表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』から劉元海伝を訳し、西晋から自立する

5)前漢皇帝は、私の祖先である

国号を漢と定めました。
匈奴が中夏から分裂するのではなく、漢族を領民として取り込むことが、劉淵の初めからのスローガンです。

漢王としての宣言

永興元年,元海乃為壇於南郊,僭即漢王位,下令曰:「昔我太祖高皇帝以神武應期,廓開大業。太宗孝文皇帝重以明德,升平漢道。世宗孝武皇帝拓土攘夷,地過唐日。中宗孝宣皇帝搜揚俊乂,多士盈朝。是我祖宗道邁三王,功高五帝,故卜年倍于夏商,卜世過於姬氏。而元成多僻,哀平短祚,賊臣王莽,滔天篡逆。

永興元(304)年、劉淵は祭壇を南郊に築き、漢王に即位した。命令を下した。
「むかし我が太祖の高皇帝(劉邦)は、神武をもって時期に応じ、王朝を始めた。文皇帝(劉恒)は、明德を重んじ、王朝を安定させた。武皇帝(劉徹)は、武力で国土を広げた。宣皇帝(劉詢)は、有能な人材を探して、王朝に満たした。
私の親族の祖先である前漢皇帝たちの功績は、三皇五帝よりも大きい。だから漢室は、夏や商(殷)の倍の年数続き、周の姫氏よりも年数が長かった。

前漢皇帝は、匈奴と義兄弟である。だから、前漢の功績は「匈奴の祖先の功績」と読み替えられる。横取りである。
夏・殷・周は、漢以前に存在した王朝だ。この3王朝にも、漢族が神聖化する君主はいた。だが劉淵の匈奴は、この古代3王朝の君主とは、血筋がないことになっている。だから、前漢に3王朝を上回らせた。
異民族である匈奴が、漢族の歴史を都合よく引用できるように、ロジックを操作した。

しかし元帝と成帝はヒガみが多く(人格に問題があり)、哀帝と平帝は短命に終わった。だから賊臣の王莽は、天に逆らって簒逆をした。


我世祖光武皇帝誕資聖武,恢復鴻基,祀漢配天,不失舊物,俾三光晦而複明,神器幽而複顯。顯宗孝明皇帝、肅宗孝章皇帝累葉重暉,炎光再闡。自和安已後,皇綱漸頹,天步艱難,國統頻絕。黃巾海沸於九州,群閹毒流于四海,董卓因之肆其猖勃,曹操父子凶逆相尋。故孝湣委棄萬國,昭烈播越岷蜀,冀否終有泰,旋軫舊京。何圖天未悔禍,後帝窘辱。

我が世祖の光武皇帝(劉秀)は、前漢の血筋に生まれて、漢を復興させて天を祭った。明帝と章帝は、後漢を軌道に乗せた。和帝以後は、治安の維持が難しくなった。董卓やその猖勃をほしいままにし、曹操父子は凶逆が相尋した。なき孝湣(献帝・劉協)は、萬國を委棄した。昭烈(劉備)は、蜀の山中に入り込んで、漢室を絶やさず、旧都の回復を試みた。だが残念なことに、後帝(劉禅)は、捕虜の恥辱を受けた。

五胡の最初の国が、三国時代をどう捉えていたか分かります。
劉淵は蜀漢の立場だから、後漢のラストエンペラーを「献帝」とは呼びません。蜀漢が贈った「愍帝」で呼びます。ここに、劉淵の立場が見て取れる。


自社稷淪喪,宗廟之不血食四十年於茲矣。今天誘其衷,悔禍皇漢,使司馬氏父子兄弟迭相殘滅。黎庶塗炭,靡所控告。孤今猥為群公所推,紹修三祖之業。顧茲尪暗,戰惶靡厝。但以大恥未雪,社稷無主,銜膽棲冰,勉從群議。」

後帝(劉禅)が降伏して、漢の社稷が滅びてから、40年がたった。劉氏の宗廟は、40年も祭られていない。これを見た天は、漢が滅びたことを残念に思い、司馬氏の兄弟父子を互いに争わせた。西晋の領民たちは、塗炭の苦しみを味わっている。私・劉淵は、群雄に推挙されて、三祖の事業を継ごう。漢を復興させるから、付いてきてくれ」

并州の獲得

乃赦其境內,年號元熙,追尊劉禪為孝懷皇帝,立漢高祖以下三祖五宗神主而祭之。立其妻呼延氏為王后。置百官,以劉宣為丞相,崔游為御史大夫,劉宏為太尉,其餘拜授各有差。

劉淵は、自国の領域で大赦を行い、年号を「元煕」と定めた。劉禅に「孝懐皇帝」と追尊した。漢の劉邦以下、三祖五宗の神主を 祭った。劉淵は、妻の呼延氏を王后に立てた。百官を設置し、従祖父の劉宣を丞相とした。崔游を御史大夫として、劉宏を太尉とした。その他の人も、それぞれ官位を受けた。

