表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』列伝34、元帝の4人の子

1)司馬裒、司馬沖

元帝(司馬睿)の子の列伝です。

元帝六男:宮人荀氏生明帝及琅邪孝王裒。石婕妤生東海哀王沖。王才人生武陵威王晞。鄭夫人生琅邪悼王煥及簡文帝。

元帝には、6人の男子がいた。宮人の荀氏は、明帝と、琅邪孝王・司馬裒を生んだ。石婕妤は、東海哀王・司馬沖を生んだ。王才人は、武陵威王・司馬晞を生んだ。鄭夫人は、琅邪悼王・司馬煥と、簡文帝を生んだ。

幻の王太子・司馬裒

琅邪孝王裒字道成,母荀氏,以微賤入宮,元帝命虞妃養之。裒初繼叔父長樂亭侯渾,後徙封宣城郡公,拜後將軍。及帝為晉王,有司奏立太子,帝以裒有成人之量,過於明帝,從容謂王導曰:「立子以德不以年。」導曰:「世子、宣城俱有朗雋之目,固當以年。」於是太子位遂定。

琅邪孝王・司馬裒は、あざなを道成という。母は荀氏である。母は微賤の生まれだったが、入宮した。元帝は、虞妃に命じて、母の面倒を見させた。
司馬裒ははじめ、叔父の長樂亭侯・司馬渾を継いだ。のちに宣城郡公に移され、後將軍を拝した。
元帝が晋王になると、有司は上奏して、司馬裒を王太子に立てましょうと提案した。父の元帝は、司馬裒に成人之量があり、兄の明帝より優れていると考えた。元帝は、有司の提案に従おうと考え、王導に言った。
「王太子を選ぶ基準を、年齢ではなく、人徳にしよう」
王導が言った。
「世子(明帝)も、宣城(司馬裒)も、どちらも朗雋之目があります。(どちらも優れているので)年齢で太子を選びなさい」
王導の意見によって、王太子は兄の明帝に決まった。

これだけの列伝だと、司馬裒がどれほど優れた人物だか、後世人には判断がつかない。でも、王導以外が司馬裒を支持したんだから、明帝よりも聡明に見えた子だったことは、想像できる。王導は、
「明帝は、ひどい落第ではない。平均点は満たしている。ならば、弟を立てるという、後継争いのタネを作らないほうが懸命だ」
と判断したことになる。もっとも、王導は明帝より9歳上だから、
「もし明帝が平凡でも、私が輔佐するから問題ない」
というニュアンスまでは、込めなかったと思うけど・・・実際は元帝の死後、王導が明帝を輔佐する。発言の責任を取ったのだ。


更封裒琅邪,嗣恭王后,改食會稽、宣城邑五萬二千戶,拜散騎常侍、使持節、都督青徐兗三州諸軍事、車騎將軍,征還京師。建武元年薨,年十八,贈車騎大將軍,加侍中。及妃山氏薨,祔葬,穆帝更贈裒太保。子哀王安國立,未逾年薨。

司馬裒は、琅邪に改封され、恭王・司馬后を嗣いだ。會稽に徙され、宣城の邑52000を食んだ。散騎常侍、使持節、都督青徐兗三州諸軍事、車騎將軍となり、建康に戻った。
建武元(317)年、薨じた。18歳だった。

元帝が、皇帝になる1年前。どのみち次の皇帝になれなかった。

車騎大將軍を贈られ、侍中を加えられた。妃の山氏が薨じると、一緒に葬られた。穆帝は、司馬裒に太保を追贈した。子の哀王・司馬安は、国を立てられたが、王になる前に薨じた。

明帝の時代に一族が絶えたなら、陰謀の臭いがしますが・・・元帝の時代に滅んだので、疑いはなし。単純に早死にの弟くんでした。

西晋を主催した国、司馬沖

東海哀王沖,字道讓。元帝以東海王越世子毗沒于石勒,不知存亡,乃以沖繼毗後,稱東海世子,以毗陵郡增本封邑萬戶,又改食下邳、蘭陵,以越妃裴氏為太妃,拜長水校尉。高選僚佐,以沛國劉耽為司馬,潁川庾懌為功曹,吳郡顧和為主簿。永昌初,遷中軍將軍,加散騎常侍。及東海太妃薨,因發毗喪。沖即王位,以滎陽益東海國,轉車騎將軍,徙驃騎將軍。咸康七年薨,年三十一,贈侍中、驃騎大將軍、儀同三司,無子。

東海哀王・司馬沖は、あざなを道讓という。
東海王・司馬越の世子・司馬毗が、石勒に攻められて、生死が不明になった。元帝は、自分の子・司馬沖に、司馬毗の後を継がせ、東海世子と称させた。司馬毗が領有する封邑を10000戸増やした。司馬沖は、下邳郡、蘭陵郡に改封された。司馬越の妃・裴氏を太妃とした。
司馬沖は、長水校尉を拝した。
側近の官僚を選抜し、沛國の劉耽を司馬に、潁川の庾懌を功曹に、呉郡の顧和を主簿にした。
永昌初(322年)、中軍將軍に遷り、散騎常侍を加えられた。

元帝が死んで、明帝が即位した歳です。

東海太妃が薨じると、司馬毗の喪を発した。

行方不明の司馬越の世子を、死んだことにした。母が死んだから、もう悲しむ人がいないわけで。人の判断が生死を決めた。脳死判定と同じだ。。

司馬沖が王位に即くと、滎陽郡を、元の東海國に加えた。司馬沖は、車騎將軍となり、驃騎將軍に遷った。咸康七(341)年、司馬沖は薨じた。31歳だった。侍中、驃騎大將軍、儀同三司を贈られた。子は無かった。

成帝臨崩,詔曰: 「哀王無嗣,國統將絕,朕所哀怛。其以小晚生奕繼哀王為東海王。」以道遠,罷滎陽,更以臨川郡益東海。及哀帝以琅邪王即尊位,徙奕為琅邪王,東海國闕,無嗣。奕後入纂大業,桓溫廢之,複為東海王,既而貶為海西公,東海國又闕嗣。隆安三年,安帝詔以會稽忠王次子彥璋為東海王,繼哀王為曾孫,改食吳興郡。為桓玄所害,國除。

成帝が死にかけたとき、詔した。

成帝の死は、342年。司馬沖が死んだ直後の詔だ。

「哀王・司馬沖には、後嗣がいない。東海國の系統は、まさに滅びようとしている。私はこれを哀怛している。私の晩年の子、司馬奕に、哀王・司馬沖を嗣がせて、東海王としよう」
統治するには、道が遠いので、滎陽が東海国から除かれた。代わりに、臨川郡が東海国に加えられた。哀帝が琅邪王から皇帝になると、司馬奕は琅邪王に移された。東海國には後継がいなくなった。
司馬奕はのちに皇帝となったが、桓温に皇帝から引きずり降ろされ、ふたたび東海王となった。司馬奕は、さらに貶められて、海西公となった。東海國は、また王がいなくなった。
隆安三(399)年、安帝は詔して、會稽忠王の次子・司馬彦璋を東海王とした。司馬彦璋は、哀王・司馬沖を継ぎ、司馬沖の曾孫と位置づけられた。食邑を呉興郡に移された。司馬彦璋は桓玄に殺害され、東海国は除かれた。

司馬越は、懐帝を立てて、八王の乱を鎮めた人。強すぎて、懐帝と衝突した。司馬越が死んだ311年に洛陽が落ちるから、西晋末期の実質的主催者。
その家柄だけあって、皇帝をたびたび出すが・・・呪われた家柄かも。