163年、張奐の復帰、朱穆の憤死
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
163年~秋、車騎の馮緄を解任する
夏,四月,辛亥,康陵東署火。 五月,鮮卑寇遼東屬國。 秋,七月,甲申,平陵園寢火。
桂陽賊李研等寇郡界,武陵蠻復反。太守陳奉討平之。宦官素惡馮緄,八月,緄坐 軍還盜賊復發,免。
163年春2月戊午、司徒の種暠が薨じた。3月戊戌、天下を許した。
衛尉する穎川の許栩を、司徒とした。
163年夏4月辛亥、康陵の東署が出火。
5月、鮮卑が遼東屬國を寇す。
163年秋7月甲申、平陵(平帝陵)園寢が出火。
桂陽賊の李研ら、郡界を寇した。武陵蠻が、また反す。武陵太守の陳奉が、武陵蛮を平らぐ。もとより宦官は、馮緄を悪む。
8月、盗賊が荊州にのこるから、馮緄を免じた。
163年冬、陳蕃、周栄&楊秉、桓帝を諌む
十一月,司空劉寵免。
163年冬10月丙辰、桓帝は、廣成で校猟した。函谷關と、上林苑にゆく。光祿勳の陳蕃は、上疏して諌めた。「平和なときでも、節度をもって遊ぶ。いま後漢では、田野がカラ、朝廷がカラ、倉庫がカラ。しかも辺境で戦闘がある。校猟するな。民に施せ」と。桓帝は、陳蕃をきかず。
11月、司空の劉寵をやめた。
12月、衛尉の周景を、司空とした。周景は、周榮の孫だ。
『後漢書』周栄伝を訳し、周瑜の家柄を知る
ときに宦官が盛んだ。周景と、太尉の楊秉は、上言した。「宦官の親族が、要職を占める。司隸校尉、中二千石、城門、五營校尉、北軍中候らの中枢から、不適任な人をはずせ」と。
楊秉の上奏により、青州刺史の羊亮ら、50餘人が、死んだり免じたり。天下は肅然とした。
この時期、袁氏は史料にない。6年間、史料から消える。159年、梁冀が滅びた。165年、袁逢と楊秉が、連係プレイして宦官をやっつけた。この間の6年間だ。袁湯がフェードアウトし、子の袁成が梁冀と共倒れた。それきり。この6年の謎は、なんとすぐ下で、張奐が解いてくれる。笑
163年冬、皇甫規と張奐、vs段熲
皇甫規を、度遼将軍とした。はじめ張奐は、梁冀の故吏だから、免官され、禁錮された。だが張奐は、旧縁ある人と交際した。桓帝は張奐をとがめず。皇甫規は、張奐を7回も推薦した。張奐は、武威太守となった。
ぼくの経験に照らす。数人の会社でバイトしたときですら、「仕事の引継ぎ」は、もっとも重要&困難な課題でした。朝廷の大半をカラにして、地方の大半を新顔にして、治まるわけない。
桓帝は梁冀への憎しみを、仕方なく解除し、梁冀の人脈を戻している。王朝を滅ぼすよりは、マシだから。この方針転換があるから、桓帝は、張奐を復帰させた。7回も推薦するという、コストがかかったが。袁逢の登場も、同じ文脈でとらえるべき。史料の空白を、合理的に妄想&接続できます。史料にはありませんが、袁氏も禁錮を受けていたのではないか。(これが言いたかった)
皇甫規は度遼将軍になり、軍営で数ヶ月いた。皇甫規は、桓帝に願った。「張奐を、私の副官にしたい」と。桓帝は、張奐を度遼将軍とし、皇甫規は匈奴中郎将となった。
ぼくは思う。度遼将軍と、匈奴中郎将は、指令系統がどうなってるんだろ。
西州の吏民は、函谷関を守る。さきの護羌校尉の段熲は、おおくの吏民に冤罪を着せた。滇那ら諸種羌が、ますます盛んになった。涼州は危うい。段熲を、護羌校尉にもどした。
冤罪をつくるのは、桓帝派の得意技である。
ところで、梁冀流と桓帝流は、金を使う先がちがうだけで、原理はおなじだ。梁冀流は、辺境に金をまく。桓帝流は、宦官に金をまく。梁冀が執政すると、辺境は治まり、中央が治まらず。桓帝のとき、辺境は治まらず、中央は治まる。
後世人として、無責任なことを言えば。中央の政治は、どうとでもなる。辺境との「外交」をやるほうが、かしこい。梁冀流に、軍配をあげたい。
163年、朱穆が桓帝を批判し、憤死
尚書の朱穆は、宦官がウザい。上疏した。
朱穆は言う。「漢室の故事では、中常侍には、士人を選ぶ。光武帝よりあと、すべて宦官を選ぶ。延平(殤帝の106年)から、宦官が貴くなった。政事を握った。宦官でなく、清淳な士人を用いよ」と。
桓帝は、朱穆を用いない。
ところで梁冀は、宦官をすべて除かなかった。梁冀は、極端なことをしない。宦官と、最低限のお付き合いはした。バランス感覚のある人だったなあ。
のちに朱穆は、桓帝に会って言った。「私は漢室の旧典を聞く。侍中と中常侍を、1人ずつ置き、尚書の仕事をみる。黄門侍郎を1人おき、書状を伝える。侍中らのポストには、有望な一族から用いると。和帝の鄧太后のときから、皇帝は公卿と会わない。宦官を用いて、おかしくなった」と。
桓帝は怒った。朱穆は、伏して立てない。左右の人が「出てけ」と言う。久しくして、朱穆は去った。朱穆は、剛な性質だ。ほどなく朱穆は憤懣し、疽ができて死んだ。101204
【追記】T_S氏はいう。(引用はじめ)
「朱穆は、伏して立てない。」ではなく、「朱穆は、皇帝が自分の諫言を取り合おうとしないから、立とうとしない」ではないかと。最終的には排除されているけど、「私の言葉を聞き入れるまでは動きませんよ!」という意思表示。(引用おわり)