いつか書きたい『三国志』 > 漢文和訳
日本では翻訳が出版されていない『晋書』や『宋書』は、自力で翻訳を試みます。
日本で岩波書店より翻訳が出版されている『後漢書』ですが、翻訳というより書き下し文なので、その口語訳を試みます。
作った順に並んでいるので、検索性が悪いですね。ぼちぼち直します・・・
『資治通鑑』等を和訳・抄訳
『資治通鑑』030-038年、隗囂と公孫述を平定
『資治通鑑』027-029年、赤眉と山東を平定
『後漢紀』165年、楊秉がいさめ、竇皇后がたつ
『後漢紀』163-164年、种暠、楊秉、度尚、史弼
『後漢紀』161-162年、陳蕃の推挙、朱穆の憤死
『後漢紀』159-160年、李雲の諫言、黄瓊の改革
『後漢紀』157-159年、劉陶の改鋳、寇栄の冤罪
『後漢紀』152-156年の抄訳、漢の命数は中天に
『資治通鑑』201年-207年、抄訳セット8年分
『資治通鑑』209年、『資治通鑑』210年、『資治通鑑』211年
『資治通鑑』212年、213年、214年、215年、216年、217年、
『資治通鑑』218年の抄訳、219年の抄訳:関羽の死
『資治通鑑』220年の抄訳:曹丕の豹変
『資治通鑑』221年の抄訳:皇帝劉備と呉王孫権
『資治通鑑』222年の抄訳:愛すべきダメ君主・曹丕
『資治通鑑』223年の抄訳:諸葛亮の執政、魏呉の絶交
『資治通鑑』224年の抄訳:曹丕が寿春、広陵にゆく
『資治通鑑』225年の抄訳:諸葛の南征、曹丕の凍結
『資治通鑑』226年の抄訳:曹丕の死、孫権の交州獲得
『資治通鑑』227年の抄訳、出師の表と、荊豫の司馬懿
『資治通鑑』228年の抄訳:馬謖と曹休の敗死
『資治通鑑』229年の抄訳:孫権が皇帝即位、三国で内政
『資治通鑑』230年の抄訳、曹休と長雨、満寵の合肥
『資治通鑑』199年、198年、197年、196年、195年、
194年、193年、192年、191年、190年、189年、188年
『資治通鑑』の翻訳、155年、156年だけやりました
『資治通鑑』前1年、前漢哀帝が崩じ、王莽が再登場
『資治通鑑』後1年、王莽が安漢公となる
『資治通鑑』後2年、匈奴を侮り、莽の娘が皇后に
『資治通鑑』後3年、王莽が、長子と叔父を殺す
『漢書』王莽伝下を抄訳し、光武帝を知る準備をする
『資治通鑑』164年、郭泰が後漢を見棄てる
『資治通鑑』165年、鄧皇后と宦官の五侯が消滅
『資治通鑑』166年、陳蕃ら太学派と、桓帝派が衝突
『資治通鑑』167年、李膺を釈放し、桓帝が死ぬ
『資治通鑑』168年、陳蕃と竇武が、栄えて滅ぶ
『資治通鑑』169年、青蛇、二次党錮、袁氏復活
『資治通鑑』170-171年、橋玄が司空、霊帝が元服
『資治通鑑』172年、曹節と王甫、竇后の死体をいびる
『資治通鑑』173-176年、霊帝の宦官が安定支配
『資治通鑑』177年、霊帝が鴻都門に人材を集める
『資治通鑑』178年、官位を売り、桓帝の赤字解消
『資治通鑑』179年、陽球が王甫を殺し、曹節に殺さる
『資治通鑑』180年、何皇后を立て、造園に励む
『資治通鑑』翻訳、181年、182年、183年
『資治通鑑』184年、中央の政変としての、黄巾
『資治通鑑』185年、崔烈の涼州放棄、張温の遠征、186年、187年
『資治通鑑』翻訳:160年、161年、162年、163年
『資治通鑑』159年、桓帝が梁冀を誅し、冀に代わる
『資治通鑑』翻訳:153,154,155,156,157,158年
『資治通鑑』翻訳:149年、150年、151年、152年
『資治通鑑』148年、劉翼と劉慶とを尊ぶ
『資治通鑑』147年、李固と杜喬ら、劉蒜派を殺す
『資治通鑑』146年、梁冀と曹騰が、桓帝を立てる
『資治通鑑』翻訳:142年、143年、144年、145年
『資治通鑑』翻訳:138年、139年、140年、141年
『資治通鑑』137年、交趾刺史が遠征できない
『資治通鑑』翻訳、134年~136年:梁冀の登場
『資治通鑑』025-026年:劉秀が皇帝を自称する
『資治通鑑』023-024年:王莽の死、劉秀の自立
『資治通鑑』123年、124年、125-133年:順帝の改革
『資治通鑑』115年、116-119年、120年、121年、122年
『資治通鑑』107年、108・109年、110年、110-114年
