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- 小島毅『中国思想と宗教の奔流』第1章
五代十国の概要について、抜粋する。
小島毅『中国の歴史07/中国思想と宗教の奔流』講談社 2005
ぼくの頭のなかと、漢字変換辞書へのインストール。
755年、安史の乱
天宝14年(755) 11月、安禄山が「楊国忠を誅殺する」と幽州で挙兵。12月、洛陽を陥れた。翌年6月、玄宗は長安をはなれ、四川ににげる。
安禄山は殺され、史思明が実権をもつ。唐軍は、至徳2年(757)、長安を奪回。代宗の宝応2年(763)、鎮定した。以後、大唐は140年つづくが、衰弱する。
780年、楊炎による両税法。戸と土地資産に課税する。安禄山の部下が降伏して、節度使に任じられたのは、河北三鎮である。そして科挙の官僚が台頭した。_026
875年、黄巣の乱
乾符2年(875) 6月、前年より山東にいた王仙芝におうじて、黄巣がたつ。王仙芝も黄巣も、塩を密売した。
黄巣は、科挙の失敗者。乾符6年(879)、広東に入ると、黄巣が節度使のポストを要求した。黄巣は、広州で10万超を「虐殺」したが、実数は定かでない。
880年秋11月、洛陽を囲んだ。洛陽が陥落し、翌12月に長安がおちた。黄巣は、天補均平大将軍をとなえる。黄巣は、長安で皇帝に即位して、国号を「斉」、年号を「金統」とした。金徳である。
司馬晋が金徳、南朝宋が水徳。司馬晋が金徳、北魏が水徳、北周が木徳、隋家が火徳、大唐が土徳。大唐のつぎだから、黄巣は金徳である。
黄巣は禅譲でなく、僖宗が四川ににげたあと、乗りこんだ。長安にのこった中下級の官僚をひきつぐ。
金統3年(882) 同州にいる朱温=朱全忠がきた。トルコ系の沙陀族の李克用(李国昌)が、黒ずくめの「鴉軍」もきた。朱全忠と李克用が、大唐をほろぼして覇権をあらそう。
朱全忠の台頭
朱全忠は、黄巣に従って長安にはいるが、大唐に投降した。宣武軍節度使に任じられる。駐屯地は汴州(開封市)。
李克用は、河東軍節度使として太原にいる。朱全忠は、李克用に夜襲をかけ、敵になった。
朱全忠は、黄巣の死後、同中書門下平章事となり、沛郡侯、沛郡王。
光化3年(900)、大唐の昭宗が、侍女を殺害した。宦官の李季述が、朱全忠に廃立への同意をもとめた。昭宗が復位した。
宰相の崔胤は、朱全忠を長安に入れて、宦官 700人を殺した。朱全忠は梁王となる。
ぼくは思う。袁紹と同じだ。崔胤が袁紹、朱全忠が董卓。朱全忠は崔胤を殺した。_033
朱全忠が王権を簒奪する
天復4年(904)、朱全忠が昭宗に、洛陽への遷都を要求した。強制移住させた。近衛の少年を殺したので、昭宗は臣下がいない。天祐と改元した。
晋王の李克用、岐王の李茂貞、楚王の趙匡凝、蜀王の王建、呉王の楊行密ら、軍閥が反発した。朱全忠は、昭宗をころした。大唐で最後の哀帝(昭宣帝)が即位した。哀帝が郊祀をやりたがると、朱全忠は皇太后を殺して、郊祀をさまたげた。_033
天祐4年(907) 正月、洛陽の哀帝から、汴州に高官をおくり、朱全忠への禅譲をいう。3月、朱全忠は「思いがけなく」受禅した。国号は「大梁」、年号は「開平」、都は汴州=東都開封府。王朝は金徳。30年前の黄巣の斉とおなじ。
5年後、朱全忠は息子に殺された。大梁は16年だけ。_034
華北王権の興亡_035
290年ぶりの禅譲になびいたのは、華北のみ。
