表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』から劉元海伝を訳し、西晋から自立する

1)長城の南の異民族

五胡十六国時代を始めた張本人、劉淵について、『晋書』を翻訳します。

匈奴の歴史から喋る

劉元海,新興匈奴人,冒頓之後也。名犯高祖廟諱,故稱其字焉。初,漢高祖以宗女為公主,以妻冒頓,約為兄弟,故其子孫遂冒姓劉氏。建武初,烏珠留若鞮單于子右奧鞬日逐王比自立為南單于,入居西河美稷,今離石左國城即單于所徙庭也。中平中,單于羌渠使子於扶羅將兵助漢,討平黃巾。會羌渠為國人所殺,於扶羅以其眾留漢,自立為單于。

劉淵は、新興郡の匈奴である。冒頓の後裔である。

匈奴なら、みんな冒頓単于の子孫を名乗るのかなあ・・・と思い、赫連勃勃さんの載記を見た。すると「劉淵の一族で」と書いてあった(笑)

劉淵の名が、高祖の名前を犯すので、あざなで記す。

唐の高祖、李淵と被るのだ。『三国志』が唐代に編まれてたら、夏侯淵さんは、夏侯妙才と書かれてましたね。ぼくは唐に尊敬を払う立場ではないので、まんま劉淵の諱で書きます。

はじめ前漢の高祖(劉邦)は、劉氏一族の女を公主(皇帝の娘)として、冒頓単于の妻にして、兄弟の盟約を結んだ。だから冒頓単于の子孫は、劉氏の姓を冒す。

たんに「劉姓を名乗る」ではなく、「劉姓を冒す」という。『晋書』の立場が、この動詞を選んだ。

後漢の光武帝の建武年間の初め、烏珠留若鞮單于の子である、右奧鞬日逐王比は、南單于から自立して、西河の美稷に移り住んだ。いまの離石左國城は、匈奴が移住した地域である。

西暦50年、南北に分裂した匈奴のうち、南側が後漢の領土に移り住んだ。後漢は、使匈奴中郎将を設置して、これを統治した。
どうでもいいが、会社の電話で先方の社名・部署名・名前が聞き取れなくても、ここに書いてある匈奴の指導者の当て字ほど、ひどくはなるまい(笑)

後漢の霊帝の中平年間、羌渠単于は、子の於扶羅に兵を率いさせ、後漢を助けた。於扶羅は、黄巾の乱を討平した。たまたま羌渠単于が国人に殺されたから、於扶羅は軍を後漢に留め、自立して単于となった。

屬董卓之亂,寇掠太原、河東,屯於河內。於扶羅死,弟呼廚泉立,以於扶羅子豹為左賢王,即元海之父也。魏武分其眾為五部,以豹為左部帥,其餘部帥皆以劉氏為之。太康中,改置都尉,左部居太原茲氏,右部居祁,南部居蒲子,北部居新興,中部居大陵。劉氏雖分居五部,然皆居於晉陽汾澗之濱。

董卓の乱にかこつけて、太原郡や河東郡を寇掠し、匈奴は河内郡に屯した。於扶羅が死ぬと、弟の呼廚泉が立った。於扶羅の子である劉豹を左賢王とした。劉豹が、すなわち劉淵の父である。

年代が合わないから、劉淵はオフラの孫ではないらしい。ただ匈奴のリーダーに結びつけただけだと。

魏武(曹操)は、匈奴の民族を5部に分割した。劉豹を左部帥として、他の4部も劉姓を名乗らせた。
太康年間、5部を改めて都尉を設置した。左部は太原郡の茲氏に住み、右部は祁に、南部は蒲子に、北部は新興に、中部は大陵に住んだ。劉氏は5部に分割されたけれども、みな晋陽で、汾水や澗水の周辺にいた。

曹操は匈奴をバラバラにしたつもりだ。だが匈奴は、連絡を失わず、キバは抜かれていませんよ、という伏線か。曹操と言えど、五胡時代のように本格的な徙民をするエネルギーはなかったのだろう。もしくは、それほど匈奴を脅威に思ってなかった?

劉淵の誕生神話

豹妻呼延氏,魏嘉平中祈子于龍門,俄而有一大魚,頂有二角,軒鬐躍鱗而至祭所,久之乃去。巫覡皆異之,曰:「此嘉祥也。」其夜夢旦所見魚變為人,左手把一物,大如半雞子,光景非常,授呼延氏,曰:「此是日精,服之生貴子。」寤而告豹,豹曰:「吉征也。吾昔從邯鄲張冏母司徒氏相,雲吾當有貴子孫,三世必大昌,仿像相符矣。」自是十三月而生元海,左手文有其名,遂以名焉。齠齔英慧,

劉豹の妻は、呼延氏である。
呼延氏は、魏の嘉平年間(249-254)、龍門で子宝が授かるように祈った。にわかに1匹の大きな魚が現れた。頭には2本の角があり、鱗を躍らせて、祭壇に登った。しばらく祭壇にいて、大魚は去った。巫覡は、みなこれを奇異なことだとして、コメントした。
「これは嘉祥だ」
その夜、呼延氏は夢を見た。昼に見た魚が人に変わり、左手には何かを持っていて、大きさは鶏のタマゴの半分くらいだった。その光景は普通ではなかった。魚人は呼延氏に、左手のものをを渡して、言った。
「これは日精である。これを飲めば、貴い子を産むだろう」

