表紙 > 漢文和訳 > 『宋書』裴松之の列伝から、魏晋への愛を感じる

01) 百世の後に、正しい歴史を

言わずと知れた、陳寿『三国志』に注を書いた人です。
前置きは、ちくま訳の解説「裴松之のこと」を読むでやったので、
さっそく『宋書』の翻訳を始めます。

司馬氏の皇帝と仲良し

裴松之,字世期,河東聞喜人也。祖昧,光祿大夫。父珪,正員外郎。松之年八歲,學通《論語》、《毛詩》。博覽墳籍,立身簡素。

裴松之は、あざなを世期という。

歴史家らしく、あざなが時間軸を思わせる。気のせいかな。

河東郡の聞喜県の人である。祖父の裴昧は、光祿大夫だった。父の裴珪は、正員外郎だった。

「之」を付けて2文字の名になるのは、裴松之の代からである。流行ですね。もっとも、子は裴駰だから、1字名に戻りますが。

裴松之が8歳のとき、『論語』『毛詩』を学んで精通した。膨大な本を広く読んだが、立身は簡素だった。

就職先でシンプルな仕事しか出来なかった、つまり低い官職しか与えられなかった、というわけではあるまい。だって、次の文から始まる官職の記述は、決して冷遇ではない。
ということは、身の立て方、人となりが、サッパリしていたということか。知識をひけらかし、偉そうにしなかったんだ。


年二十,拜殿中將軍。此官直衛左右,晉孝武太元中革選名家以參顧問,始用琅邪王茂之、會稽謝輶,皆南北之望。舅庾楷在江陵,欲得松之西上,除新野太守,以事難不行。拜員外散騎侍郎。義熙初,為吳興故鄣令,在縣有績。入為尚書祠部郎。

裴松之が20歳のとき、殿中將軍になった。殿中將軍は、皇帝の左右に直衛する官位である。東晋の孝武帝は、太元年間に、名家の人を選出して、身近な顧問とした。はじめ、琅邪郡の王茂之と、會稽郡の謝輶が選ばれた。2人は、ペアで南北之望であった。

瑯邪が「北」で、会稽が「南」ですね。
瑯邪の王氏と、会稽の謝氏は、王導と謝安に代表されるように、東晋のトップ2。裴松之は、その後任になれた。西晋の裴秀の子孫だからと言うこともできるが、それは祖父や父も同じこと。祖父や父は、そこまで高官ではない。裴松之は、孝武帝からの個人的な評価が高かったか。

舅の庾楷は、江陵にいた。

庾楷をよく知らんのでググッたら、ぼくのサイトが出てきた。その制作者であるぼくが、庾楷を分からんのに...ダメじゃん。庾楷は桓玄と同調して、司馬氏と戦っている。
裴松之は、庾楷の娘を娶ってるのか?それなら列伝に書くだろう。舅とは、「1つ上の世代に位置する縁者」くらいの意味か。

庾楷は、裴松之を西上させて荊州に招き、新野太守を任せたいと思った。だが事態が難しかったので、裴松之は荊州に行かなかった。

1つも記述がないが、裴松之は孝武帝と仲良しだったから、司馬氏と敵対する荊州には、味方したくなかったのかも?
東晋末は、皇帝権力を相対化して、拮抗した勢力が潰しあった時代だ。官人は、どこかに属さずにはいられまい。

裴松之は、員外散騎侍郎になった。
義熙の初め(405年)、裴松之は呉興郡の故鄣令となった。県に勤務して、優れた実績を上げた。建康に入って、裴松之は尚書祠部郎となった。

もし司馬氏に親近感を持っていれば、『三国志』に注釈を付けるときに、少なからず影響しそうだ。列伝の次の展開は知りませんが(初読で訳しているので)楽しみで仕方ない。

ウソの歴史を石碑に刻ませてはいけない

松之以世立私碑,有乖事實,上表陳之曰:

