後漢までにかんするページ
後漢末(献帝のころ)
建安六~十二年(201-207) 武帝紀と袁紹伝で、曹操の北伐を集解
『三国志』董卓伝・李傕郭汜:わりと豪華版
『三国志』袁紹伝:わりと豪華版
二廟を立て、天地を郊祀する公孫度伝
221年、漢寧王の張魯が独立し、曹操と劉備を振り回す
董承は袁術の落目を見抜き、曹操を「護衛兵」に採用
楊奉と韓暹は献帝を移し、董卓の代替政権をめざした
献帝奉戴をめぐる、劉表 (むじんさんのツイートより)
公孫瓚05) 5年間、袁紹を献帝から遠ざく:了
公孫瓚04) 劉虞の死、195年易京へ
公孫瓚03) 袁紹と袁術を開戦させる
公孫瓚02) 劉虞、関東諸将のトップになる
公孫瓚01) 天子の張挙、弥天将軍の張純
宋建:韓遂よりもシブトイ涼州の自称王・宋建の史料
劉璋:荊州の劉表と孫権をマネした、孤児の君主・劉璋伝
劉焉:霊帝の軍制改革の欠陥を突き、後漢から独立・劉焉伝
劉表:劉焉と劉表は、帝位を称した:カギは「前漢の皇族」
董卓:袁氏から後漢を守った、外戚風の宮廷政治家・董卓伝
張邈:張楊伝:呂布が なり損ねたハーフな騎馬隊の群雄
呂布:呂布伝: 袁術に徐州の経営を委任された、一軍人
劉表:袁術との差異を比較して読む、南進主義者・劉表伝
劉焉:思考実験「袁術と劉焉の同盟」を史料から読めないか
呂布:『後漢書』呂布伝を、『三国志』と比べる
張承:袁術を責めつづけたお友達? 張承伝(張範伝より)
袁紹:袁紹伝の読み方:豫州と冀州の名士の評価
袁術:190年代の豫州は、やんわり袁術の支配領域
袁術:太祖武帝紀より 袁術は献帝から、禅譲を受ける予定?
劉繇:腐っても劉繇、について『集解』で史料あつめ
諸葛亮:袁術は、諸葛亮の生存&人格形成に濃厚に関わった
陶謙:二袁に対抗し、袁術に敗れた野心家・陶謙伝
劉虞:『後漢書』劉虞伝 漢文を改行&スペース挿入
劉寵:『後漢書』袁術が殺した、弩兵が巧みな陳王・劉寵
袁術:三国志「袁術伝」を『三国志集解』でおぎなう
公孫瓚:『三国志』公孫瓚伝 漢文を改行&スペース挿入
袁紹:『三国志』袁紹伝 漢文を改行&スペース挿入
(袁紹は、叔父の袁隗をだまし、皇帝になろうとした)
董卓:『三国志』董卓伝 漢文を改行&スペース挿入
袁術:袁術の青年時代は、どんなか(袁湯、袁逢、袁隗)
楊震:『後漢書』四世三公の楊震伝を、袁氏と比べる
朱儁:『後漢書』朱儁伝を、狩野直禎氏の翻訳を横目に読む
袁術の王朝の歴史書(その1-袁術の祖先)
自分用メモ:袁術にからむ人の列伝を、拾って注釈
袁術に関する記述を網羅
『呉書』を史料批判し、孫策のキャラを書き換える
孫策は袁術に、絶縁状を突きつけていない
吉川忠夫訓注を見て『後漢書』袁術伝に、訓点をつける
袁術は英雄だと、真面目に語りました
●リメンバー酸棗の血盟、臧洪伝 ●ミスター自己承認欲求、張松伝
●「国民統合の象徴」劉璋伝 ●ひそかに献帝討伐、劉焉伝
●曹操の双子、淳于瓊伝 ●皇帝になるつもりのおじさん劉表伝
●書きかけの王朗伝
『三国演義』袁術を集め、物語の演出手法を指摘
『三国演義』5回~25回の出来事一覧
後漢中後期(桓帝や霊帝まで)
『後漢書』列伝52・荀淑、韓韶、鍾晧、陳寔伝を抄訳
『後漢書』列伝57・党錮列伝を抄訳
劉淑、李膺、杜密、劉祐、魏朗、夏馥、宗慈、
