。三月、李特を攻めて益州を陥落させた。荊州刺史の宋岱は李特を撃って、これを斬り、首を京師に提出した。夏四月、李特の子である李雄がふたたび益州を占拠した。五月、義陽蛮の張昌が兵を挙げて反乱し、山都人の丘沈を首領とし、姓を劉氏と改め、偽りに漢と号し、神鳳という年号を立て、郡県を攻め破った。南陽太守の劉彬・平南将軍の羊伊・鎮南大将軍である新野王歆(司馬歆)はいずれも殺害された。六月、荊州刺史の劉弘らを派遣して張昌を方城で討ったが、王師(晋王朝の軍)は敗績した。
秋七月、中書令の卞粹・侍中の馮蓀・河南尹の李含らは長沙王乂(司馬乂)に二心を抱いており、司馬乂は疑って彼らを殺害した。張昌は江南諸郡を陥落させ、武陵太守の賈隆・零陵太守の孔紘・豫章太守の閻済・武昌太守の劉根はみな殺害された。張昌の別帥(別軍)である石冰が揚州を侵略し、(揚州)刺史の陳徽が戦って、大敗し、諸郡は尽く落とされた。臨淮人の封雲は兵を挙げてこれに呼応し、阜陵から徐州に入寇した。八月、河間王顒・成都王穎が兵を挙げて長沙王乂を討ったが、恵帝は司馬乂を大都督とし、軍をひきいて彼ら(司馬顒・司馬穎)を防がせた。庚申、劉弘及び張昌は清水で戦い、これを斬った。司馬顒はその部将である張方を遣わし、司馬穎はその部将である陸機・牽秀・石超らを遣わして洛陽に接近させた。乙丑、恵帝は十三里橋に行幸し、将軍の皇甫商を遣わして李方を宜陽で食い止めた。己巳、恵帝は軍を宣武場に返した。庚午、石楼で停泊した。天のなかほどが裂け、雲はないが雷が鳴った。九月丁丑、恵帝は河橋に停泊した。壬午、皇甫商が張方に破られた。甲申、恵帝は芒山に進軍した。丁亥、偃師に行幸した。辛卯、豆田に停泊した。癸巳、尚書右僕射である興晋侯(正しくは興晋公)の羊玄之が亡くなり、恵帝は城東に軍をもどした。丙申、軍を緱氏に進め、牽秀を撃ち、これを敗走させた。大赦した。張方が京城に入り、清明・開陽二門を焼き、死者は万を数えた。(司馬穎の部将である)石超は乗輿(恵帝)に緱氏で肉迫した。
冬十月壬寅、恵帝は宮殿に向かった。石超は緱氏(の城)を焼き、衣服や器物は残らなかった。丁未、牽秀・范陽王虓(司馬虓)を東陽門外で破った。戊申、陸機を建春門で破り、石超は逃走し、その大将である賈崇ら十六人を斬り、首を銅駝街に掛けた。張方は退いて十三里橋に駐屯した。十一月辛巳、星が昼に墜落し、雷のような音がした。王師(恵帝の軍)が方塁を攻めたが、戦果がなかった。張方は千金堨を決壊させ、水車を動かす水が枯れた。そこで王公奴婢を動員して人力で(穀物を)臼でついて兵糧を供給させ、一品以下で従軍していない者は、男子は十三歳以上の全員を軍役に従わせた。さらに奴隷を動員して自軍の助けとし、(部隊の名を)四部司馬と号した。官民は窮迫し、米は石ごとに万銭となった。(恵帝の)詔命に通じるところは、一城だけとなった。
十二月壬寅夜、赤気が天を横切り、ぼんやり音が鳴った。丙辰、地震がおきた。癸亥、東海王越(司馬越)が長沙王乂(司馬乂)を捕らえ、金墉城に幽閉したが、すぐに張方に殺害された。甲子、大赦した。丙寅、揚州秀才の周玘・前の南平内史である王矩・前の吳興内史である顧秘が義軍を起こして石冰を討った。冰は退き、臨淮より寿陽に向かった。征東将軍の劉準が広陵度支の陳敏を遣わして石冰を撃った。李雄は郫城から益州刺史の羅尚を攻め、羅尚は城を棄てて逃げ、李雄は成都全域を領有した。鮮卑の段勿塵を封建して遼西公とした。
永興1.元年春正月丙午、尚書令樂廣卒。成都王穎自鄴諷于帝、乃大赦、改元為永安。帝逼于河間王顒、密詔雍州刺史劉沈・秦州刺史皇甫重以討之。沈舉兵攻長安、為顒所敗。張方大掠洛中、還長安。於是軍中大餒、人相食。以成都王穎為丞相。穎遣從事中郎成夔等以兵五萬屯十二城門、殿中宿所忌者、穎皆殺之、以三部兵代宿衞。二月乙酉、廢皇后羊氏、幽于金墉城、黜皇太子覃復為清河王。
三月、陳敏攻石冰、斬之、揚徐二州平。河間王顒表請立成都王穎為太弟。戊申、詔曰、朕以不德、纂承鴻緒、于茲十有五載。禍亂滔天、姦逆仍起、至乃幽廢重宮、宗廟圮絕。成都王穎溫仁惠和、克平暴亂。其以穎為皇太弟、都督中外諸軍事、丞相如故。大赦、賜鰥寡高年帛三匹、大酺五日。丙辰、盜竊太廟服器。以太尉顒為太宰、太傅劉寔為太尉。六月、新作三城門。
秋七月丙申朔、右衞將軍陳眕以詔召百僚入殿中、因勒兵討成都王穎。戊戌、大赦、復皇后羊氏及皇太子覃。己亥、司徒王戎・東海王越・2.高密王簡・平昌公模・吳王晏・豫章王熾・襄陽王範・右僕射荀藩等奉帝北征。至安陽、眾十餘萬、穎遣其將石超距戰。己未、六軍敗績于蕩陰、矢及乘輿、百官分散、侍中嵇紹死之。帝傷頰、中三矢、亡六璽。帝遂幸超軍、餒甚、超進水、左右奉秋桃。超遣弟熙奉帝之鄴、穎帥羣官迎謁道左。帝下輿涕泣、其夕幸于穎軍。穎府有九錫之儀、陳留王送貂蟬文衣鶡尾、明日、乃備法駕幸于鄴。唯豫章王熾・司徒王戎・僕射荀藩從。3.(庚辰)〔庚申〕、大赦、改元為建武。八月戊辰、穎殺東安王繇。張方復入洛陽、廢皇后羊氏及皇太子覃。匈奴左賢王劉元海反於離石、自號大單于。安北將軍王浚遣烏丸騎攻成都王穎于鄴、大敗之。穎與帝單車走洛陽、服御分散、倉卒上下無齎、侍中黃門被囊中齎私錢三千、詔貸用。所在買飯以供、宮人止食于道中客舍。宮人有持升餘粇米飯及燥蒜鹽豉以進帝、帝噉之、御中黃門布被。次獲嘉、市粗米飯、盛以瓦盆、帝噉兩盂。有老父獻蒸鷄、帝受之。至溫、將謁陵、帝喪履、納從者之履、下拜流涕、左右皆歔欷。及濟河、張方帥騎三千、以陽燧青蓋車奉迎。方拜謁、帝躬止之。辛巳、大赦、賞從者各有差。
