表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』から劉元海伝を訳し、西晋から自立する

4)鮮卑と烏丸を攻撃するか

匈奴の国が、この世界に復活しました。

司馬頴への義理?

王浚使將軍祁弘率鮮卑攻鄴,穎敗,挾天子南奔洛陽。元海曰:「穎不用吾言,逆自奔潰,真奴才也。然吾與其有言矣,不可不救。」」

王浚は、將軍の祁弘に鮮卑を率いさせ、鄴城を攻めた。司馬頴は敗れて、恵帝を連れて洛陽に逃げた。

けっきょく司馬頴は、恵帝を連れて洛陽に行った。自発的に鄴城を出るか、他人に突かれて鄴城を出るかで、周囲へのイメージはだいぶ違うが。
司馬頴は劉淵に騙され、バカを見たなあ。

劉淵は言った。
「司馬頴は、私の言葉を用いず、自滅して洛陽に逃げた。これが司馬頴の、もともとの才能である。もし私が残って細かくアドバイスをしていても、司馬頴は才能のない人だから、救うことはできなかった

うーん。「穎不用吾言,逆自奔潰」が、よく分かりません。司馬頴は、劉淵の発言を認めて、鄴城に留まったのだ。もし劉淵を却下していれば、さっさと無傷で洛陽に行っていた。
司馬頴の敗因は、劉淵の裏切りである。劉淵を信じたから負けた。想定した匈奴五部の兵を、鄴城の守備に使えなかったから、鮮卑に敗れた。
はじめ劉淵は、弁舌スキルによって、司馬頴を欺いた。
いま匈奴のトップになった劉淵は、自分が司馬頴を裏切った気まずさを、同じく弁舌スキルによって誤魔化したのかな。匈奴の人たちは、劉淵が鄴城を出がけに、司馬頴に何と言ったのか知らないもんね。匈奴の国では、司馬頴に口なし。言われたい放題である。
匈奴のトップに立つため、劉淵の頭のキレが大いに役に立った。劉淵はベロ人間である。いわゆる「五胡」のイメージとは違うよね。


於是命右於陸王劉景、左獨鹿王劉延年等率步騎二萬,將討鮮卑。劉宣等固諫曰:「晉為無道,奴隸禦我,是以右賢王猛不勝其忿。屬晉綱未馳,大事不遂,右賢塗地,單于之恥也。今司馬氏父子兄弟自相魚肉,此天厭晉德,授之於我。單于積德在躬,為晉人所服,方當興我邦族,複呼韓邪之業,鮮卑、烏丸可以為援,奈何距之而拯仇敵!今天假手於我,不可違也。違天不祥,逆眾不濟;天與不取,反受其咎。願單于勿疑。

ここにおいて劉淵は、右於陸王の劉景と、左獨鹿王の劉延年らに命じて、歩騎2万を率いさせ、鮮卑を討とうとした。従祖父の劉宣らは、固く劉淵を諌めた。
「西晋は無道を働いている。だから右賢王の劉猛は、怒りを抑え切れなかった。でも西晋の綱紀は緩んでおらず、破れた。あの敗戦は、単于の恥だ。いま司馬氏の父子兄弟は、身内で争っている。これは、天命が西晋を嫌い、私たち匈奴に味方しているからだ。単于である劉淵さんは、身に徳を積み、西晋に服従してきた。いま匈奴は、呼韓邪の事業を復活できそうだ。鮮卑や烏丸は、味方にするのが良い。どうして鮮卑や烏丸と戦い、仇敵の関係を作るのか。天が匈奴に手を貸している。天の意思に違ってはいけない。天に逆らえば、匈奴に成功はない。劉淵さんは、ご再考をよろしく」