東嬴公騰使將軍聶玄討之,戰於大陵,玄師敗績,騰懼,率並州二萬余戶下山東,遂所在為寇。元海遣其建武將軍劉曜寇太原、泫氏、屯留、長子、中都,皆陷之。二年,騰又遣司馬瑜、周良、石鮮等討之,次於離石汾城。元海遣其武牙將軍劉欽等六軍距瑜等,四戰,瑜皆敗,欽振旅而歸。

東嬴公の司馬騰は、將軍の聶玄に命じて、劉淵を攻撃させた。聶玄と劉淵は、大陵で戦った。聶玄が敗れたから、司馬騰は劉淵を大いに懼れた。
司馬騰は、并州の2万余戸の領民を率いて、山東に南下した。司馬騰が通過したところでは、略奪が行なわれた。

刺史の司馬騰が并州を放棄したから、ここに劉淵の基盤が出来た。ろくに準備なく移動すれば、軍資を現地調達するしかない。司馬騰の動きは、迷惑である。

劉淵は、建武將軍の劉曜に太原郡を寇させた。太原郡内の、泫氏、屯留、長子、中都などの県は、全てが陥落した。
二(305)年、司馬騰は、ふたたび司馬瑜、周良、石鮮らに命じて、劉淵を攻撃させた。司馬騰の軍は、離石汾城に入った。劉淵は、武牙將軍の劉欽らに、司馬騰の六軍を防がせた。四戰して、すべて司馬瑜が敗れた。劉欽は、凱旋した。

是歲,離石大饑,遷于黎亭,以就邸閣穀,留其太尉劉宏、護軍馬景守離石,使大司農蔔豫運糧以給之。以其前將軍劉景為使持節、征討大都督、大將軍,要擊並州刺史劉琨于版橋,為琨所敗,琨遂據晉陽。其侍中劉殷、王育進諫元海曰:「殿下自起兵以來,漸已一周,而顓守偏方,王威未震。誠能命將四出,決機一擲,梟劉琨,定河東,建帝號,鼓行而南,克長安而都之,以關中之眾席捲洛陽,如指掌耳。此高皇帝之所以創啟鴻基,克殄強楚者也。」元海悅曰:「此孤心也。」遂進據河東,攻寇蒲阪、平陽,皆陷之。元海遂入都蒲子,河東、平陽屬縣壘壁盡降。時汲桑起兵趙魏,上郡四部鮮卑陸逐延、氏酋大單于征、東萊王彌及石勒等並相次降之,元海悉署其官爵。

この歳、離石は大飢饉だった。劉淵は、拠点を黎亭に移した。国庫を開いて、穀物を領民に支給した。太尉の劉宏、護軍の馬景は離石を守備し、大司農の蔔豫が、穀物の分配をやった。

領国経営を、ちゃんと出来ますよ、という証明だ。

劉淵は、前將軍の劉景を使持節、征討大都督、大將軍に任命した。西晋の並州刺史・劉琨を、版橋で攻撃した。劉琨は敗れて、晉陽に逃げ込んだ。
侍中の劉殷と王育は、進み出て劉淵を諌めた。
「劉淵さまが挙兵して、1年が経ちました。しかし領土は狭く、いまだ王威は震っていません。劉淵さまは、将軍を四方に出陣させ、勝っています。敵の劉琨は、河東郡を平定し、帝号を立てて、長安を襲うつもりです。劉琨は、関中の軍を使って、洛陽を奪うつもりです。劉琨が洛陽を奪うのは、手のひらを指差すほどに確実に成功するでしょう。

劉琨にそんな野心があったっけ?

この状況は、劉邦が前漢を建国するときに、強敵である項羽に勝ったことに似ています。

劉淵を劉邦とイコールで結びたかった。だから、大して強くもない劉琨を、項羽に例えた。そういうレトリックでしょうね。
ただし劉淵に、あまり調子に乗るなと歯止めをかけた効果はある。劉淵は、楚漢戦争で負けてばかりだった劉邦のように、まだ弱いんだ。

劉淵は、諌めの言葉に対して、
「私もそう思う」
と答えた。河東郡に進み、蒲阪、平陽を攻め落とした。劉淵が蒲子や河東に入ると、平陽郡に属する県は、全て投降した。
ときに、汲桑が趙魏で起兵した。上郡四部の鮮卑である陸逐延と、氏酋の大單于征と、東萊の王彌および石勒らが、相次いで劉淵に投降した。劉淵は、投降者の全てに官爵を与えた。

ここで合流した王弥は、洛陽郊外で泣きながら酒を飲んだ人だろうか?同姓同名だが、『晋書』の素っ気なさからすると、別人という扱いなのかな。王弥に「東莱の」なんて出身地が付いている。初登場扱いだ。
かつて洛陽から「東に帰った」という記述と、位置関係は矛盾しないんだが。