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188年:霊帝が、後漢軍を編成する

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、漢字は、平易な日本語に置き換えます。

188年冬:州牧の設置

中平5年(188年)春正月、丁酉、天下を大赦。
2月、星が紫宮をおかした。

紫宮は、天子の宮をわりあてる。

黄巾の郭大らが、河西郡の白波谷でたち、太原郡と河東郡にはいった。

3月、并州刺史の張懿が、胡族に殺された。
太常をつとめる江夏郡の劉焉が、牧伯をおこうと提案した。劉焉は、みずから交州牧をのぞんだ。侍中をつとめる広漢郡の董扶は、劉焉にいった。「益州をわりあてた星座に、天子の気がある」と。劉焉は、益州牧をのぞんだ。
このころ、益州刺史の郤倹は、悪政のうわさがひびいた。耿鄙と張懿は殺された。地方の政治が、課題である。そこで朝廷は、尚書や列卿から人をえらび、州牧にした。州牧になるとき、もとのサラリーを据え置いた。列卿のサラリーは、中2000石。尚書のサラリーは600石。
朝廷は、劉焉を益州牧とした。太僕の黄琬を、豫州牧とした。宗正をつとめる東海の劉虞を、幽州牧とした。州の管理者は、このときから権限が大きくなった。

群雄割拠の前提になります、と。


劉焉は、魯の恭王の後裔である。劉虞は、東海恭王の5世の孫である。かつて劉虞は、幽州刺史だった。胡族に恩信をほどこし、胡族を手なずけた。 董扶と、太倉令の趙イは、どちらも官位を捨て、劉焉にしたがって益州に入った。
詔し、劉虞に南匈奴の兵をあたえ、張純を討たせた。単于の羌渠にめいじ、左賢王に、騎馬で幽州にいかせた。匈奴は、たびたび後漢のために働かされるので、後漢にそむき、胡族とあわさった。匈奴の10余万人が、羌渠を殺し、右賢王の於夫羅を単于にたてた。

於夫羅は、前趙の劉淵の祖父です。


188年夏:霊帝をおろす計画

夏4月、太尉の曹嵩がやめた。
5月、永楽少府をつとめる、南陽の樊陵が太尉となった。
6月、樊陵が太尉をやめた。
益州の賊・馬相、趙祇らが、綿竹で挙兵した。みずから黄巾をなのり、益州刺史の郤倹を殺した。すすみ、巴郡、ケン為郡をうった。旬月のうちに、3郡をやぶった。数万をあつめ、みずから天子を称した。益州従事の賈龍は、馬相をうち、数日でやぶった。平和になり、劉焉がむかえられた。劉焉は、綿竹で益州をおさめた。劉焉は、寛大に恵みをほどこし、人心をあつめた。
郡国7つで、大水。

もと太尉だった陳蕃の子・陳逸と、術士の襄楷が、冀州刺史の王フンに連座した。王フンたちは、霊帝を廃そうとした。霊帝が河間の旧宅にいくとき、皇帝を合肥侯にかえ、宦官をのぞこうとした。
議郎の曹操は、王フンが失敗すると見抜いた。「主君をかえたのは、伊尹と霍光である。王フンたちは、占いの結果にたよるだけだ。失敗するだろう」
王フンは、平原の華歆と陶丘洪をさそった。陶丘洪は賛成したが、華歆がとめた。
たまたま夜半に、赤い気がたった。天文の役人は、霊帝をのぞく陰謀が、北にあると言った。霊帝は、河間の旧宅にいくのを辞めた。王フンを、勅命で召し返した。王フンは、印綬をかえし、平原で自殺した。

霊帝の暗殺計画。「魏志」に散らばっています。


188年秋:西園八校尉

7月、射声校尉の馬日磾を、太尉にした。馬日磾は、馬融の族孫である。
8月、はじめて西園八校尉をおいた。小黄門の蹇碩を、上軍校尉に。議郎の曹操を、典軍校尉に。趙融を、助軍左校尉に。馮芳を、助軍右校尉に。諌議大夫の夏牟を、左校尉に。淳于瓊を、右校尉に。みな蹇碩にひきいられた。

『考異』がいう。范曄の袁紹伝がいう。袁紹は、佐軍校尉になった。何進伝がいう。淳于瓊は、佐軍校尉になった。

霊帝は、黄巾の乱より、軍事に関心があった。霊帝は、蹇碩の壮健ぶりを重んじた。大将軍の何進ですら、蹇碩にひきいられた。
9月、司徒の許相がやめた。司空の丁宮が、司徒になった。光禄勲をつとめる南陽の劉弘が、司空になった。
衛尉条侯の董重が、驃騎将軍になった。董重は、霊帝の母・永楽太后の兄の子である。

188年冬:霊帝が、後漢軍の強さをほこる

10月、青州と徐州の黄巾が、ふたたび起きた。郡県をおそった。

『資治通鑑』は書かないが、これで陶謙が赴任する。

気がよめる人は、洛陽で兵乱があり、血がながれると言った。霊帝はイヤがった。霊帝は、四方から兵をあつめ、平楽観のしたで閲兵した。数万人が集まった。霊帝は軍服をきて、無上将軍と名のった。霊帝は、軍を行進させた。

霊帝の軍事への興味が、くわしく書いてある。どれだけ派手に、後漢軍の強さをアピールしたか、『資治通鑑』にある。省略。

霊帝は、討虜校尉の蓋勲にきいた。
「わが後漢軍は、どうだね」
蓋勲が、霊帝にこたえた。
「古代の理想的な王は、軍でなく徳で、国を治めました。いま後漢の辺境が侵されています。しかし霊帝は、洛陽に兵を集めました。ちぐはぐです」
霊帝が言った。
「しまった。もっと早く、蓋勲の話を聞くべきだった

宦官が霊帝に、洛陽に兵を集めろと誘ったのだろう。

蓋勲は、袁紹に言った。
霊帝は、はなはだ聡明だ。しかし近くの宦官のせいで、よい意見がとどかない。宦官を殺そう」
宦官の蹇碩は、蓋勲に殺されるのを懼れた。蓋勲は、京兆尹にとばされた。

11月、王国という人が、陳倉をかこんだ。皇甫嵩を左将軍とし、前将軍の董卓をひきいさせた。後漢軍は4万になった。
張純と丘力居が、青州、徐州、幽州、冀州をせめた。騎都尉の公孫瓚は、遼東属国の石門で戦った。張純は敗走した。公孫瓚は、捕虜をえた。公孫瓚は深入りし、丘力居に、遼西郡の管子城でかこまれた。200余日こもり、10人のうち、5、6人が死んだ。

董卓は、皇甫嵩にいった。
「陳倉が落ちそうだ。早く救おう」
皇甫嵩は、董卓にこたえた。
「ちがう。百戦百勝は、ベストではない。陳倉は小さい城だが、落ちにくい。王国が、攻めつかれたら討とう」
陳倉は、皇甫嵩のいうとおり、80余日もった。100510