李克用は太原で、大唐の天復という年号をつかう。朱全忠が開平に改元すると、(朱全忠がゴリ押したものの大唐の年号であった)天祐をつかった。天復7年が、天祐4年に変わった。
呉国の楊渥は、天祐4年を使いつづけた。天祐15年までつかう。
呉越の銭鏐は、天祐4年のつぎ、天宝という独自の年号をたてる。後唐に入貢してから、後唐の年号をつかう。五代と宋の年号をつかう。呉越は、中原の皇帝から「呉越国王」の爵位をもらう。
唐梁革命のあと、周宋革命までの53年間(907-960)は、五代十国時代である。洛陽または開封を都にする、五代がある。
十国は、呉越、荊南、楚らである。十国は「王」であり、他の皇帝の年号をつかう。荊南は小国なので、呉国と後唐のあいだをうろつく。
呉国は皇帝を称して、独自の年号をつかう。
蜀王の王建は、晋王の李克用とおなじく、天祐の年号すら認めない。天復7年=開平元年の9月、朱全忠より5ヶ月おくれて、皇帝となる。翌年正月に「武成」と改元する。
10年後の917年、南漢も皇帝となり「乾亨」をつかう。閩国は、途中から皇帝につく。
王建の前蜀を滅ぼしたのは、後唐の将軍の孟氏である。孟氏は、後蜀をつくる。呉国から禅譲された南唐。五代の後漢をひきつぐ北漢。これらは皇帝であり、独自の年号をもつ。
たとえば、957年は、後周の顕徳4年、南東の保大15年、後蜀の広政20年、北漢の天会元年、南漢の乾和元年である。
「五代十国」は、漢族が中心の史観。契丹では、耶律阿保機が皇帝に即位したのが、916年=神冊元年。遼を名のる。さっきの957年は、応暦7年である。_037
五代の王朝が推移する_038
開平2年=908年にもどす。
太原では、この歳を天祐5年と認識するが、晋王の李克用が死んだ。子の李存勗がつぎ、朱全忠とにらみあう。このとき晋軍には、やがて皇帝になる者が5人もいた。
まず李存勗。朱全忠の死後、魏州で伝国璽をえて、唐帝に即位。梁の龍徳3年(923)、李存勗は天祐20年を改元して、同光元年とする。半年後に開封を陥落させた。劉備と同じ役割。後唐という。
李存勗は、復古の政策をとる。洛陽に都して、大唐の法典をつかい、宦官や旧貴族の血筋をつかう。在位3年で、養子の李嗣源に殺された。
後唐の李嗣源は、周の柴栄とならぶ名君。財務官庁の三司、近衛の侍衛親軍は、李嗣源から北宋に継承された。四川の前蜀をほろぼした。宰相の馮道が、儒教の経典を印刷した。李嗣源の治世の2年目、天成2年に、趙匡胤が洛陽で生まれた。_039
李嗣源の実子は、養子の李従珂に殺された。李嗣源も李従珂も、血縁がない。旧来の感覚からすれば、王朝交代にひとしいクーデターで即位した。李氏たちはトルコ系の沙陀族なので、大唐とは関係ない。
李従珂は、藩鎮を削減したい。李嗣源の娘婿である石敬瑭をねらう。石敬瑭は、契丹の皇帝に、燕雲16州を割譲して、援助をもとめた。契丹は、後唐の李従珂をやぶった。936年、後唐は滅亡した。
契丹に任命され、石敬瑭は太原で後晋の皇帝となる。天福を年号とする。契丹との友好をがんばる。つぎの後晋の皇帝・石重貴(石敬瑭のおい)は、契丹と開戦した。耶律徳光をやぶり、即位3年目に「開運」と改元した。946年に、3度目の侵攻をうけて、開封が陥落した。石重貴は北方に拉致され、「出帝」といわれた。ぼくは思う。後晋の石重貴は、契丹に拉致されて「出帝」という。『春秋』三伝では「王者に外無し」という思想と諒解が語られる。。長谷川先生が『漢紀』での漢昌邑王の記述に絡めて指摘しておられた。「出帝」は形容矛盾だ。事実と建前が引き裂かれる。「いかにして矛盾と葛藤が発生し、皮肉をこめて記述され、読者には目ざとく(もしくは探すまでもなく)感得されるか」かつ「なぜその皮肉が放置されるか(放置されなければならないか)」と。楽しいテーマ。耶律徳光は、馮道にすすめられ、開封で中国式に即位したが、没した。華北の政治が空白となる。_041