巴肅、范滂、尹勲、蔡衍、羊陟、張倹、岑晊、
陳翔、孔昱、苑康、檀敷、劉儒、賈彪、何顒
『後漢書』列伝47・劉陶、李雲、劉瑜、謝弼伝を抄訳
『後漢書』列伝46・王龔、王暢、种暠、种払、种邵伝
循吏伝:孟嘗、第五訪、劉矩、劉寵、仇覧、童恢
『後漢書』陳球伝、陽球伝を抄訳、『三国志』を補う
『後漢書』列伝50・蔡邕伝を抄訳、『三国志』を補う
『後漢書』郭泰、符融、許劭、鄭泰、孔融伝を抄訳
『後漢書』列伝54、史弼、盧植、趙岐伝を抄訳
『後漢書』何進伝を抄訳、霊帝と献帝初を整理
『後漢書』王允伝を抄訳、霊帝と献帝初を整理
『後漢書』竇武伝を抄訳、桓帝と霊帝初を整理
『後漢書』陳蕃伝を抄訳、桓帝と霊帝初を整理
何顒伝:何顒グループの母体は、袁氏と荀氏か
荀淑伝:荀彧の祖父は、梁冀と対立し、神君と呼ばれた
『後漢紀』165年、楊秉がいさめ、竇皇后がたつ
『後漢紀』163-164年、种暠、楊秉、度尚、史弼
『後漢紀』161-162年、陳蕃の推挙、朱穆の憤死
『後漢紀』159-160年、李雲の諫言、黄瓊の改革
『後漢紀』157-159年、劉陶の改鋳、寇栄の冤罪
『後漢紀』152-156年の抄訳、漢の命数は中天に
『資治通鑑』等を和訳・抄訳
『資治通鑑』巻16 漢景帝を抄訳 (前154-141)
『資治通鑑』巻15 漢文帝の下を抄訳 (前169-155)
『資治通鑑』巻14 漢文帝の中を抄訳 (前177-170)
『資治通鑑』巻13 漢文帝の上を抄訳 (前179-178)
『資治通鑑』164年、郭泰が後漢を見棄てる
『資治通鑑』165年、鄧皇后と宦官の五侯が消滅
『資治通鑑』166年、陳蕃ら太学派と、桓帝派が衝突
『資治通鑑』167年、李膺を釈放し、桓帝が死ぬ
『資治通鑑』168年、陳蕃と竇武が、栄えて滅ぶ
『資治通鑑』169年、青蛇、二次党錮、袁氏復活
『資治通鑑』170-171年、橋玄が司空、霊帝が元服
『資治通鑑』172年、曹節と王甫、竇后の死体をいびる
『資治通鑑』173-176年、霊帝の宦官が安定支配
『資治通鑑』177年、霊帝が鴻都門に人材を集める
『資治通鑑』178年、官位を売り、桓帝の赤字解消
『資治通鑑』179年、陽球が王甫を殺し、曹節に殺さる
『資治通鑑』180年、何皇后を立て、造園に励む
『資治通鑑』翻訳、181年、182年、183年
『資治通鑑』184年、中央の政変としての、黄巾
『資治通鑑』185年、崔烈の涼州放棄、張温の遠征、186年、187年
『資治通鑑』199年、198年、197年、196年、195年、
194年、193年、192年、191年、190年、189年、188年
『資治通鑑』201年-207年、抄訳セット8年分
『資治通鑑』209年、『資治通鑑』210年、『資治通鑑』211年
『資治通鑑』212年、213年、214年、215年、216年、217年、
『資治通鑑』218年の抄訳、219年の抄訳:関羽の死
『資治通鑑』220年の抄訳:曹丕の豹変
『資治通鑑』221年の抄訳:皇帝劉備と呉王孫権
『資治通鑑』222年の抄訳:愛すべきダメ君主・曹丕
『資治通鑑』223年の抄訳:諸葛亮の執政、魏呉の絶交
『資治通鑑』224年の抄訳:曹丕が寿春、広陵にゆく
『資治通鑑』225年の抄訳:諸葛の南征、曹丕の凍結
『資治通鑑』226年の抄訳:曹丕の死、孫権の交州獲得
