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224年、曹丕が寿春、広陵にゆく

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

224年春夏、張温と鄧芝が、呉蜀を行きかう

春,三月,帝自許昌還洛陽。
初平以來,學道廢墜。夏,四月,初立太學;置博士,依漢制設《五經》課試之法。

224年春3月、曹丕は許昌から、洛陽にもどった。

曹丕が許昌にゆく意味は、なんだろう。もちろん献帝の都だ。だけでなく、孫呉への牽制になっていなか? 豫州と揚州は、接している。

初平年間より、学道は廃れていた。
224年夏4月、はじめて太学をたてた。博士を置いた。カリキュラムは、漢室『五経』制度に準じた。

吳王使輔義中郎將吳郡張溫聘於漢,自是吳、蜀信使不絕。時事所宜,吳主常令陸 遜語諸葛亮;又刻印置遜所,王每與漢主及諸葛亮書,常過示遜,輕重、可否有所不安, 每令改定,以印封之。漢復遣鄧芝聘於吳,吳主謂之曰:「若天下太平,二主分治,不 亦樂乎?」芝對曰:「天無二日,土無二王。如並魏之後,大王未深識天命,君各茂其 德,臣各盡其忠,將提枹鼓,則戰爭方始耳。」吳王大笑曰:「君之誠款乃當爾邪!」

孫権は、輔義中郎將をつとめる吳郡の張溫を、蜀漢におくった。これ以降、呉蜀の使者は絶えなかった。

呉蜀は、蜀が滅びるまで、ずっと友好をくずさない。たしかに。

孫権は諸葛亮に手紙をだすとき、つねに陸遜に通じた。陸遜は、手紙をとじる印を、孫権からあずかった。
蜀漢は、ふたたび鄧芝を呉におくった。孫権は言った。「もし天下が太平になったら、呉蜀で二分しよう」と。鄧芝は答えた。「もし魏を滅ぼしたら、呉蜀が天下を争うのですよ」と。孫権は笑って、鄧芝をほめた。

224年秋、曹丕が寿春、広陵にゆく

秋,七月,帝東巡,如許昌。帝欲大興軍伐吳,侍中辛毘諫曰:「方今天下新定, 土廣民稀,而欲用之,臣誠未見其利也。先帝屢起銳師,臨江而旋。今六軍不增於故, 而復循之,此未易也。今日之計,莫若養民屯田,十年然後用之,則役不再舉矣。」帝 曰:「如卿意,更當以虜遺子孫邪?」對曰:「昔周文王以紂遺武王,惟知時也。」帝 不從,留尚書僕射司馬懿鎮許昌。

224年秋7月、曹丕は東にめぐった。許昌にきた。曹丕は、大軍で孫呉を伐ちたい。侍中の辛毗が、曹丕をいさめた。「まず国力を高め、10年後に外征しなさい」と。曹丕は辛毗に反論した。「子孫に、外敵をのこすのか」と。辛毗は答えた。「周の文王は殷の紂王を、子の武王にのこしました」と。
曹丕は、辛毗に従わない。尚書僕射の司馬懿を許昌にのこした。

八月,為水軍,親御龍舟,循蔡、穎,浮淮如壽春。 九月,至廣陵。

224年8月、みずから曹丕は、淮水をわたり、寿春にきた。224年9月、曹丕は広陵にきた。

宮城谷『三国志』で、動きが遅すぎる!と叱られた曹丕の行軍です。


吳安東將軍徐盛建計,植木衣葦,為疑城假樓,自石頭至於江乘,聯綿相接數百裡, 一夕而成;又大浮舟艦於江。時江水盛長,帝臨望,歎曰:「魏雖有武騎千群,無所用 之,未可圖也。」帝御龍舟,會暴風漂蕩,幾至覆沒。帝問群臣:「權當自來否?」鹹 曰:「陛下親征,權恐怖,必舉國而應。又不敢以大眾委之臣下,必當自來。」劉曄曰: 「彼謂陛下欲以萬乘之重牽己,而超越江湖者在於別將,必勒兵待事,未有進退也。」 大駕停住積日,吳王不至,帝乃旋師。是時,曹休表得降賊辭:「孫權已在濡須口。」 中領軍衛臻曰:「權恃長江,未敢亢衡,此必畏怖偽辭耳!」考核降者,果守將所作也。

