表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』から劉元海伝を訳し、西晋から自立する

3)司馬頴をだまして、建国

西晋の貴族社会で、いまいち立ち位置の見つからない劉淵です。若いときの不遇を、流涕しまくった。この涙は、どこに発散されるのでしょう・・・

35年の洛陽生活の終わり

會豹卒,以元海代為左部帥。太康末,拜北部都尉。明刑法,禁奸邪,輕財好施,推誠接物,五部俊傑無不至者。幽冀名儒,後門秀士,不遠千里,亦皆遊焉。楊駿輔政,以元海為建威將軍、五部大都督,封漢光鄉侯。元康末,坐部人叛出塞免官。成都王穎鎮鄴,表元海行甯朔將軍、監五部軍事。

父の劉豹が死ぬと、劉淵は左部帥を継いだ。太康末(289年)、劉淵は北部都尉となった。刑法を明らかにし、奸邪を禁じた。劉淵は、財を軽んじて施しを好み、誠を推して物に接した。
匈奴の五部にいる俊傑たちのうち、劉淵を訪問しない人はいなかった。幽州や冀州の名儒や、外戚の一族の秀士は、千里を遠しとせず、みな劉淵に会いにきた。

「会って親交を結ぶ」というのは、西晋の貴族社会で、もっとも重要なステータス固めです。向こうから会いにくるのは、最大の名誉です。
劉淵は、北部都尉になって、本人の才腕を初めて世に示した。結果、他州の出身者にも、認められた。もう、故郷の先輩の推薦に頼らなくて良い。州レベルの人材を脱して、全国に通用する人材になった。

司馬炎が死んで、楊駿が輔政した。楊駿は、劉淵を建威將軍、五部大都督として、「漢光郷侯」に封じた。

のちに劉淵は「漢」を建国します。国名には、臣下時代に封じられた、領地の名前を採用します。楊駿に封じられたのが、劉淵が「漢」を冠する最初だったようで。「姓が劉だから、国は漢」という単純なノリだけじゃなかろう。
曹魏を挟んでも、漢の地名は消えてない。

元康末(299)年、劉淵は、部曲の人が叛乱したのに連座して、塞外に出されて免官になった。成都王の司馬穎が鄴城に出鎮すると、上表して、劉淵を行甯朔將軍、監五部軍事とした。

299年は、賈皇后の時代だ。賈皇后は290年代前半、楊駿の一派を掃討した。でも劉淵は、賈皇后から攻撃されなかったらしい。
299年の部曲の叛乱の経緯が分かりませんが・・・魏末からこのときまで、35年も洛陽にいたことになる。根っからの都会人である。


惠帝失馭,寇盜蜂起,元海從祖故北部都尉、左賢王劉宣等竊議曰:「昔我先人與漢約為兄弟,憂泰同之。自漢亡以來,魏晉代興,我單于雖有虛號,無複尺土之業,自諸王侯,降同編戶。今司馬氏骨肉相殘,四海鼎沸,興邦複業,此其時矣。左賢王元海姿器絕人,幹宇超世。天若不恢崇單于,終不虛生此人也。」

惠帝が政治を誤り(っていうか何も出来ず)、八王の乱が始まった。寇盜が蜂起した。

290年代は、賈皇后が裴頠ら名士に政治を任せて、安定したと言われる。劉淵もまた、290年代は穏やかな官人生活を送っていた。おかげで、列伝にこの時期の記述がない。どうしてくれるんだ(笑)
劉淵が自立を目指すのは、八王の乱のせいだ。先に越度を作ったのは、西晋の側である。司馬炎の時代に、劉淵は西晋に忠誠を誓っていた。いま劉淵が西晋に敵対しても、裏切りではなかろう。

劉淵の從祖父で、もと北部都尉で左賢王の劉宣らが、ひそかに宣言した。
「むかし我が匈奴と、漢皇帝の劉氏は、兄弟の盟約を結んだ。憂いも安らぎも同じくした。漢が滅びてから、魏晋が代わる代わる興った。匈奴の単于は、称号だけは残っているが、少しの領土すらない。諸王侯から、平民にランクダウンされた」
劉宣はまだ喋ります。
「 いま司馬氏は、骨肉の争いをやり、四海は盗賊によって鼎沸している。匈奴の国を興し、単于の事業を復活させるのは、まさに今がチャンスである。左賢王の劉淵は、容姿や器量が、人より抜群に優れている。民族を主幹して、世代を超えてつなぐことができる。もし天命が匈奴の単于を見捨てているならば、劉淵のような英雄を出現させなかっただろう」


