表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』列伝34、元帝の4人の子

2)桓氏と衝突、司馬晞の家

元帝(司馬睿)の子の列伝です。3人目まできました。

桓温に睨まれた、司馬晞

武陵威王晞,字道叔,出繼武陵王喆後,太興元年受封。咸和初,拜散騎常侍。後以湘東增武陵國,除左將軍,遷鎮軍將軍,加散騎常侍。康帝即位,加侍中、特進。建元初,領秘書監。穆帝即位,轉鎮軍大將軍,遷太宰。太和初,加羽葆鼓吹,入朝不趨,贊拜不名,劍履上殿。固讓。

武陵威王・司馬晞は、あざなを道叔という。元帝の下を出て、武陵王・司馬喆の後を継いだ。太興元(318)年、武陵王の封を受けた。
咸和初(326年)、散騎常侍を拝した。

明帝が死に、成帝が即位したのが325年だ。

のちに湘東郡を、武陵國に加えられた。司馬晞は、左將軍となり、鎮軍將軍に遷り、散騎常侍を加えられた。
康帝が即位すると、侍中、特進を加えられた。

342年だ。成帝も康帝も、甥である。

建元初(343年)、秘書監を領ねた。
穆帝が即位すると、鎮軍大將軍に転じ、太宰に遷った。太和初、羽葆鼓吹を加えらた。司馬晞は、入朝不趨、贊拜不名、劍履上殿を許されたが、固くお断りした。

臣下の最大の名誉だ。皇帝が20歳前後で、次々と夭折した。だが、初代・元帝の子が生き残っているから、頼られそうである。


晞無學術而有武幹,為桓溫所忌。及簡文帝即位,溫乃表晞曰:「晞體自皇極,故寵靈光世,不能率由王度,修己慎行,而聚納輕剽,苞藏亡命。又息綜矜忍,虐加於人。袁真叛逆,事相連染。頃自猜懼,將成亂階。請免晞官,以王歸籓,免其世子綜官,解子逢散騎常侍。」逢以梁王隨晞,晞既見黜,送馬八十五匹、三百人杖以歸溫。

司馬晞は、筋肉バカだったから、桓温に忌まれた。

封地である荊州・武陵郡は、蛮が住んでいて、中央(建康)から遠い。成漢とも接した。武陵王が、学問じゃなく武術に親しんだのは、キャラを立たせるための、イメージ戦略としてアリである。実際は、中央で官位に就いているが・・・

簡文帝が即位すると、桓温は上表して、司馬晞について言った。

簡文帝は、元帝の子。つまり武陵王と兄弟である。

「司馬晞は、元帝の子だから血筋が尊く、ずっと高位を与えられた。だが司馬晞は、王として振る舞いに欠けて、筋トレばかりしている。東晋にとって、有害である。また司馬晞の子・司馬綜は、プライドが高くて残忍で、よく人を虐待する。いま、袁真が叛逆したが、司馬綜も一枚噛んでいるようだ。袁真に呼応して、叛乱を起こすかも知れない。司馬晞から官位を奪い、武陵国に帰らせるべきだ。司馬晞の世子・司馬綜もクビにしろ。子の司馬□逢も、散騎常侍を辞めさせろ」

袁真は、桓温の政敵。
桓温は、皇族の力を削ぐことに熱心だ。簡文帝には利用価値を見出したが、簡文帝と同じく血筋が貴い皇族は、邪魔である。簡文帝の対抗馬になる。

司馬□ 逢は梁王で、司馬晞に随っていた。司馬晞が罷免されると、司馬□ 逢は、馬85匹を送り、300人の護衛が桓温の配下に入った。

溫又逼新蔡王晁使自誣與晞、綜及著作郎殷涓、太宰長史庾倩、掾曹秀、舍人劉彊等謀逆,遂收付廷尉,請誅之。簡文帝不許,溫於是奏徙新安郡,家屬悉從之,而族誅殷涓等,廢晃徙沖陽郡。

桓温はまた、新蔡王の司馬晁に迫って、
「私は司馬晞と同罪だ。連座します」
と自白させた。司馬晞の子・司馬綜、著作郎の殷涓、太宰長史の庾倩、掾の曹秀、舍人の劉彊らは、謀逆をした。廷尉に捕えられて、(桓温から)死罪が求刑された。簡文帝は許さなかった。
桓温は上奏して、謀反人たちを新安郡に流した。一族郎党は、みな新安郡について行った。しかし殷涓らは族誅された。新蔡王・司馬晁は沖陽郡に移された。

太元六年,晞卒于新安,時年六十六。孝武帝三日臨於西堂,詔曰:「感惟摧慟,便奉迎靈柩,並改移妃應氏及故世子梁王諸喪,家屬悉還。」複下詔曰:「故前武陵王體自皇極,克己思愆。仰惟先朝仁宥之旨,豈可情禮靡寄!其追封新甯郡王,邑千戶。」晞三子:綜、逢、遵。以遵嗣。追贈綜給事中,逢散騎郎。十二年,追複晞武陵國,綜、逢各複先官,逢還繼梁國。

太元六(381)年、司馬晞は新安郡で死んだ。66歳だった。
孝武帝は、3日間、西堂に臨んだ。詔に曰く。
「司馬晞の死は、とてもショックである。流罪を解除して、棺を建康まで運ばせよ。司馬晞の妃である應氏を呼び戻し、亡き世子の梁王もひっくるめて、喪を発せよ。一族郎党も、みな呼び戻せ」
また孝武帝は、詔した。
「亡き前の武陵王・司馬晞は皇族で、立派な人物だった。憐れむべきだ。司馬晞を、新甯郡王に改めて、邑千戸を贈れ」
司馬晞には、3人の子がいた。司馬綜、司馬□逢、司馬遵である。司馬遵が、父を嗣いだ。司馬綜には給事中が追贈された。司馬□逢には散騎郎が追贈された。
十二(387)年、司馬晞は武陵國王に戻され、司馬綜、司馬□逢は、元の官を回復された。司馬□逢は、梁國に戻って王を継いだ。