『資治通鑑』227年の抄訳、出師の表と、荊豫の司馬懿
『資治通鑑』228年の抄訳:馬謖と曹休の敗死
『資治通鑑』229年の抄訳:孫権が皇帝即位、三国で内政
『資治通鑑』230年の抄訳、曹休と長雨、満寵の合肥
『資治通鑑』翻訳:160年、161年、162年、163年
『資治通鑑』159年、桓帝が梁冀を誅し、冀に代わる
『資治通鑑』翻訳:153,154,155,156,157,158年
『資治通鑑』の翻訳、155年、156年だけやりました
『資治通鑑』翻訳:149年、150年、151年、152年
『資治通鑑』148年、劉翼と劉慶とを尊ぶ
『資治通鑑』147年、李固と杜喬ら、劉蒜派を殺す
『資治通鑑』146年、梁冀と曹騰が、桓帝を立てる
『資治通鑑』翻訳:142年、143年、144年、145年
『資治通鑑』翻訳:138年、139年、140年、141年
『資治通鑑』137年、交趾刺史が遠征できない
『資治通鑑』翻訳、134年~136年:梁冀の登場
『資治通鑑』123年、124年、125-133年:順帝の改革
『資治通鑑』115年、116-119年、120年、121年、122年
『資治通鑑』107年、108・109年、110年、110-114年
『資治通鑑』102年、103年-105年、106年:鄧氏
『資治通鑑』095年・096年、097年、098年-101年
『資治通鑑』092年、093年、094年:南北匈奴と西域
『資治通鑑』089年、090年、091年:袁安と竇憲の対決
『資治通鑑』088年、竇太后が臨朝、鄧彪と劉暢を頼る
後漢書より口語訳と考察
『後漢書』百官志の翻訳
明帝&章帝&和帝の時代(ファザコンとマザコン)
宦官コンプリート作戦
破壊者・梁冀の血の成分
法正の先祖は列伝あり、法雄・法真伝
劉繇の伯父、循吏の劉寵伝
後漢の「御三家」、章帝八王
ユニット名は「涼西の三明」『後漢書』列伝55より
『後漢書』列伝35より、「袁安伝」を口語訳
『後漢書』呉祐伝:門を閉ざして訴訟をなくす、膠東侯相
『後漢書』周挙伝:順帝の希望より、前例と古典を優先
『後漢書』左雄伝:孝廉は40歳以上、豪族の抗争を抑止
『後漢書』胡広伝:主義主張のない、事務官の三公
『後漢書』本紀8を口語訳、党錮と黄巾の間
『後漢書』本紀7を口語訳、桓帝とは何者か
『後漢書』本紀6を口語訳、三国志の開幕
光武帝
10年夏休みのテーマは、光武帝に決定(趣意)
『歴史読本』09年10月: 渡邉義浩「光武帝」まとめ
鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産』より王莽と光武帝
主要な論文を抜粋、光武帝・劉秀の天下統一
『三国志』から光武帝というテキストを抜粋
『後漢書』「光武帝紀」を楽しむ(全12回)
光武の統一戦争まとめ;『資治通鑑』+『後漢書』
光武の統一戦争 ダイジェスト (史料まとめに失敗)
『後漢書』劉玄伝、袁術が目標とした 一番のりの皇帝
『後漢書』劉盆子を抄訳、青州黄巾がわかる列伝
劉縯伝、更始帝に荊州北を奪われた敗者(光武の兄)
『後漢書』列伝四(光武の族兄)更始と光武のあいだ
『後漢書』王郎伝:光武帝の河北デビュー戦の強敵
『後漢書』郭皇后紀:初期の後漢は、河北の真定王朝
『後漢書』劉植伝:光武帝に真定国を乗っ取らせた
