表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国志の前後関係を整理する

226年、曹丕が死に、孫権が交州を得る

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

226年春、曹丕は洛陽、諸葛亮は漢中

春,正月,壬子,帝還洛陽,謂蔣濟曰:「事不可不曉。吾前決謂分半燒船於山陽 湖中,卿於後致之,略與吾俱至譙。又每得所陳,實入吾意。自今討賊計畫,善思論 之。」

226年春正月壬子、曹丕は洛陽に還った。曹丕は、蒋済に言った。「蒋済の言うことは、いつも正しい。これから孫権を討つときは、蒋済に計画を立ててもらおう」と。

蒋済は曹丕に、孫権討伐を、あきらめてもらいたいだろう。


漢丞相亮欲出軍漢中,前將軍李嚴當知後事,移屯江州,留護軍陳到駐永安,而統 屬於嚴。
吳陸遜以所在少谷,表令諸將增廣農畝。吳王報曰:「甚善!令孤父子親受田,車 中八牛,以為四耦,雖未及古人,亦欲與眾均等其勞也。」

諸葛亮は、漢中にきた。前将軍の李厳は、後方を任され、江州にうつった。護軍の陳到が、永安にきた。陳到は、李厳に属した。
陸遜は、穀物が少ないから、諸将に開墾を命じた。孫権はこれを知り、陸遜の政策をほめた。

226年春、曹丕が鮑勛を殺し、曹洪を責める

帝之為太子也,郭夫人弟有罪,魏郡西部都尉鮑勳治之;太子請,不能得,由是恨 勳。及即位,勳數直諫,帝益忿之。帝伐吳還,屯陳留界。勳為治書執法,太守孫邕見 出,過勳。時營壘未成,但立標埒,邕邪行,不從正道,軍營令史劉曜欲推之,勳以塹 壘未成,解止不舉。
帝聞之,詔曰:「勳指鹿作馬,收付廷尉。」廷尉法議,「正刑五 歲」,三官駁,「依律,罰金二斤」,帝大怒曰:「勳無活分,而汝等欲縱之!收三官 已下付刺奸,當令十鼠同穴!」
鐘繇、華歆、陳群、辛毘、高柔、衛臻等並表勳父信有 功於太祖,求請勳罪,帝不許。高柔固執不從詔命,帝怒甚,召柔詣台,遣使者承指至 廷尉誅勳。勳死,乃遣柔還寺。

曹丕が王太子となったとき、郭夫人の弟が、罪した。魏郡の西部都尉をつとめる鮑勳は、これを取り締まった。曹丕が許せと言っても、鮑勛は聞かない。曹丕は、鮑勛を恨んだ。曹丕が皇帝になると、しばしば鮑勛が直諫めた。
曹丕が征呉からもどった。陳留郡の境界にきた。ここで鮑勛は、曹丕の怒りをかった。

鮑勛と曹丕の対立は、後日きちんとやりたい。鮑勛伝を、読めばいいのだ。鮑勛を殺したことは、曹丕の、もっとも大きな失政だ。そそるなあ。笑

鐘繇、華歆、陳群、辛毘、高柔、衛臻らは、鮑勛を弁護した。鮑勛の父・鮑信に免じよと。曹丕は許さず。高柔は鮑勛のために訴え、免官された。曹丕は、鮑勛を殺した。

票騎將軍都陽侯曹洪,家富而性吝嗇,帝在東宮,嘗從 洪貸絹百匹,不稱意,恨之。遂以捨客犯法,下獄當死,群臣並救,莫能得。卞太后責 怒帝曰:「梁、沛之間,非子廉無有今日!」又謂郭後曰:「令曹洪今日死,吾明日敕 帝廢後矣!」於是郭後泣涕屢請,乃得免官,削爵土。

票騎將軍をつとめる都陽侯の曹洪は、ケチだ。曹丕が王太子のとき、曹丕に絹100匹を貸さなかった。曹丕は曹洪を恨み、殺そうとした。卞太后が、曹丕をとめた。卞氏は、郭皇后に言った。「今日に曹洪を死なせれば、明日には皇后を廃されますよ」と。郭皇后が泣きついたので、曹洪は殺されなかった。免官と、爵土の削減だけで許された。