冬十一月乙未、方請帝謁廟、因劫帝幸長安。方以所乘車入殿中、帝馳避後園竹中。方逼帝升車、左右中黃門鼓吹十二人步從、唯中書監盧志侍側。方以帝幸其壘、帝令方具車載宮人寶物。軍人因妻略後宮、分爭府藏。魏晉已來之積、掃地無遺矣。行次新安、寒甚、帝墮馬傷足、尚書高光進面衣、帝嘉之。河間王顒帥官屬步騎三萬、迎于霸上。顒前拜謁、帝下車止之。以征西府為宮。唯僕射荀藩・司隸劉暾・太常鄭球・河南尹周馥與其遺官在洛陽、為留臺、承制行事、號為東西臺焉。4.丙午、留臺大赦、改元復為永安。辛丑、復皇后羊氏。李雄僭號成都王、劉元海僭號漢王。
十二月丁亥、詔曰、天禍晉邦、冢嗣莫繼。成都王穎自在儲貳、政績虧損、四海失望、不可承重、其以王還第。豫章王熾先帝愛子、令問日新、四海注意、今以為皇太弟、以隆我晉邦。以司空越為太傅、與太宰顒夾輔朕躬。司徒王戎參錄朝政、光祿大夫王衍為尚書左僕射。安南將軍虓・5.安北將軍(濬)〔浚〕・平北將軍騰各守本鎮。高密王簡為鎮南將軍、領司隸校尉、權鎮洛陽。東中郎將模為寧北將軍、都督冀州、鎮于鄴。鎮南大將軍劉弘領荊州、以鎮南土。周馥・繆胤各還本部、百官皆復職。齊王冏前應還第、長沙王乂輕陷重刑、6.封其子紹為樂平縣王、以奉其嗣。自頃戎車屢征、勞費人力、供御之物皆減三分之二、戶調田租三分減一。蠲除苛政、愛人務本。清通之後、當還東京。大赦、改元。以河間王顒都督中外諸軍事。
1.『世説新語』所引『晋陽秋』によると、樂廣(楽広)は、成都王が起兵し長沙王と対立したときに憂死したといい、時期が異なる。『晋書』樂廣傳も同じ。『資治通鑑考異』所引『晋春秋』によると、成都王が(前年の)太安二年七月に起兵し、八月に楽広が自裁したという。なお太安二年八月には「丙午」はめぐってこない。
2.『資治通鑑』巻八十五は「高密王略」に作る。『資治通鑑考異』によると、『晋書』宗室伝に、高密王の司馬略は字を元簡とあり、字が取り違えられたという。『晋書』劉暾傳も司馬簡とあるが、同じ誤りが疑われるという。
3.中華書局本に従い、七月丙申朔であることから、「庚辰」を「庚申」に改める。
4.十一月の条のなかで、「丙午」が「辛丑」よりも前にあるのは誤り。十一月は十一月乙未朔なので、丙午は十二日、辛丑は七日である。
5.中華書局本に従い、字を改める。
6.『晋書』司馬冏傳によると、永興初、三人の子が赦されたが、司馬超・司馬冰・司馬英であり、司馬超を縣王とし、司馬冏の祭祀を継承させた。「超」と「紹」は同一人物あり、「超」に作るべきという。
永興元年春正月丙午、尚書令樂廣 卒す。成都王穎 鄴自り帝に諷し、乃ち大赦し、改元して永安と為す。帝 河間王顒に逼られ、密かに雍州刺史劉沈・秦州刺史皇甫重に詔して以て之を討たしむ。沈 兵を舉げて長安を攻め、顒の敗る所と為る。張方 大いに洛中を掠し、長安に還る。是に於いて軍中 大いに餒(う)え、人 相 食す。成都王穎を以て丞相と為す。穎 從事中郎成夔等を遣はして兵五萬を以て十二城門に屯し、殿中の宿(もと)より忌む所の者、穎 皆 之を殺し、三部の兵を以て宿衞に代ふ。二月乙酉、皇后羊氏を廢し、金墉城に幽し、皇太子覃を黜けて復た清河王と為す。
三月、陳敏 石冰を攻め、之を斬り、揚徐二州 平らぐ。河間王顒 表して成都王穎を立てて太弟と為すことを請ふ。戊申、詔して曰く、「朕 不德を以て、鴻緒を纂承し、茲まで十有五載なり。禍亂 滔天し、姦逆 仍りに起き、乃ち重宮に幽廢せられ、宗廟 圮絕するに至る。成都王穎 溫仁にして惠和なり、克く暴亂を平らぐ。其れ穎を以て皇太弟と為せ、都督中外諸軍事、丞相たること故に如し」と。大赦し、鰥寡高年ごとに帛三匹を賜ひ、大酺すること五日。丙辰、太廟の服器を盜竊せらる。太尉顒を以て太宰と為し、太傅劉寔もて太尉と為す。六月、新たに三城門を作る。
秋七月丙申朔、右衞將軍陳眕 詔を以て百僚を召し殿中に入らしめ、因りて兵を勒して成都王穎を討つ。戊戌、大赦し、皇后羊氏及び皇太子覃を復す。己亥、司徒王戎・東海王越・高密王簡・平昌公模・吳王晏・豫章王熾・襄陽王範・右僕射の荀藩ら帝を奉じて北征す。安陽に至り、眾は十餘萬、穎 其の將たる石超を遣はし距戰す。己未、六軍 蕩陰に敗績し、矢は乘輿に及び、百官 分散し、侍中嵇紹 之に死す。帝 頰を傷つけ、三矢を中て、六璽を亡ふ。帝 遂に超の軍に幸し、餒えは甚しく、超 水を進め、左右 秋桃を奉る。超 弟の熙を遣はして帝を奉じて鄴に之かしめ、穎 羣官を帥ゐて迎へて道左に謁す。帝 輿を下りて涕泣し、其の夕 穎の軍に幸す。穎が府に九錫の儀有り〔一〕、陳留王 貂蟬文衣鶡尾を送り、明日、乃ち法駕を備へて鄴に幸す。唯だ豫章王熾・司徒王戎・僕射の荀藩のみ從ふ。庚申、大赦し、改元して建武と為す。八月戊辰、穎 東安王繇を殺す。