表紙 > 漢文和訳 > 『宋書』裴松之の列伝から、魏晋への愛を感じる

02) 晋宋革命に逆らったのか?

意外に充実していた、裴松之の列伝。
いつも言ってますが、史料っておもしろい!

劉裕の革命に反対をした?

高祖北伐,領司州刺史,以松之為州主簿,轉治中從事史。既克洛陽,高祖敕之曰:「裴松之廊廟之才,不宜久屍邊務,今召為世子洗馬,與殷景仁同,可令知之。」

高祖(劉裕)は北伐して、司州刺史を領ねた。劉裕は、裴松之を州主簿にした。

劉裕は、荊州の桓玄を滅ぼした人だ。裴松之の政治的立場は、変っていない。西府に敵対し、北府の味方だ。
ただし、劉裕が晋帝を飲み込んでいく流れには逆らえず、なし崩し的に劉裕に取り込まれたようだが。 ぼくが個人的なつながりを想像した孝武帝は、396年に死んでる。今は主体性のない安帝の時代だ。

裴松之は、治中從事史に転じた。
劉裕が洛陽を占領すると、裴松之に命じた。
「裴松之は、廊廟之才である。辺境の仕事を、裴松之ほどの人に任せてはいけない。

洛陽のある司州が「邊」だとはねえ!
さすが成り上がりの軍人、劉裕でございます。漢魏の歴史を踏まえない発言だ。司馬懿から脈々と続く晋をほんとうに滅ぼすことが出来るのは、こういうリアリストです。
ここからは空想だが、裴松之のような歴史好きは、洛陽に入ると感動して死にそうになるタイプだ。劉裕はさっさと長安に遠征し、洛陽に執着しなかった。裴松之は、洛陽出発(放棄)に強固に反対したのでは?
「洛陽は、漢族の聖地です。留まるべきです。復興すべきです」
劉裕は裴松之が煙たくなって、遠征軍から締め出したんじゃないか?劉裕にしてみれば洛陽は、地政的な価値の薄いボロ城にしか見えない。ダラダラ留まっていては、軍事的に不利になる。
劉裕は、裴松之が洛陽に感動していることに当てつけ、「邊」と言ったのかも。想像が過ぎました(笑)

いま裴松之を、殷景仁とともに、世子洗馬とする」

晋帝の子ではなくて、劉裕の子に仕えた。劉義符かな。不良息子の代表だ。即位した後に仲良しを囲って騒ぎ、たちまち支持を失った人だ。裴松之のようなカビ臭い男と組ませて、2人とも中和できたらラッキーだ。


于時議立五廟樂,松之以妃臧氏廟樂亦宜與四廟同。除零陵內史,征為國子博士。

ときに劉裕のために、五廟樂を立てることが議論された。裴松之は、劉裕の亡き妃・臧氏の廟樂を、四廟と同じくすべきだと意見した。

皇帝と同列に派手に祭るか、王の待遇に留めるか...と。よくある話題だ。廟が多いほうが、偉いのです。
裴松之は、廟の数を少なく提案した。晋宋革命を歓迎しない慎重派だと言える。歴史家はね、復古趣味じゃないと務まらない。時代の変化は好まないのだよ、きっと。

裴松之は、零陵内史となり、國子博士となった。

晋宋革命のとき、何をしていたか書いてない。次の段は、もう3代皇帝の話です。
裴松之は、宋王朝のスターティングメンバーに加えられていない。禅譲の直後ってさ、バブル気味に官位をバラまき、王朝の体裁を整えるのに。魏も晋も、もれなくそうだったじゃん。
革命の瞬間は、きっと裴松之は零陵にいた。荊州南部の田舎である。この冷遇は、なぜか。裴松之が、晋宋革命に反対したからじゃないか?
「オレのやり方に不満があるなら、黙っていろ」
というのが、劉裕からのメッセージ?
こう仮説しないと、王氏や謝氏の後任をやり、いちどは劉裕の主簿まで務めた人を「建国の臣」から外す説明が成り立たない。

魏晋の終わりを告げる鐘

太祖元嘉三年,誅司徒徐羨之等,分遣大使,巡行天下。通直散騎常侍袁渝、司徒左司掾孔邈使揚州,尚書三公郎陸子真、起部甄法崇使荊州,員外散騎常侍范雍、司徒主簿龐遵使南兗州,前尚書右丞孔默使南北二豫州,撫軍參軍王歆之使徐州,冗從僕射車宗使青、兗州,松之使湘州,尚書殿中郎阮長之使雍州,前竟陵太守殷道鸞使益州,員外散騎常侍李耽之使廣州,郎中殷斌使梁州、南秦州,前員外散騎侍郎阮園客使交州,駙馬都尉、奉朝請潘思先使寧州,並兼散騎常侍。