『資治通鑑』102年、103年-105年、106年:鄧氏
『資治通鑑』095年・096年、097年、098年-101年
任光・任隗伝:父は光武帝を拾い、子は袁安と協調
『資治通鑑』092年、093年、094年:南北匈奴と西域
『資治通鑑』089年、090年、091年:袁安と竇憲の対決
『資治通鑑』088年、竇太后が臨朝、鄧彪と劉暢を頼る
『晋書』より翻訳
『晋書』載記の劉曜伝、匈奴の儒教皇帝の限界
『晋書』載記の劉粲伝と陳元達伝から、漢の末路
『晋書』載記の劉聡伝を訳し、胡漢融合の可能性
『晋書』載記の劉淵伝より、劉和と劉宣/子と従祖父
『晋書』から劉元海伝を訳し、西晋から自立する
『晋書』列伝34、元帝の4人の子の翻訳
『晋書』列伝59の「忠義」より、洛陽に殉じた、東晋人・沈勁を翻訳
『晋書』列伝63の「外戚」より、を康帝の褚氏まで翻訳
『晋書』帝紀9、簡文帝と孝武帝の翻訳
『晋書』帝紀10、安帝と恭帝の翻訳
『晋書』桓温伝 の翻訳と小考 ~洛陽を取り戻した男~
『晋書』列伝52、蜀漢正統論の習鑿歯伝を翻訳
『晋書』東晋の本紀を贅沢に翻訳/322年~372年
(明帝、成帝、康帝、穆帝、哀帝、廃帝、全19ページ)
『晋書』列20より、曹操の「孫」 曹志、秦秀
『晋書』列伝70、以下の反逆者の列伝を翻訳
王弥、張昌、陳敏、王如、杜曾、杜弢、王機他
『晋書』列39、元帝の逃げ場 ~王敦に比肩した人~
劉隗、刁協、戴淵、戴邈、周顗
『晋書』列68、王敦伝 ~元帝に即位を後悔させた男~
『晋書』列伝3、建国の功臣(列伝の抄訳版)
『晋書』列14、以下の漢魏からの名族を翻訳
鄭袤、鄭黙、李胤、盧欽、盧志、盧諶、華表、
華暠、華恆、華嶠、石鑒、温羨
『晋書』列32、西晋末に并州をキープした劉琨の兄弟
『晋書』列34、武帝の子と元帝の子
『晋書』列伝38の翻訳(呉の人たち) 顧榮、紀瞻、賀循、楊方と薛兼
『晋書』列伝60「良吏」より以下を翻訳
魯芝、胡威、杜軫と竇允、王宏と曹攄、潘京と丁紹、喬智明と鄧攸
『晋書』列傳59「忠義」より以下を翻訳
嵇紹、嵇含、王豹、劉沈、麹允と焦嵩と賈渾、王育と韋忠、辛勉と劉敏元
『晋書』志第十四「職官」の翻訳
『晋書』列伝9より、「荀顗・荀勖伝」を翻訳
『晋書』列伝34、「司馬允&司馬覃伝」翻訳
『晋書』列伝29より、「司馬冏伝」を抄訳
『晋書』列伝29より、「司馬顒伝」、「司馬越伝」、「司馬頴伝」、「司馬乂伝」を翻訳
『晋書』載記より、「李流・李庠・李雄伝」を翻訳
『晋書』列伝26より、「孫楚伝」と、「江統伝」を翻訳
『晋書』列伝12より「王渾&王済伝」を邦訳
『晋書』列伝13より「王戎&王衍伝」を訳出
『晋書』列伝9より、「王沈&王浚伝」を翻訳
『晋書』列伝10より、「賈充伝」と、「賈謐伝」他賈氏を翻訳
『晋書』列伝5より、「裴秀伝」と、「裴頠伝」を翻訳
『晋書』列伝23、司馬遹「愍懐太子伝」翻訳!
『晋書』列伝8より、「斉王攸伝」を翻訳してみた(翻訳初体験でした)
後漢書より口語訳と考察
『後漢書』「光武帝紀」を楽しむ(全12回)
『後漢書』百官志の翻訳
明帝&章帝&和帝の時代(ファザコンとマザコン)
宦官コンプリート作戦
破壊者・梁冀の血の成分
法正の先祖は列伝あり、法雄・法真伝
劉繇の伯父、循吏の劉寵伝
後漢の「御三家」、章帝八王
ユニット名は「涼西の三明」 『後漢書』列伝55より
『後漢書』本紀8を口語訳、党錮と黄巾の間
『後漢書』本紀7を口語訳、桓帝とは何者か
『後漢書』本紀6を口語訳、三国志の開幕
『後漢書』列伝35より、「袁安伝」を口語訳
その他の史料(資治通鑑、宋書や北魏書など)
裴注の『漢晋春秋』を斜め読み/引用と考察
『三国志集解』翻訳、蜀の五虎将軍の列伝の盧弼注
『宋書』本紀第一「武帝紀」を読む/劉裕の伝記
『宋書』本紀第三「文帝紀」をバラす/劉義隆の伝記
『宋書』本紀第二「少帝紀」の翻訳/劉義符の伝記
『宋書』州郡志を抄訳、勢力地図を楽しむ
『宋書』裴松之の列伝を訳し、魏晋への愛を感じる
『魏書』列伝84「僭晉司馬叡」を翻訳
『魏書』列伝85「島夷桓玄」を翻訳
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『通俗続三国志』口語訳-巻01:成都の脱出
『通俗続三国志』口語訳-巻02~04:英雄集結
『群書治要』で『晋書』を学び、教養人に仲間入り