張方 復た洛陽に入り、皇后羊氏及び皇太子覃を廢す。匈奴左賢王劉元海 離石に反し、自ら大單于を號す。安北將軍王浚 烏丸騎を遣はして成都王穎を鄴に攻め、大いに之を敗る。穎 帝と單車もて洛陽に走るに、服御 分散し、倉卒にして上下 齎(もたら)すもの無く、侍中黃門 被囊の中に私錢三千のみを齎(もたら)し、詔して貸用す。所在に飯を買ひて以て供し、宮人 道中の客舍に止食す。宮人 升餘の粇米飯及び燥蒜鹽豉を持する有りて以て帝に進め、帝 之を噉(くら)ひ、中黃門の布被を御す。獲嘉に次り、粗米飯を市(か)ひ、盛るに瓦盆を以てし、帝 兩盂を噉ふ。老父の蒸鷄を獻ずる有り、帝 之を受く。溫に至り、將に陵に謁せんとし、帝 履を喪ひ、從者の履を納れ、下拜して流涕し、左右 皆 歔欷す。河を濟(わた)るに及びて、張方 騎三千を帥ゐ、陽燧青蓋車を以て奉迎す。方 拜謁し、帝 躬ら之を止(とど)む。辛巳、大赦し、從者を賞して各々差有り。
冬十一月乙未、方 帝に謁廟を請ひ、因りて帝を劫して長安に幸せしむ。方 乘る所の車を以て殿中に入り、帝 馳せて後園竹中に避く。方 帝に逼りて車に升らしめ、左右中黃門の鼓吹十二人 步もて從ひ、唯だ中書監盧志のみ側に侍る。方 帝を以て其の壘に幸せしめ、帝 方をして車を具へて宮人寶物を載せしむ。軍人 因りて妻として後宮を略し、分けて府藏を爭ふ。魏晉已來の積、地を掃きて遺る無し。新安に行次し、寒さ甚しく、帝 馬を墮ちて足を傷つけ、尚書高光 面衣を進め、帝 之を嘉す。河間王顒 官屬步騎三萬を帥ゐ、霸上に迎ふ。顒 前に拜謁し、帝 下車して之を止む。征西府を以て宮と為す。唯だ僕射荀藩・司隸劉暾・太常鄭球・河南尹周馥のみ其の遺官と與に洛陽に在り、留臺を為し、承制行事し、號して東西臺と為す。丙午、留臺は大赦し、改元して復た永安と為ふ。辛丑、皇后羊氏を復す。李雄 成都王と僭號し、劉元海 漢王と僭號す。
十二月丁亥、詔して曰く、「天 晉邦に禍ひして、冢嗣 繼ぐ莫し。成都王穎 儲貳に在りて自り、政績は虧損し、四海は失望し、重を承く可からず、其れ王たるを以て第に還せ。豫章王熾 先帝の愛子なり、令問 日に新しく、四海 意を注げば、今 以て皇太弟と為し、以て我が晉邦を隆にせよ。司空越を以て太傅と為し、太宰顒と與に朕の躬を夾輔せよ。司徒の王戎 朝政に參錄し、光祿大夫の王衍もて尚書左僕射と為せ。安南將軍虓・安北將軍浚・平北將軍騰 各々本鎮を守れ〔二〕。高密王簡もて鎮南將軍と為し、司隸校尉を領し、權(かり)に洛陽に鎮せ。東中郎將模もて寧北將軍と為し、冀州を都督し、鄴に鎮せ。鎮南大將軍劉弘もて荊州を領し、以て南土を鎮せ。周馥・繆胤 各々本部に還り、百官 皆 職に復せ。齊王冏 前に應に第に還すべきも、長沙王乂 輕もて重刑に陷す、其の子紹を封じて樂平縣王と為し、以て其の嗣を奉ぜよ。自頃 戎車 屢々征し、人力を勞費す、供御の物 皆 三分の二を減じ、戶調田租 三分して一を減ぜよ。苛政を蠲除し、人を愛し本に務めよ。清通の後、當に東京に還るべし」と。大赦し、改元す。河間王顒を以て都督中外諸軍事とす。
〔一〕長谷川注:成都王穎伝によれば、成都王はこれ以前に二度、九錫を賜わっているものの、二度とも辞退しており、以降、九錫授与の文言は見えない。成都王が皇太弟に立てられたとき、同時に「制度一依魏武故事」とされているが、あるいはこれが九錫のことを指しているのかもしれない。
〔二〕長谷川注:范陽王は都督豫州諸軍事(許昌)、王浚は都督幽州諸軍事、東嬴公は都督并州諸軍事。
永興元(三〇四)年春正月丙午、尚書令の楽広が卒した。成都王穎(司馬穎)が鄴から恵帝に指図し、大赦し、永安と改元した。恵帝は河間王顒(司馬顒)に圧迫されたので、密かに雍州刺史の劉沈・秦州刺史の皇甫重に詔してこれ(司馬顒)を討伐させた。劉沈は兵を挙げて長安を攻めたが、司馬顒に敗れた。張方が大いに洛中で略奪し、長安に引き上げた。こうして軍中は大いに餓え、人は食らいあった。成都王穎を丞相とした。司馬穎は従事中郎の成夔らを遣わして兵五万を以て十二城門に守り、殿中で(司馬穎が)以前から嫌っていたものを、司馬穎が皆殺しにし、三部の兵を宿衛に交替させた。二月乙酉、皇后羊氏を廃し、金墉城に幽閉し、皇太子覃(司馬覃)を退けて清河王にもどした。
三月、陳敏が石冰を攻め、これを斬り、揚州と徐州が平穏になった。河間王顒が上表して成都王穎を太弟に立てよと求めた。戊申、詔して曰く、「朕は不徳ながら、皇統を継承し、今年で十五年である。禍乱が天に届くほどみなぎり、姦逆なやつらが頻繁に起こり、宮殿深くに幽閉され、宗廟を崩壊させてしまった。成都王穎は温和で恵み深い人物であり、暴乱を平定できる。そこで司馬穎を皇太弟とせよ、都督中外諸軍事、丞相は従来通りとする」と言った。大赦し、独身者と高齢者に帛三匹ずつを賜り、五日の宴飲をゆるした。丙辰、太廟に備えた服器が盗難された。太尉の司馬顒を太宰とし、太傅の劉寔を太尉とした。六月、新たに三つの城門を作った。