初,郭後無子,帝使母養平原王睿;以睿母甄夫人被誅,故未建為嗣。睿事後甚謹, 後亦愛之。帝與睿獵,見子母鹿,帝親射殺其母,命睿射其子。睿泣曰:「陛下已殺其 母,臣不忍復殺其子。」帝即放弓矢,為之惻然。

はじめ郭皇后には、子がなかった。郭皇后は、平原王の曹叡をそだてた。曹叡の母・甄氏が殺されたから、皇太子ではない。曹丕と曹叡は、鹿を狩った。曹叡は曹丕に言った。「陛下はすでに、母鹿を殺した。私(曹叡)は、子鹿を殺しには忍びません」と。曹丕は、曹叡に心を動かした。
225年夏5月、曹丕は危篤した。曹叡が皇太子になった。

226年5月、曹丕が死に、曹叡がつぐ

夏,五月,帝疾篤,乃立睿為太子。 丙辰,召中軍大將軍曹真、鎮軍大將軍陳群、撫軍大將軍司馬懿,並受遺詔輔政。丁巳, 帝殂。

5月丙辰,中軍大將軍の曹真、鎮軍大將軍の陳群、撫軍大將軍の司馬懿は、曹叡を託された。5月丁巳、曹丕は死んだ。

太子即皇帝位,尊皇太后曰太皇太后,皇後曰皇太后。初,明帝在東宮,不交朝臣, 不問政事,惟潛思書籍;即位之後,群下想聞風采。居數日,獨見侍中劉曄,語盡日, 眾人側聽,曄既出,問:「何如?」曰:「秦始皇、漢孝武之儔,才具微不及耳。」帝 初蒞政,陳群上疏曰:「夫臣下雷同,是非相蔽,國之大患也。若不和睦則有讎黨,有 讎黨則毀譽無端,毀譽無端則真偽失實,此皆不可不深察也。」 癸未,追謚甄夫人曰文昭皇後。壬辰,立皇弟蕤為陽平王。

曹叡が、魏の皇帝になった。みな朝臣は、曹叡を知らない。数日してから、侍中の劉曄が、曹叡と1日語った。劉曄は曹叡をコメントした。「秦の始皇帝や、前漢の武帝のタイプです。でも、ちょっと才能が足りないかな」と。
はじめての朝廷で、陳羣は上疏した。「臣下が足を引っぱりあつのは、国家にとって、患いとなる風土ですね」と。
5月癸未、曹叡は、母・甄氏に、文昭皇后と贈った。5月壬辰、曹叡の弟・曹蕤は、陽平王となった。

226年秋、孫権が喪に知り、曹叡を攻める

六月,戊寅,葬文帝於首陽陵。
吳王聞魏有大喪,秋,八月,自將攻江夏郡,太守文聘堅守。朝議欲發兵救之。帝 曰:「權習水戰,所以敢下船陸攻者,冀掩不備也。今已與聘相拒。夫攻守勢倍,終不 敢久也。」先是,朝廷遣治書侍御史荀禹慰勞邊方,禹到江夏,發所經縣兵及所從步騎 千人乘山舉火,吳王遁走。
辛巳,立皇子冏為清河王。

226年6月戊寅、曹丕を首陽陵に葬った。孫権は曹丕の死を聞き、大喪した。
226年秋8月、みずから孫権は、江夏郡を攻めた。江夏太守の文聘は、かたく守った。

曹丕の大喪をやりつつ、江夏郡を攻める。ひどい人だなあ。
【追記】Golden_hamster氏にツイッターで誤訳をご指摘いただきました。(引用はじめ) 「吳王聞魏有大喪」は「孫権は曹丕の死を聞き、大喪した。」ではなく、「孫権は魏で大喪=曹丕の死・葬儀があると聞き、(江夏を攻めた)」ではないでしょうか。死に乗じているという意味ではエグいですが、スジは通しています。(引用おわり)
ありがとうございました。

曹叡は言った。「孫権は、水戦がうまい。いま孫権は船をおり、陸戦をしている。文聘は、こらえるだろう。援軍はいらない」と。
これより先、朝廷は、治書侍御史の荀禹をおくり、辺境をねぎらった。荀禹がつれた歩騎1000人が、江夏にきた。荀禹の火を見て、孫権はにげた。
6月辛巳、曹叡の皇子・曹冏が、清河王になった。