於是密共推元海為大單于。乃使其党呼延攸詣鄴,以謀告之。元海請歸會葬,穎弗許。乃令攸先歸,告宣等招集五部,引會宜陽諸胡,聲言應穎,實背之也。

ここにおいて、ひそかに匈奴たちは、劉淵を大単于に祭り上げることにした。郎党の呼延攸は鄴に行き、劉淵に匈奴たちの作戦を告げた。
劉淵は、
「身内の葬儀をやりたいので、故郷の并州に帰らせて下さい」
と、上司の司馬頴に願い出た。司馬頴は、許さなかった。
劉淵は、呼延攸に先に帰らせ、従祖父の劉宣らに、五部の人々を集めさせた。宜陽に諸胡が集まった。表向きは、司馬頴に呼応するための召集だったが、実は司馬頴に叛くつもりだった。

司馬頴からの独立

穎為皇太弟,以元海為太弟屯騎校尉。惠帝伐穎,次於蕩陰,穎假元海輔國將軍、督北城守事。及六軍敗績,穎以元海為冠軍將軍,封盧奴伯。

司馬頴は、八王の乱を有利に運び、皇太弟になった。司馬頴は劉淵を、皇太弟の屯騎校尉とした。恵帝は、司馬頴を討伐するために、蕩陰に入った。司馬頴は、劉淵を輔國將軍、督北城守事とした。
司馬頴が、恵帝の六軍を破った。

有名な蕩陰の戦いである。侍中の嵇紹が身体を張って、恵帝を守った。嵇紹は死んでしまった。
「衣に血が付いています。クリーニングに出しましょう」
と言われた恵帝は、
「これは忠臣の血だ。洗い落としたくない」
と言った戦いだ。つまり、恵帝に白刃が迫るほど、司馬頴が圧勝した。

司馬頴は劉淵を、冠軍將軍として、盧奴伯に封じた。

せっかく封じてもらって悪いんだが(笑)盧奴伯って字面に、差別を感じる。


並州刺史東嬴公騰、安北將軍王浚,起兵伐穎,元海說穎曰:「今二鎮跋扈,眾餘十萬,恐非宿衛及近都士庶所能禦之,請為殿下還說五部,以赴國難。」穎曰:「五部之眾可保發已不?縱能發之,鮮卑、烏丸勁速如風雲,何易可當邪?吾欲奉乘輿還洛陽,避其鋒銳,徐傳檄天下,以逆順制之。君意何如?」

並州刺史で東嬴公の司馬騰と、安北將軍の王浚は、司馬頴を討つために挙兵した。劉淵は、司馬頴を説得した。
「いま二鎮(司馬騰の并州、王浚の幽州)が、跋扈しています。敵軍は10万人です。いまの鄴の守備兵では、防ぐことができないでしょう。私を故郷に帰らせて下さい。匈奴の五部を動員して、この鄴を救うために駆けつけたいと思います」

捕虜となった太史慈が、孫策に持ちかけた約束を思い出す。あのとき太史慈は、わざわざ制限時間ギリギリまで引きつけて、帰ってきた。

司馬頴は、疑問を投げかけた。
「劉淵よ。五部の軍兵の召集は、すでに終わったんじゃないか」

するどい!確かに劉淵は、従祖父の提案に沿って、司馬頴のために召集したことになってる。同じ言い訳を、2回も使ってしまうとは、劉淵も甘いな。
「無断欠勤の理由は、祖母が病気になったからで」
「でも、すでに祖母の葬式と称して、2回も慶弔休暇を取っているだろ。ウソをつきやがって」
というのと、同じ展開である。