秋七月丙申朔、右衛将軍の陳眕が詔により百僚を召して殿中に入らせ、兵を整えて成都王穎(司馬穎)を討伐することにした。戊戌、大赦し、皇后羊氏及び皇太子覃(司馬覃)を復位させた。己亥、司徒の王戎・東海王越(司馬越)・高密王簡(司馬簡)・平昌公模(司馬模)・呉王晏(司馬晏)・豫章王熾(司馬熾)・襄陽王範(司馬範)・右僕射の荀藩らが恵帝を奉じて北征(に参加)した。安陽に至り、軍勢は十余万、司馬穎は部将の石超を遣はして応戦した。己未、六軍(天子の軍)は蕩陰で敗退し、矢が乗輿に及び、百官は分散し、侍中の嵇紹がこのとき死んだ。恵帝はほおを傷つけられ、三矢が命中し、六璽を紛失した。恵帝は結局は石超の軍に移ったが、飢餓がひどく、石超が水を進め、左右のものが秋桃を奉った。石超の弟の石熙を派遣して恵帝をつれて鄴県に向かわせ、司馬穎は群官をひきいて(恵帝を)迎えて道の左で謁見した。恵帝は輿を下りて泣き、その日の夕方に司馬穎の軍に行った。司馬穎の幕府には九錫の備物があったが、陳留王は貂蟬や文衣と鶡尾(ありあわせの衣冠か)を贈り、翌日、法駕(天子の格式を備えた車駕)を整えて鄴に行幸した。ただ豫章王熾(司馬熾)・司徒の王戎・僕射の荀藩のみが従った。庚申、大赦し、改元して建武とした。八月戊辰、司馬穎は東安王繇(司馬繇)を殺した。張方がふたたび洛陽に入り、皇后羊氏及び皇太子覃を廃位した。匈奴左賢王の劉元海が離石で反乱し、自ら大単于と号した。安北将軍の王浚は烏丸騎兵を遣わして成都王穎を鄴で攻撃し、おおいに(司馬穎を)破った。司馬穎は恵帝とともに単独の馬車で洛陽に逃げたが、服飾品は分散し、突然の移動なので部下たちは必要なものを持たず、侍中や黄門が衣服のふくろに私物の三千銭だけを持っていたので、詔により借用した。各地で食事を買って飯を買って提供し、宮人は道中の宿舎で泊まって食べた。宮人には一升余りの糠や米および乾いた蒜や塩豆を持っているひとがいたので恵帝に進上し、恵帝はこれを食べ、中黄門が布をかぶせた。獲嘉に停泊し、粗悪な米を買い、瓦の盆に盛りつけ、恵帝は二杯を食べた。老父が蒸鷄を献上すると、恵帝はこれを受け取った。温県に至り、祖先の陵墓に賛拝しようとしたが、恵帝はくつを失っており、従者のくつをはき、拝礼して流涕し、左右も皆すすり泣いた。黄河の渡河点までくると、張方が騎三千をひきい、陽燧をそなえた青蓋車を用意して奉迎した。張方が拝謁したが、恵帝は自らこれを制止した。辛巳、大赦し、従者を賞してそれぞれ差等があった。
冬十一月乙未、張方は謁廟せよと要請し、恵帝を連れ去って長安に行かせた。張方は馬車に乗ったまま殿中に入り、恵帝は後園の竹林のなかで(張方を)避けた。張方は恵帝に逼って馬車に乗せ、左右の中黄門や鼓吹といった十二人が徒歩で従い、ただ中書監の盧志だけが側に侍った。張方は恵帝を自分の防塁に連れてきて、恵帝は張方に馬車を手配させて宮人や宝物を載せた。軍人は後宮で女性を略奪し、官庫の貯蔵品を分捕った。魏晋以来の蓄積は、地を掃いて何も残らなかった。新安に停泊したとき、寒さがひどく、恵帝は落馬して足をけがしたが、尚書の高光が面衣を差し出し(手当したので)、恵帝は喜んだ。河間王顒(司馬顒)は官属と歩騎三万をひきい、霸上で恵帝を迎えた。司馬顒は進み出て拝謁したが、恵帝は馬車を下りて制止した。征西(大将軍)府を行宮とした。ただ僕射の荀藩・司隸の劉暾・太常の鄭球・河南尹の周馥だけが彼らの部下の残りとともに洛陽にいて、留台(留守政府)とし、政務を代行し、東西台といった。丙午、留台は大赦し、改元して永安にもどした。辛丑、皇后羊氏を復位した。李雄が成都王と僭号し、劉元海(劉淵)が漢王と僭号した。
十二月丁亥、詔して、「天は晋王朝に禍いをもたらし、嫡長子(司馬遹)が継がなかった。成都王穎が皇太弟になってから、政治は毀損され、四海は失望し、重任に堪えないから、(皇太弟から)王にもどして邸宅に帰らせよ。豫章王熾(司馬熾)先帝の愛子であり、名声が日々更新され、四海から注目されているから、いま皇太弟とする、わが晋王朝を盛んにせよ。司空の司馬越を太傅とし、太宰の司馬顒とともに朕の身を両脇から支えよ。司徒の王戎を朝政を参録させ、光禄大夫の王衍を尚書左僕射とせよ。安南将軍の司馬虓・安北将軍の王浚・平北将軍の司馬騰はそれぞれ持ち場を守れ。高密王簡(司馬簡)を鎮南将軍とし、司隸校尉を領し、かりに洛陽を鎮守させよ。東中郎将の司馬模を寧北将軍とし、冀州を都督し、鄴に出鎮するように。鎮南大将軍の劉弘に荊州を領させ、南方の地域を鎮護せよ。周馥・繆胤はもとの部署に還り、百官はみな職務に復帰せよ。斉王冏(司馬冏)は前に邸宅に帰すのが適切(な処罰)であったが、長沙王乂(司馬乂)が軽い過ちに対して重刑を加えたから、その子の紹(司馬紹、もしくは司馬超)を封じて楽平県王とし、後嗣とするように。近ごろ兵車がしばしば出征し、人民を疲弊させた、朝廷への献上品はみな三分の二を減らし、戸調田租(民衆の税)は三分の一を減らせ。苛政を排除し、人民を愛し本来の務めを果たせ。落ち着いた後、東京(洛陽)に還都する」と言った。大赦し、改元した。河間王顒(司馬顒)を都督中外諸軍事とした。
二年春正月甲午朔、帝在長安。夏四月、詔封樂平王1.紹為齊王。丙子、張方廢皇后羊氏。六月甲子、侍中・司徒安豐侯王戎薨。隴西太守韓稚攻秦州刺史張輔、殺之。李雄僭卽帝位、國號蜀。
