表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』列伝34、元帝の4人の子

3)簡文帝の同母兄、司馬煥

元帝(司馬睿)の子の列伝です。4人目、最後です。

寵姫の子、司馬煥

琅邪悼王煥,字耀祖。母有寵,元帝特所鍾愛。初繼帝弟長樂亭侯渾,後封顯義亭侯。尚書令刁協奏:「昔魏臨淄侯以邢顒為家丞,劉楨為庶子。今侯幼弱,宜選明德。」帝令曰:「臨淄萬戶封,又植少有美才,能同游田蘇者。今晚生蒙弱,何論於此!間封此兒,不以寵稚子也。亡弟當應繼嗣,不獲已耳。家丞、庶子,足以攝祠祭而已,豈宜屈賢才以受無用乎!」及煥疾篤,帝為之撤膳,乃下詔封為琅邪王,嗣恭王后,俄而薨,年二歲。

琅邪悼王の司馬煥は、あざなを耀祖という。母が元帝に寵愛されたから、司馬煥は元帝から特に可愛がられた。
はじめ司馬煥は、元帝の弟で長樂亭侯の司馬渾を継いだ。のちに、顯義亭侯に封じられた。
尚書令の刁協は、上奏した。
「むかし魏臨淄侯(曹植)は、邢顒を家丞にして、劉楨を庶子としました。まだ司馬煥ちゃんは幼いですが、(曹植と同じように)明德の人材を身近に置かれますように」
元帝は言った。
「曹植は1万戸に封じられ、また彼は幼いときから才能が光っていた。だから曹植は、天才たちと交流できたのだ。私の末っ子の司馬煥は、特別な才能がない。曹植の話を持ち出すな。司馬煥を顯義亭侯に封じたのは、私が司馬煥を可愛いからではない。私の弟(司馬渾)が跡継ぎを残さずに死んだから、補充しただけだ。司馬煥に付ける家丞、庶子は、ただ祭祀ができれば充分だ。わざわざ賢者に頭を下げて、来てもらう必要があるだろうか」

ずいぶん冷たい父親ですが、、前の過ちを懲りているのだ。長男の明帝を差し置き、聡明な次男を王太子にしようとした。王導に叱られた。
だから元帝は、いくら寵愛する女が産んだ子だからと言って、贔屓しない。


司馬煥の病気が重くなると、元帝は食事断ちをした。詔を下して、司馬煥を瑯邪王にした。恭王の司馬后に、司馬煥を継がせた。にわかに司馬煥は薨じた。2歳だった。

瑯邪王にしたのは、病気を治してもらうため? やっぱり可愛かったんだね。
享年たった2歳!刁協は何を先走った進言をしていたんだ・・・


帝悼念無已,將葬,以煥既封列國,加以成人之禮,詔立凶門柏曆,備吉凶儀服,營起陵園,功役甚眾。琅邪國右常侍會稽孫霄上疏諫曰:

元帝は、司馬煥の死を悲しんで、己を失った。司馬煥を葬るとき、すでに司馬煥を列國に封じているので(瑯邪王)、成人之禮を加えようとした。詔して、凶門柏暦を立たせ、吉凶儀服を備えさせ、陵園を建造しようとした。とても手間のかかる葬儀に多くの人が動員された。
琅邪國の右常侍で、會稽郡出身の孫霄が、上疏して元帝を諌めた。

瑯邪国の右常侍ということは、孫霄は司馬煥の遺臣である。名目上・・・


臣聞法度典制,先王所重,吉凶之禮,事貴不過。是以世豐不使奢放,凶荒必務約殺。朝聘嘉會,足以展庠序之儀;殯葬送終,務以稱哀榮之情。(中略)今琅邪之于天下,國之最大,若割損非禮之事,務遵古典,上以彰聖朝簡易之至化,下以表萬世無窮之規則,此芻蕘之言有補萬一,塵露之微有增山海。

(勝手に要約すると)過度な葬儀は、非常時の東晋にとって、好ましくありません。古典も、戒めていることです。瑯邪国は、天下で最大の国ですから、影響力も大きい。葬儀のやり方を誤ってはいけません。