司馬頴は、さらに言った。
「匈奴の五部を動員できたしよう。だが、司馬騰や王浚は、鮮卑や烏丸を使っている。鮮卑や烏丸が強くて速いさまは、風雲のようだ。匈奴なんかに、鮮卑や烏丸の相手が務まるかな。敵わんだろうなあ」

舐められたものだな・・・匈奴。
司馬頴の頭の中は、こうである。強くはないが、全くの無能でもない匈奴を、都合よく使い切って捨ててやろうと。
いくら劉淵が、「文武を兼ね備えて、王朝の役に立ちたい」という忠義の人でも、これじゃあ仕え損だな。仕損じだな(笑)

司馬頴は、今後の戦略を語った。
「私は恵帝を連れて、鄴から洛陽に戻るつもりだ。洛陽に戻れば、鮮卑や烏丸の、鋭い矛先を避けることができる。安全な洛陽に入ってから、ゆっくりと天下に檄を飛ばし、皇帝の威光を使って、司馬騰や王浚を制するつもりだ。劉淵くんは、どう思うかね」

「逆順を以て、これを制す」とは、面白い表現だ。鮮卑や烏丸の武力に、匈奴の武力をぶつけるのは、下策である。消耗するし、負けるかも知れない。
ではどうするか。
鮮卑や烏丸の武力には、皇帝をトップとした秩序で対抗する。司馬頴は、それが出来ると思っている。


元海曰:「殿下武皇帝之子,有殊勳於王室,威恩光洽,四海欽風,孰不思為殿下沒命投軀者哉,何難發之有乎!王浚豎子,東嬴疏屬,豈能與殿下爭衡邪!殿下一發鄴宮,示弱於人,洛陽可複至乎?縱達洛陽,威權不復在殿下也。紙檄尺書,誰為人奉之!且東胡之悍不逾五部,願殿下勉撫士眾,靖以鎮之,當為殿下以二部摧東嬴,三部梟王浚,二豎之首可指日而懸矣。」穎悅,拜元海為北單于、參丞相軍事。元海至左國城,劉宣等上大單于之號,二旬之間,眾已五萬,都于離石。

劉淵は、司馬頴に答えた。
「司馬頴さまは、武帝・司馬炎さまの子です。威権があります。司馬頴さまのためなら、身命を惜しむ人はいません。王浚のようなガキと、皇族の亜流・司馬騰が、どうして司馬頴さまに敵うものでしょうか。だのに、なぜ司馬頴さまはわざわざ鄴宮を逃げ出して、『私は、王浚や司馬騰より弱いんだ』と宣伝しようと仰る。無意味どころか、墓穴を掘っています」
劉淵は、まだ喋ります。
「もし洛陽に戻ったとしても、いちど鄴宮を逃げ出したのですから、司馬頴さまの威権は回復しません。檄文を書いたところで、誰が紙切れに従うでしょうか。東胡(鮮卑や烏丸)より、我が匈奴の五部の方が強いのです。鄴宮に留まり、武力にて、司馬騰と王浚を捕えて、首を晒してやればよいでしょう」

劉淵のニーズは、司馬頴のところを離れて、故郷に帰ることだ。それは明白。
要求を通すために、ひたすら相手の自尊心をくすぐる。とても有効。劉淵が見抜いた司馬頴のプライドとは、司馬炎の息子であること。順序が回れば、西晋の皇帝になる権利がある。
プライドがないと、人間はたちまち自殺するしかない。だが、人が何かを誤るときは、たいていはプライドのせいだ。・・・と、分かったようなことは言えるが、教訓とするには難しすぎる。

司馬頴は、劉淵の言葉に悦んだ。

司馬頴が、夕日を浴びた鄴城外とかで、劉淵に言ったんだ。
「行け。強い匈奴を連れて、必ず戻れ」
なんてさあ、見栄を切ったのでしょう。走れメロスである。
劉淵は、腹の中では大爆笑をしながら、でも表面上は謙虚を装ったんだろう。異民族の奴隷としての、態度に徹したのでしょう。
五胡十六国が始まる瞬間です。

司馬頴は、劉淵を北單于、參丞相軍事とした。劉淵は左國城に到着した。劉宣らは、「上大單于」の称号を劉淵に名乗らせた。20日の間に、劉淵の兵は5万人になり、離石に都を定めた。