秋七月甲午、尚書諸曹火、燒崇禮闥。東海王越嚴兵徐方、將西迎大駕。成都王穎部將公師藩等聚眾攻陷郡縣、害陽平太守李志・汲郡太守張延等、轉攻鄴、平昌公模遣將軍趙驤擊破之。2.八月辛丑、大赦。驃騎將軍范陽王虓逐冀州刺史李義。揚州刺史曹武殺丹楊太守朱建。李雄遣其將李驤寇漢安。車騎大將軍劉弘逐平南將軍彭城王釋于宛。九月庚寅朔、公師藩又害平原太守王景・清河太守馮熊。庚子、豫州刺史劉喬攻范陽王虓於許昌、敗之。壬子、以成都王穎為鎮軍大將軍、都督河北諸軍事、鎮鄴。河間王顒遣將軍呂朗屯洛陽。
冬十月丙子、詔曰、得豫州刺史劉喬檄、稱潁川太守劉輿迫脅驃騎將軍虓、距逆詔令、造構凶逆、擅劫郡縣、合聚兵眾、擅用苟晞為兗州、斷截王命。鎮南大將軍・荊州刺史劉弘、平南將軍彭城王釋等、其各勒所統、徑會許昌、與喬并力。今遣右將軍張方為大都督、統精卒十萬。建武將軍呂朗・廣武將軍騫貙・建威將車刁默等為軍前鋒、共會許昌、除輿兄弟。丁丑、使前車騎將軍石超・北中郎將王闡討輿等。赤氣見于北方、東西竟天。有星孛于北斗。平昌公模遣將軍宋冑等屯河橋。十一月、立節將軍周權詐被檄、自稱平西將軍、復皇后羊氏。洛陽令何喬攻權、殺之、復廢皇后。
十二月、呂朗等東屯滎陽、成都王穎進據洛陽、張方・劉弘等並桉兵不能禦。范陽王虓濟自官渡、拔滎陽、斬石超。襲許昌、破劉喬于蕭、喬奔南陽。右將軍陳敏舉兵反、自號楚公。矯稱被中詔、從沔漢奉迎天子、逐揚州刺史劉機・丹楊太守3.王曠。遣弟恢南略江州、刺史應邈奔弋陽。
1.中華書局本によると、「紹」は「超」に作るべきである。
2.中華書局本によると、辛丑は七月にめぐってくる日付である。
3.『晋書』陳敏傳は、「王曠」を「王廣」に作る。
二年春正月甲午朔、帝 長安に在り。夏四月、詔して樂平王紹を封じて齊王と為す。丙子、張方 皇后羊氏を廢す。六月甲子、侍中・司徒たる安豐侯王戎 薨ず。隴西太守韓稚 秦州刺史張輔を攻め、之を殺す。李雄 僭して帝位に卽き、國は蜀と號す。
秋七月甲午、尚書の諸曹 火(や)け、崇禮闥を燒く。東海王越 兵を徐方に嚴(ととの)へ、將に西のかた大駕を迎へんとす。成都王穎の部將公師藩等 眾を聚めて攻めて郡縣を陷し、陽平太守李志・汲郡太守張延等を害し、轉じて鄴を攻むるも、平昌公模 將軍趙驤を遣はして之を擊破す。八月辛丑、大赦す。驃騎將軍たる范陽王虓 冀州刺史李義を逐ふ。揚州刺史曹武 丹楊太守朱建を殺す。李雄 其の將李驤を遣はして漢安を寇す。車騎大將軍劉弘 平南將軍彭城王釋を宛に逐ふ〔一〕。九月庚寅朔、公師藩 又 平原太守王景・清河太守馮熊を害す。庚子、豫州刺史劉喬 范陽王虓を許昌に攻め、之を敗る。壬子、成都王穎を以て鎮軍大將軍と為し、河北諸軍事を都督し、鄴に鎮せしむ。河間王顒 將軍呂朗を遣はして洛陽に屯せしむ。
冬十月丙子、詔して曰く、「豫州刺史劉喬の檄を得るに、稱すらく潁川太守劉輿 驃騎將軍虓を迫脅し、詔令に距逆し、凶逆を造構し、郡縣を擅劫し、兵眾を合聚し、擅に苟晞を用て兗州と為し、王命を斷截す。鎮南大將軍・荊州刺史劉弘、平南將軍彭城王釋等、其の各々統ぶる所を勒し、徑に許昌に會し、喬と力を并はせよ。今 右將軍張方を遣はして大都督と為し、精卒十萬を統めしむ。建武將軍呂朗・廣武將軍騫貙・建威將車刁默等もて軍の前鋒と為し、共に許昌に會し、輿兄弟を除け」と。丁丑、前車騎將軍石超・北中郎將王闡をして輿等を討たしむ。赤氣 北方に見はれ、東西 天に竟る。星孛 北斗に有り。平昌公模 將軍宋冑等を遣はして河橋に屯せしむ。十一月、立節將軍周權 檄を被ると詐はり、平西將軍を自稱し、皇后羊氏を復す。洛陽令何喬 權を攻め、之を殺し、復た皇后を廢す。
十二月、呂朗等 東のかた滎陽に屯し、成都王穎 進みて洛陽に據る、張方・劉弘等 並びに兵を桉じて禦ぐ能はず。范陽王虓 官渡自り濟り〔二〕、滎陽を拔き、石超を斬る。許昌を襲ひ、劉喬を蕭に破り、喬 南陽に奔る。右將軍陳敏 兵を舉げて反し、自ら楚公と號す。矯めて中詔を被ると稱し、沔漢從り天子を奉迎せんとし、揚州刺史劉機・丹楊太守王曠を逐ふ。弟の恢を遣はして南のかた江州を略し、刺史應邈 弋陽に奔る。
〔一〕長谷川注:詳しい経緯は不明。『資治通鑑考異』はこの記事の信憑性に疑念を表している。
〔二〕長谷川注:范陽王は九月に許昌で劉喬に破れたあと、黄河を北に渡り、領冀州刺史となって、冀州で兵を調達してから南に戻ったとされる。宗室伝・范陽康王綏伝附虓伝を参照。とすれば、ここで官渡から黄河を渡り、滎陽に進むというルートはやや不自然に思われる。『資治通鑑』は「引兵済河、斬石超於滎陽」と、官渡を省いている。
永興二(三〇五)年春正月甲午朔、恵帝は長安にいた。夏四月、詔して楽平王紹(司馬紹、正しくは司馬超)を封建して斉王とした。丙子、張方が皇后羊氏を廃位した。六月甲子、侍中・司徒である安豊侯の王戎が薨じた。隴西太守の韓稚が秦州刺史の張輔を攻め、これを殺した。李雄が僭称して帝位につき、国号を蜀とした。