もとは石敬瑭に仕えていた劉知遠が即位した。珍しいことに劉知遠は、皇帝即位して数ヶ月、国号も年号も、後晋のままだった。石重貴=出帝の強硬路線に反対して、開運の年号をつかわず、天福12年とした。
新たな王朝でなく、3代目の後晋の皇帝を演じた。
947年、劉知遠は中原に進出して、劉邦と劉秀をまつり、帝位を正統化した。じつは劉知遠も、沙陀族である。年号は、石敬瑭の天福を使いつづけ、948年に「乾祐」とした。_042
後唐、後晋、後漢は、すべて太原の将軍がつくった。李克用がつくった、山西軍閥の底力である。だが首都は、洛陽か開封にせざるを得ない。軍事は太原、政治は洛陽か開封である。このズレが、王朝を不安定にした。
李従珂が石敬瑭の軍権を奪うため、移封をもちかけ、遼軍と結びつけてしまったのは、このズレのせい。北宋になってから、太原にいる北漢に手こずったのも、太原の地勢のため。
劉知遠は即位して1年で死んだ。劉承祐がつぐ。大臣と将軍を遠ざけた。後唐の李従珂、後晋の石重貴と同じやりかた。だが、またしても魏州に駐在する将軍・郭威に反対された。劉承祐は、郭威に通じる者によって殺された。
ぼくは思う。後漢と後漢。1世紀の劉秀がつくったのは「ごかん」で、10世紀に劉知遠がつくったのは「こうかん」とルビが振ってある。根拠はなんだろう。もしくは慣例はいつからだろう。
@g_kasya さんはいう。 しかし10世紀になっても劉の姓が生きるとは……
ぼくはいう。その意外さ(というか異常さ?)が、どこに由来するのか。考えると楽しそうです。西晋末の匈奴も、10世紀の劉知遠も「劉氏だから、国号は漢」と考え、それが通用しました。少なくともその発想(の異常さ)を理由に、権威が失墜しませんでした。興味のあるテーマになりそうです。開封にのりこむ郭威は、後漢の皇太后を擁した。政権の中枢には、まだ馮道がいる。馮道は、劉知遠の弟で、太原を守る劉崇の子で、べつの土地で節度使をする劉贇を皇帝にせよという。だが郭威は禅譲をうけて、後周をつくる。後漢は、劉知遠の即位から4年で、最短だった。
劉崇は、わが子が皇帝になれる(と馮道に推薦してもらった)から、皇帝を自称して、乾祐の年号を継続する。後漢の3代皇帝のつもりだが、これを北漢という。北漢は、4代30年つづく。十国では最後までつづく。広運6年(979)、北宋の軍門にくだる。北宋の太平興国4年である。
革命の論理_043
郭威の王権簒奪は、禅譲の形式をつかった。後漢から後周は、禅譲である。禅譲は、朱全忠より44年ぶりである。
ぼくは思う。禅譲のほうが一般的でない。後唐は、軍事的に後梁をほろぼした。後唐は、大唐の皇族を名のるので、唐梁革命をみとめない。逆賊の朱氏を討滅しただけで、大唐-後梁-後唐、という交代は存在ない。
後晋は、後唐の皇帝を軍事的にしたが、契丹に援助してもらった。契丹に臣下の礼をとる。後晋の石敬瑭は、契丹に命じられて皇帝になったのであり、後唐からひきついだのでない。