黄河の魚なのか?なぜ内陸&騎馬のイメージが強い郷土の、帝王出征譚が、魚をモチーフにしたんだろう。

呼延氏は、劉豹に夢の話をした。劉豹は言った。
「いい夢だ。私はむかし、張冏母の司徒氏相に従って邯鄲に行った。そこで私は、予言をもらった。子孫は貴くなる。3代のうちに、必ず大いに昌えると。私が聞いた予言と、お前の夢は、メッセージが一致する」
それから13ヶ月たって、劉淵が生まれた。左手には、模様が浮き出ていたから、その模様を名前にした。

左手に浮かんだ模様は「淵」ですね。なるほど!名前が「淵(ふち)」だから、水つながりで、魚人だったわけね。おそまつ。

西晋で活躍したい志

七歲遭母憂,擗踴號叫,哀感旁鄰,宗族部落鹹共歎賞。時司空太原王昶聞而嘉之,並遣吊賻。幼好學,師事上党崔游,習《毛詩》、《京氏易》、《馬氏尚書》,尤好《春秋左氏傳》、《孫吳兵法》,略皆誦之,《史》、《漢》、諸子,無不綜覽。

劉淵は成長すると、英慧な子になった。7歳のときに、母の呼延氏が死んだ。母の死を哀しむ仕草は、擗踴號叫で、悲しみ方が周囲の人を感動させた。一族の部落では、劉淵の孝心をほめまくった。

親の死を悲しんで、その激しさが評価されるとは・・・匈奴はずいぶんと漢化している。儒教の作法を、受け入れています。

ときの司空の太原郡の王昶は、劉淵の孝行エピソードを聞いて嘉し、弔問の贈り物をやった。
劉淵は、幼くして学問を好んだ。上党郡の崔游に師事し、『毛詩』『京氏易』『馬氏尚書』を習った。もっとも好んだのは、『春秋左氏傳』『孫吳兵法』で、みな暗誦した。

三国志のキャラたちも好んだ本です。『左氏伝』で歴史における正義を知り、『孫子』で国家経営を学んだんでしょう。のちに劉淵は漢を建国するんですが、劉淵の頭の中は、三国志の英雄たちと同じだ。だてに国号を漢としていない。

『史記』『漢書』やその他諸子など、目を通さないものはなかった。

嘗謂同門生硃紀、範隆曰:「吾每觀書傳,常鄙隨陸無武,降灌無文。道由人弘,一物之不知者,固君子之所恥也。二生遇高皇而不能建封侯之業,兩公屬太宗而不能開庠序之美,惜哉!」於是遂學武事,妙絕於眾,猿臂善射,膂力過人。

かつて劉淵は、同門の学生である朱紀や範隆が言った。
「本で読んだところによると、隨何と陸賈には武力がなかった。

隨何は、鯨布を項羽から劉邦に寝返らせた。口がよく回ったので、劉邦に腐れ儒者だと言われた。「あのとき漢軍は5万5千でした。5万5千で鯨布は動かせませんでした。私は鯨布を動かしたんですから、私は5万5千より価値がある」と、巧みに言い返した。
陸賈は劉邦に儒教を勧めた。「私は馬上で天下を取った。儒教なんて要らん」と劉邦が言うと、「馬上で天下を治められますか」と、やり返した。

周勃と灌嬰には学文がなかった。

周勃は、劉邦に「私の死後に漢を任せられる人だ」と言われた。呂氏が簒奪を狙うと、無事に防いだ。だが政治抗争が下手で、殺されそうになった。「私は100万の軍を指揮したこともある。だが、獄吏がこんな強いとは思わなかった」と、間抜けに感心した。
灌嬰も、呂氏を抑止した人。軍功はいっぱいあるが、単細胞だった?

人の能力は広くなければならない。武か文、1つしか知らないのは、君子が恥じるところだ。
二生(隨何と陸賈)は、前漢の高帝(劉邦)に仕えたのに、封侯之業を建てなかった。兩公(周勃と灌嬰)は、前漢の文帝(劉恒)に仕えたのに、庠序之美を開かなかった。惜しいことだ」
これを聞いた劉淵は、学問だけでなく、武芸をやるようになった。格段に上達した。猿臂(長い腕)だったので射撃が上手く、膂力は人を上回った。

部活動に目覚めた・・・だけでは、中学生である。前漢初期の功臣より偉くなろうという劉淵の野心を見るべきでしょう。折りしも劉淵が少年だったのは、西晋の成立期だ。文武の両面から、活躍する機会は多い。
先のことを言ってしまえば、劉淵は異民族だというハンデが邪魔して、西晋で栄達できなかった。西晋を滅ぼす側に回った。西晋が、異民族にも活躍の道を開いていれば、八王の乱が起きようとも、滅びなくて済んだのにね。