秋七月甲午、尚書の諸曹(各署)が出火し、崇礼闥が焼けた。東海王越(司馬越)が兵を徐州でととのえ、西方にゆき大駕(恵帝)を迎えようとした。成都王穎(司馬穎)の部将である公師藩らは軍勢をあつめて郡県を攻略し、陽平太守の李志・汲郡太守の張延らを殺害し、転じて鄴を攻めたが、平昌公模(司馬模)が将軍の趙驤を送り込んでこれを撃破した。八月辛丑、大赦した。驃騎将軍である范陽王虓(司馬虓)が冀州刺史の李義を追放した。揚州刺史の曹武が丹楊太守の朱建を殺した。李雄はその部将である李驤を派遣して漢安を侵略した。車騎大将軍の劉弘は平南将軍である彭城王釈(司馬釈)を宛で追放した。九月庚寅朔、公師藩はさらに平原太守の王景・清河太守の馮熊を殺害した。庚子、豫州刺史の劉喬は范陽王虓を許昌で攻め、これを破った。壬子、成都王穎を鎮軍大将軍とし、河北諸軍事を都督し、鄴に出鎮させた。河間王顒(司馬顒)は将軍の呂朗を遣わして洛陽に駐屯させた。
冬十月丙子、詔して、「豫州刺史の劉喬の檄を入手したが、言うには潁川太守の劉輿は驃騎將軍である司馬虓を脅迫し、詔令に違反し、凶逆なことを計画し、郡県をほしいままに略奪し、軍勢をかきあつめ、かってに苟晞を兗州(刺史)とし、王命を断ち切ってしまったという。鎮南大将軍・荊州刺史の劉弘と、平南将軍である彭城王釈(司馬釈)らは、それぞれ配下をひきいて、ただちに許昌に集合し、劉喬と力を合わせるように。いま右将軍の張方を遣わして大都督とし、精鋭十万を統率させる。建武将軍の呂朗・広武将軍の騫貙・建威将軍の刁黙らを軍の前鋒とし、ともに許昌に集合して、劉輿の兄弟を除くように」と言った。丁丑、前の車騎将軍である石超・北中郎将の王闡に劉輿らを討伐させた。赤気が北方に現れ、東西の天を横切った。星孛が北斗に出現した。平昌公模(司馬模)は将軍の宋冑らを遣わして河橋に駐屯させた。十一月、立節将軍の周権が(恵帝の)檄を受け取ったと偽り、平西将軍を自称し、皇后羊氏を復位すると唱えた。洛陽令の何喬が周権を攻め、これを殺し、ふたたび皇后を廃位した。
十二月、呂朗らは東にすすみ滎陽に駐屯し、成都王穎(司馬穎)は進んで洛陽を拠点にしたが、張方・劉弘らは兵を動かさず(敵の進出を)防げなかった。范陽王虓(司馬虓)が官渡からわたり、滎陽を抜き、石超を斬った。許昌を襲い、劉喬を蕭で破り、劉喬は南陽に出奔した。右将軍の陳敏が兵を挙げて反し、楚公を自号した。(陳敏は恵帝から)詔勅を受け取ったと偽り、沔水や漢水の流域から天子を奉戴しようとし、揚州刺史の劉機・丹楊太守の王曠を放逐した。弟の陳恢を派遣して南のかた江州を攻略し、(江州)刺史の應邈は弋陽に逃走した。
光熙元年春正月戊子朔、日有蝕之。帝在長安。河間王顒聞劉喬破、大懼、遂殺張方、請和于東海王越、越不聽。宋冑等破穎將1.樓裒、進逼洛陽、穎奔長安。2.甲子、越遣其將祁弘・宋冑・司馬纂等迎帝。三月、東萊㡉令劉柏根反、自稱㡉公、襲臨淄、高密王簡奔聊城。王浚遣將討柏根、斬之。
夏四月己巳、東海王越屯于溫。顒遣弘農太守彭隨・北地太守刁默距祁弘等于湖。五月、枉矢西南流。范陽國地燃、可以爨。壬辰、祁弘等與刁默戰、默大敗、3.顒・穎走南山、奔于宛。弘等所部鮮卑大掠長安、殺二萬餘人。是日、日光四散、赤如血。甲午又如之。己亥、弘等奉帝還洛陽、帝乘牛車、行宮藉草、公卿跋涉。戊申、驃騎范陽王虓殺司隸校尉邢喬。己酉、盜取太廟金匱及策文各四。六月丙辰朔、至自長安、升舊殿、哀感流涕。謁于太廟。復皇后羊氏。辛未、大赦、改元。
秋七月乙酉朔、日有蝕之。太廟吏賈苞盜太廟靈衣及劍、伏誅。八月、以太傅東海王越錄尚書・驃騎將軍、范陽王虓為司空。九月、頓丘太守馮嵩執成都王穎、送之于鄴。進東嬴公騰爵為東燕王、平昌公模為南陽王。冬十月、司空范陽王虓薨。虓長史劉輿害成都王穎。十一月庚午、帝崩于顯陽殿、時年四十八、葬太陽陵。
帝之為太子也、朝廷咸知不堪政事、武帝亦疑焉。嘗悉召東宮官屬、使以尚書事令太子決之、帝不能對。賈妃遣左右代對、多引古義。給事張泓曰、太子不學、陛下所知。今宜以事斷、不可引書。妃從之。泓乃具草、令帝書之。武帝覽而大悅、太子遂安。及居大位、政出羣下、綱紀大壞、貨賂公行、勢位之家、以貴陵物、忠賢路絕、讒邪得志、更相薦舉、天下謂之互市焉。高平王沈作釋時論、南陽魯褒作錢神論、廬江4.杜嵩作任子春秋、皆疾時之作也。帝又嘗在華林園、聞蝦蟆聲、謂左右曰、此鳴者為官乎、私乎。或對曰、在官地為官、在私地為私。」及天下荒亂、百姓餓死、帝曰、何不食肉糜。其蒙蔽皆此類也。後因食䴵中毒而崩、或云司馬越之鴆。
1.「樓裒」は、『晋書』河間王顒傳、『資治通鑑』巻八十六は「樓褒」に作る。
2.中華書局本によると、甲子は正月にめぐって来ない。
3.『晋書』司馬顒傳及び『資治通鑑』巻八十六は、どちらも司馬顒が単馬で太白山に入ったとする。『晋書』司馬顒傳は、司馬穎は華陰より武関に行ったとする。中華書局本によると、司馬顒と司馬穎は、異なる道を逃げたのであり、恵帝紀本文の「穎」は衍字が疑われる。
4.『晋書』杜夷傳は「杜崧」に作る。