『後漢書』李憲伝:揚州で天子となった、新末の群雄
『後漢書』劉永伝:袁紹が曹操をやぶるモデル
『後漢書』馬成伝:江淮の間を、水軍をつかわず平定
『後漢書』列伝3・隗囂と公孫述伝
『後漢書』耿純伝:車1台の光武帝を、支えた信者
『後漢書』任光・任隗伝:父は光武帝を拾い、子は袁安と協調
『後漢書』列伝21-32の抄訳:郭伋、杜詩、孔奮、張堪、廉范
樊宏、陰識、朱浮、馮魴、虞延、張純、鄭興、范升、陳元、
桓栄、丁鴻、張宗、毛義、劉平、王望、王扶、趙孝、淳于恭
江革、劉般、班彪、第五倫、鐘離意、宋均、光武十王
『後漢書』列伝15-20の抄訳:卓茂、魯恭、魯丕、伏湛、伏隆
侯覇、宋弘、蔡茂、郭賀、馮勤、趙熹、宣秉、張湛、王丹・良
杜林、郭丹、桓譚、馮衍、申屠剛、鮑永、郅惲、蘇竟、楊厚
『後漢書』列伝11-14の抄訳:李忠・万脩・邳彤、朱祐・景丹・
王梁・杜茂・馬成・劉隆・傅俊・堅鐔・馬武、竇融、馬援伝
『後漢書』列伝8,9,10を抄訳する:
吳漢、蓋延、陳俊、臧宮、耿弇、銚期、王霸、祭遵伝
『後漢書』列伝5,6,7を抄訳する
李通、王常、鄧晨、来歙、鄧禹、寇恂、馮異、延岑、賈復伝
『資治通鑑』023-024年:王莽の死、劉秀の自立
『資治通鑑』025-026年:劉秀が皇帝を自称する
『資治通鑑』027-029年、赤眉と山東を平定
『資治通鑑』030-038年、隗囂と公孫述を平定
王莽
『漢書』元后伝で、王莽を知る/列伝要約と考察
前漢の正しい継承者 王莽伝 ~曹操への宿題~
新の王莽/『中国人物列伝』への反論
読書メモ:東晋次『王莽』を読む
『資治通鑑』前1年、前漢哀帝が崩じ、王莽が再登場
『資治通鑑』後1年、王莽が安漢公となる
『資治通鑑』後2年、匈奴を侮り、莽の娘が皇后に
『資治通鑑』後3年、王莽が、長子と叔父を殺す
前漢
『漢書』郊祀志 高皇帝と孝文帝の時代の記述
『漢書』文帝紀:元年~崩御まで完結
『漢書』霍光伝より、皇帝を廃した名臣の表現技法
三国志を知るため『漢書』成帝紀を抄訳する
三国志を知るため『漢書』哀帝紀と平帝紀を抄訳する
『漢書』王莽伝下を抄訳し、光武帝を知る準備をする
『資治通鑑』 前漢の成帝期を抄訳・下(前13-07)
『資治通鑑』 前漢の成帝期を抄訳・中(前22-14)
『資治通鑑』 前漢の成帝期を抄訳・上(前32-23)
『資治通鑑』前漢の元帝期を抄訳(前48-33)
『資治通鑑』和訳/巻12_前199年-前188年
『資治通鑑』和訳/巻11_前202年-前200年
『資治通鑑』和訳/巻10_前204年-前203年
『資治通鑑』和訳/巻9_前206年-前205年
『資治通鑑』和訳/巻8_前208年-前207年
『資治通鑑』和訳/巻7_前227年-前209年
『資治通鑑』和訳/巻6_前255年-前228年
『漢書』巻71: 王莽伝3(赤眉と更始帝)
『漢書』巻69-70: 王莽伝2(居摂から最盛期)
『漢書』巻69: 王莽伝1(平帝の崩御まで)
『オイディプス王』を王莽伝として読む
『漢書』巻68: 元帝の王皇后伝(王莽のおば)
『漢書』巻67:成帝、哀帝、平帝の外戚伝
『漢書』巻10-12:成帝紀、哀帝紀、平帝紀
~春秋戦国
田横を知り、諸葛亮を知る
晏嬰を知り、諸葛亮を知る
管仲を知り、諸葛亮を知る
楽毅を知り、諸葛亮を知る
『史記』を読み直し、尭舜禹の禅譲劇を知る