7)周の文王や曹操にならず
司馬騰と劉琨を追い出し、国土を獲得しました。
皇帝への即位
永嘉二年,元海僭即皇帝位,大赦境內,改元永鳳。以其大將軍劉和為大司馬,封梁王,尚書令劉歡樂為大司徒,封陳留王,御史大夫呼延翼為大司空,封雁州郡公,宗室以親疏為等,悉封郡縣王,異姓以勳謀為差,皆封郡縣公侯。
永嘉二(308)年、劉淵は皇帝を名乗った。領国を大赦して、「永鳳」と改元した。
大將軍の劉和を大司馬とし、梁王に封じた。尚書令の劉歡樂を、大司徒として、陳留王に封じた。御史大夫の呼延翼を、大司空として、雁州郡公に封じた。
宗室の劉氏らは、みな郡縣王に封じられた。異姓で勳謀のある人は、それぞれ郡縣公侯に封じられた。
太史令宣于修之言於元海曰:「陛下雖龍興鳳翔。奄受大命,然遺晉未殄,皇居仄陋,紫宮之變,猶鐘晉氏,不出三年,必克洛陽。薄子崎嶇,非可久安。平陽勢有紫氣,兼陶唐舊都,願陛下上迎乾象,下協坤祥。」於是遷都平陽。汾水中得玉璽,文曰「有新保之」,蓋王莽時璽也。得者因增「泉海光」三字,元海以為己瑞,大赦境內,改年河瑞。封子裕為齊王,隆為魯王。
太史令の宣于修之は、劉淵に言った。
「陛下は龍が天に昇り、鳳凰が飛翔するように、漢の天命を受けました。しかし西晋はまだ残っています。3年後には、西晋を洛陽を奪うことが出来るでしょう。首都を失った西晋は、長続きしません。さて、平陽には紫氣が昇っています。平陽は、陶唐(堯)がかつて都を置いた場所です。陛下は、乾坤を両極とした、この世のあらゆるものを味方に付けて下さい」
ここにおいて平陽に遷都した。
また、3年後に洛陽を奪えるというのは、正解します。
汾水の中から、玉璽を得た。玉璽には、
「有新保之(新王朝がこれを保つ)」
と書いてあった。おそらく王莽のときの玉璽だろう。
漢王に即位したときも、前漢の5人の皇帝を褒めまくったが、後漢には冷淡だった。
ただし歴史的事実は無視できないから、劉禅を嗣ぐという名目を立てたけどね。
玉璽を拾った人は、「泉海光」の3字を追加した。
これは、実はとても都合が悪い!
漢室は火徳だった。「水克火」であり、水は火を消す。漢を放伐しそうな名だ。漢を継ぐなら、もっとファイアー系の名前が良かったのでは?
また、西晋は金徳だが、金は水を生じる。西晋から禅譲を受けるなら、水にちなむ劉淵は適任である。魏晋を正統と認めず、大陸の歴史から消してやろうというのが、劉淵の立場だ。まったくうまくいかない。
「淵」という名と、「元海」というあざなが先にあった。西晋に対抗することは、当初は予定されていなかった。極めて当たり前だが、時系列で語れば、成り行きの説明しか付けられない。
劉淵の名は、予めプログラムされた漢皇帝の徳など、劉淵にはないと、宣伝するようなものだな(笑)
劉淵は、王莽の玉璽を瑞祥だとして、大赦をした。「河瑞」と改元した。子の劉裕を齊王とした。
子の劉隆を、魯王とした。
洛陽への進撃
於是命其子聰與王彌進寇洛陽,劉曜與趙固等為之後繼。東海王越遣平北將軍曹武、將軍宋抽、彭默等距之,王師敗績。聰等長驅至宜陽,平昌公模遣將軍淳于定、呂毅等自長安討之,戰于宜陽,定等敗績。聰恃連勝,不設備,弘農太守垣延詐降。夜襲,聰軍大敗而還,元海素服迎師。
ここにおいて劉淵は、子の劉聡と、王弥に命じて、洛陽に進撃させた。劉曜と趙固らは、後詰をさせた。
東海王の司馬越は、平北將軍の曹武と、將軍の宋抽、彭默らに、劉淵軍を防がせた。司馬越の軍は、敗れた。
劉聡は、長躯して宜陽に到った。平昌公の司馬模は、將軍の淳于定、呂毅らに命じて、長安から劉聡を防ぎにきた。劉聡は連勝したから、油断して備えを怠った。西晋の弘農太守の垣延が、詐って劉聡に投降した。垣延が劉聡を夜襲した。劉聡は。大敗して帰還した。
劉淵は、素服(喪服)で敗軍を迎えた。
是冬,複大發卒,遣聰、彌與劉曜、劉景等率精騎五萬寇洛陽,使呼延翼率步卒繼之,敗王師于河南。聰進屯於西明門,護軍賈胤夜薄之,戰于大夏門,斬聰將呼延顥,其眾遂潰。聰回軍而南。壁于洛水,尋進屯宣陽門,曜屯上東門,彌屯廣陽門,景攻大夏門,聰親祈嵩嶽,令其將劉厲、呼延朗等督留軍。東海王越命參軍孫詢、將軍丘光、樓裒等率帳下勁卒三千,自宣陽門擊朗,斬之。聰聞而馳還。厲懼聰之罪己也,赴水而死。