光熙元年春正月戊子朔、日の之を蝕する有り。帝 長安に在り。河間王顒 劉喬の破らるるを聞き、大いに懼れ、遂に張方を殺し、和を東海王越に請ふも、越 聽さず。宋冑等 穎の將たる樓裒を破り、進みて洛陽に逼り、穎 長安に奔る。甲子、越 其の將祁弘・宋冑・司馬纂等を遣はして帝を迎ふ。三月、東萊に㡉令の劉柏根 反し、㡉公を自稱し、臨淄を襲ひ、高密王簡 聊城に奔る。王浚 將を遣はして柏根を討ち、之を斬る。
夏四月己巳、東海王越 溫に屯す。顒 弘農太守彭隨・北地太守刁默を遣はして祁弘等を湖に距がしむ。五月、枉矢 西南に流る。范陽國にて地 燃え、以て爨ぐ可し。壬辰、祁弘等 刁默と戰ひ、默 大敗し、顒・穎 南山に走り、宛に奔る。弘等の部する所の鮮卑 大いに長安を掠し、二萬餘人を殺す。是の日、日光 四散し、赤きこと血の如し。甲午 又 之の如し。己亥、弘等 帝を奉じて洛陽に還るに、帝 牛車に乘り、行宮は草を藉(し)き、公卿 跋涉す。戊申、驃騎たる范陽王虓 司隸校尉の邢喬を殺す。己酉、盜みて太廟の金匱及び策文各四を取る。六月丙辰朔、長安自り至り、舊殿に升り、哀感流涕す。太廟に謁す。皇后羊氏を復す。辛未、大赦し、改元す。
秋七月乙酉朔、日の之を蝕する有り。太廟吏賈苞 太廟の靈衣及び劍を盜み、誅に伏す。八月、太傅たる東海王越を以て錄尚書・驃騎將軍とし、范陽王虓 司空と為る。九月、頓丘太守馮嵩 成都王穎を執へ、之を鄴に送る。東嬴公騰の爵を進めて東燕王と為し、平昌公模もて南陽王と為す。冬十月、司空たる范陽王虓 薨ず。虓の長史劉輿 成都王穎を害す。十一月庚午、帝 顯陽殿に崩じ、時に年四十八、太陽陵に葬る。
帝の太子と為りしとき、朝廷 咸 政事に堪へざるを知り、武帝 亦 焉を疑ふ。嘗て悉く東宮の官屬を召し、尚書の事を以て太子に令して之を決せしめ、帝 能く對へず。賈妃 左右を遣はして代はりて對へしめ、多く古義を引く。給事張泓曰く、「太子の不學、陛下 知る所なり。今 宜しく事を以て斷ずるに、書を引く可からず」と。妃 之に從ふ。泓 乃ち具草して、帝をして之を書かしむ。武帝 覽じて大いに悅び、太子 遂に安たり。大位に居るに及び、政は羣下より出で、綱紀 大いに壞れ、貨賂 公行し、勢位の家、貴を以て物を陵(しの)ぎ、忠賢 路に絕え、讒邪 志を得、更に相 薦舉し、天下 之を互市と謂ふ。高平の王沈 釋時論を作り、南陽の魯褒 錢神論を作り、廬江の杜嵩 任子春秋を作り、皆 時を疾(や)むの作なり。帝 又 嘗て華林園に在り、蝦蟆の聲を聞き、左右に謂ひて曰く、「此の鳴く者は官為るか、私たるか」と。或 對へて曰く、「官地に在らば官為り、私地に在れば私為り」と。天下 荒亂するに及び、百姓 餓死し、帝曰く、「何ぞ肉糜を食はざるや」と。其の蒙蔽 皆 此の類ひなり。後に因りて䴵を食ひ毒に中りて崩ず、或 司馬越の鴆なると云ふ。
光熙元(三〇六)年春正月戊子朔、日蝕がおきた。恵帝は長安にいた。河間王顒(司馬顒)は劉喬の敗北を聞き、大いに懼れ、とうとう張方を殺し、東海王越(司馬越)に和睦を求めたが、司馬越は受諾しなかった。宋冑らは司馬穎の部将である楼裒を破り、進んで洛陽に接近し、司馬穎は長安に逃れた。甲子、司馬越はその部将である祁弘・宋冑・司馬纂らを派遣して恵帝を迎えた。三月、東萊で㡉令である劉柏根が反乱し、㡉公を自称し、臨淄を襲い、高密王簡(司馬簡)は聊城に逃れた。王浚は部将を遣わして柏根を討ち、これを斬った。
夏四月己巳、東海王越(司馬越)が温に駐屯した。司馬顒は弘農太守の彭隨・北地太守の刁黙を派遣して祁弘らを湖で食い止めさせた。五月、枉矢(星名)が西南に流れた。范陽国で地面が燃えあがり、煮炊きができた。壬辰、祁弘らは刁黙と戦い、刁黙は大敗し、司馬顒・司馬穎は南山に走り、宛に逃げ出した。祁弘らがひきいる鮮卑が長安で大規模な略奪をし、二万余人を殺した。この日、日光が四方に散じ、血のように赤かった。甲午にもまた同じ現象があった。己亥、祁弘らは恵帝を奉じて洛陽に還ったが、恵帝は牛車に乗り、かりの御所は草を敷物にし、公卿は徒歩であった。戊申、驃騎将軍である范陽王虓(司馬虓)が司隸校尉の邢喬を殺した。己酉、太廟の金匱及び策文が四つずつ盗み取られた。六月丙辰朔、長安より到着し、もとの宮殿に登り、哀しみ震えて涙を流した。太廟に謁した。皇后羊氏を復位した。辛未、大赦し、(光熙と)改元した。
秋七月乙酉朔、日蝕がおきた。太廟吏の賈苞は太廟から霊衣及び剣を盗んだとして、誅殺された。八月、太傅である東海王越(司馬越)を録尚書事・驃騎将軍とし、范陽王虓(司馬虓)が司空となった。九月、頓丘太守の馮嵩が成都王穎(司馬穎)を捕らえ、かれを鄴に送り届けた。東嬴公騰(司馬騰)の爵位を進めて東燕王とし、平昌公模(司馬模)を南陽王とした。冬十月、司空である范陽王虓が薨じた。司馬虓の長史である劉輿は成都王穎を殺害した。十一月庚午、恵帝は顕陽殿で崩じ、時に四十八歳、太陽陵に葬られた。