裴松之は、世間の風潮に目を向けた。みな個人的に碑を立てて、一族を顕彰している。しかし碑には、実態と乖離したウソが刻まれていた。

子孫は、自らの処世のために、祖先を「偉い人」に仕立ててしまう。例えば、裴注で読める「趙雲別伝」のような傾向でしょう。

裴松之は、上表して陳べた。

「碑銘之作,以明示後昆,自非殊功異德,無以允應茲典。大者道勳光遠,世所宗推;其次節行高妙,遺烈可紀。若乃亮采登庸,績用顯著,敷化所蒞,惠訓融遠,述詠所寄,有賴鐫勒,非斯族也,則幾乎僭黷矣。俗敝偽興,華煩已久,是以孔悝之銘,行是人非;蔡邕制文,每有愧色。而自時厥後,其流彌多,預有臣吏,必為建立,勒銘寡取信之實,刊石成虛偽之常,真假相蒙,殆使合美者不貴,但論其功費,又不可稱。不加禁裁,其敝無已。」

「(抄訳)碑銘にわざわざ刻んで、後世に伝記を残すべきなのは、輝かしい勲功がある人や、高節な性格だった人だけです。凡人を、あたかも偉人のように飾り立ててはいけません。

立碑ラッシュ!この風潮を、ぼくは他で読んだことがない。
おそらく華北に戻ることが絶望的になり、みなが一族のアイデンティティを喪失したのでしょう。それを補うために、せっせと石碑を立てた。老人が、若いときの武勇伝をどんどん美化するようなもの。
裴松之が生きた時代は、中夏の文化が不可逆的に失われ、みんなが恐慌してた時代なのかも。裴松之のような文化人は冷静だが、一般人はパニックになってもおかしくない。せっせと歴史の補償(捏造ともいう)が行なわれる。筋肉は、いちど壊れると太く強化される。過剰補償といいます。歴史で同じことが起きるのは、困ったことです。

後漢の蔡邕だって、記録の粉飾を戒めています。しかも石碑はタダじゃないから、ひどい無駄使いです。東晋王朝は、石碑の乱立を禁じるべきです」

以為「諸欲立碑者,宜悉令言上,為朝議所許,然後聽之。庶可以防遏無征,顯彰茂實,使百世之下,知其不虛,則義信於仰止,道孚于來葉。」由是並斷。

裴松之は、次のようにも提案した。
「もし石碑を立てたいならば、漏れなく朝廷に申請させましょう。朝廷で話し合い、碑文の内容が真実だと認められたら、建立を許すのです。

検閲です。後の時代では、これを国定教科書と言います(笑)
家の記録に、国が口を出すのは、東晋の権力のバランスに照らせば難しい。現実的じゃないと思うけどなあ。
また朝廷は、裴松之が思うような「不偏不党の学会」ではなくて、あくまで政治をやる場所だ。誰かの祖先が実際に立派だったとして、ライバルがそれを石碑に刻むことを認めるだろうか。
イデオロギーとでも呼ぶべきテーマってあるよね。何が客観的に正しいかという議論ができず、主義主張が並行するしかないテーマです。東晋貴族にとって祖先の事績というのは、利害がひどく絡むわけで、今日のイデオロギー論争に似ると思う。野次が飛び、やがて矢が飛ぶだろうよ。
ときに人は、生命よりプライドを重視して守る。プライドの源泉を批判された人間が冷静でいられるわけない。

100世の子孫に、ウソのない歴史を伝えるべきです

「百世」というのはレトリックでしょうが...大真面目に計算してみる。1世代が20年として、2000年です。つまりぼくたちも、裴松之が気にかけてくれた「真実を受け取るべき子供たち」なのです。
今回は碑文の話だが、『三国志』の裴注も同じ精神が流れているはず。

これにより並べて断ず。

2つの裴松之の提案が、採用されたか却下されたか、分からん。どちらに読んでも、「断」の字義は通る。
しかし採用されたら、もっと列伝に話が膨らむはず。本紀に詔が載るはず。きっと却下された。