ぼくは思う。こうしてみると、ふつうの意味での王朝の交代は、ぎゃくにマレだったりする。正統を見失うパターンだ。劉知遠は、後晋の皇帝として即位した。後漢に改めたのは、大漢の末裔を自称するから。後唐とおなじ。劉淵を意識したかもしれない。
山西の軍閥のなかでの王権争奪は、禅譲をしない。勝者が前王朝を否定して、より根源的な正統性の根拠を標榜する。実力本位のやりかた。だが郭威が、禅譲にもどす。_044
郭威は、劉知遠の部将として、山西軍閥の一員。革命前、魏州の司令官である。北斉の都である鄴都でもある。唐代の後半は、魏博軍節度使がおかれた。のちに趙宋では、北京大名府がおかれる。遼に対抗する拠点になる。
後周は、後唐・後晋・後漢が太原のなかで交代したのと異なる。劉知遠は、太原の重要性を知っていたので、弟を太原に置いたのだろう。
郭威がつかう「周」とは、古代の王朝である。李存勗の後唐、石敬瑭の後晋、劉知遠の後漢ときて、ついに郭威は後周にまで遡及が到達した。
ぼくは思う。五代の華北の勢力は「自分のほうが由緒がある」と主張するため、歴代の統一王朝の後裔や後継をアピる。李存勗の後唐、石敬瑭の後晋、劉知遠の後漢ときて、ついに郭威は後周にまで遡及させた。「古制こそが規範であり、正統である」という特異な(儒家がやりがちな)発想法が、きわめて明瞭に出ている。
古代史の走馬燈を見ているようだw
郭威が開封に入る前に、劉承祐は殺害されている。郭威は、平和的に権力をにぎった。だから禅譲の形式が選ばれた。司令官として出陣し、軍隊に擁立され、やむなく都にもどり、禅譲を皇太后にせまる、、という手のこんだ演出がされた。
郭威は、魏州の1軍閥でなく、禁軍を支持基盤にした。澶州において郭威は、禁軍の将校によって、身体に黄旗をまきつけられた。このとき将校として、趙匡胤が見ていた。9年後に趙匡胤が再演した。_046
漢周革命にも、五行相生説がつかわれた。周宋革命のとき、議論の形跡がない。趙宋が火徳だから、後周は木徳だろう。したがって後漢は水徳となる。しかし、後漢の同時代に宣言されていたか明らかでない。後漢は、禅譲によって成立していないから、徳を明らかにする必要がない。
ぼくは思う。禅譲をするために、自分を規定する。これは、王莽が前漢を言語化して規定することによって、「禅譲する側」に前漢を追い込んだこととおなじ。生成的なのだ。
ぼくは思う。あれから1000年もたつのに、同じルールを共有するから、「別バージョンのシミュレーションゲーム」ができる。この共有の強固さが、興味の対象です。後周が木徳であることは、興味ぶかい。大唐は土徳で決まり。あいだには2つの王朝しかない。あいだの2つとは、後晋と後漢である。後唐は復興者なので、土徳だろう。すると、五徳終始説の連鎖は、後梁を抹殺している。趙宋の『冊府元亀』で、後梁を十国と同列にすることに通じる。後周も趙宋も、山西軍閥の歴史観である「後梁をみとめない」を共有している。
大唐は、李克用が中興したあと、後晋、後漢、後周と伝わり、趙宋にいたったと。
趙宋では、開宝7年(974)、薛居正が『五代史』をつくった。趙宋を「6つめの華北の短命王朝にしない」という決意と自信である。後梁すら、正統に認定してしまう余裕がある。その80年後、欧陽脩『五代史記』も、後梁をみとめる。
前者の薛居正を『旧五代史』、後者の欧陽脩を『新五代史』という。「五代」というカテゴリは、大唐の継承者である趙宋の、自意識が産んだもの。
最後の禅譲_047