この冬、ふたたび大軍勢を発進させた。劉聡、劉曜、劉景らに、精精5万を率いさせ、洛陽を攻めた。呼延翼は、歩兵を率いて後詰した。河南で西晋軍を破った。劉聡は、西明門に進んで駐屯した。西晋の護軍の賈胤は、劉聡が夜に守備を手薄にするから、大夏門で戦った。賈胤は、劉聡の部将・呼延顥を斬った。劉聡の軍は、潰走した。
劉聡は、軍を南に戻した。洛水を壁にして、宣陽門に進んだ。劉曜は、上東門に屯した。王弥は、廣陽門に屯した。劉景は、大夏門を攻めた。劉聡は、嵩嶽で戦勝を祈願した。
劉聡は、部将の劉厲や呼延朗らに、留まって軍を監督させた。
東海王の司馬越は、參軍の孫詢と、將軍の丘光、樓裒らに、強兵3000を率いさせた。宣陽門から出撃して、劉聡の部将・呼延朗を斬った。劉聡は敗戦を聞いて、馳せ帰った。部将の劉厲は、劉聡に罪を問われることを恐れて、洛水に投身自殺した。
王彌謂聰曰:「今既失利,洛陽猶固,殿下不如還師,徐為後舉。下官當於袞豫之間收兵積穀,伏聽嚴期。」宣于修之又言於元海曰:「歲在辛未,當得洛陽。今晉氣猶盛,大軍不歸,必敗。」元海馳遣黃門郎傅詢召聰等還師。王彌出自轘轅,越遣薄盛等追擊彌,戰於新汲,彌師敗績。於是攝薄阪之戍,還於平陽。
王弥は、劉聡に言った。
「すでに私たちは不利です。洛陽の守備は、まだまだ固い。軍を引っ込めるのがベストでしょう。また後日、洛陽をじわじわ攻めましょう。兗州や豫州で、兵を集めて、穀物を徴発し、次のチャンスを待ちましょう」
宣于修之は、ふたたび劉淵に言った。
「辛未の歳に、洛陽を手に入れられます。
いま西晋の気は、まだ盛んです。味方の大軍を帰らせなければ、必ず敗れるでしょう」
劉淵は、黄門郎の傅詢を使者にして、劉聡に軍を戻させた。王弥が、轘轅から撤退した。司馬越は、薄盛らに王弥を追撃させた。西晋の薄盛と、漢の王弥は、新汲で戦った。王弥は敗れた。
薄阪の守りを任せて、漢軍は平陽に戻った。
劉淵の死
以劉歡樂為太傅,劉聰為大司徒,劉延年為大司空,劉洋為大司馬,赦其境內。立其妻單氏為皇后,子和為皇太子,封子乂為北海王。
劉淵は、劉歡樂を太傅にした。劉聰を、大司徒にした。劉延年を、大司空にした。劉洋を、大司馬にした。
大赦した。妻の單氏を皇后にして、子の劉和を皇太子とした。子の劉乂を、北海王とした。
劉淵は、病気で寝込んだ。死後のことを任せるために、劉歡樂を太宰にした。劉洋を太傅にした。呼延年を太保にした。劉聡を大司馬、大單于ならびに録尚書事とした。單于台を、平陽の西に置いた。子の劉裕を、大司徒にした。
元海寢疾,將為顧托之計,以歡樂為太宰,洋為太傅,延年為太保,聰為大司馬、大單于,並錄尚書事,置單于台于平陽西,以其子裕為大司徒。元海疾篤,召歡樂及洋等人禁中受遺詔輔政。以永嘉四年死,在位六年,偽諡光文皇帝,廟號高祖,墓號永光陵。子和立。
劉淵の病が篤くなった。劉歡樂と劉洋らを召して、禁中で遺詔を与えた。皇太子の劉和を、輔政するよう頼んだ。永嘉四(310)年に、劉淵は死んだ。
しかし劉淵は匈奴で、周の姫氏を貶めたから、口が曲がってもそんな遺言はできない。前例として引用できるのは、前漢の故事だけである。
また、魏晋を認めていないから、
「いまは平時ではない。私が死んでも、持ち場を離れるな」
と、曹操みたいな遺言もできない。劉淵ほどの学識があれば、曹操にどれだけ認めるべき点があるか、知っていたはずだ。事実、いま劉淵の喪を発して、漢の兵が持ち場を離れてはいけない。だが、口が裂けても曹操を踏襲できない。
在位は6年。光文皇帝と贈り名された。
劉淵の位置づけは、王莽・曹操・司馬氏に中断された前漢を、回復したものです。だから帝号は、後漢の光武帝と対をなしたんだと思う。劉秀は戦闘の天才で、劉淵は文芸の天才。綺麗な対比ができました。
廟號は高祖で、墓號は永光陵である。子の劉和が、立てられた。
おわりに
劉淵は、矛盾に苦しんだ人だと思う。西晋に仕えたときの苦悩はすでに見ましたが、独立してからも同じだったと思う。
劉淵の頭の中には、夏殷周秦漢魏晋のすべての歴史を経由した、さまざまな教養に溢れえている。しかし、発言も行動も、漢に則ることしかできない。しかも後漢はNGで、前漢のみである。
もし匈奴に、独立して貴い正統の言い分があれば、それに依拠すれば良い。でも、ない。前漢の正統を曲解して借用しただけだ。だから苦しい。
「今から『ん』の字を発音するたびに、10円の罰金ね」
というゲームと同じくらい、窮屈な皇帝生活を過ごしたと思います。090926