恵帝が太子となったとき、朝廷はみな政務に堪える器量がないと分かっており、武帝もまた怪しんでいた。かつて全ての東宮の官属を召し(太子への入れ知恵をふせぎ)、尚書の事案について太子に決裁をさせたが、恵帝は答えられなかった。賈妃は近侍者を派遣して代わりに答えさせ、多く古典から引用をした。給事の張泓が、「太子の無学は、陛下もご存知です。いま決裁の文書を作るとき、古典を引用してはいけません(代作が露見します)」と行った。賈妃はこれに従った。張泓が作文をして、恵帝に書き写させた。武帝はこれを見て大いに悦び、太子としての地位が安定した。皇位に登ると、政治判断は部下がおこない、綱紀がおおいに壊れ、賄賂が公然とおこなわれ、権勢をもつ高官の家は、富裕さで周囲を圧倒し、忠賢な人物は路に絶え、讒言をする邪悪な人物が志を得て、さらに互いに推薦しあい、天下はこの状況を互市といった。高平の王沈は『釈時論』を作り、南陽の魯褒は『銭神論』を作り、廬江の杜嵩は『任子春秋』を作り、いずれも当世を批判した著作である。恵帝はかつて華林園におり、蝦蟆(がま)の声を聞き、近臣に、「この鳴き声は官のものか、私(し)のものか」と言った。あるものが答えて、「官有地にいるものは官です、私有地にいるものは私です」と答えた。天下が荒廃して乱れると、百姓は餓死したが、恵帝は、「どうして肉がゆを食べないのか」と言った。その馬鹿さ加減はこの調子であった。のちに餅を食べて毒にあたって崩じたが、あるいは司馬越が盛った鴆毒ともいう。
史臣曰、不才之子、則天稱大、權非帝出、政邇宵人。褒姒共叔帶並興、襄后與犬戎俱運。昔者、丹朱不肖、赧王逃責、相彼凶德、事關休咎、方乎土梗、以墜其情。溽暑之氣將闌、淫鼃之音罕記、乃彰嗤笑、用符顛隕。豈通才俊彥、猶形于前代、增淫助虐、獨擅于當今者歟。物號忠良、于茲拔本、人稱祅孽、自此疏源。長樂不祥、承華非命、生靈版蕩、社稷丘墟。古者敗國亡身、分鑣共軫、不有亂常、則多庸暗。豈明神喪其精魄、武皇不知其子也。
贊曰、惠皇居尊、臨朝聽言。厥體斯昧、其情則昏。高臺望子、長夜奚寃。金墉毀冕、蕩陰釋冑。及爾皆亡、滔天來遘。
史臣曰く、不才の子、天に則りて大を稱すも、權 帝より出づること非ず、政は宵人を邇(ちか)づく。褒姒 叔帶と共に並び興り、襄后 犬戎と運を俱にす〔一〕。昔者、丹朱 不肖たりて、赧王 責(をい)を逃れ、彼の凶德を相(み)れば、事は休咎に關はり、土梗に方(なら)べば、以て其の情に墜つ。溽暑の氣 將に闌(たけ)らんとし、淫鼃の音 罕(まれ)に記すも、乃ち彰はして嗤笑せられ、用て顛隕に符ふ。豈に通才俊彥もて、猶ほ前代に形はるるも、淫を增し虐を助くること、獨り當今に擅なるか。物の忠良と號するは、茲に本を拔き、人の祅孽と稱するは、此自り源を疏(とほ)す。長樂 不祥にして、承華 非命なり、生靈 版蕩し、社稷 丘墟たり。古者の國を敗りて身を亡し、鑣を分ちて軫を共にするは、亂常に有らずんば、則ち多くは庸暗なり。豈に明神 其の精魄を喪ひて、武皇 其の子を知らざらんか。
贊に曰く、惠皇 尊に居り、朝に臨みて言を聽く。厥の體は斯に昧く、其の情は則ち昏し。高臺に子を望み、長夜に奚ぞ寃なるといふ。金墉に冕を毀ち、蕩陰に冑を釋く。爾に及び皆 亡し、滔天 來り遘(あ)ふ。
〔一〕周の襄王は、東周の君主。異母弟の叔帯が、異民族と結んで襄王に対抗をした。のちに襄后(襄王の妻、翟后)も、襄王と対立すると、叔帯を推戴して周王にしようとした。この文は、周の襄王のときの記述であり、周の幽王の后であった褒姒のみ時代が異なる。なお襄王は晋の文公に助けられた(『史記』巻四 周本紀)。
史臣が言うには、才能なき子(恵帝)は、天の意向を受けて皇位を称したが、自ら決断することはなく、政治は小人(しようじん)を寄せ付けた。褒姒(周幽王の后)は叔帯(周襄王の異父弟)と同じように栄え、襄后(周襄王の后、翟后)は犬戎(異民族)と命運をともにし(王権を脅かし)た。むかし、丹朱(尭の子)は不肖であって(ゆえに尭はわが子でなく舜に君位を譲り)、周の赧王は責務をのがれ(周王朝を滅亡させ)たが、これらの失格者を参照するに、こと(後継者選び)は吉凶にかかわり、泥人形(のような不適任者を選ぶ)ならば、その私情によって王権は失墜する。高温多湿の気が満ちてきた季節の、蛙の鳴き声の逸話は(通常ならば)記録されないにも拘わらず、明記されて嘲笑をあつめたが、これは(王権の)転落に符合している。才能のある賢者が、前代(武帝期)に頭角を現したが、権力濫用や暴虐が、どうして当今(恵帝期)にだけ歯止めが利かなくなったのか。忠良とされる人物は、ここでは本来の役割を果たさず、怪しげで不祥とされる連中が、このときから力の源を得た。長楽宮(皇太后権力)は王朝を祝福せず、承華(朝廷の厩舎、軍事力)は制御不能であり、諸勢力が入り乱れ、社稷は廃墟となってしまった。国を破り身を滅ぼし、くつわを分けて軫(車の横木)を共にした(彷徨った)いにしえの例をみるに、(君主が)異常者でないなら、多くは庸暗さ(道理に暗く愚かなこと)が原因である。なぜ神のような判断力を失い、武皇帝はわが子を見誤ったのであろうか。
賛に言うには、恵皇帝は尊位におり、朝廷に出席して発言を聴いた。(ところが)その素質は蒙昧であり、その性格は暗愚であった。高台から子を望み(わが子、司馬遹の区別がつかず)、長夜に官僚(の蛙)だろうかと質問した。金墉城で冕冠を壊し(帝位を廃され)、蕩陰で甲冑を解いた(敗戦を喫した)。ここに及んで全員が滅亡し、天に達するほどの戦乱が到来した。