郭威は、在位3年で崩じた。太祖。
柴皇后の兄・柴守礼の子である柴栄が、後周の2代皇帝となる。柴栄の妻は、符彦卿の娘である。符彦卿の娘は、ほかに趙匡義(趙匡胤の弟=宋太宗)にとつぐ。
この後周の皇位継承はおかしい。後唐において、養子の継承はあった。みな李姓に改姓した。しかし郭威のつぎの柴栄は、異姓のまま皇帝になった。「易姓革命」にほかならない。儒教的な名分論、王権儀礼が、ほとんど顧慮されない状況だった。
ぼくは思う。郭威は、やっと禅譲を復活させたのに、いきなり「易姓革命」をやる。壊れかたによって、構造がわかる。最後まで壊れないのが、装飾を取っ払った本質だったりする。古代の儒家の思想は、同姓の世襲よりも、異姓の賢者への平和な禅譲を、より本質とした。暴力のロジックだけでは、到達できないところに到達した。のかな。柴守礼は、子が皇帝になっても健在である。洛陽で礼を守らない。名君の柴栄も、実父を罪に問えなかった。
後周での柴栄の即位直後。華北の正統を自任する北漢は、後周を侵攻したい。北漢は、契丹の助力をたよる。後周は、宰相の馮道が、開封に籠城せよという。だが柴栄は出撃して、高平で北漢をやぶった。28歳の趙匡胤も、後周のなかで選考をあげた。
この歳、宰相の馮道が死んだ。晋王の李存勗につかえ、易姓革命を乗りこえた。李嗣源のもとで、経書の印刷事業をやった。欧陽脩と司馬光は、馮道を非難した。なぜか。大唐、後晋、契丹遼、後漢、後周の「五朝」につかえた。李嗣源と李従珂を、唐の異姓とする。柴桑を周の異姓とする。以上で「八姓」につかえた。合計「十一君」につかえたから。
高平の戦いは、南北の力関係に作用した。華北の王朝は、太原の藩鎮や、背後の契丹遼を警戒した。だから南方にゆけない。だから南唐(937に呉国から受禅)と、緊張しながら戦端をひらけない。いま柴栄は、高平で北漢を破ったので、南唐を攻めた。
後周の王朴はいう。「北漢を破ったが、これ以上は北伐の成果はない。蜀国と南唐を撃つべきである」と。
柴栄の親政が成功して、淮水以南の塩の生産地を、南唐からうばう。このとき趙匡胤は、殿前都点検に昇進した。趙匡胤は、趙普と巡りあった。
南唐を攻める前に、柴栄は仏教を弾圧した。三武一宗の法難(北魏の太武帝、北周の武帝、唐の武宗、後周の成宗)の最後のものである。経済力をもつ仏教教団を整理して、国家に吸収しようとした。
小島氏はいう。織田が柴栄、豊臣が趙匡胤、徳川が趙匡義。柴栄は、南唐を撃ったあと、契丹を攻めた。燕雲16州の回収をしたかった。だが、顕徳6年(959) 6月、39歳で柴栄が死んだ。息子は6歳である。
長命な王朝の幕開け_053
最後の禅譲劇の準備がはじまった。趙匡胤が趙宋をひらく。
顕徳7年(960)正月元日、契丹遼の大軍が、南進するという。開封を出陣した趙匡胤は、趙匡義と趙普によって、寝台で皇帝にさせられた。国号を「宋」としたのは、帰徳軍節度使のとき、駐屯地が春秋期の宋だったから。宋が殷の遺民の国だから、後周よりさらに遡った。
ぼくは思う。五代は統一王朝の国号を遡及させ、最後は趙匡胤の宋(殷の遺民の国)に落ち着く。李存勗の後唐、石敬瑭の後晋、劉知遠の後漢、郭威の後周、趙匡胤の宋=殷。もし趙宋がコケたら「六代の後宋」が登録され、「後夏」が統一したはず。あ!趙宋の末期、大夏=西夏に撹乱される。恐るべき、彼らの大陸における、典型化された歴史の構造w
