表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国の人物が学んだ歴史を学ぶ

181年、檀石槐の死、霊帝の模擬店

『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

181年春夏、会稽の朱儁が、交趾を平定する

孝靈皇帝中光和四年(辛酉,公元一八一年)
春,正月,初置騄驥廄丞,領受郡國調馬。豪右辜榷,馬一匹至二百萬。
夏,四月,庚子,赦天下。 交趾烏滸蠻久為亂,牧守不能禁。交趾人梁龍等復反,攻破郡縣。詔拜蘭陵令會稽 硃俊為交趾刺史,擊斬梁龍,降者數萬人,旬月盡定;以功封都亭侯,征為諫議大夫。 六月,庚辰,雨雹如雞子。

181年春正月、はじめて騄驥厩丞を置いた。郡國から馬を徴発する、管理した。豪右が、良馬を独占したので、1匹で2百万になった。

李賢はいう。騄驥とは、善馬のこと。調とは、徴発だ。「辜」とは、障のこと。「榷」とは、専のこと。他の人が買うのをジャマして、自分だけ儲けることを言う。

180年夏4月庚子、天下を赦した。 交趾の烏滸蠻は、ひさしく乱をなす。牧守は、蛮を抑えられず。交趾人の梁龍らが、ふたたび郡縣を破った。蘭陵令する會稽の朱儁は、交趾刺史となった。朱儁は、梁龍を斬り、数万人をくだした。旬月のうちに、平らげた。朱儁は、都亭侯となり、諫議大夫となる。

胡三省はいう。烏滸蠻は、光和五年(182年)から見える。蘭陵県は、東海郡である。
ぼくは思う。交趾は、10年も治まらず。これを平定した朱儁は、すごい。三国志の人物、出てきましたね。

6月庚辰、ヒヨコくらいの雹が降った。

181年秋冬、三公が混乱し、檀石槐が死ぬ

秋,九月,庚寅朔,日有食之。 太尉劉寬免;衛尉許彧為太尉。 閏月,辛酉,北宮東掖庭永巷署災。 司徒楊賜罷。 冬,十月,太常陳耽為司徒。 鮮卑寇幽、並二州。檀石槐死,子和連代立。和連才力不及父而貪淫,後出攻北地, 北地人射殺之。其子騫曼尚幼,兄子魁頭立。後騫曼長大,與魁頭爭國,眾遂離散。魁 頭死,弟步度根立。

181年秋9月庚寅ついたち、日食した。 太尉の劉寬をやめた。衛尉の許彧を、太尉とした。 181年閏月辛酉、北宮の東掖庭の永巷署が、燃えた。 司徒の楊賜をやめた。181年冬10月、太常の陳耽を、司徒とした。

『考異』はいう。袁宏はいう。10月、許郁は、わるい人材をあげたから、やめた。楊賜を、太尉としたと。いま、范曄にしたがう。
『考異』はいう。袁宏はいう。光和3年閏月、楊賜はひさしく病で、やめた。10月、陳耽を司徒としたと。司馬光はいう。おそらく袁宏は、誤って閏月を、前年においた。長暦では、この年は、閏10月がある。だが袁宏は、閏9月と誤った。おそらく長暦には、1ヶ月のズレがあるのだ。范曄にしたがう。
ぼくは思う。范曄と袁宏が、どんな作業をしたか、考えるのは楽しい。暦の対照表でもつくって、記事を切り貼りしていたのだろうか。

鮮卑は、幽州と并州を寇した。檀石槐が死んだ。遺族が殺しあった。步度根が、鮮卑をひきいる。

ぼくは思う。檀石槐の後継あらそいは、はぶきましたが。これで鮮卑からの外圧が、へる。外圧が減ると、内乱が起きやすい。黄巾の乱が、勃発する準備がととのった。


181年、霊帝の模擬店を、呂強が諌める

是歲,帝作列肆於後宮,使諸采女販賣,更相盜竊爭鬥;帝著商賈服,從之飲宴為 樂。又於西園弄狗,著進賢冠,帶綬。又駕四驢,帝躬自操轡,驅馳周旋;京師轉相仿 效,驢價遂與馬齊。帝好為私畜,收天下之珍貨,每郡國貢獻,先輸中署,名為「導行 費」。
中常侍呂強上疏諫曰:「天下之財,莫不生之陰陽,歸之陛下,豈有公私!而今 中尚方斂諸郡之寶,中御府積天下之繒,西園引司農之藏,中廄聚太僕之馬;而所輸之 府,輒有導行之財,調廣民困,費多獻少,奸吏因其利,百姓受其敝。又,阿媚之臣, 好獻其私,容諂姑息,自此而進。舊典:選舉委任三府,尚書受奏御而已;受試任用, 責以成功,功無可察,然後付之尚書舉劾,請下廷尉覆案虛實,行其罪罰。於是三公每 有所選,參議掾屬,咨其行狀,度其器能;然猶有曠職廢官,荒穢不治。今但任尚書, 或有詔用,如是,三公得免選舉之負,尚書亦復不坐,責賞無歸,豈肯空自勞苦乎!」 書奏,不省。

霊帝が、後宮で売店をした。中常侍の呂強が諌めたが、霊帝はかえりみず。

売店の描写は、有名なので、はぶきます。


何皇後性強忌,後宮王美人生皇子協,後鴆殺美人。帝大怒,欲廢後;諸中官固請, 得止。 大長秋華容侯曹節卒;中常侍趙忠代領大長秋。

何皇后は、嫉妬ぶかい。王美人が劉協を生むと、王美人を鴆殺した。霊帝は大怒し、何皇后を廃したい。宦官たちが、固くとめたので、何皇后をのこした。

ぼくは思う。何皇后と、宦官の関係が気になる。皇后だから、関係がふかいのは、当然。ただ、宦官が霊帝の叛いてまで、何皇后をのこしたのは、なぜか。何皇后に恩を、たっぷり売ってあったからか。

大長秋する華容侯の曹節が死んだ。中常侍の趙忠が、曹節に代わって、大長秋となった。101215

ぼくは思う。大長秋の曹節は、宦官の傑物。168年に霊帝を即位させ、181年に死ぬまで、朝廷を取り仕切った。曹節は、ともに霊帝を即位させた、竇武と陳蕃を殺した。同僚の王甫が、司隷校尉の陽球に殺されると、曹節は陽球を獄死させた。霊帝の宦官といえば、張讓と趙忠が有名だが、張讓と趙忠は、曹節の後任だ。
いま、曹節の時代が、やっと終わった。つぎは、趙忠と張讓の時代。ところで趙忠は、トップの大長秋だ。張讓と趙忠の、上下関係は?