吳左將軍諸葛瑾等寇襄陽,司馬懿擊破之,斬其部將張霸。曹真又破其別將於尋陽。
吳丹楊、吳、會山民復為寇,攻沒屬縣。吳王分三郡險地為東安郡,以綏南將軍全 琮領太守。琮至,明賞罰,招誘降附,數年,得萬餘人。吳王召琮還牛渚,罷東安郡。

左将軍の諸葛瑾は、襄陽を攻めた。司馬懿は、諸葛瑾を破った。司馬懿は、諸葛瑾の部将・張霸を斬った。曹真は尋陽で、べつに諸葛瑾の軍を破った。
丹楊、呉郡、会稽の民が、孫権を攻めた。孫権の県がおちた。孫権は3郡を割いて東安郡をおいた。綏南將軍の全 琮を、東安太守とした。全琮は、数年で1万余人の人口を得た。孫権は、全琮を牛渚にもどし、東安郡をはぶいた。

226年、華歆、王朗、陳羣が三公になる

冬,十月,清河王冏卒。
吳陸遜陳便宜,勸吳王以施德緩刑,寬賦息調。又雲:「忠讜之言,不能極陳;求 容小臣,數以利聞。」王報曰:「《書》載:『予違汝弼』,而雲不敢極陳,何得為忠 讜哉!」於是令有司盡寫科條,使郎中褚逢□以就遜及諸葛瑾,意所不安,令損益之。

226年冬10月、清河王の曹冏が死んだ。
陸遜は孫権に、刑罰をゆるめよと提案した。孫権は、、

なんだか、よく分からない。あとで。


十二月,以鐘繇為太傅、曹休為大司馬,都督揚州如故;曹真為大將軍,華歆為太 尉,王朗為司徒,陳群為司空,司馬懿為票騎大將軍。歆讓位於管寧,帝不許。征寧為 光祿大夫,敕青州給安車吏從,以禮發遣,寧復不至。

226年12月、曹叡の朝廷は、三公の顔ぶれを改めた。曹休は大司馬で、もとのまま揚州を都督した。
華歆は、管寧に太尉をゆずりたいと言った。曹叡は、華歆を許さない。管寧は、光禄大夫となった。管寧は、青州に車を手配してもらったが、行かなかった。

226年、士燮が死に、孫権が交州を治める

是歲,吳交趾太守士燮卒,吳王以燮子徽為安遠將軍,領九真太守,以校尉陳時代 燮。交州刺史呂岱以交趾絕遠,表分海南三郡為交州,以將軍戴良為刺史;海東四郡為 廣州,岱自為刺史;遣良與時南入。

この226年、交趾太守の士燮が死んだ。孫権は、士燮の子・士徽を、安遠將軍、九真太守とした。校尉の陳時を、士燮に代えて交趾太守とした。交州刺史の呂岱は、交趾が遠いから、海南の3郡を分けて、交州をつくった。将軍の戴良を、交州刺史とした。海東の4郡を、広州とした。呂岱が、広州刺史となった。

コウシュウとコウシュウを設置した。ややこしい。センスがゼロである。陳羣を、鎮軍大将軍にした、曹丕のセンスを、見習うべきである。


而徽自署交趾太守,發宗兵拒良,良留合浦。交趾 桓鄰,燮舉吏也,叩頭諫徽,使迎良。徽怒,笞殺鄰,鄰兄治合宗兵擊,不克。 呂岱上 疏請討徽,督兵三千人,晨夜浮海而往。或謂岱曰:「徽藉累世之恩,為一州所附,未 易輕也。」岱曰:「今徽雖懷逆計,未虞吾之卒至;若我潛軍輕舉,掩其無備,破之必 也。稽留不速,使得生心,嬰城固守,七郡百蠻雲合響應,雖有智者,誰能圖之!」遂 行,過合浦,與良俱進。岱以燮弟子輔為師友從事,遣往說徽。徽率其兄弟六人出降, 岱皆斬之。

士氏は、孫権の政策に抵抗した。呂岱は、士氏と戦った。呂岱は、士燮の子・6人を斬った。101117

士燮伝は、まとめて読みたい。地図を見ながら。