司馬晞の子孫たち

◆司馬□逢
梁王逢,字賢明,出繼梁王翹,官至永安太僕,與父晞俱廢。薨,子和嗣。太元中複國。薨,子珍之嗣。桓玄篡位,國人孔樸奉珍之奔于壽陽。桓玄敗,珍之歸朝廷。太將軍武陵王令曰:「梁王珍之理悟貞立,蒙險違難,撫義懷順,載奔闕庭。值壽陽擾亂,在危克固,且可通直散騎郎。」累遷遊擊將軍、左衛、太常。劉裕伐姚泓,請為諮議參軍。裕將弱王室,誣其罪害之。

梁王の司馬□逢は、あざなを賢明という。家から出て、梁王・司馬翹を継いだ。官位は、永安太僕となった。司馬□逢は、父の司馬晞とともにクビになった。
司馬□逢が薨じると、子の司馬和が嗣いだ。太元中(376-396年)、梁国に戻った。
司馬和が薨じると、子の司馬珍之が嗣いだ。桓玄が東晋から簒位すると、梁國の人・孔樸が、司馬珍之を奉って、壽陽に逃げた。桓玄が敗れると、司馬珍之は朝廷に還った。太將軍・武陵王が、命じた。
「梁王の司馬珍之は、桓玄によるピンチを切り抜けた。直散騎郎とする」
司馬珍之は遊擊將軍に遷り、左衛、太常。劉裕が姚泓を伐つとき、請われて諮議參軍となった。だが劉裕が東晋の王室の力を弱めるため、司馬珍之は、罪をでっち上げて殺された。

◆対桓氏の希望、司馬遵
忠敬王遵,字茂遠。初襲封新甯,時年十二,受拜流涕,哀感左右。右將軍桓伊嘗詣遵,遵曰:「門何為通桓氏?」左右曰:「伊與桓溫疏宗,相見無嫌。」遵曰:「我聞人姓木邊,便欲殺之,況諸桓乎!」由是少稱聰慧。及晞追複封武陵王,以遵嗣,曆位散騎常侍、秘書監、太常、中領軍。桓玄用事,拜金紫光祿大夫。

忠敬王・司馬遵は、あざなを茂遠という。
はじめ新甯王を継いだとき、12歳だった。新甯王に封じられたと聞いて、司馬遵は流涕し、左右の人を哀感させた。

くやし涙だ。本当は武陵王を継ぐ資格があるのに・・・と。

右將軍の桓伊は、かつて司馬遵を訪問した。司馬遵は聞いた。
「私の家の門は、どうして桓氏を通すだろうか」

桓氏は、父や兄を陥れた仇敵だ。憎んでも憎み切れない。だから、桓氏のためにドアが開きたくない。

左右の人が答えた。
「今日やって来た桓伊は、(仇敵である)桓温と近い親戚ではありません。そんなに神経質にならず、桓伊と会えば宜しいのではありませんか」
司馬遵は言った。
「私は、人の姓が『木邊』氏であれば、ただちにその人を殺すと聞いたぞ。まして(木邊氏どころか)桓氏ならば、桓温と近かろうが遠かろうが、すぐに殺してやりたいくらいだ!
このように、司馬遵は、幼いころから聡明だった。

「木邊」は古典を踏まえているんだね。エピソードを調べねば。

司馬晞が、死後に武陵王を回復されると、司馬遵に嗣がせた。 散騎常侍、秘書監、太常、中領軍を歴任した。
桓玄に用いられて、司馬遵は、金紫光祿大夫を拝した。

桓氏に屈してしまったのかよ・・・


玄篡,貶為彭澤侯,遣之國。行次石頭,夜濤水入淮,船破,未得發。會義旗興,複還國第。朝廷稱受密詔,使遵總攝萬機,加侍中、大將軍,移入東宮,內外畢敬。遷轉百官,稱制書;又教稱令書。安帝反正,更拜太保,加班劍二十人。義熙四年薨,時年三十五,詔賜東園溫明神器,朝服一具,衣一襲,錢百萬,布千匹,策贈太傳,葬加殊禮。子定王季度立,拜散騎侍郎。薨,子球之立。宋興,國除。

桓玄が簒逆すると、司馬遵を貶めて、彭澤侯とし、任国に行かせた。石頭に入り、夜に濤水から淮水に入ろうとした。だが舟が壊れてしまい、出発できなかった。東晋を再興する動きがあり、建康にある武陵王の屋敷に戻ることができた。
東晋方は、朝廷から密詔を受けたと称して、司馬遵に政治全般を見させようとした。司馬遵は、侍中を加えられ、大將軍となった。東宮に移り入った。内外の人は、司馬遵に畢敬した。百官を新しく任命して、司馬遵は東晋皇帝の権限で、文書を発行した。
東晋の安帝が復帰すると、司馬遵は太保となり、加班劍20人。
義熙四(408)年、薨じた。35歳だった。詔して、東園温明神器、朝服一具、衣一襲、錢100萬、布1000匹を賜った。太傳を贈られ、葬儀は特別の礼が加えられた。
子の定王・司馬季度が立てられた。散騎侍郎となった。司馬季度が薨じると、子の司馬球之が立てられた。宋に禅譲され、國は除かれた。