183年、楊賜と劉陶が、張角を警戒
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
183年、何皇后の母を、舞陽君とする
秋,金城河水溢出二十餘里。 五原山岸崩。
183年春3月辛未、天下を赦した。
夏、ひでり。
何皇后の母を、舞陽君とした。
183年秋、金城の黄河があふれ、20余里でた。
五原の山岸が崩れた。
183年、鉅鹿の張角が、郡県に広まる
はじめ巨鹿の張角は、黄帝と老子に奉り、妖術を教授された。「太平道」と号して、病気を治した。張角は、弟子を四方におくり、10余年たつ。黄巾は、数10万だ。青、徐、幽、冀、荊、揚、兗、豫の8州が、黄巾に応じた。財産を売りはらい、流浪した。道が埋まった。病死していない人は、1万をかぞえる。郡県は、黄巾の意図が分からない。かえって張角が、善道教化すると言った。郡県は領民を、張角にしたがわせた。
太尉の楊賜は、ときに司徒となった。
楊賜は、上言した。「張角は、百姓を誑曜する。はやめに張角を捕えよ。刺史と太守へ、流民を本郡にもどせと命じよ。流民をぬけば、黄巾は孤立する」と。たまたま楊賜は、太尉をやめた。上書は、留められた。
司徒掾の劉陶も、楊賜とおなじ上言をした。「黄巾は、ひそかに京師に入り、朝政を見ている。鳥の声と、獣の心は、ひそかに共鳴する。州郡は、張角の名を口にせず、文書にも載せない。霊帝は、張角に懸賞をつけよ。張角について、当たらず触らずの人は、張角と同罪とせよ」と。
霊帝は、劉陶の意味が分からない。劉陶に、『春秋』の訓詁を命じた。
張角は、36方をおき、将軍とした。「蒼天已死,黃天當立,歲在甲子,天下大吉」と、訛言した。白土で、京城の寺門と、州郡の官府に、「甲子」と書いた。大方の馬元義らは、さきに荊州と揚州で、数万人をおさめた。馬元義は、鄴にあつまる。
馬元義は、しばしば京師にゆく。中常侍の封諝、徐奉らは、馬元義に内応した。3月5日に、内外でともに起兵すると約した。101215