太祖(劉義隆)の元嘉三(426)年、司徒の徐羨之らを誅した。劉義隆は、大使をそれぞれ派遣し、天下を巡行させた。

3代皇帝のとき、裴松之はやっと宋に積極的に参加した。時代がもう後には戻らないことを、受け入れたのでしょう。
同じことが、三国にもあった。
曹丕のときは、まだ漢が復活する希望を抱く人があった。だが曹叡に引き継がれると、歴史の不可逆を思い知り、天下が動き出した。例えば、諸葛亮の北伐が始まり、孫権の皇帝即位があった。

散騎常侍の袁渝と、司徒左司掾の孔邈は、揚州へ、
尚書三公郎の陸子真と、起部の甄法崇は、荊州へ、
員外散騎常侍の范雍と、司徒主簿の龐遵は、南兗州へ、
前の尚書右丞の孔默は、南豫州と北豫州へ、
撫軍參軍の王歆之は、徐州へ、
冗從僕射の車宗は、青州と兗州へ、
裴松之は、湘州へ、
尚書殿中郎の阮長之は、雍州へ、
前の竟陵太守の殷道鸞は、益州へ、
員外散騎常侍の李耽之は、廣州へ、
郎中の殷斌は、梁州と南秦州へ、
前の員外散騎侍郎の阮園客は、交州へ、
駙馬都尉で、朝廷の命令を受けた潘思先は、寧州へ行った。潘思先は、散騎常侍を兼ねた。

なんで裴松之の列伝に、これを書いたんだ。裴松之以外の使者は、列伝が膨らみすぎた有名人か、列伝を持たない無名人だったか。
紀伝体は、どこにどの事項を書くかは、編者のセンスに委ねられるところが、とても大きい。複数人が関わる事件を、どこの本紀や列伝に書くかで、歴史的意義を操作することも可能。編年体にない面白みであり、分かりにくさでもあり。
裴松之の列伝に書かれた意味を推測するなら、
「宋は3代皇帝に到って、やっと支配が安定した。魏晋時代が、正式に終わった。晋宋革命に反対した名族・裴松之すら動員して、領内に宋のマーキングを行なったことが、その象徴だ」


班宣詔書曰:「昔王者巡功,群後述職,不然則有存省之禮,聘眺之規。所以觀民立政,命事考績,上下偕通,遐邇鹹被,故能功昭長世,道曆遠年。朕以寡暗,屬承洪業,夤畏在位,昧於治道,夕惕惟憂,如臨淵穀。懼國俗陵頹,民風凋偽,眚厲違和,水旱傷業。雖躬勤庶事,思弘攸宜,而機務惟殷,顧循多闕,政刑乖謬,未獲具聞。豈誠素弗孚,使群心莫盡,納隍之愧,在予一人。以歲時多難,王道未壹,蔔征之禮,廢而未修,眷被氓庶,無忘欽恤。今使兼散騎常侍渝等申令四方,周行郡邑,親見刺史二千石官長,申述至誠,廣詢治要,觀察吏政,訪求民隱,旌舉操行,存問所疾。禮俗得失,一依周典,每各為書,還具條奏,俾朕昭然,若親覽焉。大夫君子,其各悉心敬事,無惰乃力。其有咨謀遠圖,謹言中誠,陳之使者,無或隱遺。方將敬納良規,以補其闕。勉哉勖之,稱朕意焉。」

劉義隆は、詔書で広く述べた。
「成立直後で、まだ不安定な宋室を、無知な私が継いでしまった。実情に即した政治をしたいから、各地から報告を上げてくれ。礼俗は周典に従って整備したい」

後漢の順帝のとき、各地を使者が巡業しました。あれに似ている?


松之反使,奏曰:「臣聞天道以下濟光明,君德以廣運為極。古先哲後,因心溥被,是以文思在躬,則時雍自洽,禮行江漢,而美化斯遠。故能垂大哉之休詠,廓造周之盛則。伏惟陛下神睿玄通,道契曠代,冕旒華堂,垂心八表。咨敬敷之未純,慮明揚之靡暢。清問下民,哀此鰥寡,渙焉大號,周爰四達。遠猷形於《雅》、《誥》,惠訓播乎遐陬。是故率土仰詠,重譯鹹說,莫不謳吟踴躍,式銘皇風。或有扶老攜幼,稱歡路左,誠由亭毒既流,故忘其自至,千載一時,於是乎在。臣謬蒙銓任,忝廁顯列,猥以短乏,思純八表,無以宣暢聖旨,肅明風化,黜陟無序,搜揚寡聞,慚懼屏營,不知所措。奉二十四條,謹隨事為牒。伏見癸卯詔書,禮俗得失,一依周典,每各為書,還具條奏。謹依事為書以系之後。」
松之甚得奉使之議,論者美之。

裴松之は、勅使に返答した。
「劉義隆さまの政策は、とても素晴らしいものです。私は無能ではございますが、24か条の報告をさせていただこうと思います」
裴松之は、劉義隆の意図をみごとに実現した。宋の人々は、裴松之の仕事をほめた。

24か条の中身は、載っていないのです。
何を報告したかよりも、裴松之が宋に帰命したことが重要なんだと思う。右に倣えで、貴族が付いてきてくれるから。