鮮卑や烏丸を討てと言った劉淵は、初めてのマチガイを犯した。今まで劉淵は、己の境遇に泣いてきた。だが、間違えたことはなかった。
なぜ劉淵が、匈奴全体をミスリードしそうになったか。 きっと、司馬頴への義理立てをしたんだろう。
司馬頴の不才をバカにしたが、劉淵は司馬頴の本当の敗因を知っている。自分のせいである。だったら、もともと司馬頴に協力して討つつもりだった、鮮卑と烏丸を討たねばならん。
匈奴なのに、人生のほとんどを洛陽で過ごした。胡族なのに、漢族の西晋に仕えた。志は高いのに、出世できない境遇だ。皇族に幻滅しながらも、忠義を捨てない。匈奴の復興を始めても、漢族へのシンパシーが捨てきれない。
頭の良すぎる劉淵が、数々の矛盾に苦しんだところが、とても面白い。こうしてぼくは、歴史上の人物を好きになる(笑)

漢の劉氏の甥である

元海曰:「善。當為崇岡峻阜,何能為培塿乎!夫帝王豈有常哉,大禹出於西戎,文王生於東夷,顧惟德所授耳。今見眾十余萬,皆一當晉十,鼓行而摧亂晉,猶拉枯耳。上可成漢高之業,下不失為魏氏。

劉淵は、従祖父の諌めに答えた。
「分かった。鮮卑は攻めない。これから天下を取ろうというのに、ムダに死人を出してはいけない。そもそも帝王は、常に存在するものではない。大禹は、西戎の出身だ。周の文王は、東夷の出身だ。彼らが帝王になれたのは、徳を授かったからだ。

血筋が胡族でも、ハンデにはならん、と言いたかったのでしょう。この時点での「漢族」だって、多くの民族が融合をくり返した結果である。生物学的に言えば、境界なんて極めてアイマイなんだ。だが文化的には、似た顔の人たちを「違う民族」に弁別しますね。
ここから華北に流れ込む「五胡」だって、隋代には「漢族」に混ざりこむ。

いま私の下には、10余万の軍がいる。みな1人で、晋兵10人分の強さである。西晋を滅ぼすことができる。うまくいけば最高で、漢の高帝(劉邦)の業績に匹敵する。また最低でも、魏氏(曹操)よりは大きな業績だろう。

曹操って、評価が低いんだよなあ。石勒も「曹操みたいに子供を脅して天下を取るなんて、軽蔑するぜ」と言っていた。
曹操の異民族政策が厳しかったから、印象が芳しくないんだろうか。
曹丕が漢を滅ぼしたのは、漢族のみならず、胡族にもショックを与えた?漢は、曲がりなりにも匈奴を和解していたからね。
『演義』にあるような、蜀漢バンザイ!の風潮を待たずして、曹操はひどい嫌われようである。


(劉淵の発言は続いています)
雖然,晉人未必同我。漢有天下世長,恩德結于人心,是以昭烈崎嶇於一州之地,而能抗衡於天下。吾又漢氏之甥,約為兄弟,兄亡弟紹,不亦可乎?且可稱漢,追尊後主,以懷人望。」乃遷于左國城,遠人歸附者數萬。

西晋が腐り、匈奴が強盛とは言え、西晋の領民(漢族)は必ずしも私たちと心を同じくしているわけではない。漢の天下は長くて、漢の恩徳は人心に結びついている。だから、劉備はたかが1州しか領有しなくても、天下争奪に絡むことができた。
匈奴は、漢氏の甥である。兄弟の盟約を結んでいる。兄が滅べば、弟が継ぐものだ。このロジックに、どんな反論の余地があろうか。我が国は、国号を『漢』とする。劉禅を追尊して、漢族の人望を匈奴に懐かせよう」

国号を「漢」にしたのは、なぜか。西晋の領民に収まっている、漢族の支持を受けるためである。
匈奴は、わざわざ名目を設定しなくても、劉淵に付いてくる。だが漢族は、匈奴に治められることに抵抗が大きい。だから「漢」を掲げた。
三国志の序盤戦を思い出して下さい。ネコも杓子も、小学校の卒業文集で「将来の夢は、漢室の復興」と書いていた時代に、逆戻りである。100年のタイムスリップだ。魏晋の禅譲劇のリセットだ。

劉淵は左國城に移った。
遠方から劉淵の下に集まった人は、数万にのぼった。