思考が方向づけられるのか、行動が方向づけられるのか、記述者のトリックなのか、もしくは逃れがたい天命なのか。トリックと天命の半々だと思います。
ぼくは思う。古代は、伏線の回収を最高に美しい形でおこなって、走馬燈を逆回しにして、終わってゆきました。「元」「明」「清」が、春秋期以来の地名に由来する国号をやめたのも、なるほどという感じです。
@AkaNisin さんはいう。夏から始まって夏に終わる古代ですねw 歴研派の時代区分では古代は唐宋変革で終わりますけど、ここに元の征服で古代が終わりという新しい理論が出来上がりました (゚∀゚)
以上、第1章「宋朝の誕生」の抜粋でした。130729閉じる
- 宣言:2013年の夏は、五代十国がテーマ
先週からの読書にからめ、ツイートしたこと。
岡田英弘氏の著作集を読む
藤原書店の『岡田英弘著作集/歴史とは何かⅠ』おもしろい。2013年6月に発刊開始、年4回発行らしい。こういう大きな企画の配本にリアルタイムで立ち会う(買って読むだけだが)のって初めて。
ぼくは思う。岡田先生の話の抜粋を、またやりたい。この時点では、モンゴルや清朝が、2013年のテーマになると思ってた。思わず週末に、五代十国に転んだけれど。講談社の通史を、安いものはアマゾンの中古で、安くならないものは新品で注文した。土曜の朝に、たまたま小島先生が届いた。だから、五代十国に傾いた。「歴史」は天然の産物でなく、各々が特定の文明の産物。独自の「歴史」をもつ文明は2つ。ヘロドトスの地中海文明、司馬遷のシナ文明。ヘロドトスは欧州がアジアに勝った事情を調査し、司馬遷は漢武帝の正統を規定した。それ以外は、2つの対抗文明(派生物)か、歴史を持たぬ文明しかない。
歴史上、4つのシナがある。1、始皇帝から、南朝が隋に滅ぼされるまで。2、隋唐。モンゴルが滅ぼす。3、モンゴルから分離した明朝。清に併合された。4、20世紀の国民国家。 #岡田英弘 ぼくは、1つめは日本の「父」、2つめは「兄」だと思う。ぼくの興味関心は「父」まで。兄弟は他人の始まり。
@AkaNisin さんはいう。時代区分論みたいなものでしょうか?唐宋変革で区切らないのは斬新(?)ですね。
ぼくはいう。時代区分論には与しないようです(世代的には唯物史観と対決された方です)。「モンゴルが世界史をつくった」が主要なお考えのようで、非漢族による軍事的なインパクトに着目して区分されます。永嘉の乱から南朝の滅亡、モンゴルによる征圧、日本軍による攻撃が画期とされます。
ぼくは思う。にゃもさんに、このツイートを頂戴したとき、「唐宋変革」という言葉を知らなかった。これが、五代十国に興味をもつ伏線になっているとは。たかが1週間で、転がったものです。
2013夏のテーマが決まる
この夏のテーマは、五代十国に決まり。唐と宋の間。禅譲の宝庫で、五徳の正統論がうるさく、封禅で完結。「儒教が変質する」直前で「漢代以来の王権のあり方を追求した最後の皇帝」がでる(小島毅氏『中国思想と宗教の奔流』)。暴力で解決する五胡十六国より、時期の遠い五代十国のほうが漢末っぽい。
武帝や王莽、光武帝・章帝を画期に規定された、漢代の皇帝をめぐるルール(領域、正統の根拠、政権交代の手順、儀式と思想など)は、どんなか。魏晋を凝視するだけでなく、気分転換で五代十国を見たら、なにか分かるかも。もちろん時期の隔たりがあるから、概説書や専門書に目を通し、距離を測りつつ。
@AkaNisin さんはいう。いきなり跳躍しましたね。一気に古代中国史のエンディングじゃないですか。
