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破壊者・梁冀の血の成分 1)後漢の建国を輔けた
桓帝の外戚、梁冀。
彼は王朝の破壊者ですが、何の前触れもなく出てきたわけじゃない。後漢の建国当初から、梁氏は活躍してきました。
『後漢書』列伝24には、梁冀の祖先に遡って記述があるので、それを土台にして物語らしきものを書き、梁冀の家を紹介します。
梁統
梁統はあざなを仲寧という。安定郡は烏氏県の人。
春秋時代に晋の大夫だった梁益耳が、祖先である。
梁統の高祖父の梁子都は、河東郡から北地郡に移住した。その子は梁橋は、資産を千万も蓄えていた。前漢ノ武帝の紀元前127年、富んだ豪族に対する政策により、武帝陵の近くに移住させられた。哀帝・平帝のときに、梁氏は安定郡に移った。
転転としているように見えるが、長安を中心にして、その周囲を動いただけである。中央へのアクセスは常に良好だ。
梁橋の子は、梁溥といい、その子を梁延という。軍のはかりごとが上手かったので、西域司馬を任された。梁延の子が、やっと梁統である。

梁統の性格は剛毅で、法律を好んだ。紀元後24年、中郎将となる。涼州を安定させ、酒泉太守となった。赤眉が長安に近づくと、竇融とともに国境を守った。
「防衛軍のリーダーは梁統がいい」
みながそう云ったが、梁統は断った。
「私には、母がいます。辞退したい」
梁統は、別にマザコンだった訳ではない(と思う)。
『漢書』の項羽伝に、陳嬰という人が登場する。彼の下に、にわかに数千人が集った。「王になってくれ」と薦められた。だが陳嬰の母は反対し、「私が嫁いでから、陳氏が貴い家だと聞いたことがない。いきなり王になるのは不祥だ」と説いた。だから陳嬰は、王とならなかった。
梁統はこの故事を、断りの口実にしたのだ。もっとも、この謙遜には嫌味が入っていて、梁統の家はすでに代を重ねた、大きな一族だ。陳嬰とは事情が違うから、言いようによって覆せるのだが、その必要はない。
梁統の横には、いかにもリーダーになりたそうな人がいた。
「ではリーダーは、次点の竇融でいいだろう」
竇融が河西大将軍となった。梁統は補佐に回り、武威太守となった。梁統の治世は厳しく、隣郡まで威名が轟いた。

29年、竇融と梁統は、光武帝に貢物を運んだ。
「梁統を、宣徳将軍とする」
新しい時代の皇室と、梁統は繋がりを持った。
32年、光武帝が隗囂を親政したとき、竇融と梁統は従軍した。隗囂に勝利すると、梁統は成義侯になった。同母兄の梁巡、従弟の梁騰は関内侯となった。梁氏は、河西に任地を与えられて遷った。
後漢を成立させるための統一戦争を助けたのだから、その功績は計り知れない。竇融と梁統の家は、のちに外戚として特権を得てゆく。

あるとき梁統は上疏した。
「前漢ノ元帝・哀帝は、刑罰を軽くしたために、軽々しく違反する人が増えました。いま国土は再統一に向かっていますから、刑罰をあるべき姿に戻して下さい
省略しまくったが、原典で450文字の大論である。先史から説き起こし、前漢の各皇帝の時代の推移を語り、あるべき法と罰のスタイルを言っている。要は、今より厳しく刑を行えと云っている。
光武帝の答えは、
「厳罰化は、明王の急務ではない。今の法体系は施行されて長いから、一朝にして(いきなり)変える必要はない
であった。
梁統は復た上言した。
「私の意見が用いられなかったと聞きました。勘違いがあったら訂正します。私は刑を厳しくせよと、申し上げているのではありません。経伝に合致した刑罰を、適切に行えと云いたいのです。むしろ現行の甘い制度がイレギュラーで、古典に違反したものです。これを直して、宣帝以前に戻すべきなのです。一朝一夕の思いつきを、押し付けようとしているのでは、決してない」
登る道を変えて見せたが、梁統が目指している頂上は同じだ。すなわち、厳罰化せよと言っているんだ(笑)
梁統は気が済まず、尚書の役人に面会して訴えた。
「堯舜も孔子も、罰するべきは厳しく罰しました。近年では長安近郊に盗賊が多く、百姓を苦しめました。これらは、罰が甘いことに原因があるのです」
今度も省いてしまったが、300文字の答申である。梁統は、前漢が滅びた理由を、罰の緩さに求めている。だから、やっと再統一が成った今こそ、教訓を活かすべきだと思っているようだ。
しかし後漢の朝廷の公式見解とは一致しなかったようで、スルーされた。スルーされるというのは、原典では「遂寝不報」である(笑)