孫呉の安東将軍・徐盛は、石頭から江乗まで、張りぼての城を建てた。曹丕は、一夜で出現した城に嘆いた。曹丕の船は、暴風に流されて、沈みそうだ。曹丕は、郡臣に聞いた。「孫権は、出てくるかな」と。みな「孫権は、曹丕さまを怖れています。部下に任せて、出てきません」と答えた。
劉曄は言った。「孫権は約束しました。曹丕さまが大軍をひきいて出張れば、私(孫権)も出てゆきますと。様子を見ましょう」と。
曹丕は孫権を待った。孫権はこない。曹丕は、引き返した。
このとき曹休が言った。「投降した人から、聞きました。すでに孫権は、濡須口にいる」と。中領軍の衛臻は「孫権は、投降した人に、ウソを言わせています」と言った。投降した人を追及したが、白状しない。

224年秋、孫呉で暨艷の事件が起きる

吳張溫少以俊才有盛名,顧雍以為當今無輩,諸葛亮亦重之。溫薦引同郡暨艷為選 部尚書。艷好為清議,彈射百僚,覈奏三署,率皆貶高就下,降損數等,其守故者,十 未能一;其居位貪鄙,志節污卑者,皆以為軍吏,置營府以處之;多揚人闇昧之失以顯 其謫。
同郡陸遜、遜弟瑁及侍御史硃據皆諫止之。瑁與艷書曰:「夫聖人嘉善矜愚,忘 過記功,以成美化。如今王業始建,將一大統,此乃漢高棄瑕錄用之時也。若令善惡異 流,貴汝、穎月旦之評,誠可以厲俗明教,然恐未易行也。宜遠模仲尼之泛愛,近則郭 泰之容濟,庶有益於大道也。」據謂艷曰:「天下未定,舉清厲濁,足以沮勸;若一時 貶黜,懼有後咎。」艷皆不聽。

呉郡の張温は、顧雍と諸葛亮にほめられた。張温は、同郡の暨艷を、選 部尚書にした。暨艷は、孫呉の官僚を、おおく責めた。暨艷は、権力をむさぼった。
同郡の陸遜と陸瑁の兄弟と、侍御史の朱拠は、みな暨艷をいさめた。陸瑁と朱拠は、暨艷に手紙を書き、つつしめと苦言した。暨艷は、聞かない。

於是怨憤盈路,爭言艷及選曹郎徐彪專用私情,憎愛不 由公理。艷、彪皆坐自殺。
溫素與艷、彪同意,亦坐斥還本郡以給廝吏,卒於家。始, 溫方盛用事,餘姚虞俊歎曰:「張惠恕才多智少,華而不實,怨之所聚,有覆家之禍。 吾見其兆矣。」無幾何而敗。

ここにおいて、暨艷への怨みが、孫呉の朝廷にあふれた。暨艷と、選曹郎の徐彪は、私情を公務に持ちこんだ。暨艷と徐彪は、罪を受けて自殺した。
暨艷をもちいた張温は、もとより暨艷や徐彪と、おなじ意見だった。張温も連座して、官位につかず死んだ。餘姚の虞俊は、張温の限界を見ぬいていた。虞俊の言うとおりになった。

暨艷の事件は、これにしぼり、扱いたい。いつか。


224年冬、鮮卑の軻比能を、田豫が撃つ

冬,十月,帝還許昌。
十一月,戊申晦,日有食之。
鮮卑軻比能誘步度根兄扶羅韓殺之,步度根由是怨軻比能,更相攻擊。步度根部眾 稍弱,將其眾萬餘落保太原、雁門;是歲,詣闕貢獻。而軻比能眾遂強盛,出擊東部大 人素利。護烏丸校尉田豫乘虛掎其後,軻比能使別帥瑣奴拒豫,豫擊破之。軻比能由是 攜貳,數為邊寇,幽、並苦之。

224年冬10月、曹丕は許昌にかえった。
224年11月戊申みそか、日食した。
鮮卑の軻比能は、歩度根の兄・扶羅韓を殺した。歩度根は、軻比能をうらみ、軻比能を攻撃した。歩度根は負けて、太原や雁門ににげた。
この歳、鮮卑は曹魏に貢献した。だが軻比能は強く、東部の大 人・素利を撃った。護烏丸行為の田豫は、軻比能の背後をついた。田豫は、軻比能を破った。これにより軻比能は、曹魏と敵対した。しばしば幽州や并州は、軻比能に苦しめられた。101117