表寢不報。
永昌元年,立煥母弟昱為琅邪王,即簡文帝也。咸和二年,徙封會稽,以康帝為琅邪王。康帝即位,哀帝為琅邪王。哀帝即位,廢帝為琅邪王。廢帝即位,又以簡文帝攝行琅邪王國祀。簡文登阼,國遂無嗣。帝臨崩,封少子道子為琅邪王。太元十七年,道子為會稽王,更以恭帝為琅邪王。恭帝即位,於是琅邪國除。

孫霄の上表は、伏せられ、元帝に伝えられなかった。
永昌元(322)年、司馬煥の同母弟・司馬昱を、琅邪王に立てた。のちの簡文帝である。

もともと瑯邪王だったのは、司馬睿(元帝)である。東晋皇帝が即位する前に待機する場所になった。
その気がないふりを必死でしていたが、元帝がいちばん可愛がったのは、 司馬煥と司馬昱の母だろう。元帝の死から49年後だが、寵愛した女から生まれた子が、皇帝になれた。あの世で元帝は、小さくガッツポーズをしたかも?

咸和二(327)年、司馬昱は會稽郡に移され、康帝が琅邪王となった。康帝が即位すると、哀帝が琅邪王となった。哀帝が即位すると、廢帝が琅邪王となった。廢帝が即位すると、ふたたび簡文帝に、琅邪王の國祀を行なわせた。簡文帝が即位すると、瑯邪王の継嗣はいなくなった。
簡文帝が死にかけると、幼子の司馬道子を琅邪王にした。太元十七(392)年、司馬道子は會稽王となった。恭帝が琅邪王となった。恭帝が即位すると、琅邪國は除かれた。

おわりに

東晋は、2つの時代に分かれます。
明帝の系統が即位した、前半。簡文帝の系統が即しいた、後半です。2つの時代を真ん中で切り分けたのは、桓温が廃帝を降ろして、簡文帝を立てたことです。
明帝の孫の代まで皇位継承が進み、すでに6人の皇帝が出ていたのに、わざわざ明帝の弟まで戻して、簡文帝を皇帝に即けて、仕切りなおした。簡文帝の系統から、4人の皇帝を出して、東晋は滅びます。

前半を生きた皇族は、仕事をしていない。
王敦や蘇峻のような大叛乱は、皇族というよりは、首都&皇帝そのものが攻撃対象になる。だから、皇族は、劇的な立ち回りをしない。その他大勢として、目立ちもせずに逃げ回っているだけである。
皇族だから高位に就く人が出てくるが、めぼしい政治をした形跡がない。明帝以後、皇帝が20歳前後でつぎつぎに死ぬんだから、「皇帝の偉大なる大叔父」みたいな人が出てきて、政治を仕切ってもよさそうだが、ない。外戚に小康状態を保ってもらうので、やっとだ。

後半の皇族のミッションは、桓氏との対決である。
桓温の廃立、桓玄の簒逆。政治に達者な皇族がいないから、桓氏と張り合えない。むしろ、攻撃の標的になるだけである。例外的に、司馬遵のような人が出て、桓氏に敵意をむき出しにする。もっと大乱闘をしてほしいが、どうも地味である。

曹氏は、わざと皇族の権力を削いだ。それを反面教師にして、西晋は、皇族に大きな権力を与えた。
東晋は、皇族が強権を振るわないから、曹氏に似せたかと思いきや、そうではない。東晋の皇帝が弱いから、皇族まで権力が行き渡らないだけだ。同じ司馬氏だからなのか、東晋は西晋と同じように、皇族に貴い王位を分配することに余念がない。
瑯邪王は、初代の元帝の流れを引く輝かしい称号だし、大国の会稽王もいる。わざわざ東海王の名だけでも残した。
あまり歴史が感じられないが(笑)西方の武陵国も、存在感がある。北府に対抗した西府よろしく、独立帝国を作り始める可能性だって、ゼロではない。
あり得ない話だけど、
東晋の司馬氏が強い力を持てば、皇族もおこぼれに授かったでしょう。そして西晋のように、皇族が潰しあいを始めたでしょう。090818