梁統は九江太守となり、治績を上げた。北西や中央で頑張ってきた人が、国土の南東に飛ばされたのだから、
「梁統のジジイは、うるさいなあ」
と、当局に煙たがられた結果だろうか。
官に在るまま、梁統は死んだ。自分にも他人にも厳しい、節くれだった人という印象である。子の梁松が継いだ。

梁松
梁松はあざなを伯孫という。若くして郎となり、光武帝の娘を娶った。申し分のないエリートコースで、虎賁中郎将になった。
「新王朝の体裁を整えたい。協力せよ」
梁松は経書に通じていたから、企画スタッフとして多いに期待された。政治や文化を広める建物の設計、天地の祀り方などを提案して、採用されることが多かった。
56年に光武帝は、統一を内外に宣言して、封禅ノ儀を行った。中継番組のエンディングで、クレジットの最初に梁松の名が流れた。

光武帝が57年に死んだ。
「次代を輔政してくれ」
そう遺詔されたから、梁松は調子づいた。58年に太僕になった。
梁松はプライベートな手紙を、郡県の駅伝を利用して送った。発覚し、59年に免官された。大いに逆恨みし、ネットの掲示板に中傷を書き込んだ。匿名のつもりだったが、ログの解析により摘発された。
61年に獄死して、国を除かれた。
ちなみにクレジットに筆頭に名前が載ったとは「常与論議、寵幸漠比」の訳で、「ネットに匿名で書き込んだ」とは、「県飛書誹謗」の訳です。ぼくが根拠のないことを書いているわけではありません(笑)

梁扈
梁松の子、梁扈は、梁皇后(章帝の皇后、和帝の母)の従兄に当たる。そのため、永元年間(89-105年)に黄門侍郎となり、九卿や校尉を歴任した。温和で恭しく、謙譲な人であった。『詩経』と『書経』に造詣が深くて、永初年間(107-113年)に長楽少府となった。
列伝は、これで終わりである。
梁松の系統は、子の梁扈で尻すぼみになって、弟の家に主権が移っていきます。梁松が公私混同するから、末路が冴えないのだ。しかし梁冀の伏線と言えそうな腐り方である。

のちに梁冀は質帝に「あんたは跋扈将軍だ!」と言われて逆上し、質帝を殺してしまう。質帝は幼いだけに大人気ないが(笑)なぜこんなことを言ったのだろう。
宮城谷さんは「韜晦を知らなかったから」と推測している。思ったことを隠すほど、質帝が成長していなかったからだと云う。一理はある。だが、それだけじゃつまらない!
梁冀の大伯父の名が「梁扈」で、付けられたあだ名が「跋扈」というのは、ただの偶然だろうか。 ちなみに「扈」という文字は、従う、留められる、服従する、などの意味がある。つまり、身の程を「跳」び出してしまったのが、梁冀の振る舞いである。
質帝が梁冀に推戴されたとき、梁氏の歴史を調べたと仮定しよう。
最大のスポンサーであり、最大の敵にもなる梁氏のことを、知らないでいいはずがない」
という見上げた向学心である。この設定に無理はない(と思う)
この聡明な皇帝は、梁扈の生き方を見つけ、その慎ましさに親しみを覚えた。質帝は、梁冀のあまりの横暴を見て、「(大伯父の)梁扈の生き方に似ない将軍だ」と戯れたのかもしれない。
質帝の想定は、こうである。
「にわか勉強した幼い自分より、梁冀の方が梁氏に当然詳しいはずだ。"扈"の字に引っ掛けたジョークは通じるだろう」
だが梁冀は祖先を尊び、歴史に学ぶような人間じゃないから、額面どおりに受け取って、単純に怒った。
「オレが帝位を恵んでやったのに、跋扈と呼ぶとはけしからん!ガキ皇帝よ、思い知るがいい」
ウイットに富んだ冗談で冒険に挑むときは、相手の知的レベルを考慮しなければ、とんでもないことになる。相手が賢ければ「うまい!」と微笑まれるし、そうでなければババギレされる。
次は、梁統の次男である、梁竦の系統に移ります。
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このコンテンツの目次
>破壊者・梁冀の血の成分
1)後漢の建国を輔けた
2)抑圧されたマザコン
3)気遣いの気疲れ
4)特権の預金残高
5)世襲できない血筋