ぼくはいう。思いつきですw でも大学のとき先生に、「ある物事の性質は、最初と最後に顕著にあらわれる」と習いました。わりに発見がおおいかも知れません。
@AkaNisin さんはいう。 なるほど、、、 ちょうど僕のまわりに五代十国を研究している方が割りといますので、僕も気になる時代です。
ぼくはいう。五代十国で「劉氏だから国号は漢」とか「唐にあやかる」などの正統にまつわる思考法があるみたいです。これらは所与&自明でなく、漢代に成立し、劉備が実用化した、特殊な理路だと思います。理路の受け継がれ方に興味あります。
正史を読解する補助として『資治通鑑』を読んできたが。『資治通鑑』の現実的なニーズは、五代十国を経た宋王朝の正統性を唱えること。五代十国の記述は、自然と力が入り、司馬光の主張が見え隠れするはず。『五代史』は新旧があるようで、読むものが多いって幸せ。晋、漢、周などの国号もそそられる。
ぼくは思う。どうせ読まないと思って、南北朝よりあとの『資治通鑑』の巻を、実家に放置してある。とりに帰らねば。
山崎覚士氏の『中国五代国家論』で、五代十国を読み始める準備をしてます。
そして、目を通し終わりました。130728 日曜日に、一気に読みました。おもしろそう!曹丕が孫権に期待した立場は、唐末に中原の五代が、呉越の真王に期待したものに似てないか。中原から支配しにくい遠隔地にいる臣下で、他の諸侯王よりは上位。周代の覇者のように、周囲を統括することを任された。なにこの三国志っぽいノリはw
中原の五代の皇帝は、南方の十国の皇帝から、対等の形式の文書を受け取らない。だが南方の皇帝が「国主」を自称すれば、付き合ってあげた。先主、後主、呉主、のノリなんだろうか。五代十国を経た宋代に、三国演義の原型が固まっていく。関連が深そうだなあ。
「天下がなぜ分裂したか」とともに「なぜ分裂が維持されたか」と問題を再設定する。三国鼎立や晋呉並立の背後に、それを可能にした秩序を探す。たとえば司馬炎の時期、征呉の反対派が、つねに一定数いた。数十年も分裂を維持するのはダテじゃない。山崎覚士氏も立問に沿えば三国志のテーマも獲得される。
分裂を維持した秩序は2つに区分できる。当事者が認識できた理由と、認識できない理由。前者は爵制や官制、後者は経済環境か。いやそんな単純じゃないな。当事者が分裂状態を非とし、記録者も非とするのに、彼らが所与として、「気づかずに甘えている」前提を指摘する。本人の気づかない「甘え」を暴くのは悪趣味だが、おもしろそう。
唐梁革命のあと、周宋革命までの53年間(907-960)は、五代十国時代である。皇帝が並立し、年号も並立した。たとえば西暦957年は、後周の顕徳4年、南東の保大15年、後蜀の広政20年、北漢の天会元年、南漢の乾和元年である。小島毅『中国の歴史』より。三国志スイッチが押される展開!
上で補足があったが。契丹遼の応暦7年でもある。
漢魏の(三国志の人物が規定された)国家や思想を、飛行機に例える。
漢武帝が始動させ、漢元帝が加速させ、王莽が離陸させる。後漢では飛びながら改造を加えて完成。魏晋では、重力に逆らって強力に高度をあげ、南北朝で乱気流にあうが、隋唐で安定した滑空に。五代十国で胴体着陸。機体が壊れて初めて、構造が観察可能になった。壊してみなくては、中身が見えない。これは真理だと思う。
そんなこんなで、ナツが始まりました。130729閉じる